2026 (19)
2025 (64)
2024 (69)
2023 (44)
2022 (70)
2021 (59)
2020 (57)
2019 (65)
2018 (61)
2017 (69)
2016 (64)
2015 (73)
2014 (117)
2013 (84)
2012 (96)
2011 (82)
2010 (95)
2009 (89)
2008 (123)
2007 (107)
2006 (115)
2005 (136)
2004 (178)
2003 (136)
2002 (136)
2001 (119)
2000 (84)
1999 (64)
1998 (49)
1997 (50)
1996 (48)
1995 (33)
1994 (41)
1993 (33)
1992 (34)
1991 (27)
1990 (25)
1989 (26)
1988 (26)
1987 (24)
1986 (23)
1985 (23)
1984 (28)
1983 (12)
1982 (13)
1981 (16)
1980 (14)
1979 (9)
1978 (10)
1977 (9)
1976 (10)
1975 (6)
1974 (7)
1973 (6)
4,900원
本稿では、名詞を形容動詞化する接尾辞「的」をめぐって、「的」の意味や用法、そして他の連体修飾形「~の」と「~な」との意味的な関係について考察を行った。 「的」は、生産力が優れた派生語として、多量の形容動詞を作り出している。「的」の前接語の種類も漢語から和語․混種語․カタカナ語など多様になっている。「的」形の語の範囲が広がるにつれて「的」の意味と用法にも変化がみられる。 「的」は名詞あるいは抽象的な名詞に接続すると言われている。しかし、名詞に接続するとしても、すべての名詞に接続するわけではない。従って、「的」が付く語と付かない語が見られる。また、意味においては「的」形の語の増加と共に、既存の「的」の意味の他、新しく生じる意味と、これによる評価義も生じるようである。用法においては、「的」の連体修飾形「的な」と「的」そして「的の」の形態が現れているが、「的な」と「的」と「的の」の意味関係と用法の違いが見られる。また、情態概念の語の連体修飾形に現れる「な」と「の」も「的な」と共に同一語で現れる。「的」をめぐって、このような問題点が提示され、一部は研究されており、一部は解明が要求されている。 以上のことによって、「的」が付く語基は、人間と関係ある実体概念の語が多いということがわかる。また、「的」のもつ多義性によって、句あるいは文において評価義も生じることがわかる。連体修飾形においても微妙であるが、形態が違うと意味にも違いが現れることが分かる。
4,000원
「時の表現」は「ル」形と「タ」形の対立の中で記述される。一般に、「ル」形は非過去を表し、状態動詞が現在を、動き動詞が未来を表すとされる。しかし、この記述だけでは動詞の「ル」形が表す「時の表現」の意味を体系的に捉えることができない。動詞の種類の違いによって立てられた体系の中では記述しにくいものが多く、結果的に「時の表現」における例外的な現象が設けられるようになる。本稿は、先行研究で明らかにされていない「ル」形を「時の表現」の体系の中に正しく位置づけることを試みるものである。 状態動詞の「ル」形と未来との関係、それから、動き動詞の「ル」形と現在との関係は「時の表現」の体系の中に綺麗におさまっていないと言える。本稿では、状態動詞の「ル」形が表す意味の中で、未来を表すとされるものを新しい観点から位置付け、さらに、動き動詞の「ル」形の意味については、先行研究と意見を異にするものを中心に、本人の既存の主張をまとめて提示し、「ル」形の意味を体系的かつ総合的に記述する。 状態の表現は続いている状態、つまり、存在している状態(事実)を見て捉える表現である。状態の表現が未来を表す時の語句と共起する場合、それは現在を表すものとも、未来を表すものとも捉えることができる。動き動詞の「ル」形はその使い方が多様である。特に、動き動詞に関しては、恒時的な事象が現在の表現と現れ方が同一であることや、また、発話時と関係しており、現在を表す事象のように捉えられている事象の「ル」形が未来を表すこと、などを提示し、状態動詞と動き動詞における「ル」形の規則性を合わせて述べる。 状態表現に用いられる「ル」形は現在を表し、動きの成立の表現に用いられる「ル」形は未来を表す、という体系を、状態動詞と動き動詞の意味の両面性から記述し、「時の表現」の例外を減し、「時の表現」の体系がより規則的なものとして働いていることを裏付ける。
4,200원
日本語を視覚化する際において、一つの事柄にたいして二つ以上の表記方式が成り立つ理由としては、一般に、音の歴史的変化に対して文字は固定化しているためであるということとともに、「仮名遣い」というのが人工の社会的な約束に過ぎないからであるということなどが挙げられている。しかしながら、「歴史的仮名遣い」から「現代かなづかい」へと転換しなければならなかった積極的な理由をはじめとして、「現代かなづかい」で表音性を強調するようになった背景などについてはまだ議論の余地がある。本稿ではこれらの諸問題について考察した。 「現代かなづかい」は表音的な性格が強いとされているが、これもやはり「歴史的仮名遣い」に基づいた音韻論的な解釈にすぎない。そして、「現代かなづかい」への移行は、ただ単に現実の音と表記とのずれを正そうとしたためだけではない。それは、視覚上の単純化․単一化を追求した結果に他ならない。 一方、『小公子』や『おほかみ』などを取り上げて、とりわけ長音にたいする当時の仮名遣いの混乱の実態を探ってみた結果、明治期には仮名遣い、とりわけ字音の仮名遣いが混乱していたことが浮彫りになった。これが仮名遣い改定へ向けての起爆剤になったものと考えられる。 その混乱のなかで様々な工夫が行われたが、上田万年の場合、カタカナによるルビや長音符号の使用など、従来、外来語の仮名表記に採用されていた手法を積極的に採り入れた。そういう意味で、外来語の表音的な表記方式が和語および字音の仮名遣いにも、何らかの形で影響を及ぼしたものと考えられる。そして、その際には「歴史的仮名遣い」が持つ表記と発音とのずれの問題が強く意識された。
