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일본학보 [The Korean Journal of Japanology]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본학회 [Korea Association Of Japanology]
  • pISSN
    1225-1453
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    1973 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제85권 (19건)
No
1

한자 전문용어의 고유어화에 대해

송영빈

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.1-13

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4,500원

日本の解剖学用語は、現在、漢字․漢語による造語が全体の9割以上を占めている。漢字․漢語は、造語の便利さから専門用語のほとんどが漢語になった。しかし、音節の数の少ない漢語は、音声言語としては極めて不安定なものであり、文字を見ないと分からない、あるいは、文字を見ても分からない専門用語が量産される結果となった。自ら専門用語を作る機会に恵まれなかった韓国語の場合、日本から解剖学用語をそのまま音訳し受け入れた。しかし、表記から漢字がなくなると同時にこれら用語への理解度の低下が深刻な問題になった。そして選んだ道が固有語による新しい用語作りであった。固有語を用いることにより、用語の明示性が向上し、漢字に頼らず音声言語としても立派に通用する用語ができた。現在、このような動きが学問全体に広まったわけではないが、解剖学の分野では半分以上の用語を固有語に置き換え、医学教育の現場で用いている。本稿では、韓国語解剖学用語のこのような経験を踏まえ、日本語解剖学用語の問題点と改善策を模索した。固有語を用いる造語は、複合語の多い解剖学用語において単語の切目をはっきりさせ、音声のみによる意味伝達を可能にするといった利点がある。もちろん、韓国語に比べ、音節の数が少ない日本語の場合、固有語に置き換えることが容易なことではない。しかし、解剖学用語の構造上の特徴、すなわち、「名詞+名詞」の構造を持つものが多いことから、日本語にもこれらは適用可能であると思われる。現在の日本語の専門用語は、文字なしでは理解に苦しむ用語があまりにも多い。これを乗り越える一つの方法として固有語化を提案した。

2

断定表現「ダ」の語史

安元實

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.15-27

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Language have changed with the stream of the human race and been in existence. Language is alive, and a literary style and romanization system is changed by the demand of the era and people in those days, not by several scholars and writers. Predication have known as a necessary expression for the constitution of the sentence like noun and verb, accordingly we can understand the stream of the history and society through various changes and use of the predication. Hence the predication that is the end expression of dialogue and sentence, have received recognition the value from the ancient to the present. Almost all language of the world is existing the predication although they might been changed with the person and the era, but it is rare that japanese have various predications for the last 1300 years. This study first estimates the position of the predication through the survey and analysis of modern language「ダ(da)」that is a successor of ancient predication 「ナリ(nari)」, and then try to make an analysis of the function and appearance of 「デ(de)」and investigates the change process of 「アリ>アル(ari>aru)」through the formation process of「デアル(dearu)」that is the language in middle age as a predecessor of 「ダ(da)」, also study the formation process of 「デア>ヂャ>ダ(dea>ja>da)」 and the interrelation of「ダ(da)」and「ヂャ(ja)」.

3

韓国人日本語学習者の丁寧体と普通体の習得に関する一考察

李吉鎔

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.29-45

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5,100원

本研究は、韓国語母語話者4名の共時的な談話資料および通時的な談話資料を用いて、日本語の丁寧体と普通体の習得メカニズムに焦点を당てて分析したものである。日本語の丁寧体が基調となるフォーマルな談話と普通体が基調となるカジュアルな談話を分析した結果、学習者の動詞文の発話文末における丁寧体と普通体は、「マス形式⇒普通形式⇒ンデス形式」の順といった積み上げ式の融合的に習得され、両者は有機的に結びついて習得されることが確認された。このような積み上げ式の融合的習得の背景には、(非)過去否定形など丁寧体において活用が難しくなる環境で形態的手続きの複雑な〈マス形式〉を回避し、普通形に機械的に〈ンデス〉をつけていくといった簡略化が働いているものと考えられる。本稿によって、丁寧体と普通体の習得は個別に行われるのではなく、有機的に関係しあっていることが明らかになった。

