Earticle

현재 위치 Home

Issues

일본학보 [The Korean Journal of Japanology]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본학회 [Korea Association Of Japanology]
  • pISSN
    1225-1453
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    1973 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제74권 2호 (32건)
No
1

4,900원

本稿では、日韓両言語における「反復相(現在)」を表すアスペクト形式を中心に対照を行い、その中で、 現在にまで繰り返される「反復相(現在)」を表す場合について考察を行なった。  現代日本語の場合は、現在にまで繰り返される「反復相(現在)」を表す時、過去を表す「シタ」形式が用 いられない。これに対して、現代韓国語の場合は、過去を表す「었(-ess-)」形式が用いられる。そして、この現 象は、「パーフェクト(現在)」及び「単純状態(現在)」を表すアスペクトの形式にも現れる。このような違いが生 じる理由として、「어 잇(-e is-)」を構成する存在動詞「잇(-is-)」の文法化の度合が考えられる。  つまり、韓国語の「고 있다(-ko-iss-ta-)」を構成する「있다(-iss-ta-)」が文法化が完全に終わっていないた め、非存在文的な特徴をもつ「パーフェクト(現在)」及び「単純状態(現在)」は、存在型アスペクト形式で表す ことが出来なくなったと言える。そして「反復相(現在)」は、「고 있(-ko-iss-)」形式と「었(-ess-)」形式の両方 が用いられるが、その「었(-ess-)」形式についても「パーフェクト(現在)」及び「単純状態(現在)」と同じ説明が 可能であると言える。

2

5,200원

本稿では、<{てくれる·てもえらる}でしょうか>の文法的意味、文脈·場面的意味,そして話体的意味などを考察 することにより、李(2007b)で提案した依頼表現における分類の規準がはたして有効であるかについて、再検討を 行った。その結果を<てくれる>系列及び<てもらえる>系列に適応し、依頼表現に参与する其々の類型間の対立 関係及び各類型内部の序列関係に対し新たな見解を示し,各形式の表現内容(表現価値)と現実世界における使 用可能性についても考察した。 本稿での考察結果をまとめると,次のようである。. <てくれる>系列の依頼表現には[1]<てくれ·てくれよ·ておくれ·てくれたまえ>のような命令形の型、 [2]<てくれ る·てくれない·てくれます·てくれません>のような<~か>の省略された型、 [3]<てくれるか·てくれないか·てくれます か·てくれませんか>のような<~か>を伴う型、そして[4]<てくれるでしょうか·てくれないでしょうか·てくれますでしょう か·てくれませんでしょうか>のような<~でしょうか>が付いた型が認められる。 [1]型は命令形から由来するものであ るため、丁寧さはいちばん低い。[2][3][4]型を文末の形態に注目するならば、[4]の<~でしょうか>型が[2]型·[3] 型より丁寧であるといえよう。そして、[2][3][4]の其々の類型における序列は普通の言い方か丁寧な言い方か、 肯定か否定かにより決められる。このように、<てくれる>系列の依頼表現に参与する各形式は単線的な序列関係 ではなく複線的かつ多面的な序列関係を構成しているとみなされる。 一方、<てもらえる>系列の述語は状態性のものであるため、命令形による依頼表現は成立しない。結局、<て もらえる>系列の依頼表現においては、非命令形型のみが存在することになる。この非命令形型に、取合えず文 末形態の特徴を反映すると、<~か>を省略する型と<~か>を伴う型と<~でしょうか>が接続する型とに分けること ができ、其々の類型の内部序列には普通の言い方か丁寧な言い方か、肯定か否定かが関与するものとして位置 づけられよう。以上の内容をまとめると、<てもらえる>系列の依頼表現には{(てもらえる·てもらえない·てもらえます· てもらえません)/(てもらえるか·てもらえないか·てもらえますか·てもらえませんか)/(てもらえるでしょうか·てもらえないで しょうか·てもらえますでしょうか·てもらえませんでしょうか)}のような類型化と序列化とが可能である。<てくれる>系列 と同じく<てもらえる>系列に参加する其々の依頼表現形式は複線的かつ多面的な序列関係をなしていると解され る。<てもらえる·てもらえない·てもらえます·てもらえません>のような<~か>を省略した型と<てもらえるか·てもらえな いか·てもらえますか·てもらえませんか>のような<~か>を伴った型の間には、<てもらえる·てもらえるか>、<てもらえ ない·てもらえないか>、<てもらえます·てもらえますか>、<てもらえません·てもらえませんか>のような対立関係が成 立するが、これは男性専用か男女共用かという性別による差、そして話体上の差を表しいる点を除けば、表現内 容と序列化においてはほぼ同等の価値を有するものであると見なされる。また、<てもらえるでしょうか·てもらえない でしょうか·てもらえますでしょうか·てもらえませんでしょうか>型は、<てもらえます·てもらえますか>と<てもらえません· てもらえませんか>とはその丁寧さにおいて差を見せている。よって、本稿では、<~てもらえる>系列の依頼表現 形式を(1)<てもらえる·てもらえるか>·<てもらえない>·<てもらえないか>、(2)<てもらえます(か)>·<てもらえません (か)>、(3)<てもらえるでしょうか>·<てもらえないでしょうか>、(4)<てもらえますでしょうか>·<てもらえませんでしょう か>のように分け、其々の形式の表現内容(表現価値)と現実世界における使用可能性について考察をすすめ、以 上述べてきたようなことを明らかにした。

3

狂言集에 보이는「こそ」의 史的 変遷에 대한 考察

전형식

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.35-44

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,000원

本稿では係助詞「こそ」の「結びの崩れ」と「述語の結び」の二点に力点をおいて、大蔵流派の元祖本と いわれている虎明狂言本を中心に前後の天正本と虎光本狂言そして中古・中世の作品との比較を通してその変遷 の特徴について調査・分析を行った。その結果、全体的には書き言葉と話し言葉の資料での使用様相において 大きな差がみられた。それから、狂言の流派によって多少の違いは見られるものの、大きな差はなく、いずれも 話し言葉的特徴を見せている。なお、同時代の話し言葉である天草版平家物語でも同様の傾向を見せている。 また、時代別に平安から鎌倉・室町時代に下るにしたがって、「係結び」の崩壊が増加している事実が確認でき た。以下、係結びの崩れと述語の結び方という二点から検討してきた大要をまとめてみると、次のようになる。 ①書き言葉資料に比べ、話し言葉資料ではいわゆる係結びの使用頻度がかなり低かったことがよく表われてい る。 ②「こそ」の用法の衰退は、話し言葉や、やわらかい文体の文章で先に起きているということである。 ③「流れ」の45例はすべて接続助詞によって続いており、その中でも「に」「が」「ども」「とも」のよ   うな逆接の助詞がその大部分を占めている。 ④この時代の一つの特質として古代語とは異なり、已然形でない結びの増加が現れている。 ⑤助動詞の場合の状況などから考えると、係助詞的機能のものに対して、「結び」の部分とは切り離され   た形でとりたて助動詞的機能を持つものが、現われている。

