Earticle

현재 위치 Home

Issues

일본학보 [The Korean Journal of Japanology]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본학회 [Korea Association Of Japanology]
  • pISSN
    1225-1453
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    1973 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제52권 (25건)
No
1

老年の自我と小説的なもの -日本現代文学のひとつの特性として-

金春美

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.1-13

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,500원

日本文学における「老人文学」は、「老い」と「死」という老年の根源に関わる問題を顕在化しているといえる。「近代」というも のが、自立した個我の獲得を目的の一つにするものならば、日本のある種の文学作品は、まさに近代的な個人を描いた文学であると言え よう。そこには家族主義からも社会の規制からも解き放たれた純粋な個我があるだけだからだ。先進型の産業情報社会に組み込まれた日 本は、「近代」の名の下に自立した個人としてのあり方を追求し、成功したようである。しかし、家族主義が崩壊し、父が没落し、最後の砦 であった母なるものが失われた後に残されたものが、感覚的な刺激に生の証を求め、老醜をさらけ出す前に自決を選択することであるなら ば、「近代」が「老い」に何をもたらしたかの問題は、改めて問われるべきものとして私たちにつきつけられていると言える。

2

4,300원

俳句は、特別な形態を持っている。小説とか詩とか散文などの文章は読者の目が移動するにつれて、形式が読み 取られていく。それに対して、俳句は、全体をいっぺんに読み取ってしまう。時間とともに流動することを拒否する。五七五 の形は時間の経過としては感じられない程度の時間である。一挙に全体を把握するために、最高度の緊張を必要とす る。五七五の形にするために、ことばの抑制が要求される。ことばの抑制は、高度の技術をともなう。凝縮性を持っている 新しいことばが想像力と結ばれるとき、優れた俳句になる。 文学は、自分を表現するとともに、他人の同感を求める目的を含んでいる。表現の普遍性と、それとともに、素材を技 術面では、時代感覚による語彙の新しさと心意の深さを追求する。それらの要素を含む俳句とは、ほかの文学より高度 の修辞が必要である。素材とは、俳句に使われた対象である。いかに歌うかが心意として出現する素材をどう使うかは、 修辞(レトリック)である。この修辞で俳句の形式を活かすことができる。日常生活の言語が芸術言語になる力を得るの も修辞技法からである。自由な連想力による突出するイメージは新しい抽象画を言語的に達成する。修辞は、直観的 な感知能力として、単純な言語技術を越えて、人間と世界の諸現象との関係を新しく把握する可能性をはらんでいる。 ことばは人間が用いる記号の一種であるから、ことばの本質を究めようとすれば、まずことばと心と物との相互関係を 明確にしなければならない。ことばは、心と物との関係を知ろうとすれば、心はいかにして物と関係するかという認識の問 題まで遡らなければならない。俳句においては、対象は、すべて人間との関係によって成立する。その対象は作者の位 置と視点を明示しているからである。 このような面から俳句を見ると、俳句はほかの文学より修辞性が豊かなことが分かる。奇妙な俳句が多くても、それは それで、俳句の面白さである。それが未來の俳句にむかって新しい可能性を切り開く原動力の現われである。

3

4,600원

「生れ出づる悩み」の語り手「私」は木本青年の生活を描くに当たって、「私の鈍い頭にも同感といふものゝ力 がどの位働き得るかを私は自分で試して見たいのだ」と、創作の方法と目的について言明している。語り手の意図した 「同感」とは他者の実感に迫る想像力と解釈できるが、作者を強く喚起させるメタフィックションの形式をとって、「同 感」を創作の方法として打出した有島の意図はどこにあるのか。  その際、手がかりとなるのは、「人類の意志に取り組む」という白樺派を強く喚起させる言説である。従来も白樺派 と比較しての論はあったが、印象主義的な指摘に終わるきらいがあった。本稿では<天才主義的芸術家観>、芸術 家と労働の問題、「人類の意志」への志向という共通の素材の取り込み方の比較を通して、具体的な検証を行った。 <天才主義的芸術家観>と労働の問題を見れば、天才への志向は武者小路や長与の描く人物にも見いだせる が、有島と武者小路の描く登場人物は天才の芸術への強迫観念めいた志向があり、その背後には人類労働者に 対する負い目が潜んでおり、負い目は才能によって解消すると思っている点で共通している。しかし両者の「人類の意 志」への志向の在り方には懸隔が目立つ。武者小路は自己に内在する人類の意志を自分の実感に拠って表現しよ うとするのに対して、有島は周囲の魂たちの声、しかも自ら訴えることの出来ない「亡霊のやうな魂」の声を、それに感 応した自分の魂を通じて表現しようとする。他者の形象化であるから「同感」する想像力が必要であり、その成功は 他者と自分の一致を意味し、そこに人類の意志の発見が期待されるわけである。つまり、有島は「人類の意志」にか なった芸術を目指すということについては武者小路等と共感していたが、それを捉える方法として他者の実感の代辯を 意味する「同感」を打ち出し、自分の独自性を明らかにしたのである。「同感」を打ち出した意図は、『白樺』の人 道主義の傾向の中で自分の独自性をはっきりさせることにあった、ということになる。

