2026 (19)
2025 (64)
2024 (69)
2023 (44)
2022 (70)
2021 (59)
2020 (57)
2019 (65)
2018 (61)
2017 (69)
2016 (64)
2015 (73)
2014 (117)
2013 (84)
2012 (96)
2011 (82)
2010 (95)
2009 (89)
2008 (123)
2007 (107)
2006 (115)
2005 (136)
2004 (178)
2003 (136)
2002 (136)
2001 (119)
2000 (84)
1999 (64)
1998 (49)
1997 (50)
1996 (48)
1995 (33)
1994 (41)
1993 (33)
1992 (34)
1991 (27)
1990 (25)
1989 (26)
1988 (26)
1987 (24)
1986 (23)
1985 (23)
1984 (28)
1983 (12)
1982 (13)
1981 (16)
1980 (14)
1979 (9)
1978 (10)
1977 (9)
1976 (10)
1975 (6)
1974 (7)
1973 (6)
4,300원
学習ストラテジーは認知理論の発達とともに人間の情報処理過程の全般にわたって影響を与えるものとして認識されてきた。最近は、その理論に基づいて学習ストラテジーを体系的に指導する指導法についての研究も盛んになっている。しかし、今までの学習ストラテジーの分類研究と教育過程にはいくつかの問題がある。第1に、学習ストラテジーの分類項目の曖昧さである。分類項目には具体的なタスクに関するストラテジーと言語を使用することにおいてのストラテジーが混在している。第2に、学習ストラテジーが言語処理過程においてどの段階でどのように働いているのかが明らかにしていない。学習ストラテジーが学習者の意図的な行為であれば、学習者は何を基準にしてそのストラテジーを使っているのかを明らかにする必要がある。第3に、ストラテジーの下位項目の設定においてその社会の文化的な背景が考慮されていない。学習方法というのは学習者の特性とは別にその社会の教育観が反映されて教育される傾向があるからである。第4に、ストラテジーの教育が本当に学習者の自立性を指向しているのかの問題である。学習ストラテジーの使用が訓練と練習によってすぐに習得できるものではないということは学習ストラテジーが学習者の認知的な要因のみならず内在的な特性とも関連していることが分かる。このように、第2言語習得において学習者の認知的な要因として分類してきた学習ストラテジーに関する研究を概観した結果、学習ストラテジーの選択と使用には学習者の認知的な要因のみならず情意的な要因も関わっていることが分かった。従って、学習ストラテジー使用の傾向を把握し、それに基づいて多様な学習ストラテジーが使用できる訓練を行うためにはまず、その学習者に内在されている認知過程の特性を把握する必要がある。また、学習者の学習ストラテジー使用に学習者の認知的で、属性的な特性がどのように関わっているのかを明らかにすることは今後の課題である。
4,300원
This paper analyzes the use of conjunctive particles in Japanese found in the formal speech of 4 Korean learners in Osaka, Japan. The data was collected through a longitudinal research where each subject was interviewed 3 times. It consists of 12 speeches with a total of 8 hours. The results of the analysis showed that both internal and external factors to language affect the learners’ acquisition order and the use of the particles. The internal factors are the following: (1) the acquisition order of these particles depends on the more or less tight relation between the elements of the sentence; (2) the particles “kedo” and “te” are acquired in early stages and their use is stable; (3) “tara” is also acquired in early stages and its use is stable. As for the external factors, the following points were observed: (1) the high frequency of “tara” in the data reflects the influence of the variation of Japanese language used in Osaka, where the learners lived; (2) the learners perceived the difference between “kara” and “node” as a stylistic variation; (3) the particular use of “ga” by the learner KS2 can be considered a reproduction of the use of this particle in textbooks.