4,000원
日本語の中に授受関係を表現する言葉が数多くある。その中心となる言葉に7つある。中国の学習者にとって、授受動詞が余りにも多いのでよく誤用される。本文は筆者の日本語教育の経験を基にして授受表現を分析し、授受動詞をグループに分けてそれぞれの違い及び使用上の注意点を述べ、中国学習者に分かりやすいルールを指摘してみる。認知とが必ずしも一対一致しないという好例であり、そのギャップは脳の働きによるものだと考えられる。
日本語·韓․語の「かたさ」を表すオノマトペの意味分析 ─ シンタグマティックな側面から─
한국일본학회 일본학보 제64권 2005.08 pp.59-73
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4,800원
本稿では日本語、韓国語の感覚オノマトペの中で触覚をあらわす語彙の「かたさ・乾燥」に焦点をあて、文脈の中での単語間の関係を見るシンタグマティックな考察を試みる。 方法としてコーパスをもとに選出されたオノマトペが結果副詞として機能するとき、主語/目的語となる名詞、述語となる動詞との共起関係を考察した。その結果、その語がもつ示差的特徴と共起名詞/動詞が持つ意味には相関関係が見られた。また、より細かい示差的特徴をもつ語彙は名詞、動詞間での共起制約が強かった。一方、名詞の選択制限がほとんど見られない語彙は、意味的により抽象的で意味領域が広いことが確認できた。
4,300원
本研究は、日本語学習者の話し言葉における語彙の実態を調査し、OPIの各レベルで使用されている語彙を日本語能力試験の語彙表と照らし合わせ、OPIのレベルと語彙の使用との関連を分析することを目的とする。5人の共同研究者が韓国語を母語とする日本語学習者のOPIインタビューを文字化した資料をもとに分析を行った。まず各レベルにおける語の総数及び和語、漢語、外来語、混種語の延べ語数とその割合の分析を行った。次に、漢語、外来語、和語の各レベルにおける語数を調査し、日本語学習者のための読解学習支援システムである「リーディングチュウ太」にかけ、日本語能力試験の4級から1級までの語彙の出題基準に照らし合わせて、各レベルで使用された語彙を分類し、延べ語数および異なり語数について調査した。OPIのレベルが上がるにつれて漢語の割合はそれほど変わらないが和語の割合は50%台から60%に増加する。OPIのレベルが上がるに従って漢語よりもむしろ和語の割合が増えた。書き言葉では漢語の比率が大きいのに対して、OPIの話し言葉では和語の比率が高く、漢語の比率は低い。OPIの中級上のレベルで2級の漢語が増えだし、2級の和語が増えだす。変化の萌芽がはじめに現れるのは中級上である。OPIの上級以上に上がるためには2級の語彙を使用語彙として使いこなし、その語彙を増やすことが鍵である。外来語はどのレベルでも級外が40%以上で最も多かった。外来語の語彙数は超級で非常に多いが、ほかのレベルでは差は見られなかった。和語は上級以上でも4級の異なり語数が増え続け、4級の語彙を最も多く使用し、繰り返しも多い。副詞の使用が増えるのは上級以上である。擬音語擬態語の使用が増えるのは上級中以上である。超級は和語、外来語、漢語に於いても語彙数が断然飛びぬけていた。インタビューをしてみると韓国の学習者は中級上レベル位の学習者が多い。中級上ではあらゆる変化の萌芽が見られ、上級への過渡期でもあり非常に重要な段階である。壁を乗り越え上級に入るには語彙の習得を含めてどのような指導をすればよいのかが今後の課題である。
5,200원
本稿は、複雑な言語社会の中で、かなり普遍的に繰り返される日常的な行為である感謝表現を、新たな概念である「敬意表現」の範疇から考察し、感謝表現の類型を再分類した。そこで、ドラマ台本やシナリオに現れる感謝談話を取り上げ、「敬意表現」のストラテジーによる感謝類型がどのように現れ、相手に対する適切な感謝の気持ちを表明するのかを各場面ー学校․会社․家族․親友ーを中心に考察を行った。その結果、「呼かけ」「うん」などの応答のような婉曲な表現による感謝(「E.E」)も含めた多様な「敬意表現」のストラテジーによる感謝が可能であることがわかった。なお、感謝の相手に対する敬意の表明は、敬語形式をもたない常体の「G.F」による感謝においても、二つ以上の複合的感謝類型によるストラテジーや、副詞との共起、繰り返しの効果などによって左右されることが確認された。また、感謝の対象として、物貰いなどの物質的対象においての感謝は「すまん類」「すみません類」の陳謝型の感謝が行われて、その際の感謝の相手は、主に男性による場合が多かった。一方、感謝が行われる各場面ー学校․会社․家族․親友ーを感謝の類型とその際の感謝の相手と対象との相関関係を中心に分析し、次のような結果が得られた。(1)学校と会社における「H.E」による感謝は、感謝度の重․年齢や地位の上․一対多の公的場面で用いられ、性別さや感謝の対象とは無関係であった。(2)<ウチ>の関係にある家族に対する感謝の場合は、殆んど常体の「G.F」による感謝であったが、義理の親子関係の場合は、敬体の「H.E」による感謝を行い、距離感を示している。(3)親友における感謝の場面は、男女ともに「G.F」、「E.E」による感謝であるが、感謝の対象によって、複合的ストラテジーによる感謝が行われていた。そこで、女性の場合は、感動型の「E.E」である「嬉しい」との共起や、「ありがとう」の繰り返しによる複合的ストラテジーによる感謝であったが、男性の場合は、終助詞「な」「ね」との共起や省略「…」による感謝との複合的ストラテジーによる感謝であった。