4

明治 20년대 落語의 ちまう·ちゃう

李德培

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.47-58

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4,300원

現代日本語において3項對立をしている「てしまう․ちまう․ちゃう」は, 統語的機能の面では共通しているが, それぞれ歷史的展開過程は異なる。明治20年代前半に口演された落語24作品に見られる「てしまう․ちまう․ちゃう」の用例を分析した結果,「ちまう」は22の作品で用例が確認される一方,「ちゃう」の用いられた作品は3つにとどまっていることが明らかになった。明治20年代前半には「ちゃう」より「ちまう」が一般的であったことが確認されたが, これは小説を分析した結果と一致する。「ちまう」は, ほぼすべての活用形がそろっており, 助動詞として機能していたようであるが,「ちゃう」の活用は連用形に限られている。調査した範囲内で見た限り, 落語において使われた最初の「ちゃう」の用例は, 古今亭今輔の「樟腦玉」(1890, 明治23)である。なお,「てしまう」と「ちまう」は地と詞に共通して使われている反面,「ちゃう」の使用は詞に限られている。明治20年代には,「ちまう」の使用が「ちゃう」にくらべてはるかに広範囲にわたっていたことが認められるが, これは現在の状況とは逆であり,「ちまう」「ちゃう」の逆転は明治時代以降起った現象と見られる。

5

推量の助動詞「む」の意味用法変化とその背景について

李受香

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.59-68

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4,000원

推量の助動詞「む」は「う」に表記が移行するにしたがい、<推量․予想>、<意志․決意․希望>、<勧誘․期待․命令>、<仮定․婉曲>の意味用法から<推量․予想>、<意志․決意․希望>、<勧誘․期待․命令>に縮小する。しかし、先行研究ではいつ頃から意味用法の縮小傾向が現れたのかについて明確な説明が見られないため、考察の必要がある。また、近世前期からの口語資料に現れる「う․よう」の用例を分析すると、既存の意味用法に該当しない<意向>、<確認>の用法が出現するのでこのような意味用法の派生時期とその細分化様相についても綿密に調べる必要があるだろう。そこで、本稿では「む․ん」の表記が中心である中世前期から「う․よう」の表記が多く見える近代の資料を対象に、意味用法の縮小時期と細分化傾向、そして表記形態の変化に伴う意味用法の変化について考察した。考察結果、<仮定․婉曲>の意味用法は中世前期から減少しはじめ、近世前期になるとその傾向が本格化するのが分かった。また、意味用法の縮小の一方で意味用法自体の変化も現われ、<確認>や<意向>という新しい用法の派生が伺えた。全体的には意味用法が縮小する一方で、意味用法が担う意味機能は拡大したこのような現象を本稿では【意味用法の全体的縮小と細分化傾向】と定義する。そしてこのような変化の背景にあるのは「う」表記の増加並びに「う」の文体的特徴であることが確認された。「う」は「む․ん」に比べて口語的な性格が強くて主に会話体で使われ、主観的表現としての性格が強いため文末に現われるのがほとんどである。このような特徴により終止形での使用が大部分であるが、<仮定․婉曲>の用法は連体形を取るという特徴がある。「む․ん」は連体形に現われることが多く、中世時代に多く使われたので、当然意味用法の中で<仮定․婉曲>の割合が高かった。しかし、文末に使われ終止形を取る「う․よう」の表記が拡大するにしたがい、<仮定․婉曲>の意味用法は縮小傾向をたどる。現代日本語において、<仮定․婉曲>の用法が制限的に一部残っていることはこのような流れからきているものと考えられる。

