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일본학보 [The Korean Journal of Japanology]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본학회 [Korea Association Of Japanology]
  • pISSN
    1225-1453
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    1973 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제58권 (34건)
No
1

4,000원

日本語での「を」格ゼロマーク化の要因としては、隣接性と名詞形式差(語彙名詞か代名詞か)が働いている ことがわかっているが、韓国語の場合には、隣接性だけが要因として働いており、形式差は要因としては働いていないという結果が出た。また、ゼロ化率についてのスケールでみると、日本語では疑問詞>語彙名詞>代名詞>節の順であるが、韓国語では男性の場合は日本語と同じ順になったが、女性の会話の場合は疑問詞>代名詞>節>語彙名詞という順として現れた。「を」格に相当する格表示をもつ言語については、語彙名詞>代名詞というスケールが普遍的なものであろうという松田(2002)の主張に対して、韓国人女性の場合にはそれを否定する結果として現れている。これは、韓国人女性の会話人数の少なさによるものなのか、韓国人女性の会話に普遍的に見られるものなのかは今後の研究に待たざるをえない。

2

日本語における仮想的条件表現の再考

金慶恵

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.11-24

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4,600원

日本語において仮想条件表現が一つの意味用法として位置づけされたのはそれほど長くない。これまでは一般的に仮定条件表現の椊内で扱われてきていた。その原因は二つの構文の構造が大変類似しているからである。しかし、構文構造の類似という特徴が構文内容の一致を表すわけではない。それは仮定条件表現と仮想条件表現を同一視することはできないということである。条件表現のなかには、仮定条件表現と看做すことはできないが、仮定条件表現文の構文構造で現れていながら、すでに存在するある事実に対する話し手の後悔·懐疑的な気持ちを表現する条件文がある。構文内容はある事実に反することを述べる条件表現であり、そのような条件文をいわゆる仮想条件表現と言う。このように仮想条件表現と仮定条件表現との相違は、前件と後件の命題の真偽に関わる反事実性が関鍵である。このような仮想条件表現文として特徴づける野は話し手の心的態度の問題による。それに増して、構文内における表現構造の特徴として、「タ」形式·状態性表現·否定的表現·完成相形式を借りて命題に関する話し手の意思表示を明確にさせること、また仮想条件表現を確実に成立させるのに多いに役立つ文末表現様式をあげることができる。しかしながら、仮想条件表現を考える上での必須条件は、命題内容が前件·後件、または後件において命題の偽り関係の成立であり、それは、前件においてある事実に反する表現を提示したり、または事実そのものを提示することで後件で提示された条件に対する懐疑、希望、期待といった話し手の心的態度を表すことである。このような仮想条件表現を満足させる条件が整った構文に条件表現を表す形態が現われると、各々の特徴的な働きが充分反映された仮想条件表現を表すことになる。

3

4,600원

日本語と韓国語は、相手を直接待遇する対者表現が発達していることで類似している。そのことから、対者表現に關しては數多くの硏究が成されてきたが、韓国語はいくつもの段階に分かれ複雑に発達している反面、日本語の対者表現はそれに比べシンプルな構造を成しているということが定説になっている。本稿では、日本の方言地域(新潟市五十嵐二の町)に着目した場合、文末詞が対者表現に大きな役割を果たしていることに注目し、対者表現としての文末詞の待遇的働きを明らかにするとともに、それを通して、日本語における対者表現の構造及び体系に関する定説を再検討することを目的としている。本稿は、敬体文と常体文の使用概観、五十嵐二の町で見られる対者表現の二つのパターン、常体文における文末詞の待遇的役割、五十嵐二の町の文末構成要素及び体系の順に進めている。分析の結果、次のことがわかった。当該地域の対者表現は、「だ体」と「です・ます体」以外に上上・上・中・下といった異なる待遇度を有する文末詞(この際、文末詞を持たないものも一つの段階と見なされる)が盛んに発達し、それらをウチとソト、年上と年下など相手との関係を考慮に入れ、細かく使い分けており、韓国語に劣らない複雑でかつ体系的なものであった。

4

現代日本語における「かもしれない」の意味分析

金良宣

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.39-54

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4,900원

本論文では、「かもしれない」をより客観的に意味分析するため、19冊からの用例を書き言葉と話し言葉とに二分したうえ、発話内容の成立「可能性」とそれに対する話者の「確信」の度合いに従って「可能性0%」「可能性下」「可能性中」「可能性上」「可能性100%」という5つのグル-プに分け、それぞれの特徴を次のように提示することを試みた。 第一に、「かもしれない」の意味は、書き言葉の場合は「可能性0%=確信100%(比喩/反事実的条件文)」「可能性下=不確信」「可能性中=無確信」「可能性上=有確信(譲歩/主張展開)」「可能性100%=確信100%(前置き/婉曲)」が表れる。一方、話し言葉の場合は、「可能性0%=確信100%(反事実的条件文)」「可能性下=不確信」「可能性中=無確信」「可能性上=有確信(譲歩/主張展開)」「可能性100%=確信100%(前置き/婉曲/回避)」が表れる。 第二に、各カテゴリ―での「かもしれない」の特徴は次のようである。 (1)「可能性0%=確信100%」は文型や人称などの制限のない比喩表現と「反事実的仮定文」で表われやすく、いわゆる陳述副詞との共起は見当たらない。 (2)「可能性下=不確信」は確率の低い表現(「あるいは(A)、もしかすると、ひょっとすると、ことによると」等)と共起し、非一人称的な発話内容に限られる。 (3)「可能性中=無確信」は非過去的ではあるが人称的制限はない。 (4)「可能性上=有確信(譲歩)」は、書き言葉では、①前提条件だけを表す「と」と、②確率の高い副詞(「あるいは(B)、やはり、たぶん、おそらく、たしかに」等)と、③根拠·理由(「~から」節)と共起する一方、話し言葉では、それにもう一つ、④「非一人称的発話内容+理由(根拠)+念押し(「な」「ぞ」等)」という形式をとる。ただ「譲歩」の場合は話者に反論の意思が必ず内在していなければならない。 (5)「可能性100%」は、書き言葉の場合、「前置き」は普遍論か一般人を示した後で特定人か事態をとり出す形式をとるが、「婉曲」は「一人称的な発話内容+『本当、もちろん』」という形式か、理由(根拠)+意見(評価)」という形式をとりやすい。一方、話し言葉の場合、「前置き」は「おせっかい、おじゃま」等のマイナス的な意味の単語と承接しやすいが、「婉曲」は書き言葉と同じであり、「回避」は話者に不利な状況