4,300원
本稿では、現代日本語の「シテイル」構文における「ガ格名詞句」の意味役割をめぐって考察を行った。 先行研究では、「ガ格名詞句」については一般的に「動作主」「経験主」「対象」という意味役割を認めている。しかし、詳しく調べてみると、これらの三つの意味役割だけではうまく説明できない例が存在する、ということが分かる。((例)警察が力で(動けないように)犯人を抑えている。等) 上記の例などは、問題なく「動作継続」として解釈することができる。一方で、「犯人が抑えられている」という表現が可能なことから「結果継続」として解釈することも可能であると判断される。本稿では、このような事実をおさえた上でこれらの文における「ガ格名詞句」の意味役割を考慮してみると、「動作主」であると同時に「対象」であるということになりかねない、という問題があると指摘し、この問題を解決するための案を提示した。 結論的には、問題になる文は、「動作主の意図的な行為として静止動作を維持する」という意味特徴をもっており、これらの文における「ガ格名詞句」を考慮する際は「変化の結果を維持する主体(仮称)」とでも呼ぶべき意味役割を考える必要があることを主張した。
4,200원
中日対照言語研究は、日本語教育の必要性が高まるにつれて、ますます盛んに行われるようになっている。このような対照研究によって両言語の相違が次第に明らかになり、これは外国語を正しく理解することや母国語の干渉による間違いを意図的に避けることなど語学教育の上で非常に役に立つことである。つまり、中日両言語の相違が明らかになれば、その成果の応用によって日本語教育がもっと効果的に行われ得るのである。しかし、中日対照研究の実情を見てみると、漢字の中日同形語についての対照研究やテンスを表す「~タ」と「~了」の対照研究、モダリティを示す「べきだ」と「应该」についての比較など、数多く現れているものの、単に両者の共通点と相違点を明らかにするという理論的な研究に止まるものが多く、このような対照研究の成果を生かし、教育の現場における日本語習得に役立てようとする、理論研究の成果を教育実践と結びつけた研究はあまり多くないように思われる。 本稿では、筆者が行った対照研究の成果の一つ、因果関係を表す「から」と「因為/所以」の相違を紹介しながら、外国語教育の角度から日本語習得をより効果的に図るために、このような成果をいかに利用するかを考えてみたい。
4,300원
本稿は、非漢字圈の国で行われる日本語教育の実体を知るために、筆者が2003年9月から約1年間、カナダのカールトン(Carleton)大学で観察した日本語教育の運営および、日本語に対する学習者の意識などを、アンケート調査により、韓国の大学の状況との関わりで考察したものである。カールトン大学における日本語教育の特徴として挙げられることは、授業の単位を取得するにあたり、履修すべき時間数が、韓国に比べて7倍近いことである。学習内容の理解とともに体得をも必要とする外国語の場合、学習時間の確保は重要であると見られるが、この点、韓国の大学における事情は必ずしも良好とは言いがたいことを指摘した。学習者の意識調査の結果、日本語を習う理由は、将来の仕事や勉強のためよりも、日本文化に対する個人的な関心からだという答えが多かった。なお、日本語学習における困難点は学習者の母語によって異なり、英語母語話者は漢字がむずかしいと考えている学習者がいちばん多く、中国語母語話者は文法がむずかしいと答えている。日本語学習に対する全体的な印象としては、学習のレベルが高くなるにつれて、むずかしいと感じていることが分かった。
5,500원
本稿は、類義関係にある真偽判断の副詞「絶対に、必ず、きっと、恐らく、多分」の多様な意味・用法上の類似点や、相違点を説明するのに有効な原理、つまり、文の階層構造にもとづいて層転移という現象に注目し、分析を試みた。分析の結果は、以下のようにまとめられる。 第一に、5語の副詞「絶対に、必ず、きっと、恐らく、多分」は態度層に属する副詞であるために意味・用法の類似点を持つ。第二に、「絶対に、必ず」は態度層から遂行層へも命題内容層へも層転移をするのに対して、「きっと」は態度層から遂行層への層転移のみを許容する。だから、「絶対に、必ず」は「きっと」と異なる意味・用法を持つ。第三に、「きっと」は態度層から遂行層への層転移を許容するのに対し、「恐らく、多分」は遂行層への層転移を許容しない。だから、「きっと」は「恐らく、多分」とは異なる意味・用法を持つと言える。
5,100원
