2026 (19)
2025 (64)
2024 (69)
2023 (44)
2022 (70)
2021 (59)
2020 (57)
2019 (65)
2018 (61)
2017 (69)
2016 (64)
2015 (73)
2014 (117)
2013 (84)
2012 (96)
2011 (82)
2010 (95)
2009 (89)
2008 (123)
2007 (107)
2006 (115)
2005 (136)
2004 (178)
2003 (136)
2002 (136)
2001 (119)
2000 (84)
1999 (64)
1998 (49)
1997 (50)
1996 (48)
1995 (33)
1994 (41)
1993 (33)
1992 (34)
1991 (27)
1990 (25)
1989 (26)
1988 (26)
1987 (24)
1986 (23)
1985 (23)
1984 (28)
1983 (12)
1982 (13)
1981 (16)
1980 (14)
1979 (9)
1978 (10)
1977 (9)
1976 (10)
1975 (6)
1974 (7)
1973 (6)
5,100원
「春になると、花が咲く。」といった例に代表される「~と」接続文(一般には「~と」形)は、一般の文法書に おいて、条件を表す表現の一つとして位置付けられ、「~ば」「~たら」「~なら」といった他の条件表現と対照さ れる形で説明されることが多く、日本語教育の分野でもそのように認識されてきたと言える。しかし、日本語学習者の作 文等における誤用例から検討してみると、むしろ、継起表現の「~て」形と混同されて用いられている例がかなり多く 見られ、しかも比較的レベルの高い学習者にもその傾嚮が見られるので、少なくとも日本語教育の分野においては、こ れをひとまず継起表現の一つと位置付けた上で、「~て」形との違いをわかりやすく、且つ明示的な形で説明すること が必要だと考える。
韓日両言語母語話者におけるアクセント知覚 ー音声学的アクセントの違いによる脳波実験を通してー
한국일본학회 일본학보 제54권 2003.03 pp.19-31
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
日本語東京方言は示差的アクセント、韓国語ソウル方言は非示差的アクセントといったように両言語は音韻論的 に異なる。そこで、両言語の母語話者が、アクセントに関わる音調の違いをどのように脳内で処理しているかという点を 聴覚音声学的観点から捉えた。 本研究では韓日両言語の母語話者を対象として、それぞれの母語話者のアクセントに対する脳内での認知反応 をERP波形から分析した。両言語の話者におけるアクセントの認知に関する暫定的な結論を以下にまとめる。 1) ERP波形におけるN1とP2成分の結果から、日本語母語話者では、潜時は速く、電圧が低くなり、韓国語母語 話者では、潜時は遅く、電圧が高くなっているという違いが確認できた。この違いは、両言語の母語話者共に母 語にない音調を識別するのは難しいため、潜時が遅くなっていると推察し、示差的アクセントを有するか否かによ るものと解釈した。 2) 声調ごとによるN1成分における潜時の結果は、日本語母語話者は、4声が一番速く、2声<1声<3声の順に なっている。一方、韓国語母語話者は4声が一番速く、次に2声<1声=3声の順になっている。よって、両言語の 母語話者における音調の認知は、共に下降調に鋭敏な反応をするという共通点が得られた。 以上の点から、音韻論的に非示差的アクセント体系を有する韓国語母語話者の場合には、音声学的に母語に近 いアクセントパターン(下降調)を知覚しており、一方、音韻論的に示差的アクセント体系を有する日本語母語話者の 場合には、頭高アクセントパターン(下降調)の方に鋭敏な反応をしている。この結果は日本語の単音節語における音 響解析結果と認知とが必ずしも一対一致しないという好例であり、そのギャップは脳の働きによるものだと考えられる。
4,600원