5

韓日兩言語の所有受動文の統語構造について

金榮敏

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.55-68

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4,600원

本稿では、韓日両言語の所有受動文の統語構造について考察し、所有受動文は統語的に単文構造をもつ直接受動文ではなく、複文構造をもつ間接受動文であることを明らかにする。 間接受動文は対応する能動文に現れない名詞句、或は能動文の必須項でない名詞句が受動文の主語になる。そのため、間接受動文は複文構造を成し、受動文の主語は主節の主語位置に基底生成される。所有受動文も能動文の必須項でない名詞句が受動文の主語になるので、所有受動文は複文構造をもつ間接受動文であると考えられる。しかし、所有受動文を間接受動文ではなく、単文構造をもつ直接受動文と見なす分析がある。所有受動文が対格重出の能動文から派生するとする分析と所有者繰り上げによって派生するとする分析である。本稿では、これらの分析における問題点を検討し、所有受動文を複文構造を持つ間接受動文と見なすことによってそれらの問題点が解決されることを明らかにする。 まず、所有受動文が対格重出の能動文から派生するとする分析については、全体名詞句の文法機能に関する議論と部分名詞句が文頭に語順かき混ぜされた文の適格性に関する考察を通して、その問題点を検証し、やはり所有受動文は複文構造をもつ間接受動文と見なすべきであることを主張する。 次に、所有受動文を所有者繰り上げによって派生するとする分析についても、部分名詞句を文頭に語順かき混ぜした文の適格性に関する考察を通して、所有受動文が複文構造の間接受動文であることを明確に示す。

6

일본어 번역시험에 관한 조사연구

김한식

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.69-84

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4,900원

現在、韓国日本学会傘下の日本語通訳翻訳学会では、日本語翻訳テストの実施を計画している。その準備 段階として、これまで韓国で行われた各種の日本語翻訳テストに関する調査․分析を実施した。かつてから7つの 民間機関によって試験が行われたが、現在も続けられているものは3つに過ぎず、4つは廃止、または中断され ている。大半の翻訳テストが受験者のニーズを満たすことができなかったことを意味するが、その主な理由は、 合格者に翻訳の機会が与えられないなど、受験․合格者の期待する後続措置が伴わなかったためと思われる。学 会が主体となって実施することになる新しい翻訳テストを成功させるためには、これまでの他の試験との差別化、 主催機関と後援機関との有機的な協力、適切な出題と正確な評価、合格者に対する翻訳機会の提供など事後 管理が重要な課題であると考えられる。

7

일본어 담화의 정보구조에 있어서 전제의 양상

金惠林

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.85-100

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4,900원

It seems to me that man is interchanged with his emotion and thought through words, and is communicated by them. While the communication is achieved, it is necessary that the hearer should share the basic knowledge or experience with the speaker to rightly understand and receive the true meaning of words that the speaker intends to utter and communicate. In other words, it is necessary that the speaker should provide the hearer with information as a form adding focus factor that has the new informative value, which is related to the presupposition factor that the speaker himself supposes of his knowledge or his conscious condition, in order to make it possible that the hearer can effectively communicate information to the speaker. But the problem is the case that presupposition is not given in the real discourse, or the case that the right discourse is not achieved because it does not have the same presupposition between the hearer and the speaker, even though it is given. Therefore, this thesis investigates how presupposition is expressed in the real discourse, by using the sentences that the discourse condition is established, connecting the information structure of sentence using, when the speaker communicates information to the hearer with the condition of communication. As a result, we realized that the complete communication could be achieved when the speaker's supposition of the hearer's spiritual condition that the hearer has of such inference as well as the supposition that the speaker inferred of the hearer's spiritual condition should be considered in the presupposition in the information structure.

8

「形容詞+める」と「形容詞+くする」の意味的違い

金熹成

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.101-114

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4,600원

本稿は「形容詞+める」と「形容詞+くする」の意味的違いを明らかにすることを目的とする。両構文は主語の何らかの働きかけによって目的語に状態変化が起こることを表す。しかし、両構文には意味的違いが存在する。「形容詞+める」は変化の過程に焦点が置かれるのに対して、「形容詞+くする」は変化の結果に焦点が置かれるということである。そして、「形容詞+める」は相対的な変化を表し、「形容詞+くする」は絶対的な変化を表すという特徴を持つ。このような意味的違いは両構文に目的語として現れる「を」格名詞句の性質に反映されている。つまり、「形容詞+める」には主に変化の結果を想定しにくい抽象名詞句が用いられ、「形容詞+くする」には主に変化の結果を想定しやすい具象名詞句が用いられるという違いが見られる。なお、「形容詞+める」は「形容詞+まらせる」と対立し、「形容詞+くする」は「形容詞+くさせる」と対立するが、この対立には「を」格名詞句の有生·無生、そして意志性の有無が関わっている。