In this research, the differences of refusal expressions between Japanese and korean are demonstrated on the basis of TV drama and cinemas. Using the estimation criterion of the ‘smile’, ‘expressionless’ and ‘sad face’, those are analysed on the standpoint of ‘the role of expressions’, ‘differences between UCHI, SOTO, YOSO’ and ‘expressive differences depending upon the relative importances of proposal’, the results of which are considered like as follows. 1. The smile as a refusal expression make for a mild atmosphere and dilute the meaning of refusal. On the other hand, ‘expressionless’ and ‘sad face’ are used as a meaning of refusal or a emphasizing the diffcult messages for saying. 2. The meaning of expressionless can be predicted by the fatial expressions. Expressionless and sad face usually mean consent, while the smile means refusal. 3. Japanese is more influenced by the differences of ‘UCHI, SOTO, YOSO’ than korean. In the case of Japanese, expressionless and sad face are used in UCHI, smile and expressionless is usually used in SOTO and YOSO, respectively. On the other hand, in the case of Korean, smile is used in more wide range than that of Japanese, and the differences between ‘UCHI, SOTO, YOSO’ is not so precise on the appearance ratios of expressionless and sad face. 4. On the refusal expressions to the request, the number of expressionless is the highest in both cases (Japan and Korea). In that, Japanese more like the sad face, while Korean more like using the smile. In the case of Korean, the differences of expressions depending upon the importances of proposal are relatively larger than that of Japanese. Consequently, the expressions of Japanese are strongly influenced from the refusal partener, while those of Korean are mainly influenced from the relative importances of the proposal.
4,500원
本稿は、陳述副詞および文副詞․モダリティ副詞に関する従来の分類法を批判的に捉え、日本語の推量的な副詞群の下位分類の問題について記述したものである。本稿ではまず、従来の副詞分類における次の二点の問題点を提起した。第一に、副詞の意味抽出や分類が文タイプや文末形式との呼応関係に依存しすぎてきたという問題がある。第二に、従来の副詞研究では、蓋然性の程度(真偽の度合い)を用いて説明できる言語現象や副詞の範囲が広すぎるという問題があり、蓋然性という概念を整理․分類する必要がある。 具体的な記述方法として、まず推量的な副詞の共起関係を対象とした調査を行い、個々の副詞が文末のどのような形式とどれだけ共起しているかを分析した。その結果、副詞と文末のモダリティとの関係は一対一の呼応関係ではなく、したがって、副詞は文末のモダリティの枠組みの中では必ずしも説明できないということが確認できた。また、これらの副詞群が連体節内の推量的意味を表す用例や文末のモダリティ形式が過去形を取るといった用例の調査を通して、それぞれの副詞群が持つ叙法性についても分析を行った。この調査結果からも副詞が持つ叙法性と文末のモダリティが持つ叙法性とは一致していないことがわかった。これらの諸現象に基づいて、本稿では蓋然性の程度という意味的な分類、あるいは「基本叙法」と「副次叙法」といった叙法性の強弱による分類より、副詞の共起制限の傾向性や意味の類似性を反映した分類法がより有効であることを論証した。
文化能力의 敎育과 評價를 위한 提案―牧野의 文化能力基準試案의檢討를中心으로―
한국일본학회 일본학보 제64권 2005.08 pp.217-232