4

使役構文의 意味解釋에 작용하는 諸 要因에 관한 考察

蔡盛植

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.45-58

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,600원

一般に「因果性もしくは因果関係」を表すとされる使役構文に関しては、「使役者の被使役者への積極的か つ能動的な働きかけ」および「事態への能動的なかかわり」が、使役状況をなす一つの成立条件として働くとい われている。その一方で、他動詞構文と呼ばれるものについても、使役構文の場合と同様、「主体」(使役者に 相当)の「対象」(被使役者に相当)への積極的な働きかけが行われた結果、その対象に位置変化ないし状態変 化が起こるのであって、「主体の対象への働きかけ」とそれによって引き起こされる「対象の変化」」との間には 一種の「因果関係」が成立するといえる。これをもって西村(1998)は、他動詞構文を使役構文の範疇に入れて 考察すべきだと主張しており、本稿でも、このような西村(1998)の知見に従い、他動詞構文をも広義の使役構文と みなし議論していくこととする。こうすることによってはじめて、以下に示すような構文類が、「使役者の被使役者 への積極的な働きかけ」や「事態への能動的なかかわり」が認められないのに、なぜ受身的な解釈が受けられ るのかに対する有意義な答えが得られることと考えられる。 (例)私たちは空襲で家財道具を焼かせた。     勇二は教師に殴られて前歯を折った。 私たちは空襲で家財道具を焼いた。 ジョンは(事故で)息子を死なせた。 とりわけ本稿では、上記のような構文類が使役構文の形をしているにもかかわらず、受身的な意味解釈に傾く ことに影響するとされる諸要因として、「使役者と使役行為の関係」や「使役者と被使役者との関係」や「使役 動詞の性質」といった三つの項目を設定し、各方面からの多角的な分析を試みることとする。

5

4,900원

The summary of the findings in the analysis is as follows. First, the shapes of the faces and chests of 「Hum In Wang」 made by Eunkei and enshrined in the South Gate of Japan and 「Hum In Wang」 engraved at the entrance wall of Seokguram of Korea are compared and analyzed. The forehead of 「Hum In Wang」 by Eunkei has rough muscles and is expressed coercively and exaggeratedly, whereas the chest of Seokguram's 「Hum In Wang」 has beautiful muscles consisting three round parts and is expressed artistically and exaggeratedly. 「Hum In Wang」 by Eunkei looks stronger and gives more coercion with the glaring eyes, rough muscles of the forehead, the high cheeck bones and firmly closed lips. In particular, the image from the chest and abdomen of 「Hum In Wang」 made by Eunkei is understood to have expressed the men's well-proportioned figures through exercise at that time. Second, Natsume Soseki’s point of view about the sculpture arts through 「The sixth Night」 in 『Ten Night Dream』 and that of Jin Gun Hyun which was emerged in 『Muyoungtop』 are compared and the differences of them are examined. Nastsme Soseki expressed a sculptor's performance that transcends imagination that sees the sculpture art as ‘digging out something buried in the tree’, and his nature-oriented point of view through his works based on intellectual capacity. On the other hand, Jin Gun Hyun expressed the sculpture art through anthropocentric angle of art based on a sculptor’s natural gift and excellent skills which need 'Arousing amusement’ and 'Outstanding skills'

6

4,600원

本稿では、老女が主人公として登場している作品に分析․考察の主眼点を置き、いわゆる「三老女」と称され る『檜垣』『姨捨』『関寺小町』の三作品をその対象とした。中でも特に各作品に登場している老女の執心の 分析に焦点をしぼり、それと世阿彌の「老木の花」論との接点を探ろうと試みた。その結果明らかにされたと思う のは、それぞれの老女が抱いている執心のありさまが世阿彌の「老木の花」論と係わるものであり、それは「花」の境地を志す世阿彌の芸術的志向性とどこかでかかわり合っているということである。

7

谷崎潤一郎『細雪』試論 ―雪子と妙子の共闘あるいは対立―

金泰暻

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.89-102

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,600원

『細雪』は旧家蒔岡家四姉妹の話である。蒔岡家は大阪船場に店舖を構えた豪商であったのだが、物語の現 在時にはすでに四姉妹の父は存命でなく、船場の店舖も人の手に渡っている。長女鶴子・次女幸子は辰雄・貞 之助を婿養子に迎え、本家、分家としてそれぞれ上本町、芦屋に家を設けていた。他方、三女雪子・四女妙子 は未婚であり、二人の縁談や恋愛、財産をめぐる様々な出来事が『細雪』物語内容の主旋律をなしている。 本稿は、当時の日本社会に支配的なものとして蒔岡家本家の監督権と相続の問題を析出し、雪子と妙子の生 き様が本家や分家という場と深く連動していることに新たに焦点をあてる。まず、四女妙子の「自立」志向に注目 し、『細雪』が書かれた当時の社会経済の中のジェンダー役割において、彼女の挑戦が具体的にどのような意 義があったのかを検討する。彼女の奮闘が、支配的なジェンダー規範――総力戦下の「銃後の女」「良妻賢 母」、家督相続的な資本の独占――を大きく揺るがすものであったことは間違いない。一方、三女雪子は蒔岡 家の家と資本の論理にいっけん順応するかたちで、自分の居場所を確保しようとする。本稿では、家督相続的な 論理をめぐって彼女たちが各々の仕方で体現する抵抗なり違和がもたらす対照的な結末に注意を向けながら、雪 子と妙子の共闘あるいは対立の物語として『細雪』を読みなおす。