日本語の介在要素有りタイプの動詞結合―格支配という観点からの分析を導入しての下位分類―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.25-41
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
5,100원
本稿は、格支配という観点からの分析を導入して、日本語の介在要素有りタイプの動詞結合における下位分類を試みたものである。その結果、1)介在要素有りタイプの動詞結合においても、また、介在要素有りタイプの複合動詞においても「Ⅰ類(VV型)」「Ⅱ類(Vv型)」「Ⅲ類(vV型)」「Ⅳ類(vv型)」の四パターンが全て観察され、このことは介在要素無しタイプの場合と共通する点である、2)介在要素有りタイプの動詞結合の場合は、句․補助動詞結合․複合動詞に分類できる例が有り、このことは介在要素無しタイプの動詞結合の場合と異なる点である、という二点を確認することができた。そして、3)格支配という観点からの分析が複合動詞の判別基準として利用可能であることと、4)介在要素有りタイプの動詞結合を網羅的に扱う際は、句․補助動詞結合․複合動詞の区別問題が生じる可能性があり、同問題に対しては十分な注意を払わなければならない、という点を重要なポイントとして指摘した。
2009 개정 교육과정의 적용현황과 전망― 仁川廣域市의 중학교를 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.43-59
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
5,100원
In the middle schools at Incheon, 2009 Revised National Curriculum has been applied in every course since the class of 2011 due to the expansion of schools’ empowerment. In this manuscript, I am going to research three main revisions of 2009 Revised National Curriculum, which are intensive courses, 20% increased and decreased number of classes in each course per week, and reduction in the number of courses, in terms of their adequacy, application, and settlement, based on the expansion of schools’ empowerment. Also, based on this research, I’d like to suggest the problems and improvements of 2009 Revised National Curriculum. As a result, there are some problems in 2009 Revised National Curriculum, such as reduction of courses from the introduction of intensive courses, difficulty in conducting the courses (such as social studies, history, ethics, music, arts, physical education, and foreign language for living) as intensive courses, excessive concentration on the subjects for the entrance examination and scholastic disparity among schools from changing in the number of classes of each course per week by 20%. As the solutions, it is able to suggest schools’ empowerment on intensive courses without limitation, abolishing the intensive course system and increasing the frequency of classes per week, and adjusting the number of classes by within 10% instead of 20%. From 2009 Revised National Curriculum, I’d like to place second language education including foreign language for living and find the problems of second language education in the curriculum. Especially, the problems and the alternatives for Japanese language education including Japanese language for living will be provided to develop and intensify Japanese language education. Consequently, it is known that the classes of Japanese language for living in middle schools are depressed in quality, compared to their class times per week. Therefore, it is difficult to conduct longterm foreign language education, connected from elementary school to high school and to develop human resources for the globalized society. This burdens not only students, but also teachers in terms of education and evaluation. Also, schools tend not to include the education of Japanese language for living in their curriculum due to intensive course system and reduction in the number of courses. As the solutions, there are reexamination of 2009 Revised National Curriculum, intensification of the education of Foreign language for living, studying second language education as amalgamative study, and the introduction of new systems for teachers.
4,200원
This study is to review Japanese Proletarian Literature magazine Susume which published the most Koreans' writings, and considered the literature of Korean immigrants who were in Japan or Manchuria during the colonial period. Japanese Proletarian Literature magazines were the good media to Koreans deprived of freedom of speech and censored by the Japanese Bureau during the colonial period. At the same time, the magazines were the media to bridge the Promovement between empire and colony. The publisher Susume had many branches in Japan, colonial Korea, and Manchuria. So, the Koreans who were pressed to be driven out of homeland Korea submitted writings to this magazine, making solidarity with Japanese Promovement activists. The Koreans and Japanese Proletarian fighted together against bourgeois class. However, Korean Proletarian had one more fighting target, Japanese Imperialism. Originally, Proletarian Movement rejects ethnic emotions, but the Koreans under the colonial condition had to fight against colonial power of empire in addition to bourgeois class. So, their aims were, of course, toward different purpose from Japanese Proletarian. Nevertheless, the narratives which described the lives of Koreans who were driven out of Korea into Japan or Manchuria made issues of contemporary Colonial Korean immigrants' Japanese Literature.