6

「だけ」조건문의 화용론적 의미

이준서

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.69-78

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4,000원

他言語の多く、例えば、英語が「only」、フランス語が「seulement」、韓国語が「만(man)」といった限定の意味を表すものを条件文の条件節中に使用する。日本語の場合においても、「だけ」といった限定詞を使用する場合があるが、「さえ」の使用が特徴的に目立つことから、「さえ」条件文が文法上の問題としてしばしば取り上げられているのに対して、「だけ」条件文が文法上の問題として取り上げられることは少ないようである。本稿は、「だけ」条件文の多義性の本質を探る。特に、先行研究で「だけ」自身の多義とされる「他者否定」と「他者不要」の意味の本質を明らかにする。「だけ」条件文中の「だけ」の作用域が前件の中にとどまり、「だけ」条件文における「だけ」自身の持つ意味․機能は「自者肯定․他者否定」に限られる。ここで、「だけ」条件文が条件文であるため、前件が否定される場合が問題となり、想定される他条件の成立可能性が語用論的に問われ、「他者否定」または「他者不要」といった含意(implicature)が生じる。沼田(1986)の指摘した「だけ」条件文の「他者否定」と「他者不要」の意味はまさにこのような語用論的な類推の結果であることを主張する。

7

日韓の料理名における計量的特徴をさぐって

張元哉, 木内明実

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.79-93

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4,800원

料理名は、その国の食べ物の素材や調理の仕方、摂取の仕方などが現れていて、文化的にも言語的にもおもしろい材料である。本稿は、日本と韓国においてある程度一般化した食べ物(給食の献立)を対象に料理名を構成する形態素と結合パターンの特徴をいくつかの観点から調べたものである。大まかな日韓の特徴を以下に示す。①料理名の長さは日韓ほぼ同じであり、形態素数別分布では、日本は2形態素が、韓国は3形態素が一番多い。②料理名の構成形態素の品詞は日韓ともにほとんど名詞と動名詞でできていて、比率もほぼ同じ傾向を示している。ただ、副詞に関しては、韓国では料理名にあまり使われない品詞であるという特徴がある。語種では、日本は料理名にかなり多くの外来語を取り入れているのに対して、韓国は外来語が少なく固有語が多いことが特徴である。外来要素の取り入れ方の違いが見られて興味深い。意味面では、日本語は完成名と付加語が、韓国は材料と料理方法を表す語彙が多い。構造パターンの特徴にもつながる。③意味と品詞の関係では、メインの構成要素(材料、完成名、料理方法)は日韓の違いがないが、付加語の「食感」と「色、味」においては、日韓の特徴が見られる。日本の「食感」は副詞を、韓国の「色、味」は形容詞を多く使う傾向が強い。また、意味と語種の関係では、日本の完成名における外来語の比率の高さが目立つ。④最終形態素の分類による構造パターンでは、相対的に日本が完(成)名型が、韓国が(料理)方法型が多いという特徴があり、構成形態素の割合とも関連がある。そして結合の分類による構造パターンでは、日本だけに見られるものが10パターン、韓国だけに見られるものが2パターンがあった。日本の付加語と韓国の調理方法の要素の違いによるところが大きい。

8

4,500원

本稿では『エトランゼエ』(1922.9)における<エトランゼ>としての自己発見とともに、戦争の嵐の中で春を待ち望むフランスの再生への意志を作者がどのように描いているのかを探り、さらには日本回帰に至る過程を明らかにしたい。フランス体験をもとに発表した作品には、『エトランゼエ』の他に『仏蘭西だより』『海へ』『新生』などがある。しかし、『エトランゼエ』はこれらの作品とはその構成や場面の展開、描写方法などの面で相違点が見られる。フランスへの旅の意味は、まず<エトランゼ>としての自己認識という側面から見いだすことができるが、『エトランゼエ』に登場する<エトランゼ>は、〈私〉の詩的形象化の意味を持つ『海へ』のそれとは違う性格を有する、孤独の産物として造形されていると考えられる。また日本とフランス両国の文化のイメージの対比とともに、日本回帰の道程においても、『エトランゼエ』は他のフランス体験をもとに発表した作品とは違う独自性が見受けられるという点で、作品の持つ意義は大きいと思われる。