4

夏目漱石『門』論 -夫婦という制度と自然の葛藤-

吳俊永

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.41-58

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,200원

夏目漱石の『門』には夫婦が主人公として登場する。この夫婦は仲のいい夫婦として描かれているため、この作品 は主に理想的な夫婦愛を描いた小説として読まれてきた。本論文では、はたしてその夫婦に理想的な夫婦愛が託されて いるのだろうかという疑問を懐き、まず宗助夫婦の描かれ方に注意した。そして宗助の過去の罪が象徴的な表現で語ら れている点に注目し、なぜ肝要な部分を簡単にすませようとしたのか、その必然性について考察した。最後に『趣味の遺 伝』『それから』などの前作を射程に入れながら、夫婦という社会的制度のなかでの個人(自己)の問題について深層 的な考察を試みた。その結果、これまでの作品とは異なって、本能的慾望としての自然が人間の良心に対抗する道徳 的な悪として転化されていることが確認できた。 人間は社会的な存在である以上、いくら自己本位の思想を確立しようとも、自己と社会の緊張ㆍ衝突は避けられな い。そしておおむね自己の存在の意味を社会のなかから捉えようとする方向に傾かざるを得ない。漱石は最後に宗助を 社会と家族の間に立ち竦むしかない存在として描き出している。制度のなかで自然の抑圧を強いられたとき、宗助は初 めて過去の「罪や過失」を切り離して自己本位の生き方を考えるようになる。宗助にとっては、この自己本位こそ自分 を救う唯一の方法にほかならないが、その自己本位とは、自己の主体において制度(社会)を再構築することで、自己 の存在を定位するという意味であることは言をまたない。制度と自然の葛藤にあって自己はどうあるべきか。これが『門』 に託された新たな文学的主題であった。

5

石川啄木と新聞ジャーナリズム ー北海道時代を中心にー

尹在石

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.59-68

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,000원

啄木を語る時、暗い感じがする、悲しい、貧しく夭折した詩人などのような負的なイメージがしばしば指摘される。これ は、先行論が啄木のテクストを文学と人生または生活のような椊組みの中で論じて來たからであると思う。 一方、現在多くの啄木研究者の課題の一つをあげるとすれば、それはおそらく負的なイメージの啄木像からの脱皮 であろう。つまり、今の若者もこころよく近づけ、共感できる啄木像を形象化することである。 私は、こういった要求に答える一つの方法が、啄木のテクストを啄木個人から離れ、同時代の言説空間のなかで読 んで行くことではないかと思う。 例えば、啄木の北海道時代を見よう。啄木は「予算案通過と国民の覚悟」のなかで、「流網を打つ老漁夫」や 「陋巷粥を啜る貧家の婦」らの民衆が「苛税」に「蹂躙」され、「血を吸はれ其骨を削ら」れ「痩せた」実 状を指摘している。その時の彼の身分は『釧路新聞』三面主任、実際は編集長格であった。啄木はこのような歴史 的実状を見つめ、また言葉を持って書き記していたのである。われわれは民衆の苦痛の原因を帝国主義的権力と言う 視角から見つめていた若きジャーナリスト像を啄木から見ることが出來るのである。 このような視角で見る時、啄木の北海道時代は「放浪」「漂泊」などのイメージからのがれ、たとえば、明治帝国 時代の不条理や民衆の苦痛をみつめ、新聞に書き残そうと苦心したジャーナリスチックな視角が培われた時期である と言う新しい評価もできるのではないか。