단카(短歌)로 보는 재조일본인의 삶과 조선표상― 『조선풍토가집(朝鮮風土歌集)(1935)』을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.73-86
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,600원
本稿は20世紀に入ってから本格的に研究されている在朝日本人の文学、つまり'外地日本語文学'研究の一つである。今まで植民地朝鮮に於ける<日本語文学>研究は小説を始めとする散文ジャンルが主に研究されているが、実際に当時の日本語雑誌や刊行物を調査してみると、短歌と俳句のような日本の伝統韻文ジャンルが時期的にも量的にも長期間、そして多数を占めていることが分かる。つまり、植民地朝鮮で行われた在朝日本人の文学の中、最も長期間、安定的に持続されながら、在朝日本人の'自己表現の場'と彼らの'結束の場'として機能していた伝統韻文ジャンルには散文文学とは異なる側面が存在し、多数の資料の発掘を通じて一つの談論が発見できる領域でもある。従って、本稿では在朝日本人の文学研究において、ジャンルの拡大と分析の多様な観点という側面から短歌というジャンルに注目して研究した。朝鮮半島で刊行された短歌関連の刊行物は約22券に至るが、その中でも本稿では1935年市山盛雄によって刊行された 『朝鮮風土歌集』を対象として、短歌に表れた朝鮮表象と在朝日本人の生活について分析した。その結果、在朝日本人の朝鮮での生活と朝鮮文化についての表象は同化と排除という二重的な視線で発見されたが、彼らの肯定的な心想と朝鮮文化について愛着を詠んだ句を通じて、一般的な植民地イデオロギーから離れた個人の眞率な生活と朝鮮に対するイメージを詠むことができた。
1920년대 식민지조선의 어문정책과 조선문예물 번역 연구 ― 『조선 및 만주』의 조선문예물을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.87-103
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
5,100원
本論文では、1920年代の政治․社会の状況及び語文政策と関わって、当時の日本語雑誌に掲載された朝鮮文芸物の翻訳の有り様について考察した。1920年代は憲兵警察制の廃止、朝鮮語による民間新聞発行の許可、教育令の改訂等、一連の文化政策とともに、朝鮮人には日本語普及政策が、日本人官吏には朝鮮語奨励政策が施された。韓国を併合して10年経っても、朝鮮人への日本語普及率は相変わらず低くく、円滑な植民地支配のためには朝鮮人への日本語強制一辺倒の政策だけではならなかった。それで、日帝は朝鮮人を低層から同化させ管理し植民政策を実現している、地方官庁の官吏や下級警察官等を対象として、朝鮮語奨励政策を展開し、朝鮮語奨励試験を実施した。その内容は単純な朝鮮語習得に止まらず、朝鮮人同化政策の実現に必要な、朝鮮民族の思想、感情、習慣等を含めるものであった。『朝鮮及満洲』に掲載された朝鮮文芸物は、そのような朝鮮の下層民衆の思想、感情、日常生活の理解に必要な資料という基準によって発掘․採録․整理された結果物であった。それゆえ、ジャンルとしては、上層階級の文芸物ではなく、大衆によって生産され享有された、いわゆる軟文学─歌謡、民謡、童話、説話、伝説、民談、俚諺などが選択され、方法としては独自的な文芸物としてではなく、朝鮮民衆の研究に必要な資料として準直訳というのが選択された。また、翻訳の主体は植民政策を企画し管理した総督府の官吏や京城帝国大学の教授等、官主導的な性格を帯びている。このような朝鮮文芸物の翻訳の様相から、1920年代には日帝の朝鮮支配が社会的․文化的低層の民衆の日常生活にまで根を下ろしていたことが窺える。また、朝鮮の伝統文芸物を現代的に再解釈し再創造した作品も現れているが、これは朝鮮の近代作家の創作の源泉にもなるという点においても重要な意味合いがあると言えよう。
在朝日本人雑誌『朝鮮公論』における〈怪談〉の研究─ 閔妃の怪談「石獅子の怪」を中心として ─
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.105-120
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,900원
