2026 (19)
2025 (64)
2024 (69)
2023 (44)
2022 (70)
2021 (59)
2020 (57)
2019 (65)
2018 (61)
2017 (69)
2016 (64)
2015 (73)
2014 (117)
2013 (84)
2012 (96)
2011 (82)
2010 (95)
2009 (89)
2008 (123)
2007 (107)
2006 (115)
2005 (136)
2004 (178)
2003 (136)
2002 (136)
2001 (119)
2000 (84)
1999 (64)
1998 (49)
1997 (50)
1996 (48)
1995 (33)
1994 (41)
1993 (33)
1992 (34)
1991 (27)
1990 (25)
1989 (26)
1988 (26)
1987 (24)
1986 (23)
1985 (23)
1984 (28)
1983 (12)
1982 (13)
1981 (16)
1980 (14)
1979 (9)
1978 (10)
1977 (9)
1976 (10)
1975 (6)
1974 (7)
1973 (6)
4,900원
本稿は、名詞に格助詞が結合されている「実は」が接続詞としての転換の機能を獲得したと認め、用例を提示し、その転成の度合いをチェックすることによって「実は」の転換の接続詞としての位置づけを確認し、独自の性格や特徴を明らかにするための考察である。 現代日本語における「実は」は、意味変化は行われていないものの、機能の面において大きな変化を見せている。その変化の様相を取り出すために、「実は」が導く後続の内容が主題とどれほど緊密に結束されているかによって「典型的な用法」と「周辺的な法」にわけて考察を行っている。 「典型的な用法」としての「実は」は既存の転換の接続詞と置き換え可能な場合もあるが、既存の転換の接続詞と置き換え不可能な新たな用例もあった。一方、主題との結束度が相対的に落ちる「実は」の「周辺的な用法」には、挟み込み形式の転換と強調のための注意喚起の用法の二つの類型を見せており、「実は」が既存の転換の接続詞よりはその機能が拡張されている様相を見せている。 また、「実は」の既存の転換の接続詞と異なる点として挙げられるのは「実は」を取入れ、話し手が提示する情報とは聞き手に取っては新情報であるという話し手の確信の上、取り入れられているという特徴を見せている。
4,900원
本稿は、カタカナ語の連体修飾において「~な」の形が形容性の語だけではなく、名詞性の語にも用いられることに注目し、その理由について考察を行ったものである。「~な」は一般に形容動詞の連体形の語尾として扱われるので、このように「~な」の形を取るカタカナ語は形容性を獲得することになる。 『がんばれアジアな女たち』のように、「アジア(Asia)」は一般に名詞に属しているから、連体修飾する際の形としては「~の」のほうが期待されるが、実際は「~な」の形が用いられることがある。そして、「アジアの女たち」と「アジアな女たち」の間には、当然と言えば当然であるが、形態的な違いを反映して、意味的な違いが認められる。つまり、「アジアの女たち」が、所属を示しているのに対して、「アジアな女たち」は、アジアがもつ様々な属性を連想させるような意味を含意している。 「アジアな女たち」のように、カタカナ語の中には、名詞的な語でありながら連体修飾する際「~な」を取る例があり、このような「~な」による連体修飾は、属性·状態·様態など形容詞寄りの意味を表わしている。本稿では、カタカナ語における「~な」の形の表わす意味用法を、「~な」形を取る他の語との対比を通して検討する。つまり、同一語幹から派生する形容詞と形容動詞の「~な」において、形容詞は具体的で現象的な実体を表わしており、形容動詞は抽象的で観念的な概念を表わすというような違いが認められる。また同一語幹から派生する形容詞と連体詞「~な」においても、形容詞は具体的な事実を表わしており、連体詞は表現主体の主観的な感情を表現している点において両者の違いが見られる。すなわち、同一語幹のものの、形容詞は具体的で事実的な事柄に関係し、形容動詞は抽象的な事柄に関係しており、連体詞は感情的な事柄に関係しているということである。 名詞性の語が連体修飾するときに「~な」を取る理由としては、「~な」形の形容動詞および連体詞に見られる抽象的で感情的な意味を付与するためであると考えられる。 本来の品詞にかかわらず「~な」の形を取ることにより、新たな連体修飾の機能が付与されるのは、カタカナ語において特に注目される。これらにはいろいろな複合的な要因が関与していると考えられようが、議論の詳細は今後の課題とする。
4,000원
本稿は韓·日両言語の連体修飾節の関係、すなわち「動詞性名詞+相対名詞」の構造に「하다/する」形の共起関係という観点から動詞性名詞が持っている動詞性の差を考察したものである。特に、視点を表す相対名詞、日本語「~後」、「~中」に対応する韓国語「~후」、「~중」の意味分析の結果に着目し、両言語間の意味的類似点と相違点を分析した。 日本語は、動詞性名詞が「~後」、「~中」の相対名詞と結合する時、一貫して「する」形が省略可能である。しかし、韓国語は、「~후」と結合する場合は「하다」形を必要とするのに対し、「~중」と結合する場合は「하다」形の省略が可能である。これは日本語の現象と似ていると考えられる。このような現象は、主節と従属節との関係が「継起関係」の場合よりも「同時関係」の場合のほうが、相対的に強い動詞性が現れることを意味する。
4,000원
The students of Korean Universities and colleges are now struggle for their foreign language ability.They need to accomplish their credits in school. In other hands, they are forced to reach a certain standard to make a good command of foreign language. Since Korean and Japanese government have agreed to open each other's culture officially and to exchange, it shows a common phenomena that students are eager to experience study abroad during they are in schooling years.In this paper I have made a general review on the exchange program between Korean& Japanese universities. For the review, I have made a survey on some ongoing programs of 25 Universities.There are several types of going to foreign country for study. Some short period of program intensive language school, long period of private language school, and officially sent exchange students.The exchange program is now increasing gradually between Korean and Japanese universities and as well as high schools. The students who participate to this program, are well aware that they may expect to reach to higher ability of language. However, unless they are prepared to understand foreign culture and foreign society, their study and their living abroad may not be successful. We may emphasize that in language education, it is very important to try to understand different culture. It has been 45years already since Japanese Language has been taught in Korean high school and universities as a second foreign language officially. We realize that Korean teachers of Japanese, were focused of our effort to teach our students language system itself. However It is necessary to turn our interest gradually to understand different culture as well. Since the contemporary language aquisition theories emphasize the importance of learner's understanding of the target language.