9

한반도 식민지 <일본어 문학>의 연구와 과제

鄭炳浩

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.109-124

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4,900원

本論文は、1990年代に入ってから日本と韓国で本格的に研究されるようになった日本植民地時代における朝鮮半島の<日本語文学>の全体像とこれまでの研究傾向とそれぞれの問題意識を検討し、これからの研究課題を提示することがその目的である。本論文では朝鮮半島の植民地日本語文学を、日韓併合に至るまでの1900初年代、1910年代と20年代、1930年代、1940年代の太平洋戦争期と言った、四つの時期に弁えて考察したのだが、この区分からも分かるように朝鮮半島には長い時期に渡って多くの日本語文学が展開されていた。またその日本語文学は日本語新聞․雑誌における文学、日本人による、または韓国人による文学、朝鮮半島の中だけではなく日本に渡った韓国人の日本語文学など様々な形を取っていた。このような日本語文学は日本の場合は1990年代から「外地」日本語文学という名で韓国の場合は2000年前後から「二重言語」文学という名で盛んに研究されてきた。この研究は今まで一国中心的な国文学研究の慣習のせいで日本文学、韓国文学という枠組みの中で研究されていなかった分野に光を当ててその有り様を探った功績は至大ともいえよう。この植民地日本語文学研究にはこのような問題意識があったにもかかわらず、現在日本の場合は韓国を経験した日本人作家や金史良や張赫宙などの渡日作家の研究に集中されしており、韓国の場合は既存の主流文学史で取り扱う大作家の日本語文学研究に集中されている。本論文では結果として一国文学研究に収斂されてしまうこのような研究傾向を乗り越えるためには、または個別の分科学問を単位とした研究の限界を乗り越えるためにはより国際的な、特に(東)アジア的なレベルでの共同研究が必要であることを明らかにしている。

10

『松風』에 그려진 주인공의 執心

金忠永

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.125-136

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本稿は、能『松風』の女主人公における執心というものが如何なる形で作品のなかに描かれているのかを分析することを主な目的とするものである。その分析の手がかりは作品の所々で散見される作者の意図の痕跡である。作者世阿弥は女主人公の執心をより強いものに仕上げるつもりでなんらかの脚色を試み、その意図の痕跡が作品のなかでいくつか捉えられたのである。そのような試みは観客を意識したものに違いあるまい。『風姿花伝』において「この道は見所を本にする態」と観客を重視した態度を示した世阿弥であって見れば、むしろそのような方向から作意を捉えてみることは当然と言わねばなるまい。

11

家持歌における実在と観念

朴一昊

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.137-150

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4,600원

本稿は、上代和歌史における「実在の歌」から「観念の歌」への移行のあり方を大伴家持歌に即して考察したものである。繊細な感受性の持ち主である家持は、慰めきれない孤独を癒すために、「うた」という器を用いて、絶えず「現実の苦や愛や願望」を歌わざるを得なかった。そのような詠歌の世界は、「現在」と「過去や未来」を行き来しながら思惟の中で生まれるものであり、抽象や空想の中に存するものであった。それは、現実から遊離して思弁に耽けることを好み、現実を意識の中でのみ再構成しようとする態度によって求められる観念の世界である。そのような世界が具現された歌が、実景を心象の景に移し変える「依興歌」であり、現在の希求を未来につなぎ止める「儲作歌․予作歌」であり、過去の素材․空間․事柄から現在の心情を照らし出す「追和歌」であった。そして、宮廷讃歌仕立ての儀礼歌においては、実存としての「大君」に「神ながら」を冠し、さらに神としての皇統の悠久性を本質とするスメロキ(皇祖)の観念性をそのオオキミ(大君)に融合させたのである。現実的な成就は望めず、観念の儀礼歌をもって自己充足を得たのだろう。このような「観念」に頼り「観念」の中で意味を持つ作品は、家持が越中守に赴任した翌年の春、天平19年(747)2月頃から登場する。特に文芸的意欲に満ちていた2月20日(巻17․3962歌)から3月5日(3977歌)までの独詠歌及び一連の贈答歌群を境に、それ以後は上のような独創的な様式の歌が積極的に試みられるのである。これらの方法的な試みが「観念化」の営みであり、家持の方法的試みによる「歌の観念化への道程」は、そのまま上代和歌史における「観念的な歌風の現出と移行」を意味するといえよう。