日本においての〈怪談〉とは古くから民衆に親しまれてきた大衆文化のひとつである。文学としての〈怪談〉は江戸期の出版技術発展にともない興隆し、それらはやがて落語家、講談師の速記本となり近代の大衆にも親しまれた。幽霊や妖怪の現れる〈怪談〉は近代の合理主義によって〈迷信〉的なものとして排斥されながらも、消滅するどころか、明治期․大正期にかけての「怪奇」「怪談」ブームとなり、活発に出版され読まれていた。本稿はそのような内地日本の「怪談」ブームの時期に、植民地朝鮮の在朝日本人雑誌『朝鮮公論』(19131944)文芸欄に掲載された〈怪談〉を考察したものの一部である。ここで分析する1921年3月号載の「石獅子の怪」というテクストは、同雑誌の他の〈怪談〉にはほとんど見られない〈朝鮮の話し〉を中心に書かれているところにその特徴がある。さらに、その主人公が朝鮮王朝の皇后「閔妃」であるという点で、日本人が当時共通に認識していた〈朝鮮像〉〈閔妃像〉を知る意味においても重要な作品といえる。「閔妃」が重病にかかり、それを〈迷信〉的な方法で治療したという内容が〈怪談〉として語られる意味はどのようなものであるのか。また、作品における「閔妃」の役割は何かを探り、当時の在朝日本人が持っていた〈朝鮮観〉と〈迷信〉との関わり、さらにはこの〈怪談〉の背景にある無意識的植民主義などの考察を目的としている。植民地の〈怪談〉というジャンルは、何を〈怪異〉として語るのか、時代の脈略のなかでどのようにその〈怪談〉が機能するのかという「視点」を探ることは、内地日本の〈怪談〉には見られない、支配層と被支配層という二重的社会構造を持つ植民地朝鮮での〈怪談〉の特異性を浮彫りにすることだといえる。
전후 일본문학 속의 원자력과 ‘표상불가능성’― 미시마 유키오(三島由紀夫)와 오에 겐자부로(大江健三郎)의 ‘원자력’을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.121-133
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
3․11以後、原子力に関する様々な言説がつくられるなかで、科学の技術力をベースにした「原子力」表象は、まるで目にみえるかのように取り扱われている。本論文では、戦後日本における原子力表象の問題を、表象不可能性に焦点を合わせて考察することによって、こうした傾向に対し批判できるトポスは如何に可能なのかを検討する。広島原爆直後行われたトルーマン大統領の声明文から読み取れる原子力の表象不可能性は、日本においてはじめて原爆を表象できた作品として知られている原民喜の「夏の花」においてもあらわれている。前者においては表象不可能性は、科学技術の難解さと国家的秘密によるとすれば、後者においてそれは個人のレベルで体験した被爆があまりにも超越的な経験であるが故に言語化することがむしろ反リアルだったという判断による。こうした表象不可能性は、冷戦に入ってからは問題化されなくなるが、1954年日本漁船の被爆事件のあと、三島由紀夫や大江健三郎のテクストにおいて再び問題化される。三島は、被爆者側にとって原爆表象は不可能であるという前提した上で、原爆表象は投下者によってのみ行われ、やがて彼の内面的な問題を引き起こすと主張した。それに対し、大江は原爆のみならず原子力がもつ表象不可能性を、制度的な側面と科学的な側面からだけではなく、被爆者や死者、生き残る人々の倫理性とかかわる問題であると述べた上で、表象不可能性としての原子力がもたらす「悲惨さ」を想像力によって積極的に思い描くことを、戦後日本における新たなモラルとして示そうとした。こうした戦後の文学者たちがこだわった原子力の表象不可能性は、3․11以後大量に産み出され、又すぐ「消費」される被爆及び原子力言説を考えるさい、貴重な参照となることが期待できる。
4,200원
本稿は、安部公房 『方舟さくら丸』 が示唆する主題意識を再考し、災難の時代を生きる人間の位置について考察を行った。1975年から1984年にかけて書かれた 『方舟さくら丸』 は、理念的な対決が繰り広げられていた冷戦時代の不安感を描く一方、拡大しつつあった「国家主義」を風刺している。しかし、何よりもこの作品は「核」が日常化されたあげく「核風化現象」が起こる現代社会に対する批判であると言えよう。当時における反核主義の焦点が災難としての「核爆発」か「核武器」に当てられていたが、安部公房は核を機能させる国家、さらにその基底における暴力システムに自己の問題意識をおいた。つまり、核武装を強めていった国際政治とは無縁で、8月の広島․長崎巡礼のように単なる年次行事化し、すべての問題の核心を核爆弾だけに限定して思考する反核․平和主義運動のナイーブさに申し立てをしたのであった。2011年の3.11以来、不可抗力という意味での天災地変が、自然が引き起こす災難という意味領域を越えて、人間のミスや技術の活用過程において発生する大規模な被害をも含むようになった。これは新たな形の災難の時代を生きる人類の現状を象徴的に表す一齣であろう。安部公房の 『方舟さくら丸』 は、自分の糞尿を餌にして生きている「ユープゲッチャ」という仮想の生物を通して、このように危機意識を欠けた不感症が蔓延る現代社会に向かってより根本的な問い直しを求めている。
5,100원