4,500원
本稿では主語繰り上げ構文における格付与の問題について考察を行った。まず、先行研究の問題点を検討し、主語繰り上げ構文に対する本稿の立場を提示した上で、本稿の立場から主語繰り上げ構文における格付与の問題がどのように説明されるのかを明らかにした。 具体的には、補文主語の繰り上げを認める立場と認めない立場の両方の先行研究の問題点を指摘し、主語繰り上げ構文の述語は3項動詞であり、その対格名詞句は補文の主語が繰り上げられたのではなく、主文動詞の項として基底生成され、主文動詞から対格を付与されるのであるということを明らかにした。そして、対格名詞句が具現化した場合は、補文の主語位置にはゼロ代名詞proが現れると見なし、補文の主語が具現化した場合は、主文の目的語位置にゼロ代名詞proが現れると見なすことによって、先行研究に見られる諸問題を解決できることを明らかにした。 最後に主語繰り上げ構文において対格名詞句と補文の語順の倒置が不可能な現象について考察し、それは対格名詞句と補文が2次的な叙述関係を成しているためであるという分析の可能性を検討してみた。
江戶初期 東國語에 나타나는 二段活用의 一段化 特徵에 관한 考察― 上方語와 비교를 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.67-81
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4,800원
本稿では、江戸初期の東国語に現われる二段活用の一段化の特徴について、当時の東国語資料4種(『妙続大師語録抄』『火堯和尚再吟』『三河物語』『雑兵物語』)における一段化の実態の分析結果に基づきながら、上方語との比較を通して考察して見た。その結果、文法史的な特徴と方言史的な特徴を中心にして、幾つかの特徴的な事実が明らかにされたかのように思う。まず、文法史的な特徴としては、①動詞の一段化は助動詞の一段化より早い。②下二段活用動詞の一段化例(47語79例)が多数占められている中で、上二段活用動詞の一段化例が「生(イキ)る」と「過ギレ」の2語2例見られる。③動詞の場合、上方語と異なって終止·連体形と已然形との間における一段化の遅速差は見られない。④全体から見ると、少音節動詞の一段化は多音節動詞の一段化より早い。⑤文体的な面から見ると、会話文の一段化は地文の一段化より早い、という事実が指摘できた。 一方、方言史的な特徴としては、⑥東国語における動詞の一段化は上方語の一段化より早い。⑦東国語における助動詞の一段化は上方語の一段化より早い。⑧促撥音便化の接頭語動詞の一段化例が6語8例見られる、という事実が指摘できた。 特に、ここで注目を引くのは、文法史的な特徴③と方言史的な特徴⑥⑦⑧である。前者は活用形に拘らず東国語における進一歩した一段化の反映結果と捉えられるもので、終止·連体形の一段化は已然形の一段化より早いという上方語と異なるからであり、後者は東国語と上方語との一段化の遅速差の検討時、東国語の一段化は上方語の一段化より早いという事実を具体的に見せてくれるからである。
4,600원
言語生態学は個人の言語行動、集団関係における言語の役割、ある社会における言語の機能領域、国家の言語政策などに対する論議が可能であることから、済州国際自由都市における外国語政策、多言語サービスのなかの日本語の様子を考察するのに適切な方法と判断して本研究に導入することにした。すなわち、生態学的な方法によって済州島での日本語の看板表記の現象を考察して、その原因を分析してみた。済州島で見かける多言語の看板表記全体を生物学における群集としてとられ、群集を形成するそれぞれの言語表記を個体群として取り扱う。本研究の対象はその個別個体群のひとつである日本語語彙の表記である。 日本語看板表記の原因、地域言語環境に影響を与える要素など生態学的な因子を設定して因子間の相互作用を明らかにすることで日本語看板表記の生態が明らかになると思われる。 心理的な因子としては、ほかのヨーロッパ言語の看板表記の動機とは違い、実質的なコミュニケーションを目的とする動機と、日本文化の移入次元としての日本語使用によるものがある。実質的なコミュニケーションを目的とする場合は日本人観光客を直接対象とするので日本語でのみ単独表記する。一方、日本文化の移入次元のものは地域住民を対象するので、日本語の語彙を韓国語でのみ単独表記することが多い。 社会経済的な因子は観光業に対する社会的な条件と日本人の観光客の数とそれによる観光収入である。社会経済的な因子は他の因子よりは今まで日本語看板にもっとも大きな影響を与えた因子である。政治的な因子としては済州国際自由都市指定に関する特別法が制定されてから、外国語の政策の一環として現れたいろいろな施策が挙げられる。当局は多言語表記に対して支援、獎励するようになった。これは日本語の看板表記のみに対して適用されるのではないが、これにより私的で陰性的に使われていた日本語が公的な分野にまで拡大される意義がある。また政治的な因子は日本語の看板表記の誤用を減らすにも大きい役割をするようになった。 日本語の看板表記の意味領域をみると、飲食店、遊興業、ショッピング関連の観光文化に集中していて、日本人の観光パターンと済州島の観光目的と日程がうかがえる。心理的な因子と社会経済的な因子の反映が著しい。 結果的に、済州島における日本語の看板表記は強度の文化移入と見られるが、主に日本人観光客のための表記であるので、地域住民の言語生活とは距離があってその影響は極めて少ない。
4,600원
『音韻仮字用例』を通じて「ヌ韻尾」と「ム韻尾」の区別を主張したことで宣長との差違が認められる寛蔭は、 朝鮮漢字音をその韻尾の区別を主張する際に随所で引証している。ここで、彼の韓語重視の姿勢が認められる。 ただし、寛蔭の韓語理解には、今日の観点からすると筋道の通らない所がある。それは、ハングルの説明にあ たって漢字による「音註」を解釈の出発点としたことによる。そして寛蔭は、自分の設けた説にあてはまる朝鮮漢 字音を『韻鏡』を参照しつつ選び出し、それを自説の補強と先学説の補完に利用した。朝鮮漢字音を『韻鏡』 において検証する手法が、彼の論に必ずしも有益であったとは考えられないものの、韓語参照による字音研究の 先駆者ともいうべき全斎の手法と比べてみると、それはやはり一つの進展であったと認められる。そして、この手法 は、当時の字音研究の流れをそのまま反映しているわけである。 いずれにしても、朝鮮漢字音と日本漢字音を同じく『韻鏡』により一貫して処理しようとしていたことが、寛蔭の 韓語利用の手法におけるもっとも大きな特徴であると言ってよい。