8

4,600원

大岡のレイテ戦闘への認識は、敗戦認識に基づいた被害者としてのイメージが拡大再生産されていた、戦後 高度経済成長期の日本社会に、自分達の歴史を外部の眼差しで相対化して視る認識の地平を開いたという点で は高く評価すべきである。しかし、この作品の執筆のきっかけはレイテ戦闘で名もなく死んだ兵士の名誉を回復 し、その霊を慰めることであり、結果的に戦争への反省というよりは、アメリカの資本主義と結ばれたアメリカの軍 部にその責任を問っていることが確認できた。これは執筆当時の、アメリカの資本主義に無気力に支配されていた 日本の現実への憂いから来たもので、その中で日本兵士のフィリピン人への加害者としてのイメージは隠蔽され、 日本軍部と天皇、それから米軍部の被害者として表象されていることが明らかになった。さらにそのような論理は 1990年末以後の日本の新保守主義の論理的根據となっていることも確かめられた。 ここで確認しなければならないのは、大岡の主張しているように、日本兵士の参戦理由が必ずしも強制的だっ たかということである。彼らは個人的に戦争に勝利した時の利益を期待したのではないか、果たして彼らに天皇と 軍部の戦争の名目に批判的認識はあったか、自分達がフィリピン人に与えた被害への責任意識はあったか、と いった問題に対して、大岡は何も述べていない。勿論、兵士個人の戦争責任はエピローグで言及されてはいる が、それは漠然とした数字の表現に過ぎない。日本兵士のフィリピン人へ加害の具体例は、たった一回紹介され ているが、それはどこまでも敗戦に傾いていく戦況で限界状況に処した人間が日常の判断力を喪失した状態で冒 したこととして解明されている。天皇と軍部の戦争責任の問題も、戦況の誤判によって無理に戦争を敢行したこと に対したもので、戦争そのものへの批判は曖昧な状態で放置するか、スペイン、アメリカなど、帝国主義の一般 的な属性として普遍化する。フィリピンの解放という戦争の名分に対してはアジアと区別し、日本とフィリピンはとも にアメリカの資本主義の被害者という点では他のアジア民族と日本を同一視する矛盾を露呈している。

9

4,300원

ここで検討しようとすることは人間世界の外部に住みながら人間と接触する登場人物、すなわち異人である。人 間世界に出現する童子や精霊、そして山男などがここにあたるといえる。本稿はそのなかで賢治童話の山男物 (「山男の4月」、「祭の晩」、「紫紺染について」)を中心に考察したものである。賢治はこの山男が登場する 話を東北地方に伝承されてくる親しい民譚を持ってきて話している。つまり異人とは、伝承を通じてよく知られてい るように人間を脅威する存在であったが、賢治童話では別世界の異人ではなく人間とお互いに影響関係にある境 界的な存在なのである。賢治は恐ろしいと考えられている別世界の存在である異人を親しくて慣れた存在に描が いていることがわかる。これは山男が登場する作品でも同じで、賢治童話の中の山男は、人間を脅威する存在で ありながらも人間を恐れる境界的な存在であることが分かる。 このように賢治童話における人間世界の外部に居住する童子や精霊、そして山男は賢治文学だけの特徴とは いえないが、彼は単純に伝承を伝えながら異人を登場させるのではなく、自分の創作物に再構成しているといえ る。人間に親しい存在でありながら伝承の内容が変更されているのであって、これらの異人は境界性を持つように なるのである。したがってこの異人たちは賢治が再創造した異人だと言えるでしょう。異人の境界性は作家の世界 観が二項対立的ではなく、二項を同時にとる特徴を持っていることを表すことで、彼の文学の特徴を明らかにして いる。賢治はの異人を通じて二つの世界の違いや区分よりは、相互疏通することを捉えようとしたことが分かる。

10

4,600원

大江健三郎の『万延元年のフットボール』は共同体と暴力の相関関係に関する物語である。人が行う暴力の 背後にはその人がすでに受けた暴力が存在し、それはやがて別の暴力を誘発する。いわば循環する暴力の構造 が描かれているのである。共同体はみずからが行使する暴力の構造を隠蔽するために共同体の内部構成員や外 部のものを必要に応じて選択的に排除し、ときには彼らを暴力の遂行者とする。そのとき犠牲になるのは家父長制 下の長男以外の者たちである。いわば、共同体の中心をなす人々によって,その体制の維持のために犠牲になる 人々が選ばれる構造になっているのである。そのよういに暴力が非日常的なものではなく日常の中にひそむもの であることが示される。 共同体の主体となる男たちによる、暴力の隠微な構造に気づいているのは女たちであり、テキストはそのことに 十分に自覚的である。これまで鷹四や密三郎に対する批判が多かったが、彼らの造形は作者がその両方の限界 を承知したうえでの形象であり、そのような批判は効力をなさない。「傍観者」の設定は、「行動者」になりえな いことを限界として認めながらも「行動者」の行う行為ー暴力ーの構造を'みつめる'者としての設定であり、歴 史の仕組みを理解する者としての役割を与えられている。菜採子が鷹四の子供を産むことにするのはこの世に満 ちている歴史の暴力ー自己と他者に対するーに打ち勝てることへの願いを込めての選択であった。

11

4,600원

1931年1月、雑誌『言葉』第2号に発表された坂口安吾の処女作「木枯の酒倉から」はファルスを描いてい る作品である。本稿では安吾のファルスが意味しているところとファルスと説話形式の中から共通点を察し、説話 形式を用いて作家の持っている美に対する観点あるいは姿勢を表現するための予告としてのこの作品の役割と構 造を考察していきたい。 「木枯の酒倉から」はファルスの性格を持っていながらも説話形式が予告されているように連想させる。説話形 式の要素や設定を詳しくみてみると、基本的には説話で見られる荒唐無稽の雰囲気と話の構造を前提として安吾 の説話形式の小説(「紫大納言」、「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」など)の素材が隠されているのが わかる。また、冬という時間と武蔵野の<一つの村落>という空間は制限されていて、この時期や空間の中では必 ず事件が発生する。したがって、話の事件の素材であるお酒と一緒に幻想と神秘な雰囲気を造成して、限られた 時間・空間とナンセンスをもとにしたファルスという組合を通して相承効果を期待しているということができる。 「木枯の酒倉から」に関する今までの研究がファルスを中心とした考察だったとすれば、本稿では未だに研究 されていないファルスの中での説話形式を考察していく。それによって、この研究は安吾は説話形式のみならず ファルスをもっても自分の美に対する意識を表現しているという可能性を明らかにする作業の始めだと言えよう。