9

5,200원

本稿は1945年から1960年までの韓國の流行歌235曲と、日本の流行歌233曲を計量言語學的方法を通じて流行歌の語彙の分析を行い、日帝强占期以後の流行歌に表われる語彙の樣相 及びその特徵を量的な側面から計量することに目的がある。現行流行歌はその時代の大衆情緖および文化意識が、もっともよく反映された資料であると言える。流行歌の分析を通して、その歌謠が流行したその時代の文化意識を具體的に探ることができると思われる。 まず流行歌で最も使用率の高い自然物を表す語意の中、「月·星·光·空·雲」 「風·雨·雪·霞み·露」 「花·木·草」 「山·江(川)·海」 「岩·石·砂土地」「畑·野」に關する語彙を調査して見た。自然物を表す語彙を使用率が高い順で示すと次のようになる。韓國の場合は「花>山>光>月>鳥>江>雨>海>星>風>空>動物>雪>雲>木>土>草>畑>石>露>岩>霞>野>砂」の順である。日本の場合は 「花>山>海>光>風>鳥>月>空>木>雨>江>動物>霞>雪>雲>星>露>土>野>草>畑>石>砂>岩」の順である。「花·山」の使用率が兩國とも高くて、「霞み·露」の場合は韓國ではその使用率が低い一方、日本では高かった。これは日本人がこの自然物に對して韓國人が感じていない特別な情緖があるtためであると考えられる。 今後は今まで調査した流行歌の語彙以外にも交通手段に關する語彙、數を表す語彙、および流行歌の語彙と雜誌·新聞などの語彙とはどのように違いがあるのかを調べてみたい。さらに、1910年から1945年までの語彙の分析を通じてその結果を比較·分析して、1910年から1960年までの流行歌の語彙の流れを把握することによって、当代の社会相·文化相·政治相なども調べていきたい。

10

4,600원

本稿は、帝国主義日本が植民地朝鮮において行った国語(日本語)強制の実態と、それの持つ言語学的な意味の究明を試みたものである。具体的には、教育現場である小学校における実態や、四回にわたって更新が繰り返された「朝鮮教育令」の内容を吟味した。 その結果、教育現場である小学校においては、朝鮮人を対象とした教育の根幹は、「国語(日本語)」の普及にあったことを確認した。さらに、その普及というのは、ただ単に日本語を伝達手段とするコミュニーケション機能の教授といった純粋な目的ではなくて、あくまでも「国語」を媒介とするイデオロギーの注入、つまり植民地体制を存続させ、かつ安定した統治を図るがためのものであったことも確かめた。 一方、「朝鮮教育令」の改正内容を通じて、「日本語」というものの持つ極めてイデオロギー的な要素が、画一化されたコミュニケーションとして制度化されていく過程を見た。さらに、その中において、伝達手段の共有や国民的平等といった言語的理念を建前としつつ、実際には皇民化の手段とする一種の政治的概念としての日本語常用化政策のあり方は実に意味深いものである。それは、差別をなくすがための言語機能であるはずのコミュニケーションの役割が、政治性を帯びることによって、もっとも差別を深化させる機能を担ってしまった様相の確認でもあった。要するに日本が行った植民地朝鮮における「日本語常用化」というものを、コミュニケーションの総体の問題としてとらえるのが、言語問題の本質に接近できるのではないかと考えるのである。

11

4,800원

通訳という専門的な作業を行なうためには、その基本的な条件として言語能力と背景知識、通訳スキルを必要とする。本論文では、このような条件を満たすために大学においては実際どのような通訳教育が行われているか、事例報告を通じてその実像と今後の通訳教育のあり方を考察した。その結果として、現在の大学の通訳教育では教師の通訳教育にたいする認識不足や学生たちの語学力の不足、クラス状況などの授業環境、カリキュラムなどの現実的な問題から通訳現場で必要とする高いレベルの語学力と背景知識、通訳スキルを習得させるには限界があることを指摘した。またこのような制約と限界を乗り越え、ビジネス通訳を含めた一般通訳の可能な通訳者の養成のための方法としては、通訳教育の目標の具体化とその実践、細部専攻として通訳コースの導入とカリキュラムの再編成、短期大学の場合は授業年限の延長のための3年制への改編、さらに通訳サークルの積極的な運営と模擬韓日国際会議の定期的の開催、日本姉妹大学との交流の拡大、各種の国際行事へのボランテイア参加を通じた通訳機会の拡大などの授業外の活動の積極的な導入、最後に教師による通訳教授法と教材の研究などを提示した。もちろんこのような方法以外にも、より效果的で現実的な方法があると思われるが、これは、今後通訳教育を担当している教師と通訳現場で通訳の仕事に従事している専門通訳士が共に研究していかなければならないことである。

12

依賴談話の日韓比較硏究-依頼のための情報提供の現れ方を中心に-

柳慧政

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.163-173

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4,200원

本稿は、依頼談話において、日本人母語話者と韓国人日本語学習者の言語行動を特に依頼の目的達成のための情報提供という面から比較したものである。 情報提供というのは依頼者が自分の置かれている状况を相手に理解してもらい、依頼の目的達成につながるよう行う言語行動である。主に、事情の説明と理由の説明の二つに分けられるが、それの現れ方や使用分布には日本人母語話者と韓国人日本語学習者との間に差が出ると思われる。 このような差が韓国人日本語学習者の言語行動に日本人が違和感を感じる原因ではないかと考え、本稿では、談話資料の分析を基にその相違点を明らかにすることを試みた。 依頼場面の設定においては、上下関係と依頼用件の負担度という二つの要素を取り入れたが、分析の結果、情報提供の面からは上下関係より依頼用件の負担度によって、その現れ方や使用分布に差が現れた。 また、日本人母語話者は複数の情報がある場合、週辺的なことがらから徐々に核心的なことがらへ情報提供をしていく傾向が見られた反面、韓国人日本語学習者には自己中心的なことがらを先に提供する傾向が見られた。