4,300원
本稿は「気温、温度、その他の転義的用法」などのような「気象」を表す形容詞述語文について文型論の観点から文の構造と語の意味との関係を分析考察したものである。研究の目的は、「気象」を表す形容詞述語と文型の把握、各文型と名詞句や形容詞述語の意味特徴·助詞の役割などとの関係の分析、「気象」の形容詞述語文の主要文型と用法及び文構造の特徴の把握、などである。 分析の結果、主要文型と用法として「N1は·が+形」は「気温、温度」の用法に著しい「気象」判断の総括的用法、「N2は(が)+N1が+形」は転義的用法に著しい「気象」判断の総括的用法、「N2は·が+N1に+形」は「温度」の判断を感じる窓口、「N2に+N1は·が+形」は「気温、温度」の判断を受ける主体、などであることが分かった。このように「気象」を表す形容詞述語文は「N1は·が+形」と「N2は(が)+N1が+形」文型を中心的な軸に助詞「に」の項目の持つ特徴が追加されて表現が多様化している。 「気象」を表す形容詞述語文のその他の主な特徴としては、①「温度」の判断を感じる窓口としてのN1項目の助詞「に」の特徴、②判断を受ける主体を表すN2項目の助詞「に」の用法が多いこと、③上記の2種類の助詞「に」は名詞句の意味役割と項目の順番との関係が明らかであること、④1項目表現と2項目表現の特徴が比較的明らかであること、⑤「温度」の形容詞述語文と「感覚」の形容詞述語文との接点、⑥「暖かい、寒い、涼しい」は「気温」と「温度」との接点が著しいこと、などがあることが分かった。
4,600원
韓国語話者にとって日本語破擦音における有声音と無声音は、生成だけでなく、知覚においてもその習得が非常に難しいとされる。そこで、本研究では、発話において語頭の日本語破擦音を有声音と無声音という二範疇に区分する主な音響的特性が、聴取の際にも有声·無声の知覚判断に影響を与える主な要因として関与するのか、関与するとすれば、もっとも大きな影響を与える音響的特性は何かについて調べることにした。そのため、知覚実験を行い、日本語話者による結果と比較しながら考察した。その結果、以下のような知見が得られた。 一、日本語話者による有声性の知覚辯別に優先的に影響する音響的要因はVoice barと摩擦区間の時間長であり、韓国語話者においても同様な結果が得られた。しかし、知覚に関与する様相について両言語話者の間には違いが観察された。つまり、有声音と無声音の両方に影響するもっとも重要な要因として、日本語話者の場合は摩擦区間が挙げられるが、韓国語話者の場合はVoice barが挙げられる。 二、韓国語話者による生成において、日本語破擦音を二範疇に区分する素性ではなかったVoice barと摩擦区間であるが、これらが有声性の知覚辯別には優先的に関与することから、顕著ではない音響的特性であっても知覚判断の際には優先的要因として働くことができることが分かった。 三、発話時にVoice barが生成できない韓国語話者でも、日本語破擦音の有声性の知覚においてはVoice barが優先的な手がかりとして用いられることから、習得において知覚が生成より先行することが確認された。
日本語と韓国語の感覚オノマトペ語彙の意味分析─ 触覚を表すオノマトペを中心に ─
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.137-149
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4,500원
本論文では日本語と韓国語の感覚を表すオノマトペ語彙を5つの感覚に分類し、その中から触覚の<かたさ・乾燥>に焦点を当てて意味分析を行った。意味分析の方法としては「場の理論」における示差的特徴による成分分析の方法を取った。それをもとに日韓両語の類似した意味成分を持つオノマトペ語彙を対照文を通して意味の違いを検証した。その結果、<かたさ・乾燥>のオノマトペに関しては日本語の意味成分がより細分化された。また韓国語ではイメージの対立、そして<하다型>オノマトペが形容詞化し、日本語の「かたい」と同じように機能していることが観察された。これらのことから両語のオノマトペ語彙の意味成分の分布や体系を結論付けることはまだできないが、これから下位区分した各感覚ごとのオノマトペ語彙を考察する上で足掛かりとなり得ると言える。
韓国人短期留学生の日本社会文化接触に関する調査研究 -日本語能力の上達の観点から-
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.151-166
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この研究は日本への短期留学中の韓国人学生達の日本社会及び文化との接触が彼らの日本語学習にどのような影響を及ぼしているかを分析することを目的とする。日本語学習の成敗は学習者達が物的人的リソースをどの位利用し、学習ネットワークを構築し、様々な学習ストラテジーを用いて接触の機会を増やすことによって学習の成果を得るという彼らの自律学習能力にかかっている。この研究のために日本の大学、日本語学校、ワーキングホリデーに来日している韓国人学生89人を対象にに質問紙調査を行い、その後一部の調査者にインタビュー調査を行った。調査項目には学習者の基本属性、物的リソース、人的リソースとの接触経験,日本語能力の上達の程度等が含まれている。日本語の学習ストラテジーについては主にインタビューの内容を中心に分析した。様々な人的リソースとの接触のなかで日本人の同世代の友人がいるひとは60%に達している。日本人の友人に出会う機会がないという声も多かったが友達を作り、関係を維持する努力をしたことがあるは半分以下に留まっている。このようなストラテジーの意識化が来日前の予備教育として必要である。学習成果として来日後最も上達したのは聞く能力で、話す能力が上達した人は48%であり、読む書くが上達した人は4割程度である。上達と接触の関係を調べてみると漫画、テープとの接触は聞く能力に、PCの接触は話す能力に相関がある。サークル、ホームステイ、地域活動をした人は特に話す能力の伸びを経験している。外国人学生、友達、近所の人との接触が話す能力の上達に関係があると思われる。こうした相関関係の結果を教育方法の改善に活用しなければならない。