「格標識依存型言語」とも言われる日本語と韓国語は、基本語順が同じであるだけではなく、成分配列の順序が 非常に自由であるという共通点を持っている。本稿では日本語と韓国語の同一主語複文における主語の出現位置を 取り上げ、同じSOV型の自由語順言語でありながらも、実際の言語運用においては主語をめぐる語順選択に微妙な 違いが見られることを明らかにし、それが日本語の語順特徴及び類型的特徴と結びつく可能性があることを示唆した。 48組の短․中․長篇の日韓対訳小説、韓日対訳小説、第三言語対訳小説を調査対象として、実際両言語の 小説において語順が異なる用例を採集し、それを基礎資料として両言語の語順傾向の違いについて比較対照を行っ た。結果として日本語では韓国語より有標の語用的語順が多く使われることが分かった。同一主語複文における主語 の位置だけでなく、さらに主語と他の成分との語順にも同じ傾向があることから主語後置は日本語の語順特徴の一つ であることを指摘した。
現代日本語推定形式 「-ようだ」의 様相 ─「-ようだ」의모달리티의미를 중심으로─
한국일본학회 일본학보 제54권 2003.03 pp.47-60
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,600원
推定は推量とともに話し手の判断を表すのだが、それが発話時のものとは限らない。.推量(するだろう,しただろう) は、さそいかけ(しよう)、命令(しろ)、断定(する+0,した+0)など、他のモダリティーと同様、話し手の態度がいつも発話 時に現れ、それをあらわす部分を過去形にすることができないが、推定と呼ばれる「~ようだ」は判断時が発話時に 限らないので、テンスのカテゴリーを持つことになる。推定形式の第2テンス形は推定時を表して、絶対的テンスを示す のだが、第1テンス形は推定されるコトガラの成り立つ時を表し、推定時を基準にした相対的テンスを示すことになる。推 定形式は、相対的テンスとなる第1テンス形と絶対的テンスとなる第2テンス形の、どちらにも非過去形と過去形になる可 能性があるので、次の4種のダブルテンス形式を持ち得る事になる。 ①非過去形+非過去形(相対+絶対) ②過去形+非過去形(相対+絶対) ③非過去形+過去形(相対+絶対) ④過去形+過去形(相対+絶対) これが推定形式の典型的なパラダイムである。これらの例文を通じて基本的なテンスの意味とテンスの意味のズレ が行われるかと、どのような場面に置いて発話が行われるかを調べる。これを元にして第2テンスが過去形を取る場合の 推定の「~ようだ」がモダリティーの機能がないとは言えないから、推定する判断が<登場人物=自分>の立場で推 定をするなのか、それとも<登場人物=語り手>の立場で押し量りの意味は後退し、記述的な側面からの推定形式を使 っているかを調べる。
6,300원
本稿は未だ「文法上決定的解決を見ていない」、あるいは「難解で永遠に説明できない」語法とまで言われて いるズハの意味と文法的解釈について、万葉集の用例を中心として考察を行ったものである。先ずは、万葉集に見える ズハ61例に対する八つの注釈書の解釈の違いを述べ、意味及び文法的解釈の問題点を指摘する。そして、それを解 決するための方法として、今なお定説とされている橋本説に対する問題点を探り、万葉集におけるズハの意味を構文構 造に即した明確な把握を試みる。そうして、ズハは意味․用法に関係なく、打消の助動詞「ず」に清音の助詞「は」 が付いたものと判断すべきであることを立証する。つまり、ズハは仮定条件法․連用修飾法を兼ね備えた形として理解 すべきで、「は」が清音だからといって、直ちにそれを係助詞とし、連用修飾を表すものと判断するのは正しくないことを 述べる。それから、ズハが仮定․連用のどちらの用法として使われているのかは明確な文意によって把握されなければ ならないが、集中に見えるズハ例はすべて仮定条件法として解すべきであることを述べる。特に、従來から問題とされて いる「恋ひつつあらずは~」等は仙覚抄․代匠記が試みたように可能の意を補って解すべきであることを述べる。最後 に、中古以後のズハについても調べ、ズハには仮定条件․連用修飾という、全く異なる二つの用法が認められるので、 前者の場合は【未然形「ず」に接続助詞(的性質を持った)「は」が付いた】もの、後者は【連用形「ず」に 係助詞「は」が付いた】ものと区別して考えるべきであると結論づける。
4,000원