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近年、外国語教育の分野において「文化能力」の養成が益々重要視されるようになってきている。本研究はこのような状況を受け、文化の概念と定義に関する主要研究を概観し、また言語教育、外国語教育の分野における言語と文化の相互関係についても詳しく考察を行い、新たな両者の関係づけを行ってみた。本論では、近年発表された牧野成一の「文化能力基準試案」(2003)の検討を通して、その内容の評価できる面と問題点を挙げ、そのうえ文化能力の教育と評価のための具体的な提案を行った。具体的にその内容を示してみると、牧野の試案で示されてない「文化能力項目」を学習段階ごとに設定、提示し、学習段階ごとに文化能力を測定、評価するために必要なテストの具体的項目の設定とテストの方法をも研究、開発するべきであるということを提案し、その具体的な方法と方向、内容を提示している。
「혼초 니주후코(本朝二十不孝)」와 「세켄 무스코 가타기(世間子息氣質)」의 비교 고찰―인물상을 중심으로―
한국일본학회 일본학보 제64권 2005.08 pp.233-244
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本稿は井原西鶴の『本朝二十不孝』と江島其磧の『世間子息気質』の登場人物の比較研究により、二作の内容の関連性及び相違点を発見し、この意義を考察することを目的とする。まず、二作の序文により『本朝二十不孝』は「孝行の奨励」というモチーフの作品であることが予測できる。これに付け加え『世間子息気質』は「親の教育」という真新しいモチーフが見受けられる。 次に二作品の主要登場人物である息子の様子を比較分析すると、『本朝二十不孝』では息子は「悪人」として描かれ、『世間子息気質』では息子は「愚人」として描かれている。前者は天の因果応報を受ける悲惨な結末を向かえるが、後者の行く末はまちまちである。このように息子を「愚人」として設定する意義を明らかにすることが必要である。また、主要な人物として二作品共に親が登場するが、親は子に対する盲目的とまで言える一方的な愛を注ぐ。しかし、『世間子息気質』では5巻に進むにつれ、子に対して教育しようとする親の姿が目立ってくるのである。したがって、『世間子息気質』では「愚人」の息子及び「教育する親」の姿を浮上させ、「親の教育」というモチーフを用いて、現実的問題意識を提示したと理解される。これは、今までの『世間子息気質』の研究にモチーフの問題を浮上させる新しい試みである。
文学作品に反映された摂関政治の権力構造―私家集 『村上御集』の贈答歌を中心として―
한국일본학회 일본학보 제64권 2005.08 pp.245-262
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本論文は、平安時代の私家集『村上御集』を契機として、家集編纂の際、その根底に敷かれていた編纂者の政治観乃至政治権力構造に関する理解を読み解いたものである。つまり、編纂者が歌を拾い集め、そこから家集に入集する歌を撰び、それを排列したとき、その背景にある村上後宮の各人物を、当時の摂関政治の権力構造という枠内で取捨選択していたことを論証した。その取捨選択の基準となったのは、後宮の各人物の血筋と後見人の官職の重みである。第一に、後宮人物の父母の血統が良房以来の摂政関白を出しているかどうかの基準が働いており、もう一つの基準としては天暦8年あたりの政治権力の見取り図が反映されているのである。すなわち、村上天皇個人の家集づくりの中にその配偶者たちをめぐる政治権力の構造が色濃く反映されていることが把握できたのでる。このような村上御集だけの特徴は、他の御集と比較した際に一層浮彫りになる。村上御集とうのは、華麗なる摂関政治の道長時代につながる芽生えを文学作品によって確認できる良き一例になるのである。
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世阿彌の作品と見てよい『松風』と『姨捨』は、「月下の夜遊」という共通的なモチーフを有している。本考ではこの意味でこの二作品を分析の対象として選び、作品の主要素材である月光と主人公の心理とのかかわり合い方に分析の主眼点をおいた。その結果明らかになったのは、各主人公の心に影響を及ぼすなんらかの月光の作用構造が捉えられるということである。『松風』の主人公と行平との情愛は、月下の舟遊びを通して深まったため、主人公の松風の愛執は、とくに水に映っている月に向かっていた。その月光は松風の心を高揚させ、ついの果てには心の狂気をおこすにまで到らしている。こういったところに月光の作用が読まれるのである。『姨捨』の主人公の老女にもそれと似通った月光の作用が読み取られる。つまり、月光を通して心を澄まそうとする「月光の作用」関係の構造が『松風』の場合よりも鮮明に読み取れた。月光の超越的な力を強く意識する主人公の姿も見られ、月の美しさに陶酔されたあげく浄土幻想を見るに到る有り様さえもうかがえた。いづれも作品の主人公の心に緊密に関わっている月光の例であり、月が作品の主要素材として設定されている世阿彌作品群の研究において、興味深い示唆を与えてくれている。
4,800원