Mt. Fuji as the ‘symbol of Japan’ began to receive domestic and international attention as it was appointed as a ‘world cultural heritage’ on June 22. In this paper, two aspects of ‘crisis of Mt. Fuji’ seen through special effect works of Japan and the meaning of its conclusion were discussed, examining the point of contact with Mt. Fuji, which was simultaneously approved for national symbolism and value as a world heritage. Since the past until present, Mt. Fuji has frequently appeared in TV dramas and films of Japan that used special effect techniques. This paper will focus on the five works. First is an old joint production film between JapanGermany titled New Land(1937). Tsuburaya Eiji, the best special effect producer of Japan who founded the Tsuburaya Productions, participated in the film for special effect techniques. Next are two works of ‘Ultra Series’, a special effect TV drama that led the booming of special effect works in 1960s and 1970s, named SOS Mt. Fuji (1966.2.13 and Monster Standing on Mt. Fuji(1972.1.28). Lastly, two films based on an original work by Komatsu Sakyo, Sinking of Japan(1973) and its remake produced in 2006, were examined. These works have a common setting called ‘crisis of Mt. Fuji’ created by special effects. However, there are two contrasting aspects in the end: Mt. Fuji rescued from crisis (two works of ‘Ultra Series’ and the remake of Sinking of Japan) and Mt. Fuji not rescued until the end (New Land and Sinking of Japan(1973)). But interestingly, all works again share in common the fact that they ultimately end by showing ‘Japan that has not come to its end’. Yet, an important message can be seen here about national symbolism and global value of Mt. Fuji. That is, crisis of Mt. Fuji is not simply a disaster of Japan but a global disaster. In other words, peace of Mt. Fuji, the symbol of Japan, is led to peace of the world. The subject of ‘crisis of Mt. Fuji’ used in special effect works of Japan for over half a century is settling as a symbol of ‘eternal Japan’ and at the same time being extended as a discussion on global peace, regardless its end. This is connected to the current state of Mt. Fuji, which was officially acknowledged for its value as the symbol of Japan to be protected by the world.