13

近世日本의 韓國語 學習書 ―言語史硏究資料로서의 系譜와 性格―

李康民

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.175-192

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5,200원

本稿は近世日本における韓国語学習書を概括し、それぞれの学習書が持つ言語資料としての素性とまたそこに潜在している問題点を私なりに記述してみようとするものである。ここで言う韓国語学習書とは、韓国語学習を目的に日本人の手によって主に日本の江戸時代に製作された韓国語教材を指す。したがって、本来韓国で作られ日本に伝来した韓国の古典小説の類は観察の対象から除外した。 本稿での考察の対象とする韓国語学習書は都合10余種を数えるが、これらの学習書に内在している韓国語と日本語に関連する言語事象は両国言語の史的研究や対照言語学的研究に看過できない価値を有しているにも拘わらず、韓国や日本のどちらにおいても体系的な研究が行われていないのが現在の実情である。したがって、本稿ではまずこれらの学習書を概観し、近世日本における韓国語学習の流れを把握できるように配慮した。そしてそれらの学習書を表記形態から韓国語を仮名で記した仮名表記学習書と韓国語をハングルで記したハングル表記学習書に分けて分析を行った。 分析の結果、江戸時代における韓国語学習書の頂点に位置したのは『交隣須知』であったことが改めて確認された。『交隣須知』は数多くの韓国語学習書に影響を及ぼしている。また、近世日本における韓国語の学習は19世紀以後一層盛んになっていた様子が窺える。これは韓国における日本語学習が19世紀に入り、徐々に下火になっていたことと対照的である。このような両国における相互言語学習の流れは、韓日関係史の中で改めて光を当ててみる必要があろう。

14

4,900원

中世日本語の代表的口語資料の一つである抄物資料を調査対象に、中世日本語の原因·理由を表す接続形式(以下、因由形式)に対する考察をおこなう。中世日本語の因由形式には、十数個の形式があるが、本稿では、ホドニ、已然形バ、トコロデ、ニヨッテ、ニヨリテ、ユヘニなどを主な考察対象とする。現代日本語における文の階層構造を説明する南不二男の階層論に基づき、これらの因由形式に対する体系的把握を試みる。本稿の考察の結果、抄物の因由形式に対して以下のことが明らかになる。 (1)従属句の構成成分からみると、抄物のホドニが構成する従属句(以下、ホドニ句)は、已然形バ、トコロデ、ニヨッテ、ニヨリテ、ユヘニなどが構成する従属句よりも広い範囲の構成成分をもつ。 (2)抄物のホドニ句は不変化助動詞をその述部にもつことができる。他の従属句は、その述部に不変化助動詞をもつ例がない。 (3)包含関係からみると、抄物のホドニ句は、已然形バ句、トコロデ句、ニヨッテ句などを包含する関係にある。 (4)南不二男の階層論の分類を抄物の従属句に適用すると、抄物のホドニはC類、他の因由形式はB類に分類できる。 (5)B類に分類される因由形式間にも階層の差が認められ、考察対象とした抄物の因由形式は以下のような順でモダリティ性が高いといえる。 ホドニ > トコロデ > 已然形バ > ニヨッテ·ニヨリテ > ユヘニ

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쇼와(昭和)기 소설에 나타난 인칭대명사의 젠더

李惠榮

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.209-224

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4,900원

本稿は、1人称代名詞のジェンダ-表現について昭和期小説を資料にして考察して見たものである。1人称代名詞を「共用の人称代名詞:わたし」、「女性の人称代名詞:あたし、あたい」、「男性の人称代名詞:ぼく、おれ」で分けてそれぞれのジェンダ-表現に対する現象を分析してみたが、結果として得られた内容は次のようである。 昭和期小説で共用の人称代名詞「わたし」は男性よりは女性の方が多用している。しかし徐々に女性の 「あたし」の使用が増えている現象が見られる。.このような女性の1人称語の「わたくし」→「わたし」→「あたし」での移行は第1、発音上の簡潔さを想定することができるし、第2、「丁寧」から「無礼さ」での単純な変化ではなく、女性の社会的地位の上昇によって堂々と女性自分のジェンダ-表現をするようになったという結果で肯定的に受け入れられると思う。 男性は「わたし」よりは「ぼく」を多用していたが、昭和後期小説では多くの青·長年層の人が「おれ」を1人称語で使う傾向がうかがわれる。「おれ」は「ぼく」より強くて野性的で攻撃的なイメ-ジを持っているので、男性たちが自分を「おれ」というジェンダ-表現で使っているのではないかと思われる。もちろんこのような傾向は女性の男性に対する好みの変化とも関わりがあるだろうと推察される。 現代の日本語ではマスコミ、特に、マンガ、歌などの影響で次第にステレオタイプに拘らず、ジェンダ-表現をしている現象を見せている。特に女性の「ぼく、おれ」の使用は人称代名詞の中性化の現象を見せていると思われる。このような現象は人称代名詞だけでなく、文末表現などでもその様子をうかがうことができる。