6

韓國에 있어서의 日本語 硏究(1999~2000) -専門学術誌의 研究 動向-

李康民

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.69-90

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,800원

本稿는 1999~2000年 사이에 이루어진 韓國에 있어서의 日本語 硏究의 主된 흐름을 全國規模의 專 門學術誌에 揭載된 248편의 一般 投稿 論文을 통해서 살펴보고자 한 것이다. 이것은 1994年 以後에 進行되고 있는 韓國에 있어서의 日本語 硏究의 흐름을 把握하기 위한 作業의 일환으로서 1994~1998 年의 動向 分析의 후속편으로 준비된 것이다. 調査 結果, 1999~2000年에 이루어진 248편의 日本語 硏究는 文法(89), 日本語史(62), 日本語敎育 (47), 社會言語學(16), 語彙(15), 音聲․音韻(9), 기타(7), 文字․表記(3)의 順으로 硏究 活動이 進行되었 으며, 이와 같은 樣相은 1996~1998年의 調査 結果와 비교하여 語彙와 文字․表記의 연구 비중이 약 간 증가한 모습을 보이고 있다. 특히 이 時期의 文法 硏究에 있어서는 voice(使役․受動․自發) 硏究 와 각종 構文 硏究가 큰 비중을 차지하고 있다는 점을 確認할 수 있었다. 日本語史의 경우는 音韻史 硏究와 더불어 文字․表記史와 관련된 硏究가 상대적으로 활발히 進行되었다고 할 수 있을 것이다. 또한 日本語敎育에 있어서는 컴퓨터를 이용한 일본어 교육 프로그램의 개발이 새롭게 눈에 띄고 있 다는 점을 이 時期의 特徵으로 指摘할 수 있을 듯하다. 分野別 硏究 項目에 있어서 他言語와의 對照 硏究가 차지하는 비율(對照 硏究/全體 硏究)은 社會 言語學(8/16), 語彙(6/15), 日本語史(22/62), 文法(27/89), 音聲․音韻(2/9), 日本語敎育(7/47)과 같은 順序를 보인다. 社會言語學에서 對照 硏究가 가장 활발히 이루어지고 있는 반면 日本語敎育에 있어서의 그것이 劣勢에 놓여져 있다는 점은 1994~1998年에도 確認된 結果로서 주목을 要한다. 아울러 이번 調査에서는 前時期에 전체 연구의 40% 정도를 차지하던 文法 연구의 비중이 약간 줄 어든 반면 日本語敎育 관련의 연구 활동이 상대적으로 활발해지고 있는 추세를 확인할 수 있었다. 하 지만 여전히 文法과 日本語史의 연구 비중이 전체의 60%를 초과하고 있다는 점은 韓國에 있어서의 日本語 硏究의 편향적인 特徵의 하나로서 指摘할 수 있을 것이다.

7

일본어 교육을 위한 문화 이해 교육의 범주

李德奉

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.91-104

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,600원

文化とは何かに関する定義は様々で一括りにできない概念だけに外国語教育における文化教育の目的も様々で ある。韓国の教育機関と日本の日本語教育関連機関との間にはもちろん、同じ韓国の場合でも、中等教育政策を担 っている教育人的資源部と日本語教育関連の学会、大学の専攻教育、社会人教育機関としての日本語学校などの 間にもそれぞれの目的は異なって当然であろう。異文化理解の教育が成功するためには,何よりもその教育の目的や 理念が定まらなければなあらない。というのは,いわゆる国際間には倫理がないと言われた時代における言葉や文化 の教育は,自国文化の普及と拡大のことしか考えなかったと言える。しかし,グローカリゼーション(Glocalization)の 時代においては,地域内の国どうしの共生共栄が共通の目的になっているので,構成員どうしの平等な関係はもち ろん,互いの立場を尊重し理解し合う態度が求められるようになったのである。従って、このような時代における外国語 教育は、言葉の教育に止まらず,相手の文化の理解をも伴わなければならないわけである。しかし,日本語教育界の 一角からは異文化を理解させることはどういうことであろうか,何を教えなければならないのであろうか,異文化は教え ることができるのであろうか。などの疑問の声が上がっているのも事実である。 文化教育の内容は、言語文化行動を構成する人間の行為体系を成す項目を中心に構成し体系的に理解させる 必要がある。すなわち、言語行為と行為体系の多層的構造の理解が求められるのである。ただし、このような項目の知 識的理解だけでは理解できたことにはならない。相手の文化を理解しようとする態度の養成こそ目指すべき教育項目と 言える。このような教育を実現するためには、何よりもそれに向けての日本語教育の理念を定めることが大事である。 日本語教育の理念を定めるには、国際化時代における地域内の共生共助体制づくりを目指しての教育を念頭に 置くべきであろう。そのためには相互理解と相互教育の環境づくりを実現しなければならない。また、異文化理解教育の 専門家を養成しなければならないと思う。