5,800원
本稿では1988年以来韓国で翻訳された村上春樹の『ノルウェイの森』の6種の韓国語訳本の様相を検討し、特に1989年に『喪失の時代』として刊行された訳本を中心に、それが韓国の文学の状況とどのように交差されているのかを文化接続の観点から考察する。また、『ノルウェイの森』の翻訳の主調低音である性的描写をめぐて広がった論争が、翻訳という文化的交差においてどのような波紋を呼び起こしたかを翻訳作品にも照らし合わせて探ってみた。翻訳は 「原作」を想定するものの、その 「原作」とは別のテキストとして自立していることが『喪失の時代』の韓国での影響を通じて分かった。文化の交差する場である翻訳が行われる地点とは、異る文化がお互いに出会いすれ違いを繰り返している現場でもある。『ノルウェイの森』の翻訳の位置づけと受容の様態は常に揺らぎ続けている。翻訳作品を取り巻く環境においてそのつと新たな意味を発生されるかもしれない。翻訳の状況とは単なる 「意味」の伝達だけでのことではなくて、ターゲットテキストの文化的要素を配置するにまで及ぶ。翻訳が生まれる環境と互いに競合しあう関係に『ノルウェイの森』の翻訳本があると言えよう。2008年に出版された最新の翻訳本の『ノルウェイの森』の分析で分かるように、「原作」に忠実であることが翻訳の第一ではない。『ノルウェイの森』の韓国語訳本のそれぞれの様態は、翻訳とはもはや 「原作」の代わりではなく、「原作」の変形とその意味の屈折されたものとして、別の文化圏へと移し変える行為であることを示しているのである。
다야마 가타이 「소녀병(少女病)」연구― 주인공의 욕망의 시선을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.187-199
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
1907年5月に『太陽』に発表された田山花袋の短編小説「少女病」は『蒲団』の前奏曲と言われているように、主に『蒲団』との関わりの中で作品を解釈しようとする試みが多かった。しかし、「少女病」は『蒲団』とは様々な点で異なる独自的な意義を持つ作品であると思われる。本稿では、「少女病」の持つ独自性を明らかにするために、主にこの作品に設定されている近代的な装置に注目し分析を行った。まず、新しい移動空間として登場した電車の中という異空間に注目し、そこで行われる主人公の「窃視」という行為がもたらす欲望と逸脱の様相について探ってみた。そして主人公の欲望の眼差しに晒される女学生の存在について探り、主人公の「妄想」がどのような形で描かれているか分析した。さらには主人公の欲望の結果として用意された、「轢死」という結末の意味について考察することによって、この作品の持つ独自性を明らかにしようとした。
5,100원
In this paper, the incident Genroku is a case study on the theater. The incident Genroku occurred in 1702 and became Bunraku Puppet and Kabuki 『Kanadehon Chushingura (the story of the Loyalists written by the Japanese syllabary as a model)』 in 1748. However, because of the success of Kanadehon Chushingura, people confused the incident Genroku (also known as the incident Ako) with Bunraku Puppet and Kabuki 『Kanadehon Chushingura』. This mix of historical fact and fictional works and practices is rare in the world of Arts. Possible reasons this yearround situation brought attention to the charm of the real events was due to the ability of the imaginative artist who created the fictional reality. However, it’s necessary to explain the situation. The difference between incident Genroku and Bunraku Puppet and Kabuki 『Kanadehon Chushingura』 is the omission of the act of Harakiri by the writers. The disembowelment scenes were omitted by writers to avoid the Shogunate’s censorship and surveillance in an attempt to keep other warriors from repeating the tragic act and creating concern among the people. The birth of Bunraku Puppet and Kabuki 『Kanadehon Chushingura』 is the first step toward Japanese historical error to historical order.