12

谷崎潤一郞の「天才」物語 ― 「金と銀」を中心に ―

徐昌源

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.157-168

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,300원

大正期は、さまざまな天才論が本格的に翻訳・出版され、一般大衆にまで広く受容された時代である。谷崎 も、この時期に「天才」を主要なモチーフにした物語を次々と書いている。とりわけ「金と銀」(大七)には、 同時代のロンブローゾらによる天才に関する言説や、漱石の死をきっかけに人口に膾炙するようになった天才の脳 髄をめぐる言説などが見え隠れしている。しかし「金と銀」には、多くの天才論者が共通して追求してきた超越的 な天才が存在しない。大正期の谷崎の「天才」をめぐる物語は、いわば天才不在の「天才」物語として編まれ ている。同時代のロンブローゾのように、天才の中に狂気を見いだす天才論においても、決して天才と狂気との 同一性を示唆しているわけではない。天才と狂気との類縁性を指摘することはあっても、結局のところは、天才を 本物の精神病者とは弁別して、超越的なるものとして措定していたのである。大正五年前後の谷崎のテクストに は、さまざまな天才論がつなぎ合わされていると同時に、さまざまな天才論から切断されている。つまるところ谷崎 のテクストには完全で超越的な天才が不在している。しかし、天才の不在ゆえに天才が夢見られ、天才への想像 力が一層掻き立てられる。谷崎のテクストは、新たな天才を創造させるためではなく、ひたすら天才を語りつづ け、夢見つづけるための書記行為として編まれている。

13

4,600원

<政治の季節>と呼ばれた1960年は、安全闘争を契機に市民運動の激化で騒然とした政治的高揚の時期でサ ルトルのアンガージュマンの影響を受けた日本の文学者たちは、政治や社会問題に積極的に関与していった。こ のような社会と文壇状況に、大江健三郎の文学はどのように応答しているか考えてみるのは必要な作業だといえよ う。「日常生活の冒険」は1960年代の政治的言説が活発だった最中に発表された作品だという意味で大江の作 家的道程を考察するには看過し難い作品である。本稿では、「日常生活の冒険」にあらわれている社会像を分 析して当時の大江健三郎の社会認識について考えてみたい。 この作品は1960年代の社会状況を様々な人物を通じて形象化している。冒険という言葉は日本の市民運動の 起源である明治初期から1960年までの歴史を鳥瞰しがら、1960年代における社会参加、あるいは政治とは何かに ついて考えさせる。 明治期の<政治的人間>を示している大伯父と父の行き方と死は、社会参加が無謀な冒険とよばれるように なった過程を見せている。斉木犀吉という人物像の様々な特徴は1960年代の市民運動の難しさとともにその可能 性をも表していると思われる。 饒舌という象徴は高まっていた政治的認識とその空虚さを見せているし、当時に彼の弱さ(贅沢への憧憬)は市 民運動の挫折を暗示している。そして斉木犀吉の声を借りたモラルとつながりの不在にたいする指摘は1960年代 の政治的言説の問題点を摘発しているといえる。モラルと連帯の不在というのが、社会構成員にとっての内部的 問題であることは重要である。この作品で大江は1960年代の問題を内部的な問題として見做し、問題解決の可能 性への希望を抱いているからである。作品では構造主義的な観点から離れて、社会の意志(すなわち政治)を形 成する根幹として社会の個々人を捕らえ、その個々人によって社会変化を起こすことができる可能性を提示してい ると思われる。この作品は1960年代の政治的発言と市民運動の問題点を指摘しながら、運動の実現のための解 決方法を提示しているという点で今もなお重要な作品だといえよう。

14

4,300원

中山整爾の『日本将来之婦女』は1888年、自由閣で発表された單行本である。以後、この本は『近代婦人 問題名著選集』の1巻に載せられることになるが、著者の経歴はまだ不明である。中山整爾の本に序文と跋文を 書いた尾崎行雄や植村政久などの面々から、著者が民権運動家と関連がある人物であろうと推定できる。 この本が書かれた明治20年ごろは自由民権運動が政府の彈壓によって失敗され、「社会改良」に社会的関 心が集中していた時期である。有形の事物の改良だけでなく、無形の習慣や観念の改良にまで社会の関心が注 目されるなか、「婦人改良」は最も至急な改良の対象として認識されたのである。 中山整爾は婦人の権利を回復する手段として、婦人教育と男女交際の改良を挙げている。その際、婦人が受 けるべき教育の内容は男子と同一なものでなければならないと述べている。彼は男女間の身体、精神、職務の差 がないと認識し、女性が受ける教育の内容が男性のそれと同じであるべきだと主張するのである。これは女性が男 性と同等に競争することを願っていた中山整爾の強い意志の反映であるといえる。女性を家庭という枠の中におさ めようとする当時の社会的言説のなかで女性の社会的進出という方向性を提示しているのである。 彼は婦人に自らの権利を確保する方法として、男女交際の改良を願っている。特に夫婦関係に注目する。 「夫婦の交際」と名付けてその理想的な在り方を提示しているのである。夫婦間の愛情を最も大事な要素として 指摘している。愛情に基づく男女関係が同等な権利であると主張する。個人の内面的な感情である愛情を男女の 同等な権利の関連の中で理解している。男女関係において女性が内を治めるにふさわしい存在として位置づけ、 また男女間の分労を目指す当時の言説のなか、女性は男性は同等な教育をうけ、また社会で対等な競争するべ きであると主張している。まさに、<近代婦人問題名著>である『日本将来之婦人』の意義は此の点にあると言 えよう。