4,900원
本稿では、現代日本語の「ある/いる」と現代韓国語の「있다」をめぐって両言語間の違いと思われる具体的な言語現象について考察した。本稿の主張内容をまとめると以下のようになる。 「ある/いる」と「있다」には、主文の述語として用いられる場合と、補助動詞―継続相(動作継続・結果継続)を表すアスペクトマーカーを構成する補助動詞―として用いられる場合がある。主文の述語として用いられる場合の「いる」と「있다」には、特に「有情(animate)の主体」の主語が動作主(agent)として解釈される「動作動詞的な用法」がある。しかし、現代韓国語の「있다」は、「いる」とは対照的に「動作の様態(manner)」を表す副詞類(「잘」「편히」「안녕히」「가만히」「멍하니」など)と共起可能であり、また、現代日本語の「いる」としては訳せない例も存在する。現代の日韓両言語に見られるこのような違いから、現代日本語の「いる」に比べて「있다」のほうが、より「動作動詞」的な側面を持っていると考えられる。 現代韓国語の「있다」が補助動詞として用いられる場合には、一般的に「継続相」を表す形式とされる「하고 있다(해 있다)」を構成する「있다」が、さらに「있-는-다」という形になる場合がある。このような「있는다」形は、「있다」の継続相に相当する表現(「姿勢維持の継続」「滞在の継続」の意味を表す表現)である可能性がある。なお、「結果継続」を表す「하고 있다(해 있다)」における「있다」は、もともと「에格」名詞句を項として取らない動詞述語文に対し、「에格」名詞句を共起可能にする、という事実も確認した。 以上で述べた言語事実は、「있다」は「内容語から機能語への文法化」があまり進んでいないことから生じる現象と見られる。言い換えれば、「補助動詞」として用いられる「있다」には一定の語彙的な意味・機能が残っているということになる。これに対し、現代日本語の「シテイル」を構成する「いる」にはほとんど語彙的な意味や機能がないのである(現代韓国語の「있다」に比べて文法化が進んでいる)。
5,100원
筆者が1997年に韓日の女子大学生を対象におこなった調査研究の結果、韓日の女子大学生間の話題選択とその時間帯に有意差のある項目が多数現れたため、男子大学生間なら、どのような結果が得られるのかを比較考察する目的で2003年に調査を実施した。日本側92名、韓国側87名から回答を得た。調査項目は自己開示49、質問12、欺瞞看破9の合計70項目から構成されている。自己開示は、出身地や年齢、専攻などの大学生として基本的に備わっている属性、父親の職業やアルバイトの収入、宗教、支持政党などからなる特性、音樂や食べ物などの嗜好、友だちや家族との人間関係、性格、能力、経験、意見、態度、悩みなどから構成されている。質問も同様に基本的属性、特性、性格、能力、人間関係などから構成されている。欺瞞看破の話題とは、相手が正直に自己開示をしているかどうかを質問した上でその反応を見ながら探る話題である。 各項目別にコーディングを行ない、カイ二乗検定にかけ分析した。70項目の中で、韓日間で有意差が確認された話題は29項目だった。差が現れた大きな要因は、日本人側の「話題として選択しない」割合が非常に高い事にあった。また、たとえ話題として選択したとしても、韓国人側より遅い時間帯に少なく選択している場合が多いことも特徴的だった。特に、意見や態度の表明、宗教などの自己開示の話題、及び相手の宗教について質問する話題、相手のヘアスタイルついて言及し欺瞞看破する話題において、その特徴が顕著に現れている。
5,200원
ひとりひとりの人間が,それぞれの個性を持って存在しているように,一つ一つの語もそれぞれの意味なり性格なりを持って存在している。二人以上の人間が集まってなんらかの社会的な関係を結び付けていくように,二つあるいは二つ以上の語がなんらかの文法的な関係を持って結び付いているのである。 本稿では,動詞と名詞を中心に,結び付いたとき生じる意味関係について述べることにする。只,「早く帰る」が動詞句なのか文なのか,「年取った親」の「年取った」が複合語なのか単一語になっているのか,というような形態上の問題には深く入りしないこととする。ここでは,まず,語,句,文の意味と機能動詞の定義及び諸特徴などを取り調べ,さらに機能動詞結合を中心に日本語の意味的結合関係について,重点的に研究分析する。
명치기 번역소설에 나타나는 한자표기와 후리가나에 관한 연구― 內田魯庵譯『小說 罪と罰』의 人称詞를 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.219-230
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日本明治期における漢字表記と振り仮名についての研究は、森岡健二、飛田良文を始めとする幾つかの先行研究がある。ところが、これらの研究は各文献の調査データをもとにした計量的な研究が主流をなしている。本研究では、漢字表記と振り仮名が当時の文章においてどのような役割を果たしていたのかについて調べることにした。そこで、内田魯庵の『小説 罪と罰』の会話文における人称詞の表記を中心に考察を進めてみた。その結果は次の通りである。 1) 現代日本語の漢字表記が一般に「一語一表記」の性格を持っているのに対して、明治期においては「一語多表記」「多語一表記」が多く用いられていることが分かった。 2)「一語多表記」の例としては、「わたくし」の語形に対する「私」「妾」「僕」などの漢字表記、また「あなた」に対する「貴婦」「貴夫」「貴君」「貴女」「貴兄」「貴嬢」「貴官」「貴僧」などの漢字表記を上げることができる。前者の場合は漢字表記が話者の性別を表わし、振り仮名は相手に対する敬意(謙譲)の程度を表わしていて漢字表記と振り仮名とにそれぞれ役割分担機能を持っていた。これに対して、後者は漢字表記が相手に対する性別や身分を表わし、また敬意を表わす役割も兼担する機能があることが分かった。 3)「多語一表記」の例としては、漢字表記「私」に「わたくし」「わたし」「わし」「わッち」、「妾」に「わたくし」「わたし」「あたし」「あたい」、また「自己」に「おれ」「おいら」と「貴君」に「あなた」「あんた」「きくん」の振り仮名が付いた場合などが上げられる。これらの場合は振り仮名が話者と相手との待遇関係などの具体的な事項を表わしていることが分かった。 4) 明治期におけるこのような「一語多表記」「多語一表記」現象は、ただ単に当時の文字表記における混乱相ではなく、作者の描こうとした表現意図を文字表記で具現した一つの表現形式であったのではないかと思われる。また、この場合の漢字表記と振り仮名とは相互補完的な関係にあったことが確認できた。