変貌する石清水八幡宮の様相─石清水八幡宮の縁起と『石清水物語』との比較を中心に─
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.219-227
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,000원
古代の人々にとって、八幡信仰はどのような存在だったのであろうか。特に、石清水八幡宮は古典テクストの中でどのように描かれ、変貌していくのであろうか。 本稿の目的は、このような問題意識に着目し、従来あまり考えられてこなかった、石清水八幡宮が古典テクストの中で具体的にどのように描写されているか、その役割と機能はどのようなものかを、究明しようとしたものである。そこで、本稿では、石清水八幡宮の縁起における八幡宮と、『石清水物語』における八幡宮の役割と機能との比較を中心に究明することにより、八幡宮の変貌の様相について具体的に考察してみた。石清水八幡宮の縁起において、国家を鎮護する神、天皇擁護の神、王城鎮護の神としての神格を持っていた八幡宮は、『石清水八幡宮』においては、武勇に関わる神、恋愛成就に関わる神として伊予守と木幡の姫君の逢瀬や姫君の入内阻止を導くなど、現世利益を求める信仰の対象として変容している。それは、「石清水」という題号からも分かるように、当初から石清水八幡をめぐる物語としての構想があり、伊予守と木幡の姫君という二人に関わるものとして描かれる中で、石清水八幡の霊験をも積極的に取り入れた結果によるものではないだろうか。
바쇼(芭蕉)와 시코(支考)의 書簡文을 통해 본 하이카이(俳諧)의 교류에 관한 고찰
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.229-241
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
支考は芭蕉晩年の弟子であるが、芭蕉没後、美濃を本拠としていわゆる美濃派の一風を起し、後來の俳壇に、様々な意味で少なからぬ影響を与えた人である。支考の語るところによれば、元祿三年二十六歳の時の三月三日、丈草․乙由の手引で、大津の無名庵で初めて芭蕉に対面し、やがて芭蕉の教えを受けることになった。そして翌年の十月芭蕉に随侍して、近江から江戸に下り、五年の正月一旦名古屋に帰り、次いで奥羽の旅に出、五月出羽で『葛の松原』の稿を成して暮に江戸へ帰ったが、以來四十年にわたって著述に旅に後進の指導に縦横の活躍を続け、芭蕉門下の俳人としての地位を次第に高め、其角․嵐雪․去來․丈草․許六らと並んで元祿俳壇に名を逸し難い存在となるに至った。元祿七年十月、芭蕉が没する前後からの支考の活躍は、すこぶる多岐多様にわたった。ほとんどの日を旅に費やし、旅を続けて行く先々に蕉風を広め、旅の記念の一集を残すといった具合に、自己の勢力を扶植して行った。支考は芭蕉没後の俳壇に隠然たる勢力を築き、全国特に西日本をおおむねその傘下に収めるまでに至った。芭蕉没後の俳壇に美濃派の一風を樹立して、殆ど全国にわたって各地方の民衆の間に蕉風を普及した功績は大きいといえる。
4,900원
原敬は日本の政党政治を主導した代表的な政治家である。彼は1911年5月に清国と朝鮮に旅行した。その時の記録は 『原敬日記』に詳しく記されたが、当時原が政府の官職に属していないこと、具体的な外交交渉が行われないことのためあまり研究されていない。原は個人的な旅行であったと公では主張するが、実は桂太郎首相の依頼をうけた政治活動であり、外交工作であった。一方、清国政府も日本の政治家原敬の訪問に公式、非公式に礼遇を尽くした。原は漢冶萍公司をめぐる四国借款団問題に関して横浜正金銀行を中心に清国の高官たちと交渉した。帰国後原は中国問題に対して、横浜正金銀行を高く評価し、満鉄を批判した。朝鮮で原は、寺内正毅総督をはじめ植民地統治の要人と面談する一方、朝鮮の教育、医療、農業などを視察した。原は具体的に朝鮮統治に関する批評を述べ、帰国後には寺内総督に関して友好的な立場に転換した。原の清国と朝鮮訪問は、非公式的旅行としての性格が強調されたが、実は日本政府の辛亥革命直前の中国政策を支援し、植民地になった直後の朝鮮統治を視察する意味があった。原の清国と朝鮮訪問は次の西園寺内閣の対外政策にも影響を与えた。
「裸体画」의 성립과 ‘벗은 몸’그리기 ― 근대 일본의 ‘나체화’를 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.259-272
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,600원
「裸体画」には、ヌードの翻訳語としてではなく、「裸体+画」にならざるをえなかった必然姓が内在している。文明國を目指す明治の政府が、服を脱いで生活していた風習を取り締まるようになってから、近代以前の日常的なハダカとは違う、異質的なハダカになってしまったのである。そういう異質的なハダカを表すのが「裸体」だった。また、ヨーロッパから帰ってきた画家と日本国内でお雇い外国人に教育をうけた西洋画家によって裸体画は大量に描かれるようになったが、芸術としてのヌードが理解されるのにはまた、相当な時間が必要だった。ヌードが理解されず、取締の対象の「裸体」を描く絵として受容されたのである。用語が作られる過程をみても、その複雑見てとれる。「画」と「絵」に対する伝統的な美術用語の変容、漢字の読み方に関する日本人の意識までもが絡み合って作られた用語である。 「裸体画」というのは、西洋からの美術ジャンルの流入という点と、ハダカー人の体をめぐる認識の変化という点で二重の近代性を持っているといえる。
근대 일본 여성과 ‘제도부흥’(帝都復興)― 간토대지진(1923)이 일본 여성운동사에서 갖는 의미에 관하여 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.273-288