複雑で不規則である日本語連濁現象を日本語教育の側面で接近することにした。日本語教育の側面での 連濁教育の実状は具体的に提示した資料がなかっただけではなく実際に韓国で日本語学習者に連濁教育をするの に役に立つ方法が適切に存在してないのが現状である。 したがって本研究は日本語教育の側面での連濁教育を施行するという点に大きな意義があり、また具体的な日本 語教科書での表記用漢字、即ち韓国での高校の日本語テキストを作る時に用いられている表記用漢字(902字)の 中で、連濁の可能性のある漢字(今回の分析ではカ行だけ(85字))を対象として、実際の連濁と非連濁龋を提示して 連濁の有無に対する対比を通じて、日本語教育上の連濁規則と傾向を調べたのである。
5,500원
本論文は明治以後現代に至る期間における「行く․來る․いる」の尊敬表現の推移․変遷の通史的考察の 一環として、大正期(1908~1928)の使用実態を記述的に考察することに目的をおいたものである。近代以後における それぞれの尊敬表現の使用頻度の推移も語史という観点からすれば極めて重要であるが、敬語は社会の変化や人 間関係との関わり方によってその使われ方が左右される語であるため、使い手と表現主体との関係、あるいは話し手と 聞き手との関係等の所謂敬語事実の考察が重要である。つまり、各々の尊敬表現の変遷に加えて、その使われ方や 語の位相差等の研究が求められる。 考察の結果以下の点が確認された。 ①本動詞․補助動詞とも「いらっしゃる」が最も多く、本動詞は70%、補助動詞は82%を占めている。それまでの 主流であった「おいでだ․おいでなさる․~なさる」に代替するものと見做される。使い手は圧倒的に女性が多く、年 齢も多岐に亘っている。下層での使用は女中の使用が多く、主従関係における上下関係が表現選択の要因になって おり、依然、身分的な社会階層が残っている。また、上層の教養のある若い女性の間での使用が際立っており、この時 期を境に女性のインテリ階層の使用が高まるものと推測される。 ②明治20~30年代における考察で本動詞、補助動詞それぞれ19%、25%の使用率が見られた「おいでなさる」 は、小論における考察対象作品中には、1例のみ抽出された。尤もこれは考察対象作品における結果であり、当時の 言語生活において「おいでなさる」が使用されていないとは断言できない。しかし、同じく明治20~30年代に多く用い られていた「おいでだ」が、大正期を境に衰退していることに見合わせると、「おいでなさる」も同じ道を辿るものと推 測される。使い手は、性別、年齢の区別なく広く用いられているが用法は命令形が多い。特に親族間や親しい間での 軽い敬意をもった命令形用法が目立つ。江戸時代には高い敬意があったとされる「おいでだ」に丁寧語化の兆しが 窺える。 ③「レル型」敬語は男性の使用例が多く、本動詞用法の「いる」、補助動詞用法の「~いる」に多用されて いる。女性の使用例は、唯一『友情』の杉子が「ゆかれる」を用いている。しかし、「行く․來る․いる」における 尊敬表現としての使用は総体的に数が少なく、現代のように多用されるまでにはまだ至っていない。今後その勢力拡大 が興味深い。
4,000원
世界が一つになっている現代社会において、外国語の教育は、他のどんな教育より大事なものになっており、外国語 能力の優れた者に対する社会の要求も極めて大きい。この重要さが増している外国語を学習するためにかけられる時 間と経済的な代価は実に大きいものである。従って、外国語の教育は正しく行われなければならないのであるが、英語 に代表される外国語の教育に対して提起される問題点はいまだに多く、解決の道を模索している状況が続いている。 英語教育の正しい位置づけをしないことにより、外国語教育の本質がゆがめられている部分があることも事実であ ろう。外国語の教育がその成果をあげるためには正しい教育が前提にあるべきである。つまり、外国語の教育はその本 質を正しく理解した上で行われるべきである。 何よりも意思疏通能力が要求される外国語の教育で、文法教育が担っている役割を正しく捉えていない。即ち、意 思疏通能力を向上させるのに文法教育があまり貢献していないという指摘であるが、これは正しくない。本稿では、文 法教育と会話能力、学校教育の問題点、外国教育の在り方などについて考察し、文法教育は会話能力の向上に最 も役立つ教育内容で、まさに外国語教育の核心であることを述べる。
4,300원