4,800원
従来「必ず」「きっと」「多分」などのいわゆる真偽判断の副詞は働きかけ表現(命令、依頼、勧誘、禁止など)と共起しないと指摘されてきた。それに対し、本稿は働きかけ表現と真偽判断の副詞の共起制約とその制約が発生する背景について考察を行った。まず、働きかけ表現と真偽判断の副詞「絶対、必ず、きっと、もちろん」が共起するのはこれらの副詞が遂行層(Fα層)へと層転移を許容するからであり、「絶対、必ず、きっと、もちろん」以外の副詞が働きかけ表現と共起しないのは、遂行層への層転移を許容せず、そのまま態度層(Fβ層)に止まっているからである。さらに、命題内容層(P層)への層転移を許容する真偽判断の副詞も存在することも確認された。すなわち、真偽判断の副詞は、以下に提示したように「遂行層、態度層、命題内容層に属するもの」「遂行層と態度層に属するもの」「態度層に属するもの」の3類型が存在することが明らかになった。 ·遂行層に属する副詞 : ぜったい、かならず、きっと、もちろん ·態度層に属する副詞: ぜったい、かならず、きっと、もちろん、さぞ、たしか、たしかに、おそらく、たぶん、まさか、どうも、どうやら、よもや、あるいは、もしかして、ひょっとして ·命題内容層に属する副詞 : ぜったい、かならず
4,600원
小稿は、討論場面の会話を資料として、Brown & Levinson(1987)のフェイスとFTAの概念を取り入れ、「不同意」の言語表現を類型化し、各々の不同意の表現が会話の流れの中でどのような機能を果たしているのかについて分析したものである。分析の結果、以下のような結果が得られた。 第一、相手のフェイスを配慮しない「不同意」の表現は、話し手が自分の考えや判断を正確に、またストレートに伝えるために使用しており、断定·主張的な表現で現れる。このような表現を使用する場合には、話し手が聞き手に伝えたい意図は明瞭になるが、あからさまに聞き手のフェイスを脅かす行為となるため、FTAの度合いは高くなる。 第二、相手のフェイスを配慮した「不同意」の表現は、話し手が自分の考えや判断を婉曲に表明するもので、断定の気持ちを和らげる何らかの装置が付く表現で現れる。その装置として、主に、話者の判断を不確かなものとして曖昧にぼかしたり、話者が下した判断の当否を聞き手に確認したり、言いさしたりする表現が使用されていることが明らかになった。なお、このような表現は、話し手の、聞き手に押付けがましさを与えない、聞き手の領域に立ち入らないというネガティブ·ポライトネスとしてとらえられる。 第三、「不同意」を明言しない表現は、相手からの反応が、同意なのか不同意なのかが曖昧であるため、それが「不同意」であるという判断はすべて提案者に委ねられる。そして提案者が相手からの反応を「不同意」と察知し、自ら自分の意見を取り下げることにより、相手からの反応が「不同意」であることが明らかになった。つまり、このような表現は実際の発話内容を含まないあいづちや、沈黙を伴った形式で現れる。さらに、提案者の推論によってそれが「不同意」であることが推察されるため、FTAの度合いは「不同意」を明言する場合より低くなるのである。
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本稿は、日韓対訳資料(新聞)を対象として、短い単位(β単位)と長い単位(W単位)二つを採用して単位の長さによる日韓の語彙の違いについて考察したものである。以下に主な結果を述べることにする。 まず、語彙量については、短い単位の高頻度語(250語まで)では日本語より韓国語のほうがカバー率が高いが、長い単位では、高頻度語でも低頻度語でも韓国語より日本語のほうがカバー率が高い相違点がある。次に品詞構成は、単位の長さと関係なく日韓間に非常に似ている。単位を長くすることで、体言類は減少し、用言類と相言類は増加する現象(延べ語数)が見えるが、異なり語数ではこれと違って相言類が減少する。用言類の大幅な増加によるものと考えられる。語種構成は、単位を長くすることで、日韓ともに漢語と外来語は減少するが、固有語と混種語は(日本語では固有語が、韓国語は混種語が相手国より)増加する。品詞構成と語種構成を頻度区間別に分けて考察してみたところ、品詞構成では長い単位の高頻度語で日韓の違いが現れた。語種構成では、短い単位の高頻度語で全体の語種構成の結果と反対の傾向があるが、長い単位では全体の語種構成の結果と一致する。これは単位と日韓の相違点が語彙量のそれと同じ結果であり、何かの相関関係が見られる。分野別に品詞と語種構成をみると、全体の傾向(品詞構成では、用言類が日本語に大、語種構成では、漢語が韓国語に大)と異なる分野があったが、短い単位と長い単位とともに、「文化」分野は、用言類において日本語より韓国語のほうが多く、「論説」分野は、漢語において韓国語より日本語のほうが多かった。MVR値とGKR値の高い分野と低い分野は、日韓ともにほとんど一致している。
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本論文は、狂言集に見られる形容動詞の活用形について考察したものである。時期的に室町時代は、文法面では文語の形容動詞の活用形が徐々に衰退していき、現代日本語の形容動詞と同じ活用形を持つようになるため、狂言資料に用いられている形容動詞の用法を考察することは充分意義あることと言える。考察した狂言集に見られる形容動詞の活用形の特徴をまとめると次のようになる。 一つ目は、未然形「-なら」は推量の助動詞「む」や否定の助動詞「ず」を伴った文語的表現がそのまま維持されているが、一方では「未然形+ば」が仮定条件として用いられている点と、殊に「未然形」単独で条件表現を表していることは文法史の観点からみた場合、文語的表現から口語的表現へ、ひいては現代語と同一の形態に変化していることを端的に見せてくれる例であるということである。二つ目は、連用形「-に」形は副詞法として用いられることが多く、その他補助用言に続いて使われていて、極少数で中止法としても用いられているのに対して、「-で」の形は補助用言に後接する用例のみに用いられ、中止法や副詞法に用いられたことは一切なかったということである。