近代日本女流作家たちは彼女たちが経験した戦争をどのように描きあげているのであろうか。戦争は女性とはあまりかかわりのないもののように見えるが、実際に戦争のしんの被害者は女姓ではなかろうか。太平洋戦争の末期には若い女たちまでが勤労に動員され、また銃後の役割を強要されたりした。 戦争の話は男性たちが書いた戦争物が主流をなしてきた。1950年代にいたり、経済復興がはじまった時代状況の中で戦争物の出版がブームになったときもあった。一方、15年戦争中に近代女流作家たちが見せた行動は, 戦争とは全く無関心だった傍観者と、戦争に積極的に加担した者, そして戦争を批判しかつ抵抗しながら苦痛をこうむった作家たち、このように大きく三つに分類される。その中で宮本百合子が見せてくれた反戦行為は同時代の他の女流作家ちと比較していかにも驚くべき行蹟であった。彼女は自らこのような執筆姿勢を“愛を失った女たちと家庭の柱を失った婦人たちのもの”になりたかった意図があったことを明らかにした。これは彼女が戦争中に女性たちの生活にいかに深い関心を見せていたかを証明してくれる。まさに戦争の真の被害者は女性たちであり、彼女自らを含める女性たちの苦痛を代辨しようとした強い姿勢が彼女の作品によく表われている。
4,900원
本稿は江戸川乱歩の『黄金仮面』を考察の対象にし、一度そのテクストが書かれ読まれた時空間に引き戻し、それが博した大衆的人気の理由を探った。その理由を乱歩のメディア認識とそれがもたらしたエクリチュールの変化、そして同時代のさまざまな記号や社会的葛藤(不安)を乱歩がテクストの中に構造化し解消するプロセスを分析することで説明を試みた。昭和初期の社会․文化を説明する際、モダニズムからファシズムへとの単線的な説明は道徳的な評価以外あまり実りの多いものとはいえない。本稿は乱歩という鋭い時代認識をもつ作者の大衆のナショナリズム高揚への眼差しを、作者と読者、それをつなげる新聞․雑誌などのメディア、そこにちりばめられていくナショナリズムの諸相を相動․連続するダイナミズムとして説明した。それによってモダニズムからファシズムへという時代の変化のメカニズムの一端が明らかになった。
4,600원
『青鞜』(1911ー1916)には<近代的な自我>に目覚め、自己の覚醒を体験した女性作家たちの赤裸々な告白的である自己語りの言説が展開されている。『青鞜』の小説は一人称であろうと三人称であろうと、殆んどの内実は告白体の形をとっているだろう。その彼女たちの告白は、自然主義文学を中心とする同時代の男性作家の告白体の小説とは相違が見られている。本稿では男性作家の告白小説の代表格である田山花袋の「蒲団」(1907)と、『青鞜』の代表的な告白小説である荒木郁子、平塚らいてう、伊藤野枝、岩野清子の作品を比較してみる。自然主義文学のほとんどが性慾と性行為に関する告白であり、作家は性的執着を綿々と語り、自己の醜悪さを大胆に告白した。それに対して、『青鞜』の作家たちは家長や夫からの抑圧、男女の厳然とした差別にぶつからざるをえなかった。彼女たちにとっては自己とその狭い生活周辺の問題がすべてであり、同時に女の苦渋に満ちた生活経験が、そのまま文学になっている。この切々とした身の上話しや心情告白が、女の生活のリアリティを展開しえたのである。『青鞜』の告白体の小説は男性作家がふれることのできない女の意識の深淵をえぐりだした貴重な作品だということができるだろう。彼女たちはこうして、自己を被害者としてしたて、「自己をいつわらず」に告白することによって抑圧の現実に対して激しい批判や訴えを投げつけているのである。
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漱石は明治38、9年頃自然主義文學の一色である明治文壇を重く受け止めていた。それで反ー自然主義的な作品を書くようになる。「一夜」も反ー自然主義的立場から執筆されるが、初期モダニズムの実験性をもっともよく具現している。また破片化、相互テキスト性、メタフィックションなどの観点から思うとポストモダニズム的読みも可能であると思い、それを試みた論文である。要するに、漱石は以前時代を引用しながら次の時代を夢見ていたと展望したのである。 「一夜」の読み方は大雑把に言えば二通りである。一つは「筋や脈絡がない」「歴史や性格を重視する今までの小説のやりかたをこわした反ー小説」「内容は曖昧で機智ばかり追う」「写生文又は俳句小説」といって「実験的小説」の側面のみを断片的に浮彫りにしている傾向であり、もう一つは「一夜」がそれなりに読めそうな小説作品だといった論理を揚げて三人の登場人物の性格や定位を規定しようとする傾向である。しかし、前者においては肝心の何を実験的に見せているかについてはほぼ無頓着である。後者もまたいかにもポストモダニズムの反発を買うようになる時期のモダニスト的な読み方を取っているような気がするのだ。それで筆者は従来の論旨とは反対側から「一夜」を読んでみた。 筆者は漱石が『18世紀英文学』に関する講義録を作りながら『猫』や『漾虚集』などの執筆に携わっていたことに重きをおき、当時漱石が方法的にもっとも関心を寄せていたL.スターンの『トリストラム・シャンディー』の小説方法に注目した。L.スターンは今日に至ってポストモダニズ厶的読みの可能な作家として新たに脚光を浴びている。従ってスターンとほぼ同じく「一夜」も登場人物の性格や役割を流動的に描き、従来重視されてきた時間の流れにそっての叙述順序などを無視しているため、今までの読み方と異るホストモだダニズ厶的読みを試みた。スターンがあべこべになった叙述順序を通して小説とはあくまでも虚構であり決して「人生」の一部でないといった点を強調しながら「人生」を一貫性のあるものとして秩序よく叙述するというのが不可能であることを主張したならば、漱石もまたこれをパロディー化する形で文学または小説を通しての「人生」の再現の可能性を極力否認したと思う。「彼らの一夜を描いたのは彼らの生涯を描いたのである」「人生を書いたので小説を書いたのでないから仕方がない」といったことによって漱石は<一刻が永遠となる>という自分の考え方を貫きながら小説とは多様性と偶然性から点綴される人の生即ち「人生」をあるがままに表現するとしたらこのようになるのだということを見せてくれたのである。これはまさに小説でない小説を提示したものである。