現代語の「タ」は、テンスではなくムードを表わすとか、ムード的テンスであると説明されることもある。「タ」に関す る主な分析では、「過去、完了、ムードのいずれか、又は全部」の意味をもつとされることもしばしばみうけられる。 拙稿では「タ」は、ある一纏まりの事態の実現(又は生起)全体を、後から見たイメージを表わす形式で、方向性を 指示する形態素であると考える。したがって、「ル」形と「タ」形は、事態との関係における視点の方向性を表わすマ ーカーであり、視点の位置については指定がなく、発話時とはかぎらない。「タ」形は、事態を後ろ向き、つまり実現を 表わすものであると規定する。 そして、「タ」の意味機能が多義にわたっているのは古代の時間表現の諸形式の収斂によるものであると考え、「タ」 による他の時の助動詞の統合過程を確認すると共に「タ」の本質的意味を追求する。
4,300원
この研究は韓国の日本語学習者がどの段階からどのような擬音語․擬態語を使いこなせるようになるかという習得 過程を明らかにすることを目指している。分析の資料はOPIレベル判定のために実施されたインタビューのテープで、 中級(上、中、下)、上級(上、中、下)、超級の7つのレベルのテープを4本づつ計28本を起こして文字化したものを使 用した。 韓国の日本語学習者は一般にOPIのレベルが上がるにつれて擬音語․擬態語の使用が増えるということがこの 研究で確認された。 とりわけ、 擬音語․擬態語が種類、 頻度ともにたくさん使えるようになるのは上級中以上レベル であるということがわかった。この分析結果は日本における荻原他の研究(2001、p.96)の結果とも一致している。 また、この研究では擬音語․擬態語は書き言葉に比べて話し言葉のなかで良く使われているということが確認され た。 OPIのタスク遂行能力との関係でいえば、 上級では 擬音語․擬態語を含む豊富な語彙力を駆使して聞き手に イメージが浮かぶようにくわしい描写ができるようになる。先の共同研究により 上級以上のレベルでは 漢語よりもむしろ 和語の語数が増えてくることがわかったが和語のなかでも最も和語的な擬音語․擬態語が増えてくるのは興味深い。 超級では さらに種類、頻度も圧倒的に増えて慣用句も使用できるようになり、文化と結び付いた社会言語学的能力も 備わるようになる。 日本語教育が書き言葉中心の教育からコミュニケーション中心に移ってきているいま 擬音語․擬態語は避けて 通れないものになっており、積極的に取り組む必要があると思われる。 学習者にとって習得の難しい擬音語․擬態語 をどのように習得させるかという教材の開発も進められている。 絵やイメージと一緒に教えようとするものや視覚と聴覚に 同時に訴えるマルチメディアを利用した教材も出てきている。 今後さらにこのような教材の開発が望まれる。
5,100원
本研究の目的は、外国語教育のなかで、取り分け日本語の教育にマルチメディア(Multimedia)を利用し、言語 (日本語)の学習効果を向上させるようなコンテンツ(Contents)を開発することにある。 これにあたり、マルチメディアと日本語における特徴を分析し、マルチメディアの機能のなかで何を日本語に活かせ るのか、また、日本語のなかで何をマルチメディアに活かせるのかを考察した。 言語機能のなかで、「読む․書く․聴く․話す」を、<音声言語>と<文字言語>とに分類し、これらを<言語活 動の構造>と比較して、マルチメディアに活用できるような、<音声言語ファイル>や<映像画面ファイル>、<映像画面 ファイル(字幕入り)>、<文字言語ファイル>などを作成した。とりわけ、日本語教育における言語機能別に分類したファ イルを、マルチメディアと組み合わさった場合に、どのような言語の特徴と効果が現れるのかを考察したわけである。 以上のことを踏まえたうえで、学習者の意欲がわくような仮想授業(Cyber-Cours)のための環境(Contents)を開 発することがその目的である。
5,200원
所謂反語文は、断定、主張、命令等を表すが、日本語でも、韓国語でも、それらは疑問文形式に依らずとも表 し得るはずである。そこで、本稿では、反語文が使用される状況というものが特定できるものかどうか探ることにした。反語 文による各発話の先行状況を分析することによって、それらに共通性が見られるかどうかを探ることを第一の目的 として、その特徴を反語文の類型別にできるだけ明確にすることを第二の目的とした。そして第三の目的として、両 語において、その先行状況の相違点の有無を明らかにすることとした。 反語文を大きく対話型と独話型に分け、それを更に真偽疑問文形式と疑問詞疑問文形式に分けて、それぞ れの発話の先行状況について、小説や映像物に現れた反語文の実例を資料として調査、考察を試みた。 