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,900원
This article tries to examine what is the significance of the Great Kanto Earthquake occurring in 1923 in the history of feminist movement in Japan. For this purpose, this article addresses the issue with focus on two points, namely Japanese women’s requirements for ‘Revival of the Imperial Capital’ with their status as women, and the incorporation of female activists and organizations through experience of disasters due to the earthquake. First, as the Great Kanto Earthquake brought very terrible destructions beyond imagination, ‘Revival of the Imperial Capital’ was a very novel beginning as it were for women, and allowed women and children to have the dream of ideal life. The female voice for ‘Revival of the Imperial Capital’ after the earthquake amounted to the sum of all the consciousness and demands among so-called ‘awakened’ women at the moment of 1923. Second, the experience of the Great Kanto Earthquake played the role of promoting ties among female groups that had various claims and conflicted with each other. Brought together ‘without argument’ for the sake of service in such an urgent situation, they naturally proceeded to found the Tokyo Confederation of Ladies. Furthermore, the organization was developed into the League for the Realization of Women’s Franchise at the end of 1924, and then they entered full-fledged activities for attaining the female franchise.
1980년대 한국 반공해운동의 전개와 일본 반공해운동과의 관계 ― 온산병을 둘러싼 한국 공해문제연구소의 활동을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제96권 2013.08 pp.289-301
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
1980年代の韓国では、高度経済成長を背景に産業化が進み、様々な公害問題が発生した。韓国の南東部に位置する温山工業団地は当時の政権の経済政策の中で造成され、1974年に操業が始まった。1983年頃からこの温山公団で原因のわからない奇病の症状が居住住民に現れ、公害病ではないかという疑問が生じ、やがて1985年、韓国の新聞に‘温山公団の住民約500人にいたいいたい病のような症状が現れた’と報道された。これを機に公害問題は社会的に関心を呼び起こすようになった。いわゆる‘温山病’とよばれるこの病気が発生する以前から韓国では反公害運動の組織が発足され、温山病の原因究明や被害住民の補償問題などを巡り活動を広げていた。1982年発足した韓国公害問題研究所は反公害運動を展開した韓国最初の民間運動組織である。しかしながら、当時の韓国は軍部独裁政権の支配下におかれており、反公害運動を展開するための政治的機会が限られていた。しかも当時の政権の経済政策を非難するようなことは禁じるべきことであり、経済発展のために公害はある程度やむを得ないという認識が強い時期であった。このような社会的․政治的状況の中で韓国公害問題研究所は温山病を巡る運動を進めていったが、運動の展開過程の中には日本の公害病や公害問題を意識し、日本の反公害運動との関係も形成していた。日本は韓国より早い段階で経済発展を成し遂げ、水俣病やいたいいたい病のような悲しい公害病発生の歴史を持っている。したがって、公害病の調査や対策に関する研究などが蓄積されており、韓国の反公害運動家らは日本の経験を参考にしたり勉強したりしていた。そして、日本の水俣病に関する研究や運動家として著名な故原田正純先生を始め日本の調査団が1986年10月に温山公団を訪問し原因調査を行った。一方、当時韓国の工業団地には日本との合併企業が多く操業していたが、日本の企業は日本での反公害の世論に押しきられ自国の公害産業を整理し、外国投資の誘致に熱心であった。日本による公害企業の輸出に対して韓国公害問題研究所は批判的な態度をとっていた。このような考察を通して韓国の反公害運動の展開には日本の公害病や公害問題が影響しており、関連していることを明らかにした。
0개의 논문이 장바구니에 담겼습니다.
선택하신 파일을 압축중입니다.
잠시만 기다려 주십시오.