16

5,200원

「持ち主の受身」に関する先行研究を再検討し、下位分類を試みた。「持ち主の受身」は構文論的な特徴のみでの分類では不十分であり、意味論的な特徴も加えてはじめて、非典型的ではあるが、「直接受身」と「間接受身」の両方に大きく2分類できる。もとの基本文の「ノ格」を文の必須成分であるとして、受身文との間で「項の増減」がないと判断できる場合(部分の「ノ格」)と、そうでない場合(所有の「ノ格」や関係者の「ノ格」)に分けられる。日本語の「持ち主の受身」「XガYニZヲ~サレル」の受身文の主語「X」と受身の直接対象になるヲ格名詞「Z」の関係を中心に以下のように分類する。 ①「Z」が「外面(身体)·内面(精神)·側面(属性)的な部分」の場合は、受身文の主語と「非分離性関係」にあるので非典型的な「直接受身」であり韓国語でも成立可能である。 ②「Z」が「着衣した所有物」のように普通は所有者·所有物の関係にある名詞でありながら「着衣」という条件によって「部分化」するという意味関係上の変更がある場合、および、動詞が「評価」の意味を表わすという条件によって「側面化」するという意味関係上の変更がある場合も、①に準じて、非典型的な「直接受身」であり、韓国語でも成立可能である。 ③「Z」が「関係者」の場合は、日本語では基本的に「外面的分離性関係」を重視し、非典型的な「間接受身」であり、韓国語では表せない。ただし、「内面的な非分離性関係」を重視する非典型的な直接受身は、韓国語に極まれにある。 ④「Z」が「所有物」の場合は、受身文の主語と「分離性関係」にあるので、基本的に非典型的な「間接受身」であり、韓国語では表せない。 ただし、一見③、④のような形をもつ受身文でも「カラ格」の三項動詞の場合は、「動作対象の帰属(カラ格)」と「動詞の意味(移動性)」により、「ガ~カラ~ヲ~スル」を基本文とする典型的な「直接受身」である。受身文と基本文との間で「項の増減」がないと判断できるからである。韓国語でも可能であるが、厳密に言うと「持ち主の受身」には含められない。

17

4,300원

本稿は、「せっかく」の意味と用法を「せっかく」の持つ前提的な知識を中心に考察したものである。 また、「せっかく」の意味と用法に対応する韓国語の副詞「모처럼(mocheoreom)」との対照をも行った。まず、「せっかく」は、当該事態を価値があると評価するものであるが、その評価には、「価値顕現の前提」と「価値消滅の前提」が想定される。そのため、「せっかく」は、必ず複文の従属節に用いられ、接続助詞と主節のモダリティ形式との間には一定の共起制限がある。そして、このような共起制限により「せっかく」の用法は順接用法と逆接用法に分けられる。 「모처럼(mocheoreom)」は「せっかく」の順接用法と逆接用法の両方に対応するものである。しかし、「모처럼(mocheoreom)」は、「せっかく」に想定されている2つの前提、すなわち、「価値顕現の前提」と「価値消滅の前提」とは関わりを持っていないため、単文にも用いられるし、「せっかく」に見られるような共起制限も見られない。「모처럼(mocheoreom)」は、元々当該事態がまれな出來事であることを表すものであるが、この「まれ」という頻度の意味が文脈によって、当該事態が話者にとって特別で価値があるという意味としても解釈できることから、「せっかく」に対応できるものと考えられる。そして、「모처럼(mocheoreom)」は、「まれ」という頻度の意味から、恒常的状態を表す事柄には用いられないという 制限を持っている。

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日本近代小説の韓国語翻訳本考察

保坂祐二

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.255-270

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4,900원

日本の近代小説を韓国語に訳した場合の問題点について考察してみた。使用したテキストは、主に太宰治の 『斜陽人間失格・桜桃・走れメロス』(2000,文春文庫)の中の『人間失格』とその訳本『인간실격·사양』(2003,문예출판사)、武者小路実篤の『愛と死』(2003-101刷,新潮文庫)とその訳本『한심한 짝사랑』(1998,도서출판 소화)の中の『사랑과 죽음』、島崎藤村の『春』(2003-78刷,新潮文庫)とその訳本『봄』(2000,도서출판 소화)、夏目漱石の『吾輩は猫である』(2002-89刷,角川文庫)とその訳本『나는 고양이로소이다』(1997,문학사상사)の4冊である。さらに翻訳の原則に関しては、平子義雄の『翻訳の原理』(1999,大修舘書店)などを参考にした。第一に、翻訳をする際には如何なる原則で翻訳をしたかが記されねばならないが、4冊の内で少しでもその原則を記したものは『나는 고양이로소이다』だけであった。他は作品の紹介と訳者の翻訳した際の感想を述べるにとどまっている。第二に、近代語の誤訳が多い。近代語は現在の言葉に翻訳する際に意訳する必要があるが、正しく把握することが重要である。第三に、文化素の翻訳は、註をつけるか本文の中に簡単な解説を入れるものが多かったが、その方式に原則がない。文化素として註や解説が必要であるものに註や解説を入れなかったり、註や解説自体が誤りである場合があった。第四に、韓国語で日本の固有名詞を表記するのに、現在の標準的な表記法から外れていたり、原則性のない翻訳があった。以上から、日本近代小説を韓国語に翻訳する際には、原則を明らかにしながら、それに則って近代語や文化素を翻訳し、註や解説の形式を統一し、日本語の固有名詞の韓国語表記を統一しなければならない。

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「기케이야마토군단」의 성립과정에 관한 고찰

高永爛

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.271-282

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4,300원

本稿は井原西鶴以降浮世草子の推移を確認するための考察である。このため西鶴以降の浮世草子作者の中で最も多くの作品を残し、江戸中·後期の戯作にも多くの影響を与えた、八文字屋本の代表作者江嶋其磧について述べる。其磧と同時代を生きたライバル西沢一風と自笑の作品とを共に比較分析して,その結果得られたものは其磧作品の特徴を示すものであると捉える。 具体的には其磧作『義経倭軍談』と一風作『御前義経記』、自笑作『風流言花平家』を比較分析した。其磧が『義経倭軍談』を執筆する前後の状況を考えると、彼はライバル二人より浮世草子作者として優位に立つ作品執筆の必要性を認識していたと思われる。従って一風と同じ義経を素材にし、ある程度好色化すること、自笑と同じ義経を絡ませた時代物を作ることが自然と行われ、その結果が『義経倭軍談』となったと推測される。つまり、内容の上では一風を、形式上では自笑に倣い、これを一段と工夫したのである。その工夫が見られるのが、ライバル両者の作品と全く同じでもなく、違わない点である。 以上、『義経倭軍談』の分析·考察により、其磧は浮世草子作者として単に西鶴だけに倣うのではなく、同時代のライバルの作品をも強く認識していたことがわかる。これにより、其磧独自の義経物への関心の発端が確認でき、また浮世草子作品の成立過程の一端を垣間見ることが出来た。