15

4,000원

明治42年(1909)は作家永井荷風にとって大きい意味を持つ年である。成瀬正勝は明治42年は 「彼に 新進作家に地歩を確保させた決定的な時期であった。」と言っている。荷風は明治42年1月、『ふらんす物 語』中のいくつかの作品を発表し,続いて短篇六つ、中篇一つ、さらに新聞連載長篇に評論、訳詩、随筆、 談話筆記に至るまで発表された作品の数は40余篇におよぶのである。しかし、荷風にとっての明治42年の意味を 発表した作品の数が多いところだけから探すわけでははない。それは明治36年、アメリカに旅立ってから約5年 間、アメリカとフランスでの生活を終えて日本に帰った永井荷風の芸術観が一変されたからである。この問題につ いて相馬御風は「『ふらんす物語』まで荷風がもっていた芸術心境は意識的に破壊されて、社会批判、享楽主 義、諦念․冷笑的人生観、官能美の世界を扱うようになった」と述べている。『帰朝者の日記』は明治42年10 月1日、「中央公論」第24年第10号<秋期大附録号>の「附録小説」の欄にかかげられた小説である。この小 説は欧米から帰国してから半年になっても日本社会、すなわち明治文明に慣れることのできないピアニスト、自分 の日記形式で進行していて、明治文明の無分別ㆍ無反省的な西洋模倣に痛烈な批判を加えている。では、 『帰朝者の日記』はどう読まれてきたか。同年12月から東京朝日新聞に連載した作品『冷笑』の先行作品で見 のがした傾向が強いし、作品か発表された当時から今までこの作品は‘西洋との比較を通して荷風自信の日本文 明批判意識を強く主張した作品’として読まれてきた。 でも、本間久雄が指摘しているようにこの作品は当時荷風の芸術的基調を代表する作品の一つであると同時に 以後の作品の方向を宣言する足場になる作品であると思う。このような意味で、『帰朝者の日記』は看過しては いけない作品であると言えるだろう。で、本稿では『帰朝者の日記』に表す作家の視線に注目したい。荷風は 〈西洋の文化を基準として日本を観察、批判した〉のではなく、日本に相応しい文化とオリジナリティを強烈に 願っていたのである。この読み方は帰国後一変した作風についての説明にもなり、以後、荷風がとった芸術家的 態度を闡明したという点で大きい意味があると思われる。

16

5,800원

本稿では、満洲に流入した朝鮮人農民の問題を、当時の植民地朝鮮の文学者、特に李箕永(1895-1984) や韓雪野(1900-?)など、植民地朝鮮のプロレタリア文学運動で中心的な役割を果たし、解放後も北朝鮮の文 芸政策の立案者として重要な地位にあった文学者らが、どのようにイメージして作品化したかということについて検 討した。植民地朝鮮の旧プロレタリア文学の作家は、満洲をめぐって出現した新たな事態に、自らの文学活動を 延長させる形で対処していった。本稿では李箕永の長篇『大地の息子』(1939-40)と長篇『処女地』(194 4)、韓雪野の日本語長篇『大陸』(1939)を検討の対象として選んだが、これらはみな奇妙にも男女の三角 関係を中心に物語が展開され、非常にストイックな人間像が理想的なものとして強調される。また作品の中での人 間関係の構成が、(これは現実の満洲国のイデオロギーを反映したものだが)民族や階級(農村の場合は地主 と小作人)を無化していくような形で提示されることも特徴的である。そしてこれらの小説においては何よりも、満 洲という空間が人間を更生・改造する場所であることが強調されている。「植民地的無意識」が豆満江を越えるこ とで「植民主義的意識」に変化する。このような主体意識のアイロニカルな質的変化は、民族主義の抵抗性が 帝国の論理のもとで馴致されていく過程でもあった。その概要を検討してみたい。

17

일본의 모더니즘과 윤동주 ─ 1920~30년대의 관련양상에 대하여 ─

왕신영

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.227-246

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,500원

この論文はわずかではあるが尹東柱の残した資料を手掛かりとして彼と日本のモダニズム文学との関連様相について書いたものである。その資料によって彼のモダニズ厶の受容経路が推量できるわけたが、射程に入るのは1920~30年代である。そしてその射程の向う側の軸に『詩と詩論』がある。これは尹東柱のモダニズムへの関心が主に主知的な性格のものに片寄っていたことと関係している。具体的には彼のノイエザハリヒカイトの方法意識を受容したものと思われる習作や散文詩などがそれである。特に散文詩は三好達治との関連性の中から把握される。ジャムへの関心もその延長線上にあるものと思われる。しかし尹東柱の三好関連資料の痕跡から感じられるのは関心と沈黙の二重的態度である。それは尹東柱が三好から資質的同質性を感じると共に指向性の違いをも感じ取ったからではないだろうか。三好達治は自分の資質に反するモダニズムから出発してその資質に順応する方向へと向かう。尹東柱は自分の資質の抒情的世界から出発してモダニズムを経て反ファシストの知識人の思想的世界へと赴いていく。それは各々が置かれている状況とそれに対処する態度と係わった問題ではあるだろうが、その逆方向からの同質性が尹東柱をして関心と沈黙の二重的態度を取らせたのだと思われる。二人の逆方向での指向性がクロスされたどこかの時点で三好は尹東柱に発見されたのではないだろうか。

18

호리 다쓰오「루벤스의 위작」의 ‘현실’과 ‘심상’

兪在眞

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.247-258

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,300원

本稿では堀辰雄の初期作品である「ルウベンスの偽畫」を通して彼が追求した「現実よりももっと現実」という 認識の内実を明らかにした。また、「ルウベンスの偽画」定稿の執筆時期を堀のアンリ・ポアンカレ受容を補助線 に考察して、ポアンカレの科学思想が作品にどのように反映されているのかを考察した。  この作品には‘現実’(対象)を捉える認識行為において、もはや対象そのものと‘心像’(概念)は同一のもので はなく、むしろ創り上げられた不透明な心像を介してしかその対象の普遍性を捉えることができない認識主体の危 うさが描かれている。科学の法則が仮説にすぎないように、認識主体によって作り上げられた心像もやはり虚構に すぎない。しかし、認識主体によって捉えられた対象の普遍的本質によって創り上げられたこの虚構は、現実の 対象とは異るけれども、認識主体にとっては現実の対象に劣らず、自ら作り上げた<現実>なのである。「ルウベ ンスの偽画」の初稿にはないこのような認識主体の造型には、ポアンカレの影響が窺え、「ルウベンスの偽画」 定稿の後半部は、ポアンカレの科学思想の受容があったからこそ完成できたのである。