その結果、日・韓両語の反語文の発話について、その先行状況に、ある共通性を認めることができた。それは、 反語文の発話に先立って、話し手の認識では容認できない状況が展開する、ということである。その話し手の容 認できない状況が、反語文の種類、即ち、対話型か独話型か、対話型の中でも全面否定の反語文か部分否 定の反語文か、等によって相違点があるのである。 対話型の反語文の場合は、相手が、話し手の認識では容認し難い言動やふるまいをするという状況が展開 する。 また、 命令を表す反語文の場合、相手が話し手の望まない行動を取るという状況が展開する。 その命令 の内容は事前の相手の行動の中止、 または反対の行動を要求する命令を表すものである。 独話型の反語文の場合は、話し手自らが、自身の自明の認識からは容認できないような想像や行為をすると いう状況が展開する。 本研究で見い出されたこれらの特徴は、全て日・韓両語に共通しており、両語間において、反語文の発話の 先行状況に特別な相違点は見られないことが確認された。
4,300원
The purpose of this study is to reveal the effects of the study of the Japanese language on the views toward the Japanese and on the motivations of learning Japanese held by Korean students. The data obtained were examined according to the attributions of subjects and path-analysis. Significant differences appeared in the views toward Japan and the Japanese by the sex of the respondent. Male students expressed more positive evaluations toward Japan and the Japanese than females did. Furthermore, the path-analysis showed that affability was positively related to the differences of relationships among in-group members and the differences of social norms, and negatively to the differences of personal value systems. Trust for Japanese was negatively related to the differences of the social norms and the differences of the daily costumes. The positive motivation for learning Japanese was related to trust of the Japanese. Consequently, when Korean students admitted to a high similarity between Korea and Japan in social situations where they participated as in-group members, their affability to Japan and the Japanese is evaluated. However, affability is not an important factor in the motivation for learning Japanese. Korean students perceived that the Japanese have a heterogeneous culture. The cognition of differences between both countries and the views of trust of the Japanese, were correlated with Korean students held the motivation of learning Japanese.