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世阿彌의 夢幻能 작품에 보이는 한 흐름

金忠永

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.283-294

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4,300원

世阿彌の夢幻能作品のうち、女を主人公とする『檜垣』『姨捨』『井筒』『砧』などの一連の作品には、シテ像造形における一つの太い変遷の流れが見受けられる。それは、シテの内なる心における道念と妄念の拮抗する度合いの弱化である。つまり、『檜垣』のシテにおいては、道念と妄念の間で宙づりにされる劇的な姿が見受けられ、『姨捨』のシテからは、浄化への祈りと名月への愛執の間で屈折してはいるが、この二つの心は拮抗するものではなく、救済への願望に名月への愛執が勝るという形で妄念の方に傾いている姿が捉えられる。それがさらに『井筒』のシテに来ては、道念は妄念を浮き出させるものとして前シテの心の片隅に据えられたに過ぎず、曲が進むにつれてひたすら妄念の方へ高揚してゆく姿が描かれ、最後の『砧』のシテとなると、ここではもっぱら妄念のみに苛まれるシテ像のみ見受けられる。こうした一連の変遷の流れは、世阿彌伝書に見られる「却来」論と何らかの関係があるのではないかという考えのもとで論を進めた見た。

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題詠に関する考察 (4) -「蛍」詠歌を中心に-

羅誠恩

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.295-309

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4,800원

本研究は題をいかに詠むかという、詠作方法の実態について詳しい例を取り上げて考察したものである。*성신여자대학교 일어일문학과 시간강사 これに関しては、すでに拙稿[題詠に関する考察(3)ー「忍恋」詠歌を中心にー]『日語日文学研究』45輯 韓国日語日文学会 pp55-71 2003·5,[題詠に関する考察(2)ー「暁」詠歌と「杜若」詠歌を中心にー]『日本学報』53輯 韓国日本学会 pp363-378 2002·12,[題詠に関する考察―雨に関する題を中心にして―]『日語日文学研究』39輯 韓国日語日文学会 pp117-133 2001·11に詳しい。 今回は、「蛍」詠歌について時代を追って見てゆき、主な詠み方について考察してみた。「蛍」は『古今集』以前から主に恋歌に捉えられ、相手を忍ぶ心情の激しさが強調されている。恋歌に「蛍」が用いられたのは、中国の閨怨詩の影響であるとされるが、蛍火の「燃ゆ」の意と思いの火の「燃ゆ」の意をかける技法などは、和歌特有のことばを生かした表現技法であるといえる。その他、やはり、中国の漢詩文から学んだ「蛍雪の功」が見られる。そして、様々な光·火に見立てる、逆に光るものを「蛍」に見なす表現も、「蛍」詠歌の伝統的な表現として中世に詠み継がれていく。   一方、「蛍」題の詠歌は、四季の中で夏のみと定められている。従来の晩夏に秋の近づきを知らせる詠み方など、「蛍」を秋のものと捉える認識は「蛍」題では薄れている。また、恋歌も見られない。「蛍」は夏を代表する重要な題材となり、景物として生かされた歌が盛況される。例えば、「蛍」自体の姿を印象鮮明に捉える敍景歌や絵画的な歌も増加するようになる。多彩な表現技法を用いた「蛍」詠歌の発展の背景に、「蛍」題が夏の題材として規制されることが深く関わっているといえよう。

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4,500원

円地文子の『食卓のない家』は日本文学に表われている既存の‘父’の倫理観に新しい肯定的な変化を提示した点で興味深い作品である。いままで日本社会の中で家と家族, 特にその家族の中で個人の倫理はあまり重要視されなかった。ただ家の一員としての責任だけが要求されるばかりでそれに対する若い世代の反撥と既成世代との葛藤が作品の主な主題をなしていた。 しかし『食卓のない家』の父は既存の社会との孤独な闘争を経験しながらも個人の倫理に充実した生涯を固守した。これは作家円地文子が<家>と家門を離れた一人の人間の倫理的な生涯がどんなに重要であるかを示唆したものとみえる。個人の倫理の尊重は近代社会の必須的な要素に違いないが,日本はいまだに近代的な社会倫理が完全に形成されなかったことを主人公のむすめの行動を通じても告発していた。彼女は父の行動を猛烈に批判したあげくアメリカに脱出した。しかし彼女は西欧社会を経験した後、いままでの自分の行動がまちがっていたことを告白すると同時に自分の父母がいわば日本社会の犠牲者であることを告発している。結局『食卓のない家』は日本社会の中で個人の倫理の不在で主人公の父は数多い苦悶を経るようになるが、彼の倫理観に息子が共感を表わすようになる。これは倫理観を通じた父子の間の葛藤ではなく、社会との葛藤の様相に変貌する。日本社会と家族と社会に対する円地文子の批判的な視覚の一面がこの作品を通じてよく表われている。