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超高度情報通信技術の進展は我々の生活のみではなく、政治過程に大きな変化をもたらしている。ITの政治過程への導入は政党の政治活動や選挙運動・投票にも大きな影響を与えている。日本では2002年6月岡山県新見市で電子投票が導入された以来、地方選挙で13回の電子投票が実施された。本稿は電子投票の導入から開票までのプロセスとその効果を社会経済的側面と政治的な側面から考察する。更に現在実施している電子投票の問題点と今後の課題を考察した上で電子投票が持つ政治的なインプリケーション分析する。 電子投票は開票時間の短縮と無効票の減少、選挙管理業務の効率化に大きく寄与していることが分析の結果明らかになった。電子投票に伴う導入費用の問題は議論の対象であるが既に実施している自治体の場合、開票費用の削減などの効果を出している。有権者の反応をみても投票の単純化・正確性・人件費削減などを効果としてあげている。しかし、今後の課題としては機械の操作ミスと電子投票システムの安全性確保・秘密投票・信頼性の確保等が提議されている。有権者に対するPR、事前体験、Usability等の確保も大きな課題である。電子投票はIT化による選挙環境の変化に伴いより便利な投票サービスを有権者へ提供すると共に従来の選挙制度と投票システムが持っている問題点を見直すことでより民主的な政治参加手段と環境を有権者に提供する意味では民主主義の構造改革であろう。
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国際社会のなかで経済大国の地位を獲得した日本が、文化力の拡大を狙ってこの分野に力を入れ始めたのは70年代に入ってからである。それから日本の政府は、外務省を中心に積極的な文化政策を立案した。その特徴は、文化民族主義、官民一体主義、そして緻密な細部計画の樹立などで要約できるが、この三位一体を通して日本は日本文化の優秀性を海外に伝播するため総力を傾いてきた。80年代から日本政府が韓国との文化交流に焦点を合わせていることには、このような背景があった。日本に比べて韓国の文化政策は、日本の文化民族主義とは性格を異にしているものの、外来文化についてはかなり抑圧する政策をとってきた。それは、政治․経済分野での海外依存度がかなりたかかったため、文化の分野だけは民族文化のアイデンティティの確立が必要だという認識があったからである。しかし、このような韓国の文化民族主義は、90年代に入ってからは文化をめぐる国内外の環境急変と韓国内部の価値観の変化などによって、文化政策にも劇的な変化が現れ始めた。要するに、伝統を重んずる文化民族主義から脱皮して、文化を最大限付加価値を創造する21世紀の新産業として育成する方向へ向かい始めるようになった。日本との文化交流の拡大に取り組んだのも、このような背景があった。本稿では、韓日両国が同状異夢の形で文化交流を進めてきたが、それが結果的には両国の関係改善に貢献してきたことを確認しながら、一方では今後も両国の文化交流が友好関係の構築に実実的に貢献するためには、どういう課題を克服すべきかを検討してきた。
U-사회에서의 한국과 일본의 정보보호정책 추진방안― 한국과 일본의 정책비교를 통한 국가협력을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제64권 2005.08 pp.375-390
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In ubiquitous society(u-Society) the information technology forces the changes of public service and citizen's needs. Each country has been implementing National Informatization Plan(NIP) based on information security policy, because the information security is a part of major issues to be resolved to construct secure u-Government. In case of Korea and Japan, both try to overcome the problem of informatization risks by containing them as one of NIP initiatives. So this study analyzes information security policy from political, technical, and administrative perspectives. After then the study tries to make a plan for the information security through the cooperation of both countries. Therefore, the study suggests an effective cooperating method to realize u-Society.