4,500원
本稿は、日․韓両言語の対照言語学的な立場から、とりわけ漢語動詞に見られる受動について考察を行ったもの である。韓国語の漢語動詞における「되다形」「받다形」「당하다形」といった受動形の使い分けとその意味 上の違いを、日本語の漢語動詞における受動形との対比を通して明らかにし、その結果を踏まえて、韓国語の受動は いかに捉えられるかについて考えてみた。日本語の効率的な教育方法を探る一環として、まず韓国語側の理論的構 築を試みたわけである。 日本語は対象の種類に関係なく「サレル形」が用いられているが、それに対して韓国語は対象の種類に応じた、 整然とした対応を示していない。「당하다形」が「受け手」に限られ、「目当て」の場合は「받다形」が成立す るといった対応関係は一応認められるが、「되다形」は対象の種類に関係なく成立しうるという事実が判明した。また、 「당하다形」は肯定的な意味内容を有する漢語とは呼応しないことから、「당하다形」は漢語の意味的制約を受 けるものであることが明らかになった。しかし、「受け手」の場合も「받다形」が成立すること、また「되다形」が対 象の種類に関係なく成立するということなどから判断すると、受動形の使い分けの基準を対象の種類の違いと漢語の 有する意味だけに置くのは、説明として不十分であると言わざるを得なくなる。本稿を通じて得た一つの結論は、受動文 における「되다形」「받다形」「당하다形」の使い分けは、対象の種類または漢語の意味にも関係するが、基本 的には事柄の捉え方の違いに関連するものであるということである。また、韓国語は事柄を状態変化として捉えるか、そ れとも動作主と対象との関係として捉えるかによって、生産的であり、しかも規則的である「되다形」と対象の種類また は漢語の意味に相応じて用いられる「받다形」「당하다形」とが使い分けられるということも明らかになった。
4,600원
本研究は、とりたて詞「だけ」と「さえ」が条件節の中に現れた文の解釈について、いわゆる「他者不要」という 意味における両者の類似と相違を考察したものである。「だけ」と「さえ」の意味は、基本的に両者の持つ統語的 特徴、意味的特徴の相違による個別的な特性を持ち、それぞれ「限定」「意外」と記述される。そして、従來指摘さ れてきた「他者不要」とは、「だけ」と「さえ」が本來的に持つ意味論的意味(semantic meaning)ではない。 つまり、「他者不要」とは基本的に条件節のもつ意味と、「さえ」と「だけ」の意味との相関関係によって読みと れる語用論的な「解釈」である。具体的に、「XスレバP」という条件節は、Pを成立させる条件としてのXのみならず 、Xより「高条件」であるQが含意されている場合、それは当然Pを成立させる条件となる。このような条件節の暗示的 意味と「さえ」の持つ意外性と自者が当該命題成立のための、最低要素を示すこととの意味的な絡みで「他者不 要」という解釈が読みとれる。それと関連して、条件節内での「だけ」の「他者不要」「他者否定」という二義性 の問題は、上述したような条件節が持つ含意と、「だけ」において「X以外」となる対象との一致不一致によって、 生じ得るということを主張した。
5,200원
話芸の世界では、場面描写のために効果的なオノマトペが工夫されている。そのオノマトペの中でも同音異義語を 巧みに使う一風変わった、いわゆる掛詞式のオノマトペの存在が知られている。言葉の同音多義的性質を利用すると いうのは、ある音が二つ以上の異なった言葉を生み出す働きを果たしていることを意味する。掛詞式の擬音語としての 表現効果は、新鮮な驚きや興味深い話題をそのまま語って場面の雰囲気を直に伝える話し手と聞き手との共感の形 成にある。即ち、話し手が意図した内容をリアルに聞き手に伝達し、共感されて初めて、最後のクライマックスのキーワー ドとしての重要な役割を果たすのである。 とりわけ、説話集や笑話集においては、オノマトペの使用頻度が高く、そこには何らかの形で、必ず、意外性という効 果が働いている。表現の面白さ、イメージの喚起力、詳細な描写力でその真価を発揮しているのである。