19

4,300원

本稿は、探偵小説という形式を取り「報告書」の文面とその作成の過程を一種のモンタージュ―として未編集   のまま提示した、安部公房の『燃えつきた地図』というテクストにおける主人公の調査と報告行為を一つの 地圖の製作 マッピング の行為として捉え、その製作過程を俯瞰することにより、興信所の調査員の「ぼく」と行方不明の夫 についての調査を依頼した根室波瑠、そして見えない中心の三点をめぐる権力構図の不安定性と欲望の関係性 を考察する。実際のマッピング術として採択された「報告書」の分析は、調査と報告をめぐる物語行為の過程に おける選択․規定․省略という情報操作の、帝国主義的マッピングにも似た暴力性を明らかにする。先行研究は 主に都市論と疎外の問題を中心に解釈しているが、本研究は、物語り行為における権力の問題と、支配と非支 配をめぐる欲望の模倣のメカニズムを分析することを目的とする。

20

4,000원

本稿では、大正期の後半起った<恋愛>ブームを牽引したとされる厨川白村『近代の恋愛観』というテクスト が、日本のみならず植民地であった韓国において受容されていた様相を検討した。今まで厨川白村『近代の恋 愛観』については多様な言及がなされてきたが、具体的な内容や受容の問題についてはあまり研究されてこな かった。今回韓国で『近代の恋愛観』がいかに受容されていたかについて韓国のメディア言説を通して捉え、そ の受容の様相が刻まれているテクストとして韓国近代作家である金同仁の『金妍実伝』という小説を取り上げてみ た。当時『近代の恋愛観』は日本に留学していた韓国知識人たちによって同時代的に受容されていたとみえる が、より一般に受け入れられるようになったのは1920年代後半以降であると考えられる。『金妍実伝』では、エレ ン・ケイの著書とともに『近代の恋愛観』が<恋愛>を知るための手引書として表象され、植民地の朝鮮で<恋愛> は近代思想として大衆に啓蒙させる対象であったと分析した。 大正期<恋愛論>のバイブルと称された『近代の恋愛観』が、日本から中国、韓国において幅広く受容され ていたという事実は、当時の<恋愛>思想が日本を通じて東アジア全般に受容されていたことを裏付けると同時 に、<恋愛>に関する入門書として<恋愛>受容に寄与していたことを立証すると捉えられる。

21

다자이 오사무(太宰治)의 「석별(惜別)」과 루쉰(魯迅)

李賢珍

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.281-290

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,000원

1945年9月朝日新聞に発表された「惜別」は内閣情報局と日本文学報国会の委嘱を受けて執筆されたもの で、中国の大文豪である魯迅の仙台医学専門学校の留学の体験を書いたものである。<独立親和>を主題にし て書くように委嘱を受けたこの作品は1945年2月に完成された。 「惜別」の構成は魯迅の資料と作品に基づいて充実に再現されていると言える。当初、「惜別」は国策小 説というレッテルが付いているため政治色を避けることはできない。周樹人が日露戦争の勝利の直感を表し、日本 には国体の実力があるというなどの日本賛美は戦争協力小説という印象を与えるのに十分だ。しかし、これは小 説的構成上の装置として使ったもので、太宰の時局観と直結されるのではないと思われる。太宰はひたすら戦時 下でも小説を書こうという一念のみだった。 太宰は、コミュニズムからの転向後、思想と自我との問題に苦心し、人間の間隙に煩悩した。魯迅の志が最 初から反封建闘争と迷信を打破する支那人の啓蒙教育にあったことを知り、太宰は魯迅を、政治と文芸の択一の 中、文芸を選択した者として描いているのだ。抑圧された文芸統治の下で小説を書くため、戦争に対する太宰の 態度の曖昧さは否定できない側面もあるが、「惜別」は太宰の文芸を重んじる思い込みを書いた小説として読む のが妥当ではないかと思われる。思想よりは文芸、これが近代日本で魯迅を眺めた太宰の思いではなかろうか。 そして、その文芸は人間の愛情と信頼を求めるためのものだった。したがって、「惜別」は太宰の失敗作ではな く、百発の弾丸以上に日本と中国の和平を導き出そうとした作品として再評価されなければならないと思われる。

22

5,200원

本論文では、モダン・ガール現象が流行する経緯の考察を通じて、1920年代半ばから1930年代初めにかけて の女性文化の特徴を論じている。特に時代思潮との関連においてモダン・ガールの身体的イメージがいかに形成 され、流布されたのかに焦点をあてた。モダン・ガールの語を初めて使用したことで知られる北沢秀一「モダン ガールの表現」(1923年)は、身体改造論に基づいた女性の「肉体美」をめぐる言説をジェンダー的な議論へと 転換させた評論であるという点でも意義がある。すなわち、従来の女性像の枠組みではなく、自由を求める女性 をモダン・ガールと見なす彼の議論は、伝統的な家族制度を批判し、女性としての自覚を主張した「新しい女」 の議論と似てはいるものの、「肉体の美しさ」をモダン・ガールの条件としていたことに独自性が見られる。この 「肉体の美しさ」については、モダニズム文学の展開と歩調を合わせるように「進歩」と「モダン」、「エロティ シズム」の象徴となる女性の「脚」やその「脚線美」への注視となって現れる。 他方、モダン・ガールは、プロレタリア文学の作家や保守的な知識人を中心とした批判的議論のなかで「ブル ジョア文化の退廃」や「不良少女」として捉えられていった。しかし、モダン・ガールに関する二つの議論は、双 方とも当時の女性たちを的確に捉えていたとは言い難い。「進歩」「モダン」「エロティシズム」の象徴として讃 美されたモダン・ガールの身体は、そのセクシュアリティが過度に強調され、批判論者にとって理想のモダン・ガー ル像であった「労働夫人」「社会夫人」などのイメージは、いわば男らしい身体の力強さが強調される傾向に あったからだ。 では、これら相反するモダン・ガール論を相対化することで見えてくる女性たちの姿とは何か。彼女たちは、当 時知識人たちが主張していた「反逆精神」や「社会意識」という近代的な精神の実現をめざすのではなく西洋 的な衣装や断髪、または自由な身体表現を通して近代性を獲得しようとしていたのである。それは、北沢秀一や モダニズム作家たちが期待していたモダン・ガールの身体の出現ではあるが、そうした女性文化の大衆化現象 は、女性の近代的な精神の実現を期待する側にとっては理解できない過剰な文化現象であった。1920年代半ば から1930年代初めにかけて議論されたモダン・ガールの身体は、実際の彼女たちの的確な肖像とは言えないもの の、その流行と変容のなかで相異なるイメージとして対象化され議論されることによって同時代の女性文化のジェ ンダー形成に大きな影響を与えたのである。