12

語り物の演劇化としての『出世景清』論

安貞愛

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.151-161

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4,200원

『出世景清』(貞享二年、竹本座)は、近松が初世竹本義太夫と提携した第一作で、説話的な古浄瑠璃と一線を画する画期的な作品である。その内容は、平家滅亡後、ひそかに源頼朝の暗殺の機会を狙う平家の残党悪七兵衛景清が盲目となり日向島へ下るまでの後日譚の挿話として、景清が東大寺再建の人足となって入り込み畠山重忠に見破られること、愛人阿古屋が兄十蔵に唆され嫉妬のために「訴人」すること、景清の妻である熱田大宮司の娘小野姫が拷問されること、改悟した阿古屋が自害し、入牢した景清が牢を破って十蔵を殺すことなどを織り込んでいる。従来の『出世景清』論は、阿古屋と景清悲劇におけるの人物の近世化、独自性といった作品の文学的な面から論じられてきているが、それに対して阿古屋の「裏切り」と景清の「牢破り」構成は当たり前すぎて看過されてきているのが実情である。小論では、語物の演劇化という観点から阿古屋の「裏切り」と景清の「牢破り」といったプロットの必然性とを、『出世景清』における人物同士の関係性によって明らかにする。その結果、阿古屋の「裏切り」行為の必然性は小野姫の存在という恋敵との対立ではなく、〈濡れ場〉を通して表れた景清と阿古屋との関係性によるのであった。また、本作における「牢破り」は、阿古屋、景清、十蔵という三人の関係によって引き出されていた。それは、妻子の死に憤慨した景清の復讐譚として、そのプロットには、演劇が備えるべき要素である行動の必然性が保たれていると考えられる。よって、人物同士の関係性による劇的状況の設定は人形浄瑠璃としての『出世景清』の文学性と演劇性とを共に位置づける役割を果たすと見なせるのである。

13

能〈摂待〉一考察

李允智

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.163-173

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九郎判官·源義経は、「判官贔屓」という言葉があるように、今なお高い人気を保ち続け、日本史上最も有名な英雄となっている。その薄命の生涯は当時から世人の興味を引き、多くの伝説、物語を産んだ。古くは『平家物語』などの一連の軍記物で形象化され、室町時代の『義経記』で極端な伝説化の頂点に達して、さらにはそこから様々な物語が派生して、「判官物」と称されるジャンルが形成されるに至った。義経に関係する伝説·伝承·口碑は日本各地に数多く残っている。その集録ともいえる『義経記』をはじめとして、中世の御伽草子、能·幸若舞などの芸能から、近世に入っての浄瑠璃や歌舞伎、戯作に至るまで、義経伝説は日本の文芸に様々な素材を提供した。特に頼朝との葛藤により勢力を失っている時期(失意時代)の危難を描いた作品群はその量的·質的ともに「判官贔屓」の情緒を刺激する判官物の核といえる。その中でも能の台本である謡曲として多くの義経文学と伝説が劇化され、当代の観客を魅了し、高い評価と根強い人気を得て、そしてまた新しい判官物や義経伝説を派生あるいは転生した。後世の文芸に与えた大きな影響と、日本の古典演劇の基本を確立し、六百年以上の伝統を持つ能の類いまれな生命力を考えると、能における判官物の研究は、義経関連の文学·芸能全般の理解においても重要なポイントの一つではないかと考えられる。そこで本稿では、落人となった義経主従が偽の山伏姿で奥州へ下る途中、主君のために命を捧げた佐藤兄弟の館で、一行が兄弟の母親と一人息子の接待を受けたとされる「摂待伝説」を典拠とする能〈摂待〉を中心として、周辺の文芸との交渉に留意しつつ、その舞台劇としての特質を中心として、それを義経文学の類型の意味するところと関わらせて考察していきたい。要するに、「能」というジャンル的特性が「判官物」としての性格に及ぼした影響について概観し、その特徴と意義を明らかにすることによって判官物における能の作品の位相について検討しようとするものである。