8

川端康成文学における時間の様相

李在聖

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.105-121

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,100원

가와바타 야스나리는 문단에 등단한 초기부터 「만물일여」「생사일여」를 표방하며 죽음과 현 실을 비롯하여 모든 사물의 경계를 무너뜨리고 초월하려 했던 작가이며, 영화적 수법에의 관심에서 집필한 『狂つた一頁』나 의식의 흐름 수법을 적용한 『水晶幻想』 등을 쓴 작가이기도 했다. 『禽 獣』 이후의 작품에서는 노골적인 비약 대신 회상과 절제된 연상이 주조를 이루게 되었지만, 그와 같은 가운데에서도 그의 작품에 있어서의 시간의 양상은 단조롭고 직선적인 배열을 거부한다. 그의 소설에 있어서의 시간은, 시계의 그것도 스토리와 더불어 흐르는 시간도 아니며, 자유로운 연상이 스토리의 시간적 논리에 역행하거나 혹은 갑자기 다른 차원으로 비약하거나, 혹은 정체되거나, 혼 돈 속에 빠져드는 시간이며, 때로는 녹아 없어져 버리는 듯한 경우조차 있다. 본고에서는 가와바타의 작품 중 『母国語の祈祷』『禽獣』『生命の樹』『みづうみ』『眠れる美 女』『たんぽぽ』를 중심으로 시간의 해체 및 재구성, 혹은 굴절의 양상에 관해 고찰해 보았는데, 그 결과 다음과 같은 결론에 도달하게 되었다. 첫째, 가와바타의 소설은 회상 장면의 빈도가 높고, 분량상으로도 작품 전체에서 차지하는 비중 이 대단히 크다. 둘째, 가와바타는『眠れる美女』 중에서 “인간의 기억이나 추억은 그것이 오래 전 의 일인가 최근의 일인가 하는 것만 가지고 진정한 멀고 가까움을 말할 수 없을 지도 모른다. 어제 의 일보다 60년 전 어린 시절의 일을 선명하고도 생생하게 기억해서 떠올릴 수도 있을 것이다.” 라 고 적고 있는데, 그와 같은 생각을 반영이라도 하듯이 그의 작품은 회상의 시간, 즉 内的시간 내적 현실이 현재진행형의 시간, 즉 外的시간 외적현실보다도 선명하게 부각되고 강한 현실감을 동반하 여 호소해 오는 경우가 적지 않다. 셋째, 회상과 더불어 장면이 과거의 시간 그 자체로 이행해 가 는, 이른바 영화적 수법이 자주 사용되고 있다. 예를 들면, 회상 속의 두 사람이 나누는 대화가 아 무런 여과도 없이 한동안 이어지는 경우가 그러하다. 그것은 단순한 회상이 아닌, 과거의 시간 그 자체의 재현으로 보아도 전혀 이상하지 않은 장면들이다. 이처럼 가와바타의 작품 속에서는, 시간의 不可逆性은 늘 흔들리고, 과거로 溯行하는 경향이 있 다. 시간의 불가역성이나 물리적 시간의 추이는 그다지 큰 의미를 갖지 못한다. 어쩌다 작품 중에 물리적 시간이 설정되어 있다손 치더라도, 그 물리적 시간은 인물의 의식의 흐름 속에서 빈번히 혼 돈되거나 왜곡되어 버리기 때문이다. 그리고 이러한 경향은 작자에 의해 의식적으로 추구된 것이라 생각된다. 예컨대『駒島温泉』에서는 미야코(美也子)가 꾼 시침 없는 시계의 꿈이, 또『故人の園』에서는 “그”의 아내가 꾼, 분침 없는 시계의 꿈 이야기가 등장한다. 『不死』에서는 55년의 세월을 넘어 재 회한 신타로(新太郎) 노인의 유령과 18살 때의 모습 그대로인 미사코(みさ子)의 유령이 옛날처럼 연 인의 모습으로 나란히 걸어가면서 대화를 나눈다. 『故郷』에는, 현재의 “그”와 소녀 시절의 모습인 후쿠코(ふく子)가 손을 맞잡거나, 그 현재의 “그”가 자신이 태어날 때의 첫 울음소리를 듣거나, 어머 니의 품속에 손을 넣어 젖을 더듬어 찾는 다섯 살 때 정도의 자신을 보고 있거나 한다. 그리고 『離合』에서는 후쿠시마(福島)가 10년 전에 헤어진 처의 유령과 재회하여 이야기를 나누기도 한다. 극히 평범한 시간배열을 취하고 있는 듯이 보이는『雪国』에서조차, 세 시간대가 뒤섞여 있다. 소설의 冒頭로부터 시작되는, 시마무라(島村)가 고마코(駒子)와 재회하기 위해 눈고장을 방문하고부 터 전개되는 시간대가 있으며, 그 시간대 속에서 시마무라의 기억에 의해 회상되는, 그와 고마코가 처음 만났던 때의 시간대가 삽입되어 있으며, 그 1년 후, 시마무라가 세 번째로 눈고장을 방문하고 부터 전개되는 시간대가 그것이다. 『千羽鶴』의 경우, 오타(太田)부인이 죽은 애인의 아들 기쿠지 (菊治)에게, 아버지와의 구분이 전혀 안 가는 듯 아무런 저항감도 없이 순순히 ‘여자’의 모든 것을 주어 버리거나, 기쿠지가 죽은 아버지의 애인을 품에 안고 옛적부터 알고 지내던 ‘여자’인 것처럼 친밀감을 느끼거나, 오타부인의 딸인 후미코(文子)가 어머니가 죽은 뒤 마치 모친의 分身이기라도 한 듯이 기쿠지와 자연스럽게 결합되는 것 등은, 단순한 시간의 해체나 재구성의 차원에 머물지 않 고, 時空의 혼재, 혹은 영원히 반복하는 순환적 시간까지를 연상시키고도 남음이 있다. 시간과 공간은 불가분의 관계에 있으며 각각의 시간은 그에 상응하는 공간을 동반한다. 위에서 든 예들은 모두가, 시간과 공간의 장벽을 무너뜨리고 생과 사의 사이에 가로놓인 장벽을 뛰어넘고 자 했던 이 작가의 초월지향의 発露라 할 수 있을 것이다.