23

芥川龍之介「馬の脚」における「春風」考

曺紗玉

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.309-318

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,000원

芥川龍之介の「馬の脚」は、一九二五(大正一四)年、雑誌『新潮』一月号と二月号に「馬の脚」「続 篇馬の脚」として発表された小説である。本稿では、「復活」「春風」「蒙古の空気」の意味を中心に、「馬 の脚」には「白」の罪意識、「歯車」の「飛行機病」とも似通ったものがあるとの立場で、考えてみた。 芥川は一九二一年三月末から七月半ばまでの四ヶ月間、大阪毎日新聞社の特派員として中国を旅行した。 彼は社会主義が盛んに起こっている激動する中国を見回り、日本帝国主義の蛮行を目撃し、激しい抗日運動を 体験した。「蒙古の春風の北京へ運んで来る砂埃り」、すなわち「蒙古の空気」とは芥川の中国旅行と深い関 連があり、忍野半三郎がモンゴル産の馬の脚を付けて「復活」したように、芥川も中国産の馬の脚をつけて帰国 したと言える。 それでは「春風」とは何であろうか。半三郎の馬の脚は「蒙古産の庫倫馬」のものなので、「春風」による 「蒙古の空気」を感ずるが早いかたちまち躍ったり跳ねたりし出した。「春風」とは馬の脚を躍らせ跳ねさせる 「蒙古の空気」を含めた風である。これは後年の「西方の人」「続西方の人」の言葉で言うと、「永遠に越え んとするもの」(聖霊)として発展していく考えではないかと思われる。さらに「順天時報」の主筆牟多口の言う 「発狂」とは何を意味しているのか。当時の「国体」に順応している側には、国体への批判は「発狂」扱いと して扱われていると考えられる。 「白」が一九二三年八月に発表されたのは、一九二一年七月に中国旅行から帰国して「母」「将軍」「桃 太郎」を書いた後である。黒を見殺しにしたという罪意識はこういう流れから考えてみると、日本帝国主義により殺 される中国や韓国(朝鮮)民衆を見殺しにした芥川の罪意識とも読める。「蒙古の空気」と馬の脚の反応は、 二年四ヶ月後の一九二七年六月一日に書かれた「歯車」の中では「飛行機病」として描かれるようになる。 「飛行機病」とは「歯車」の中で、妻の弟が「僕」に言った言葉である。「馬の脚」にもどって考えると、特 派員として四ヶ月間中国旅行をし、中国での空気を吸って帰国した芥川は、日本の空気には耐えられなくなっ た。それを「春風」により「蒙古の空気」を吸って失踪した半三郎に自己投影しているのである。

24

4,300원

『斜陽』の主人公のかず子が主張する<道徳革命>はこの作品を読みとる重要なキーだといえる。先行研究の 中でこれは<非現実的な革命>、<失敗した革命>として論じられてきたが、本稿では<敗戦後の日常>という作品の 時代的․空間的背景と<道徳革命>に関連性を中心として<道徳革命>の実体と意味をより具体的に考察してみ た。 没落した華族のかず子は‘日本で最後の貴婦人’だと思ったお母さんがなくなった後、今までずっと愛しつづけ てきた小説家の上原に会うため上京する。かず子は上原に送った四通の手紙で一貫して<生残るため>の愛、妊 娠、そして<道徳革命>を強調するが、そのようなかず子にとって、手紙の中の<リアリズム>はただの<生存>の意 味ではない。かず子は自分にはもう<リアリズム>も、<ロマンチシズム>もないといっているが、実は両方を獲得しよ うとしているし、これは単純な<生存>ではなく、厳しくなった敗戦期の日常の中で自己同一性を維持しながら生き 続けられる可能性を模索したといえるでしょう。ところが、私生児を生んで育てるというデカダンスな愛を主張するよ うに見えるかず子が、一方、その私生児の父親の妻子を非常に意識している様子をみると、かず子の主張する愛 だけでは時代に対する抵抗、<道徳革命>を完成できると思われない。これ以上上原と会わなくても、愛が続けら れなくても、この子さえあれば生きられるというかず子の話しには、<新生>、いわば、古い道徳から自分よりずっ と自由で生まれながらその道徳を破壊することになる<新生命>を通じて真の<道徳革命>を完遂しようとする姿が現 れている。

25

4,000원

鄭成功は明淸交替期の英雄として、今日も台湾、中国で崇拝されているし、日本でも近松の『国性爺合戦』 の主人公モデルとして知られている人物である。当時海上貿易を行っていた父鄭芝龍と日本人の母田川松との間 に生まれたという出生の特徴、反淸復明運動の中心的な存在、オランダの占領から台湾を奪還した功績などは、 鄭成功の一生が東アジア世界に跨る国際的な性格を帯びているといえる。本稿では、今まで議論されたこともな かった鄭成功と朝鮮との関連性を提示することによって、朝鮮まで含まれた東アジア的な視点で再検討しようとす る。その方法としては、近松の作品を中心にして、そこに描かれている壬辰倭亂との関連性を見いだし、日本で の鄭成功のイメージがどのように形成されたかを考察する。その結果、鄭成功は近松作品により、神国日本の優 越意識を象徴する<和籐内>という人物に変形されて伝えてきたのである。

26

성장기의 일본애니메이션에 나타난 사상

구견서

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.339-356

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,200원

本稿の目的は成長期において作られたアニメーションに含まれている思想を考察することにある。この時期に はアニメーションを活性化させる環境が造られ、日本が本格的にテレビアニメーション時代に向って前進したし、ま た映畵アニメーションの質的․量的膨脹が成し遂げられた。特に新たな世界觀、創作性、作品性、娛楽性等を 備えた作品が現れたし、高費用と過時間が所要された限界を乗り越えるためのリミテッド技法 等のような新しい技 術も開発され、アニメーション発展の原動力となった。また手塚治虫のような漫畵家でありながら能力のあるアニ メーターが出てきて熱情をもちアニメーションを作ったし、團塊世帶のような文化消費者が現れ日本アニメーション の成功の可能性を高めたし、アニメーションに関連された雇傭市場、經營市場、雜誌市場 等においての発展戦 略が進めれれた。そのような背景の中で作られたアニメーションは様々な思想を含んでいる。結論から言うと、日 本アニメーションに含まれている思想は 平和主義, ホワイトユーモア主義, 根性主義, 性娛楽主義 等であると 言える。そのような成長期の日本アニメーション界は新しいジャンルを求めたし、アニメーション産業化をも進め日 本アニメ時代を産み出すのに大きく貢獻したと言える。