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5,200원

「記·紀神話」および諸伝承に登場している「神宝」は、主として正当な天皇家の権威や継承を象徴するレガリアーとして描かれている。そういう「神宝」は皇室だけではなく、地方豪族や渡来系集団の間にも重要視され、代々に伝えられ、伝承という形で「記·紀」に記されたと見られる。そのうち「記·紀」に共通的に登場している、「アメノヒボコ」伝承における神宝関連記事は注目すべきものである。まるで「アメノヒボコ」伝承そのものが神宝の伝播にフォーカスを合わせるかのような印象さえ与えている。したがって本稿では、これらの将来物が意味していることや「記·紀神話」における諸神宝とはそもそもどのような関わりを持っているのか考察しようとする。「記·紀」をはじめ、日本古典文献に登場している「神宝」の意味は単なる言葉通りの道具ではなく、天候を支配するに必要な呪宝であることを象徴している。しかも、大和朝廷に限りなく地方氏族の所有していた「神宝」も神聖な呪力の象徴であり、かつ土地人民を統治する靈的なシンボルといった一種のカリスマを示しているものである。「アメノヒボコ」伝承に現れた「神宝」も各々機能的な側面を分析して見ると、特に太陽崇拝信仰と深く関連していることがわかる。そして、それは古代朝鮮半島系の宗教儀礼からその原型を探ることができると思い、そのような宗教にかかわる祭具の日本神話的な表現である言える。一方、「神宝」の構成要素面から見ると、{古事記}と{日本書紀}に記述上の差が生じているのは前者は呪術的·神話的·海洋的な要素が含まれている素朴な民間伝承の形が残されていることを裏付けるものと言うことができ、後者は官撰の意図につれ、祭祀儀礼的·政治的·現実的なものに潤色されたものと見るのが妥当だと考えられる。このような前提からすれば出石族の間で「神宝」として崇拝された「比礼」のような神話的呪物は次第に「アメノヒボコ」族の勢力拡大により地域の統治権を象徴する{日本書紀}的な「神宝」に転移されたと言うことができる。

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일본의 ‘부락문제 문학’ 연구

최재철

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.343-357

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4,800원

少数集団と少数文学について考えてみたい。これは多数中心の思考からの転換を摸索することであり、文学の本領としてのヒューマニズムを再点検することでもあり得ると思う。日本の場合、社会·文化的な少数文学の代表的なのは<部落問題文学>である。これを通じ、差別と疎外の問題を考えることが出来る。 明治時代以来,日本の部落問題を素材にした代表的な作品は、島崎藤村の破戒から始る。破戒は部落の身分差別の問題を提起し,不十分ではあるがそれを社会化した功績が認られる。戦後、野間宏は青年の環の中で部落の融和事業の問題点を指摘し、部落に実質的に役に立てることは何かを探し求めた。現代において、住井すゑの大河小説橋のない川は部落問題の集成とも言えるし、部落の実情とあらゆる差別の様相とを伺うことが可能である。また、水平社運動を通じて積極的に部落を解放しようとする動きを捉えている。最後に、部落問題文学と韓国について調べ、在日韓国人の部落民的な位相をも確認できた。 以上のように部落問題文学について各時代の代表作を対比し、その発展の段階を考察した。また、部落問題文学の中に大体に登場する在日韓国人像を通じ、少数文学と疎外の問題、他者認識の問題に対する理解を深めた。部落問題の提起から部落解放運動まで、部落問題文学の展開の様相を調べてみて、未だに多数の少数に対する偏見、蔑視、差別は根深いものがあるということが分かる。人間の内面に潜む優越感を無くし、少数派と水平的な関係を保つのが、まさにヒューマニズムの具現であろう。そのようなことを考える時に、部落問題文学は有意義なものになると思う。

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芭蕉의 生活 속에서의 『莊子』

許坤

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.359-376

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莊子は日本に伝わった當初から排斥され、批判の声が高かったにもかかわらず廣く流布し、知識人の必讀書となった。近世に入ってから『莊子』に関する関心はますます高まっていった。その理由としては、『莊子』の傍觀的に見える姿勢と寓言的で寓意的な表現、そしてすぐれた文章などが近世の時代の流れと欲求に合致したからである。江戶期、滑稽文學を標榜する俳諧では、談林派の寓言說の據り處を『莊子』に求めたし、近世の代表的な俳壇のひとつに数えられる芭蕉ら蕉門でも、その新風改革のきっかけを『莊子』に得て、その深さを加える一助となったのである。このように談林俳諧の寓言と芭蕉と蕉門俳諧など、近世の俳壇に及んだ莊子の影響というのは實に甚大なものであった。 當時の俳壇の流れに不滿をもっていた芭蕉は新風の改革を求めていたのであり、そのきっかけになったのが人間生活の理想を自然の精神に求めようとした莊子の思想だったのである。芭蕉は『莊子』を当時の他の俳人たちのように單なる俳諧の參考書として接したのではなく、"人生の書"として自分の日常生活の中心でまじわっていたし、莊子をもって常に自分の思想世界に刺激しつづけ、結局『莊子』は芭蕉の俳諧世界の根底をなす大事な思想としての位置をしめるようになったのである。

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일본민족주의의 행방

具見書

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.377-394

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本稿の目的は近代後国際社会においてさまざまな問題を起してきた日本民族主義を考察しまた21世紀日本の未来を展望する試みにある。さらに社会科学的な課題をいっきできれいに解決するとかあるいは民族と民族主義をめぐる論争につきこんでいくよりは歴史的に展開されてきた日本民族主義を把握するとともに民族主義の存在価値を照明して見る。このような作業は近代以後日本思想の適者としてまた日本成長と危機との原動力として機能してきた日本民族主義の軌跡を明かにしたうえで、それの可能性と不可能性を検討し、21世紀国際社会での位相を考察することに価値がある。結論として、21世紀には日本民族主義と国際主義との葛藤が尖鋭に対立され、日本は日本民族主義の生と死を決定しなければならない状況にあう可能性がある。そうなると、日本には民族主義が抛棄されるかまた国際主義へ転換されるかという選択枝しかない。しかしながら、日本の選択と強制的な方法は期待することはできない。というのは日本は国内外的要因により民族主義を抛棄しないし、また強制的な解体は再び民族主義を起す原因になるからでもある。従って、現在日本が選択できるのは、極東アジアが共同的に発展し,また世界のため積極的な役割ができうる極東聯合に参与することである。