「-で」形が中止法として使われていないことは、まだ現代語のように用法の分担が限定的・固定的でないことを表している。三つ目は、終止形の「なる」が「なり」を完全に圧倒している形態は見られなく、「なり」と脱落形「な」がほぼ同一の比率を見せていることからこの時期一般的に現れる形容動詞終止形「なり」の脱落形「な」への移行は狂言では反映されていないようであるということである。四つ目として、「なる」と「な」形の連体形は用法や用例数からも「な」形が圧倒的に多く使われていることがわかる。従って、当時連体形の主流は「な」形の方へ移っていき、「-なる」形は連体法にのみ使用された程度で漸次その用法も衰退していたのであろう。五つ目は,タリ活用はナリ活用に比べて用例がごく少なく主に慣用的表現に用いられているということである。 結論的に言えば、狂言が対話形式の構成である性格上、口語資料といっても文語的表現と口語的表現が共存している様相を表している点から見て、当時の口語表現にはまだ相当の文語的表現が用いられていて、時代的には古代語から近代語へ移行していく過渡期的な様相を見せていると言える。
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呉音の祖系音になった漢字音は、中国六朝時代の東南部音で、それが韓半島を経て日本に伝来されたと考えられるが、呉音の形成における韓国漢字音の影響は決して無視することはできない。呉音と韓国漢字音の音形の類似性については、かつてからいろいろな学者によって研究されてきたが、両者の声調体系についての比較研究はあまり行われていない。ところが、例えば、呉音の声調体系に見える上·去声の合流は韓国語の漢字音の声調体系にも見えるので、両者の声調も関わりがあるように見られる。 古代韓国語の声調には、低調と高調の調値があって、さらに長短の区別があった。そこに、漢字音の伝来とともに中国語の声調が入り、中国語と異なる声調体系を持つ当時の韓国人はこれを聴取した時、混乱を起こしたのであろうが、固有語の声調と融和させながら受け入れたと言える。そこで、中国声調の平仄における仄の上声・去声・入声は長短によって区分したと見られ、上声と去声は長調として受け入れたと考えられる。そして、これが呉音の三声体系(平·去·入)の形成に影響を及ぼしたと考えられるが、呉音における去声の上昇調は長調にあたるものと見られる。 六朝時代にも去声を中心にした混亂はあるが、その調値がどのようなものであったかは分かりにくい。それは、調類の混亂であり、六朝時代の声調も四声体系であったと考えられる。 また、音の調値から見て、中期朝鮮語の調値と韓国慶尚道方言の漢字音の声調の調値とは、その高低関係が逆になっている。中期朝鮮語の漢字音の調値は漢音の調値と同じように中国中古音の声調を反映しているのに対して、漢音の調値に相反する呉音の声調は慶尚道方言の声調と類似しているのである。 法華経読誦音の声調と慶尚道方言を韻書(広韻)の声調と対照させると、広韻の調値に相反し、さらに両者の相反する漢字の一致率が非常に高いことから、呉音の形成における韓国漢字音の影響がかなり大きかったと見られる。
韓日 兩 言語의 特殊助詞(도리타테詞)에 관한 對照硏究作用域(scope)과 焦點(focus)의 觀點에서―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.307-324
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本稿は、日本語のとりたて詞「だけ、ばかり、しか、まで、さえ、は、も」と韓国語の特殊助詞「만, 뿐, 밖에, 조차, 까지, 는, 도」を取り上げ、作用域と焦点という観点から、両文法範疇に見られる意味論的特徴を対照分析したものである。その結果、韓日両言語において特殊助詞(とりたて詞)という一つの文法範疇に属していても、各形式が持つ意味論的特徴が一律的でないことが明らかであった。特に、上記の形式が否定文に現れた場合の相対的な作用域による特殊助詞(とりたて詞)は次のように4つのタイプーに分けられる。 a. W/N作用域 並存型 :「だけ/만/*뿐」「まで/까지」 b. W作用域 単独型 :「さえ/조차/까지」「も/도」 c. N作用域 単独型 :「ばかり/*만/뿐」「は/는」 d. W/N作用域 不可型 :「しか/밖에」 この分析結果からわかるように、両言語の特殊助詞(とりたて詞)はその類似性が認められる。と同時に対応するとされる形式らが完全に同一な特徴を共有しているものではない。一般的に韓国語「만」「뿐」が日本語の「だけ」「ばかり」に対応し、また「까지」が「さえ」「まで」の両者とそれぞれ対応すると言われるものの特殊助詞(とりたて詞)の作用域と否定辞の作用域との間に見られる相対的な作用域の関連からみた各形式の作用域は必ずしも一致しない。 そして、特殊助詞(とりたて詞)の文中位置と従属節との相対的作用域については、「ば」「(하)면」等の条件節は主節の特殊助詞(とりたて詞)の作用域をその作用域の中に含むことができる。しかし、「から」等の理由節はその作用域の中に含むことができない。その理由について語順が深く関わっているということを主張した。
字幕付き映画における韓日の言いさし表現の対応関係-「述部無し」の言いさし表現を中心として-
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.325-336