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本稿は近世日本儒学に関する先行研究から見られる特徴を「日本的な儒学の創出」という視角でまとめてみたものである。近代以後、長い間通説として認められてきた徳川幕府の体制イデオロギーや幕藩体制の封建教学としての朱子学という歴史的な評価が戦後日本思想史研究の展開や変遷とともに否定されつつ、また一方では古義学や古文辞学の形態で展開された日本古学派の学問と思想を表象した日本的な儒学という新たな儒学イデオロギーが登場してくる過程を確認した。特に十八世紀の日本古学派は近世日本社会で政治的かつ社会的な有効性を掲げながら為政者たちに接近した。その過程で彼らは十七世紀の儒学界を主導してきた朱子学を根本から否定する思想闘争の姿勢を取り,また同時に原始儒教へ回帰しようというスローガンの下で自分達が再構成した古学派を近世日本社会にもっとも適合する学問や思想であると唱え立てた。ただこのような日本古学派が主張した適合性が近世日本社会にどれ程受け入れられて活用されたかは疑問である。少くとも近世日本朱子学の歴史的な役割と比べる限りはそう言える。にもかかわらず戦後日本思想史研究では古学派の学問と思想を中心として近世日本儒学史が語られてきた。そして一九六〇年代以降次第に復活する伝統思想とともに昂揚した日本的な特殊性、いわゆる日本特殊論の盛況する最中に築き上げられた言説が「日本的な儒学」論である。二〇世紀末の先行研究には近代思想の萌芽としての古学思想と日本的な儒学としての古学思想がまるで相互矛盾せずに通説として共立している。このように戦後日本思想史研究が築き上げた古学派像を換言すれば伝統思想を再創出した古学派イデオロギーでもあった。問題はその古学派イデオロギーを支えた土台が十七世紀以降の日本朱子学であったし、また学派としての古学が十八世紀に自己分解したことに比べても朱子学は近代まで学派と思想として生き延びたことである。それゆえ古学派の学問や思想を日本的儒学として表象した戦後日本思想史研究が意図したものや歴史的意義を確認してみることも重要であろう。
韓國에 있어서의 日本語 硏究(2003~2004)―專門學術誌의 硏究 動向―
한국일본학회 일본학보 제64권 2005.08 pp.409-430
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本稿は2003~2004年の間に行われた韓国における日本語研究の主な流れを全国規模の専門学術誌に掲載された500の論文を通して把握してみようとしたものである。これは1994年を起点にして、それ以後韓国で行われた日本語研究の流れを把握するために計画された作業の一環であり、前回(2001~2002年)の調査の続編としての性格を持っている。 調査の結果、2003~2004年の間に行われた500本の研究論文は、文法(182)、日本語史(115)、日本語教育(81)、語彙(45)、社会言語学(39)、音声․音韻(23)、その他(9)、文字․表記(6)の順に研究活動が進行していることが分かった。前回の調査と比較してみる時、語彙分野の論文数が増え、社会言語学との順番が入れ換っていることが窺える。 最も研究比重の高い文法研究は前回と同じようにモダリティ(modality)とヴォイス(使役․受動․自發)に関する研究が活発に行われていることが確認できた。日本語史研究の場合は、漢字音と近代漢字語、そして文法史の研究が相対的に活発であったと言えよう。また、日本語教育においては教育開発と教育実態調査に関わる論究が多かった。1999年以来、増加し続けたコンピューターやインターネット関連の論究は今回ではやや低調の傾向を見せている。 分野別研究において韓国語との対照研究が占める比率(対照研究/分野別研究)は、語彙(17/45)、社会言語学(14/39)、日本語史(28/115)、文法(39/182)、音声․音韻(4/23)、文字․表記(1/6)、日本語教育(3/81)の順の分布を見せている。語彙分野で最も韓日対照研究が活発であり、日本語教育においてそれが最も劣勢におかれているのは前回の調査と同じ傾向を見せているのであるが、2002年を起点にして徐々に語彙分野の研究が活発になっている状況は今後の研究動向と関わり注目に値する現象と言えよう。
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