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한국에 있어서 「일본문화론」 전개에 관한 일고찰

김필동

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.395-408

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4,600원

今まで韓国における日本文化論は、日本文化論が指向する帰着地がどこなのかに対する問題意識の欠如と、それを客観化できる方法論の不在、そして個別史の研究領域を守ろうとする研究者個個人の学問志向的姿勢等によって、日本文化論が学問的に発展せず、その展開が主に学界の外渕で論じられてきた。そのため日本文化論は、極一部を除いて「研究」の水準はともかく、「理解」の水準にも及ばない文化論が量産される不作用も現れるようになった。このような「擬制文化論」は、1990年代の半ば頃から日本学界内部からの研究成果が蓄積されてくると、徐々にその「威力」を失いつつある。 本稿では、その流れをより深化させるという意味で、韓国において約20余年前から展開された日本文化研究の推移とその問題点を把握すると共に、日本文化研究を今までとは異なった新しい角度から進展させるためには、これから日本文化論の中で追求されるべき課題と、方法論は何であるのかについて検討してみた。

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일본 고등학교 현대사회 교과서의 비판적 검토- 한국 관련 내용을 중심으로 -

남경희, 박균섭

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.409-427

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5,400원

日本の高等学校の‘現代社会’教科書(全31種)の韓国に関する記述内容を、①中国文化の日本伝来と韓国、②韓国経済の成長と発展、③韓国の社会·文化、④韓国戦争と南北関係、⑤国際化の論理と領土問題、⑥民族差別·戦後報償と従軍慰安婦の六つの観点から考察した。日本の朝鮮侵略と植民地支配、そして韓日関係に関する日本の保守集団の歴史認識と妄言をそのまま反映した日本の教科書の歪曲問題は、両国の敏感な政治·外交問題になっており、韓国人の日本人観にも大きな影響を与えている。日本の教科書歪曲は、内容の歪んだ記述も問題であるが、日本の立場から恥ずかしい事実の記述を故意に見逃すことも重大な歪曲になるだろう。そのため、日本の教科書から周辺国に対する加害の記録が欠落されているのは当然のことである。日本の現代社会教科書の記述内容に対する分析·検討を通じて確認できるように、日本側の植民地支配、戦争責任、戦後報償などは、過去清算のため重要なことである。これは、また韓日両国民の歴史意識と未来展望のためにも解決しなければならないことである。

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일본 하청시스템의 변용 ―기업복리후생의 변화―

朴京烈

한국일본학회 일본학보 제58권 2004.03 pp.429-442

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4,600원

本稿では日本の下請システムの特徵を考察し、経濟環境の変化によって今後どのように展開するかを明確にする。 戰後出現期では二重構造論で說明されているように多數の中小企業が周辺経濟に位置する不平等關係にあり、賃金格差の活用が中心となった。1960~1980年代の下請取引は協調的、共生的契約關係となり、特に高度成長期には獨自製品を持つ脫下請を試みた專門部品企業が成長してきた。 1990年代バブル景氣以降長期低迷によって從来の準垂直的統合の下請取引關係は動搖している。それは情報技術の發達、母企業の下請企業の壓縮、海外生産の擴大、海外から部品調達、從来の系列關係の解体等のような経濟環境の変化から起因する。 日本型下請分業關係を技術力の体制(專門加工中心と技術開發中心)と分業形態(ピラミッド型とネットワーク型)に分けた場合、伝統的な下請型から問題解決型へ、そして問題解決型から戰略的提携型へ進化しつづある。それは情報化やグローバル化により中間組織や準垂直統合の利点よりネットワークの経濟性や速度の経濟性が必要になったからである。戦略的提携型の増加により雇用流動性が高まり、経歴開発や企業福利厚生など人的資源管理の変化をもたらすだろう。

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4,600원

日本が近代を向えるようになるのは、一般に明治以降といわれる。しかし、西洋化ともいう日本の近代化が、明治期に可能になったのは、それ以前に準備期間があったからこそできたのである。なお、その背景には翻訳文化があった。 翻訳とは進んだ社会の文化を一般の人々が―原書を読まなくても―すぐ接することができる方法の一つであり、実際文化がのび育つ直前には、いわゆる翻訳の世紀と呼ばれる時期があった。 つまり、準備期間を持ち、その間、進んだ社会の多くの書物を自国語に置換えたということだが、日本の場合、そのような作業が、江戸時代に、まず長崎通詞によって行なわれた。そこから学問にうちこむ通詞が現われ、また通詞の職を辞めて学問の道に専心したモト通詞も形成されてきた。さらに長崎に遊学した江戸の人などが長崎の蘭学を持ち帰り、その振興に励み、18世紀後半から19世紀初期には江戸が蘭学の中心となり、次々に西洋文献の翻訳作業が行なわれた。このように、日本の翻訳史の一源流を江戸時代のオランダ語の翻訳に求めることができる。 16世紀キリシタン渡来によって、日本人が西洋の言語とはじめて接してから,鎖国となって西洋の言語の中からたった一つのオランダ語を公式な言葉として選び、それによって蘭学という学問を形成し、その蘭学を専門とする学者によって西洋の文化を翻訳したのである。その際、西洋の学問についての研究と共に多くの良書を日本語にうつし変え、その紹介にも努めた。殊に後者の多くの良書を苦心しながら翻訳ㆍ紹介したというところは示唆する面が多い。 長崎の出島は、幕府の鎖国政策の間、西洋知識導入の唯一の窓口で、そこから選別的な輸入が可能であったのである。なお、厳密にいうと、日本の近世は、鎖国ではなく、いわゆる選別的な鎖国で、良質の西洋の文化は持続的に入ってきた。徳川政権がこのように蘭学を許容したのは、幕府封建体制補強の実学としての利用価値を認識したところにある。蘭学者により西洋の学術や文化が次々に日本語にうつし変えられ、以後の明治という時代に日本はいわゆる近代化ができたのある。

 
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