14

4,600원

幽玄を定義する際、美意識の一つとして取り入れたり、歌体の一つとして考えてきたのが今までの考え方であった。しかし、鵜鷺系の歌論書と『正徹物語』に描かれている内容によると、当時の歌壇でもっとも注目を集めた新しい歌風として幽玄が取り扱われているのが分かる。十歌体の一つである幽玄体を説明しようとしたのではなく、また幽玄とは何かという立場において、その意味を究明しようとしたのではなかった。むしろどの歌風が最高であるかについての論議の中、各々歌人によって有心体や幽玄体、麗体という歌風が主張され、これらの体をもっと詳しく納得させるために力を注いでいるのが伺える。それで各体に下位分類を置いて例歌を付したのである。そして行雲体廻雪体や理世体撫民体という新たな歌体が作られたのである。鴨長明は幽玄を余情として理解し、鵜鷺系の歌論書では具体的な例歌を提示しながら妖艶の意味が含まれたものとして認識した。しかし、有心も幽玄も基本的には和歌の本質として受け入れたので、歌風変化によって、最高歌体も変わると言える。また、当時和歌の姿を三つに分けて考える傾向があった。一つ目は「太くおおきに」、二つ目は「細くからびたる」、三つ目は「艶に優しき」である。その中で幽玄体は「艶に優しき」に属するし、恋歌を表現するに適当なものとして認識した。正徹も例外ではなかった。勿論、鵜鷺系の歌論書にも書体の形式を借りて「皮」、つまり「優しき」のカテゴリに幽玄が属するものとして分類している。それは和歌を三つに分ける方法が定家以後にも続けて伝わったということで、幽玄体は恋歌に適合な手段として認識したのを証明する証拠でもある。もう一つは幽玄体に属している恋歌においてのレトリックは王朝物語の作中和歌を本歌取り、あるいは用語や文句の引用により、優艶な場面を醸し出したり、古典世界との強いゆかりを示すのである。しかし鵜鷺系の歌論書の例歌にあたっては一部歌に限ると言える。

15

『去來抄』에 나타나 있는 芭蕉와 凡兆의 俳諧観에 관한 고찰

許坤

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.189-203

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4,800원

芭蕉の俳諧を繼承しながら發展させた蕉門の弟子の数は約二千人とも伝われる中で、蕉門の発展にもっとも目立つ業績をもっている人たちを世は蕉門十哲といえる。その中でも凡兆という弟子は大変独特な人物で蕉門の門下の中でも優れた俳諧の能力の持ち主として知られている。しかし「座の文學」ともいわれている俳諧文学で周邊の人物との調和と俳諧世界の交わりは欠かせないものであるにもかかわらず、凡兆の妥協を知らない強い性格のために周邊の人物との交わりに失敗してしまうのである。これは凡兆の俳人としての壽命短くする決定的な原因になったといわざるをえない。傳統詩歌の世界繼承發展させて俳諧に導入しようとした芭蕉は「さび」「しをり」「ほそみ」の理念が成立するようになり、新しい俳諧を求めつつあった芭蕉の前に現れたのが写生的で独特な俳諧の方向性をもっていた凡兆であった。その後、凡兆の俳諧に注目した芭蕉の信頼のおかげで派手に江戸俳壇に登場するようになり、芭蕉は凡兆の俳諧能力に愛着をもって世話をしていた。しかし妥協を知らない凡兆の强直な性格は芭蕉との俳諧観の違いにより師匠までも排擊し、芭蕉の作品についても辛辣な批判を止まなかったのである。そのような凡兆の行動は蕉門の弟子たちにも強い不満を持たせるようになり、晩年には周辺の門人との交流もほとんど途絶えるようになって、それ以上の俳諧の発展をみることなくさびしい俳人の末路を歩んだのである。