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本稿の目的は字幕付きの韓日の映画から音声と字幕による言いさし表現をデ-タとして、韓日の言いさし表現が両言語でどのように対応しているのかを探り、両言語における言いさし表現の特徴を明らかにすることである。先行研究では日本語の言いさし表現が韓国語、中国語、英語ではどのように対応しているのか、その対応の仕方について言いさし表現の一部しか取り上げられていないが、本稿では「述部無し」の言いさし表現全般を、実証的に検証してみた。結果は次の通りである。「日言いさし→韓言いさし」のパターンの頻度が高く、「韓言いさし→日言いさし」のパターンの頻度は低い。また「日言いさし→韓言い切り」のパターンの頻度が高く、「韓言いさし→日言い切り」のパターンの頻度は低い。このような結果は韓国映画では音声上の韓国語の言いさし表現の出現が低いのに対して、日本映画では音声上の日本語の言いさし表現の出現が高いことが原因であると考えられる。さらに「韓言い切り→日言いさし」のパターンの頻度が高く、「日言い切り→韓言いさし」のパターンの頻度は低い。このことから日本語は韓国語に比べ、言いさし表現が好まれて使われていると言えよう。 韓国人は日本人に比べるとはるかに物事をはっきり言うのを良しとし、曖昧な言い方よりは、白か黒かをはっきりさせた言い方が好まれるとされている。一方、日本人の話し方は終わりの方をはっきりさせないことを喜ぶとされている。本稿の「述部無し」の韓国語の言いさし表現にははっきり言うのを良しとする言語観が反映され、積極的には使われないのではないかと考えられる。それに対して日本語にははっきり言わないのを喜ぶ言語観が反映され、言いさし表現が積極的に使われていると考えられる。
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「因果性」ないし「因果関係」(「行為者の対象への働きかけによって,対象に変化(位置変化ないし様態変化)が生じる」こと)を含意する日本語の「使役構文」には,自·他動詞の「(s)ase」形を含む「生産的使役構文(productive causatives)」と,他動詞の原形を含む「語彙的使役構文(lexical causatives)」が存在する.一般に「語彙的使役構文」は「生産的使役構文」に比べ,「行為者の対象への働き掛け」と「対象の変化」との間の因果関係が強く,「行為者の働き掛け」が「対象の変化」につながりやすいといった性質を備えるとされる.ところが,強い因果性を含意する「語彙的使役構文」においても,「行為者の対象への働き掛け」が必ずしも「対象の変化」をもたらさない場合が想定され,とりわけ,本稿で扱っている「燃やしたけど,燃えなかった」類の構文や「テーブルをきれいに拭く」のような「結果構文 (resulatative constructions)」でその傾向が顕著に現れるのである.これまでの先行研究では,主に動詞の語彙意味に基づいてこの問題を解決しようとする試みがあったが,本稿では,語彙意味的な分析に加え,「意図性(intentionality)」という語用論的な要因を想定したうえで,この「意図性」と「使役構文における因果性」との相関関係を明らかにし,この問題に対する理論的な接近を試みる.
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韓国人上級日本語学習者の依頼の仕方を日本語母語話者がどのように受けとめるかを調べるため、刺激材料(依頼のロールプレイの音声資料)を作成し、それを用いて日本語母語話者63人に対して聴取実験(Ⅰ・Ⅱ)を行った。実験Ⅰの結果から、依頼の仕方を受けとめる際の母語話者の多様な「観点」を抽出し、実験Ⅱにより、共通して潜在する「背景意識」を探った。因子分析を行った結果から、「依頼の説明・展開の仕方」「感情的要因」「聴覚的自然さ・滑らかさ」「文法知識」という4つの背景意識が潜在していることがわかった。これらの観点と背景意識から、母語話者は、学習者の依頼の仕方に対し、段階の踏み方や感情面での不快感の有無、face侵害の度合いなどに対して意識が向いていることが示唆された。また、イントネーションや声の調子などは、音声的な明瞭さ・自然さだけでなく、言語行為の内容にふさわしい調子が求められることも確認できた。そして、初級学習者では注目されにくい文法面について上級学習者の場合は比較的厳しく見られることも示唆された。
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本稿は、アストン(W·G·Aston)が明治二十七年(1894)に著わした『Japanese Onomatopes and the Origin of Language(日本語オノマトペと言語の起源)』という資料について考察したものである。 アストンは日本語のオノマトペだけでなく、日本語の音声·音韻の特徴、オノマトペから由来したと思われる言葉や日本語と関連づけて英語·朝鮮語など諸国の言語の例まで挙げて総合的·体系的に音と意味との有縁性について説いている。本資料では、幕末·明治時代の辞書である『和英語林集成』では見られない当時の口語性の強い動物の鳴き声や鐘·太鼓の音·幼児語·語頭P音のオノマトペなど、日常生活で用いられていた多様な異形態のオノマトペが数多く収められており、語頭P音のオノマトペの語彙は、当時の他の資料と比肩できないほど豊富である。 また、本資料にはオノマトペの語例が338語、オノマトペから派生したと思われる語が103語、合わせて441語もの明治時代の語彙が載っている。特に語例ごとに詳しい説明を施しているので辞書的価値も持っている。それゆえに重版ごとに多くの改訂·増補をした『和英語林集成』と資料的に相互補完関係にあると言える。 このように資料的に相互補完関係にあるこの二つの資料の例を比較分析することによって、辞書類では見られない当時の生き生きとしたオノマトペが把握できるし、オノマトペの意味分類や用法などオノマトペの語彙体系と運用の実態が究明できると考えられる。従って、本資料は『和英語林集成』と共に幕末·明治時代のオノマトペの語彙体系の再定立にも有益で、具体的な手がかりを提供してくれる語学史的·学術的な価値の高い貴重な資料として位置づけられる。
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上田秋成の発句においては、まとまった秋成発句集が報告されたのが近時のことであり、しかも、その句数が当時の他の俳人に比して非常に少ないことにより、従来では、充分に検討されていないところが多いと思われる。ところが、秋成が文芸活動を俳諧から始めており、生涯を通してその発句作品を詠んでいることを考える際、秋成の発句は秋成の俳諧研究において重要な資料であるといえよう。本稿では、秋成の詠んだ発句の中、最多季語である桜の句を取り上げて丁寧に句の解釈を行い、とくに発句の踏まえている出典やその特色に焦点を絞って考察した。さらに、秋成の言説や評語などを通して、秋成の発句と和歌との読み方にはいかなる違いがあるのかを探ってみた。 その結果、次のことが言える。まず、第一に、和歌における桜の伝統的な詠みを踏まえて詠んでいる句として、滑稽性の見られない句が少なからずあるということである。それは、秋成の言説などに見るように、秋成は心の表現する事柄により、発句や和歌や文章などを選んでいるといえるであろう。実際に、秋成の作品には、俳諧性の豊かな歌があり、又、和歌の情趣が感じられる句が多数あるからである。 第二に、芭蕉の受容が認められる句が見られることである。秋成の芭蕉批判はよく知られているが、芭蕉に対する秋成の態度が、ともかく批判一辺倒ではないということが、発句作品例を通して明らかになった。今後さらに、多様な季語を検討していきたい。