27

‘修身’する帝国--東西の境界に立つ日本の選択

김순전

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.357-370

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,600원

修身書では万世一系の天皇制と家族国家観に従って、宗教と政治、そして道徳を自然な形で統一することに より、君臣関係や臣民の役目を受容させるようにしている。日本は家制度と家意識が濃厚な家父長的秩序意識が 残っていたし、国民の大部分が長い間、単一民族だったということを反映して、明治末期には皇室=国民の宗 家、天皇=国民の父、国民=天皇の赤子という家族国家観を成立させた。またそこに付け加えて君臣関係の忠 と親への孝が一致するという日本道徳論を展開した。 ヒロヒト天皇の<終戦宣言>を、戦争の被害をこれ以上ひろげないための「聖断」と言うのだが、本当の目的は国 民ではなくて「3種の神器」すなわち国体=天皇家の維持、及び安全を守るためだったという点も忘れてはならない だろう。 日本が永遠に西洋の一員になれない胎生的限界を脱することができない限り、西洋に付いて東洋を攻撃し て、西洋に捨てられた場合には「大東亜共栄圏」という地域集団防御概念の対アジア友好的な外交関係を維持 するといった、東西洋の境界線に立った日本は永遠にコウモリのような宿命を脱することができない。 対アジア関係設定が、西洋から日本の評価が、日本=準西洋の場合には攻撃的に、日本=非西洋の場合に は友好的行為を繰り返す路線が、アジア諸国から外交的、経済的、軍事的に信頼を受けることができない日本を 見せて来た。これに対する根本的な解決のための努力が必要だろう。

28

「교육칙어」와 수신교육

문철수

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.371-386

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,900원

「教育勅語」は1946年10月8日文部省の通達で神格化が廃止されるまで神格を有した教育の絶対的な大本と して日本の道徳教育に至大な影響をあたえた政治文書で、諸学校ㆍ国民的行事ㆍ社会教育においても基本理 念を提示するものになった。 修身教育は「教育勅語」の趣旨を根幹として国家ㆍ天皇に対する忠誠心、文化ㆍ歷史ㆍ伝統に対する自慢 心、祖先崇拝精神、父母ㆍ兄弟ㆍ友人に対する相扶相助の精神、国家非常時の犠牲精神、国民の権利ㆍ義 務の履行、国際感覚の研磨など国家が要求する国民像を作って行った。 このように日本の近代教育と日本人の精神世界に影響をあたえ、破滅を来した修身教育は天皇と臣民との道 徳的支配ㆍ服従の関係、天皇と臣民の平等的親和関係で血縁的共同体のイメージを持たせ、祖先崇拝と伝統を 重視する思想で国内精神を統一する梃子で働き、国民の道徳的理想と信念の結晶体で国民生活の中枢を成し た。

29

4,900원

明治初年の教部省が提示した三条教則は、幕末期以来の水戸学的な国体論をそのまま継承しながらも、 当時の政府が推進した文明開化政策を正当化する新たな論理を含むことであった。そして、教部省が任命し た教導職はこのような政府公認の国体論を人民に説教することによって、人民が当時の文明開化政策に協力 するようにする存在であった。教導職には神道と仏教の両方から任命された。教部省と大教院の設置に積極 的であった仏教側は、政府が提示する国体神道的な立場を反映しながらも、あくまで自分達の教理に基づい て三条教則を説明した。これは王政復古以後の神道の優位を克服するための戦略であった。しかし、教部省 と大教院を中心としては神道の優位が克服されなかったので、仏教側は文明開化の論理である政教分離の立 場から三条教則を批判しながら宗教の自由を主張するようになった。これとは異なって、神道側は教導職のい 設置によって組織的な布教と教化体制を整備することになった。これを通じて幕末期の国学的な国体論に基 づいた三条教則は教派神道の信仰規律に転換することで日常的な生活倫理へまで適用されるようになった。 その主な内容は先祖崇拝と天皇崇拝を一致させることであった。その結果、教派神道の信仰倫理は教導職が 廃止去れた後に発布された教育勅語の「家族国家論」と殆んど似た論理的構造をもつようになった。即ち、 幕末期の水戸学的な国体論は、三条教則を信仰規律にする教派神道をへて教育勅語に到達したのである。

30

일본 경제통제법제의 연구 ─ 2004년 개정외환법의 정치과정 ─

徐承元

한국일본학회 일본학보 제74권 2호 2008.02 pp.403-416

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,600원

2004年春、日本の国会では史上初となる経済制裁基本法(改正外為法)が成立した。同法律は、日本政府 単独の経済制裁を可能にするという点で戦後日本経済外交の画期的な転換点をなすものであり、外部的要因 (いわゆる北韓問題)を契機に国家緊急権がこれとった異議申し立てもなしにすんなりと成立したという点におい ても従来の決定過程とは非常に異なる。なお、同法律は、発動次第では、制裁の効果とは別に、戦前の国家総 動員法の如く、国家の国民経済生活への介入を甚だしく増大させる可能性をも秘めている。しかしながら、これに ついての本格的な研究は現在のところ皆無に等しい。 本稿では、改正外為法を事例として取り上げ、経済分野における国家緊急権がいかなるプロセスを経て制度 化されていくのかという大問題への足掛かりとしたい。ここでは、とりあえず改正外為法の主な内容およびその特 徴は何か(第2節)、戦前と戦時、そして戦後と冷戦後を通じて外為法はどのような経路依存性を有してきたか (第3節)、統制についての一般国民の反感が依然として根強い中で、改正外為法がこれほど容易に成立した 理由は何か(第4節)を、主に政治過程分析を通じて明らかにする。 分析の結果として次の三点が指摘できよう。第一に、戦前・戦時と同様に戦後・脱冷戦期においても統制の自 己強化メカニズムが見て取れる。第二に、政党政治は、対外的危機を強調することで法制改編に成功している が、その背景にはナショナリズム的な訴えに共鳴した一般大衆の積極的な支持があった。第三に、経済と安保の 緊密化は、常に経済的手段の政策的乱用につながる可能性を秘めており、今後何らかの国際的な枠組みの構 築が求められる。

 
1 2
페이지 저장