16

자립기의 일본애니메이션에 나타난 사상

具見書

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.205-218

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本稿は1945年から1962年まで時代的特徴により影響を受けた日本アニメーションに含まれた思想を考察することに目的がある。日本が政治的に自立した時期は、1945年敗戦により米占領政策が終焉された1952年であり、社会文化的に自立したのは、高度経済成長の土台が整え、発展を果たし始めた1960年代初期であると言える。そのような観点から見ると、日本の自立というのは、政治経済的自立と社会文化的自立をも含み 同時に外部からの支配を排除し、また自ら方向性を決定するのが出来、発展するための基盤が造成された時期を意味する。そのような動きのなかで、社会文化領域では多様な試みが文化界を中心とし進められた。特に映画及びアニメーションのような大衆文化を通じて時代性を反映しながらまた新しい価値と思想を探す作業が盛んに行われた。この時期の前半部には米軍政による西欧価値主義が主に広がり、そして後半部には日本価値主義といったような思想が展開されたのである。結論的にいうと、自立期において日本アニメーションに現れた思想とは、西欧価値主義, 日本文化主義, 教育主義, メロ主義, ヒューマニズムなどであると言える。

17

「한류」론 소고

金弼東

한국일본학회 일본학보 제85권 2010.11 pp.219-232

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4,600원

日本社会は、日本文化の形成過程の中で表れた日本人の「文化的寛容性」を高く評価しているが、最近はこれを「日本文化の世界化」の土台にしている。現在日本の政府が強力に推進している「アジア経済・環境共同体」構想や「アジアコンテンツ共同体」構想などが、まさにこの「文化的寛容性」から生まれている。その伝統を生かして日本は、90年代の末頃から国家的次元でコンテンツ産業の育成に尽力し、アジアで爆発的に増加している中産層の文化的欲求を吸収する一方、アジア消費市場の活性化と日本の新成長動力を確保しようとする意志を明らかにしている。韓国も1999年の「文化産業振興基本法」を制定してから、本格的に韓流ブームの助成に力を入れはじめた。その結果韓流は、日本の鞏固な支配下に置かれていたアジアの文化地形に新たに一角を占めるとともに、最近は韓国の生活文化にまで関心を呼び起こすほど発展した。これを踏まえ本稿では、文化交流と価値発信という観点から韓流10年を振り替え、今後の10年をいかなる方向性を持って進むべきなのか、などについて総合的に分析しようとする。特に、アジアの中産層の爆発的な増加とこれを背景にした各国の文化ナショナリズムの表出可能性を乗り越えながら、文化的にアジア・アイデンティティの創出に寄与できる韓流になれるか、これを実現するために指向すべき価値は何だろうかを明らかにしたい。

18

4,500원

The purpose of this study is to clarify what kind of ideals Korean parents except those born and raised in Japan have for their own children, by questioning 369 Korean parents staying in Japan. Through the questionnaire method and factor analysis, four factors of their ideal images emerge, which consist of “Korean and Japanese culture-oriented”,“Western culture-oriented”,“Japanese culture-oriented”and“Korean culture-oriented”. In the relation between these ideals and the period of the Korean parents’stay in Japan, there is tendency that the long-term-stay parents are more Korean and Japanese culture-oriented in their children education than the short-term-stay parents; the middle-term-stay parents are more Western culture oriented than the long-term-stay parents; the long-term-stay parents are more Japanese culture-oriented than the short-term-stay parents. Furthermore, as for the relation with the educational level of children, the parents who have children in junior high school tend to be more Japanese culture-oriented than those who have elementary school children.

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4,800원

本研究は1950年代前半に日本で実施された「柔拳興行」の未だ十分ではないその実態の解明と、大衆娯楽としての性質について、当時の柔道が置かれていた状況との関係も含めて考察したものである。そこでは以下のことが明らかになった。①当該時期において柔拳興行は少なくとも1952年から1955年まで実施され、日本人と外国人、興行組織が実施主体となっていた。②柔拳興行は当時人気を集めていたストリップや賭博という他の大衆娯楽との結節と、その興行や試合の内容及びそれに対する観客の反応から、大衆娯楽としての性質を備えていた。③占領末期から独立という時期に柔道が置かれていた状況は柔道家の生活を楽にするものではなく、それが柔拳興行を産む契機ともなったと考えられる。柔拳興行とその展開には、当時の大衆娯楽が有していた多様な側面をみることができ、そのなかには大衆娯楽の解放的な無邪気さを伴う消費を通して、二項対立では捉えられない複雑さをはらんだ戦前とは異なったナショナルなものへの意識も垣間みられるといえよう。

 
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