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藤村は、『近代画家論』というラスキンの著書に感化されて以来、仙台での寂しい生活を紛らわすため、空の景色に眼を向けた。そこで、彼は、漠然として感じられていた雲のゆくへや雲の秘鑰、生の謎などに疑問を抱きはじめた。雲に注がれていたこのような関心はその後、新しい生き方を求めていった小諸で、本格的に精密な写生の観察を試みたのである。彼の雲を観察する目的は、散文である「雲」の中で述べたように、思想の単調を破ろうと思う心より、春潮のように湧きくる自然の愛慕より、樂し哀しき人の世の謎の解き難い煩熱を医するための願いより、そしてラスキンがまだくわしく説き及ばなかった雲の研究を深めるためであった。従って、観察に際しては、空と雲とを静的な対象ではなく、動的な対象として視覚を拡げていこうという藤村の意志を窺うことができた。 雲の研究から藤村が悟ったのは、いままで絵画や詩では部分的に、あるいは象徴的な意味として使われていた雲の特性は、万人のために平等に存在していることであった。また、雲は秩序と生命力があって、自然との調和をなしていることも分かった。そして、空に出没する雲や地に栄枯する草木の色彩を通して恐怖と慰め、寂しさと樂しさを感じる自然との交感を体験することができたのである。 結局、藤村は自然の四季折々の生成と消滅から、人間の生老病死の真理を悟るようになった。雲の研究を通して得た、新しい自然の発見や自然への愛慕の心は、詩の限界に陥っていた藤村にとって、新しい突破口になったと思われる。すなわち、「雲」は詩から散文への秘鑰の役割を果した作品であったと言える。
『에혼타이코키(繪本太閤記)』의 임진왜란 기사 연구― 임진왜란 기사의 구조 분석을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.411-423
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本論考では壬辰倭乱に対する『絵本太閤記』の叙述様相を考察した。『絵本太閤記』において壬辰倭乱の目的は、戦国時代に絶たれた朝鮮の服属を'再開'し、明を征服して豊臣秀吉が明の皇帝になって、日本の武威を異国に輝かすことであったと叙述されていることが分かった。この二つの目的中、豊臣秀吉が明の皇帝になるとの目的は、淀君·石田三成·小西行長の不忠によって挫かれたが、朝鮮の服属を再開するとの目的は、豊臣秀吉に忠誠であった北政所·加藤清正によって実現され、しかも加藤清正は仁義をもって朝鮮人を感化し、彼らをして朝鮮政府より日本を選択させることとなって、日本の武威を異国に輝かすとの目的は達成されたと叙述している。そして、この過程で加藤清正は豊臣秀吉と同一、または彼より優越な人物として叙述されるに至ったのである。豊臣秀吉の寵愛の中で成長した加藤清正は、『絵本太閤記』の壬辰倭乱記事の以前にもすでに卓越な武将として敍述され、二篇巻之一に「加藤虎之助之伝」の独立した行状があるほどであり、壬辰倭乱記事になっては、明を征服しようとする豊臣秀吉の意図に従って朝鮮の国境を越えて兀良哈と戦い、仁義をもって朝鮮人を感化させるなど、日本の武威を異国に輝かすとの豊臣秀吉の目的を朝鮮で実際に行った武将として敍述され、遂には日本·朝鮮の両国で神(孫)としてまで崇拝されるに至ったのである。 戦争直後に成立した短篇的な作品を綜合して七年戦争の全体像を最初に提示した『太閤記』と、明側の記録を受容した『朝鮮征伐記』の成立、そして戦争の舞台となった朝鮮で成立した『懲毖録』の流入によって、江戸時代の壬辰倭乱関係の作品は量的·質的に豊富になった。そしてこれらの集大成とでもいえるような『絵本太閤記』に至って、戦争の目的は何であったか、戦争の英雄は誰だったのか、などのことが以上のように提示されることになったのである。これは壬辰倭乱に対する江戸時代の認識の到達点であると同時に、豊臣家·加藤家の滅亡に対する日本人の同情と共感の集約であり、『絵本太閤記』の敍述を通して提示されたこのような観点は、'一種の英雄待望論'であるとも言えるであろう。『絵本太閤記』の壬辰倭乱記事は、壬辰倭乱と近世日本の文学·文化との関係様相の集大成となっているという点において意義があると同時に、江戸末期、ひいては近代以後にも影響力を持ちつづけているという点で、現在的な意味をも持っているのである。
謠曲 작품 속에 그려진 노인의 執心― 『檜垣』『融』의 主人公像 분석을 통하여 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.425-438
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世阿弥の夢幻能作品のうち、老人を主人公とするいくつかの作品があるが、それらの主人公たちが抱いた執心の有りようには、一つの興味深いところがあり注意される。というのは、その執心の有りようが世阿彌が能楽論書『風姿花伝』で説く「老木の花」論と通底しているところが見られるからである。そこで本稿では、老人を主人公とする作品のうち、その主人公が晩年における人生の開花期に限りない執心を向けている点で似通っている『檜垣』と『融』の二作に焦点を絞って考察してみた。その結果明らかになったことは、その主人公像の造形において作者なりの作為が施されているということである。つまり、作者の世阿弥は、老人を主人公とするこれらの作品の中に、自らの「老木の花」理論にもとづいた主人公像を造形しており、その「老木の花」に執心を抱いている姿を作品のなかに組み込んでいるということが確認されたのである。
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