和歌の三十 一文字の制限された範囲の中で表わした掛詞式擬音語が、典型的な形で詠まれてきたとするなら、話芸の世界で用 いられたこの用法は、一般の語彙の表現領域まで範囲を広げ、鮮やかに意味を伝達․拡張する機能を同時に担って いると言える。これは、単純な声や音でも掛詞式の擬音語に変わると、意味を持つもう一つの語彙に進化していくことを 意味し、現実感をはっきりと理解させ、その場面の目玉の役割を担うことになる。また、形態的にも一般のオノマトペとは 異なる独特な形を取っているのは、様々なジャンルの表わし方や動物の鳴き声などを表現するのにその表現形式に拘 ることがないからである。従って、聞きなしによって多様な意味拡張ができるので一般の形態から開放されていると言える。 日本語の運用の側面から見ても、より効率的で豊かな言語生活を営むことができるので、絶え間なく変化し、進化して いく日本語の一面を語っていると言えよう。
4,900원
『万葉集』に約五百五十首詠まれている衣服に関する歌語の中には,古代人の生活がどのように現れているの だろうか。その中、今回は八十四首詠まれている「紐」という歌語を中心に考察したところ、「紐」は、(1)共寝(2)情 表(3)俗信(4)修辞的な意味として用いられながら、「紐」の持っている結んで解くという機能的なことに心理的なこと が符合して、万葉人の好まれた歌の素材であって、その背景からは、朝鮮三国の服装の世界と大変密接で、特に統 一新羅の説話との関係も類推させた。 つまり、今から千三百年前、着ていた服装の形態から男女の愛情表現を連想させた「紐」は、直ちにその時代を 表すモチーブの一つであるのと共に上代の文学理念である「まこと」を如実に現した代表的な歌語であった。
4,300원
歌謠と和歌はその当初から律調や題材などの面でお互いに関連し合っていたが、それぞれの独立的な位置を形 成していき現在に至っている。本稿で取り上げる今様は歌謠の流れを汲むもので、それまでの歌謠にない新鮮味があり 多くの人々に愛好され院政期の主流的な歌謠となった。目まぐるしかった平安末の実力者後白河院は今様に心酔し て声が嗄れるまで練習し、今様の歌手である遊女傀儡女などを宮中に呼び寄せ、師匠とした。後白河院は如何な る理由でこれほどまでに今様に耽溺したのか、今様には如何なる魅力があって多くの人に愛されたのか、その疑問を解 くカギとして今様における歌詞の創作方法について究明すべきである。その一つの方法として、今様と和歌との関連を 明らかにし和歌を摂取した今様の魅力に迫りたい。 今様に摂取された和歌のほとんどは人口に膾炙した有名な古歌である場合が多いが、古歌をそのままの形で取り 入れるのではなく、まったく異なった非和歌的な語句─例えば、和歌では用いられていない直接的な語句や擬声語擬 態語─などを取り入れておもしろくしている。また、連想の働きによっておもしろくしたり、反復表現を用いておもしろみを醸し 出している。このような方法は『梁塵秘抄』のみならず他の今様集においても同様なのでこういう方法が今様の歌詞 創作に用いられるのは一般的な傾向であったろう。 なぜ、和歌でなければならなかったのか。その理由として今様の享受者層和歌の持つ性格今様のバリエーシ ョン、この三点を挙げることができる。当時後白河院サロンで行われていた今様の会合は多くの貴族たちがその中心に あった。貴族の教養である和歌は後白河院サロンの貴族たちにも身近な存在であったので和歌の表現が今様の中に 自然に溶け込む余地を作ってくれた。また、膨大な量の和歌を今様の中に取り入れるのは貴族たちにとってたやすいこ とだったと考えられる。実際今様の中には和歌だけでなく漢詩や物語の場面をも取り入れた形跡があるので、これらは 今様のバリエイーションの一つではないだろうか。これらの傾向は今様の中に見える「謠い替え」という形で継承され ていったのであろう。
도송(藤村)문학에 나타난 노동 ─『지쿠마가와(千曲川)의 스케치』와 감상집을 중심으로─
한국일본학회 일본학보 제54권 2003.03 pp.273-284
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,300원
島崎藤村は、勞働ということについて “初めて私の眼を開けてくれたのは、トルストイの小冊子であった”と「勞働の 世界」で告白しているように、その生活や芸術の根底には勞働についての認識が生きていたといえる。当時、西洋では 経済学者たちが勞働に与えてきた功利主義的な意味を捨て、ルネッサンスの人本主義へ戻ろうという動きが現われて いた。このような動きのなかで勞働についての再認識を試みた人々には、トルストイ、カーライル、ミレエ などがいる。彼等 の生き方や芸術の行路は藤村にとって、もっと自分を新鮮に、そして簡素にするため都会の空気の中から脱け出して小 諸に隠棲して以來、精神的な慰めと刺激になったと思われる。 本稿では、藤村における勞働についての認識をもっと具体的に把握するため、彼が小諸で生活しながら観察し、ス ケッチしたといわれる小説『千曲川のスケッチ』と感想集を中心に分析してみた。藤村の勞働についての認識の様相 を見る過程で、勞働の意味を探り出し、それが藤村の人生と芸術にどのように位置づけられていくのかをもみた。 まず、トルストイやミレエなどから受けた感化は、藤村の心の眼を新しい次元に目覚めさせたといえる。藤村は農夫の 生活を皮相的に眺めるのでなく、教師の傍ら鍬をかついで荒れた土を耕すうちに、彼等が流す汗の厳粛な意味がわ かるようになった。それは目的のために報酬を手段として生活する知人の生き方よりは、農夫と一緒に汗を流しながら自 然の意味を絵にしたミレエの生き方から真の芸術家の姿を悟らせられるきっかけになったのである。さらに、人間と自然と の関係が破壊されないような生活に戻って、自分の道を拓いて行くのが芸術家の使命であるというトルストイの言葉の ように、長男と次男を次々に帰農させたのである。つまり、藤村は勞働を本質的に意味あるものとしてみた。即ち、勞働の 価値を勞働の結果あるいは勞働以外の他の領域からでなく、勞働それ自体から見い出し、ついに彼が選んだ道は目 的と職業とを相一致させることであった。彼にとって生活は勞働であり、勞働は彼の生きている証拠であったに違いない 。そして、その勞働の価値認識が彼の芸術を支えてきたのである。その意味で、彼の芸術は勞働と生活の調和から作 られた創造物であったといえる。
4,900원
本稿では「富岡先生」のモデルといわれる富永有隣という実際の人物をどのように独歩が自分の文学創作の想 像力を生かして作品として形象化したか。またこの人物を詩化するために作者はどのような手法を使ったのか。なお作品 の分析として梅子と細川校長との結婚談として把握してみた。 「富岡先生」に描かれている富岡先生という登場人物は明治時代の社会の底辺にいた不遇な階層を代表して いる。この作品は明治維新の主役からいち早く退けられ、立身出世のできなかった実際に存在した富永有隣を素材に してその人生の一断面を形象化したものであった。 また、「富岡先生」と「源おぢ」は各々の作品構成と事件の内容などは異にしながらもその根幹をなしている主要登 場人物の関係を独歩が意図的に結び付けて、これを詩化するための戦略としてとっていたことが確認できた。 「富岡先生」において作者独歩が仕掛けた重要な一つの軸は細川校長と梅子との結婚に至る過程の物語で あった。終りに、小学校校長の細川が最後の勝利者になる過程を描いた結婚談を作品の中心軸に仕掛けた理由は 独歩が当時の立身出世主義と学閥社会に対して痛烈な批判のメシセージを送るためであったと考えられる。
아쿠타가와 류노스케의 『라쇼몽(羅生門)』론 -"공간성"을 중심으로 본 일본의 근대 양상 고찰-
한국일본학회 일본학보 제54권 2003.03 pp.301-318
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
5,200원
4,500원
「가을(秋)」, 타자(他者)에 비친 노부코(信子)의 욕망 -욕망의 상실에서 오는 전이과정을 중심으로-
한국일본학회 일본학보 제54권 2003.03 pp.369-381
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
4,500원
5,200원
0개의 논문이 장바구니에 담겼습니다.
선택하신 파일을 압축중입니다.
잠시만 기다려 주십시오.