9

歌枕「芹川」の享受史に関する一考察

鄭勝云

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.123-136

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,600원

歌枕「芹川」には京都市の葛野郡嵯峨野(右京区)説と紀伊郡(伏見区)説がある。右京区の〈芹川〉は 実在しなかったのにも関わらず、歌によって地名が作られるようになるほど、文学(和歌)の影響は強いと考えられる。 平安末の注釈書からみられる右京区の〈芹川〉説は、誤解から生まれたまぼろしの〈芹川〉であったものの、多く の人に読まれてきたことは事実であって、事実は事実として重要視する必要があかろう。和歌の製作と享受とは必ずしも 一致することはなかろうが、和歌の享受史からみることができるように、右京区の〈芹川〉は実在しなかったのにも関わ らず、新たな地名が作られるようになるくらい、文学(和歌)の影響は大きい。

10

江戸戯作から見られる活花とそのパロディー

崔京國

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.137-146

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,000원

江戸時代に頻繁に行われた展示会形式もの、「開帳」「見世物」「物合わせ」などをパロディーした江戸戯 作に見立絵本があることはすでにいくつかの拙論によって発表してきた。ここでは江戸時代に流行した活花と活花会に 触発されて作られた活花の見立絵本である『抛入狂花園』を中心に、その影響によって生まれた『見立花くらべ』 『一目千本』『挿花故実化』などを通して当時の活花とそのパロディーがいかに行われたかを調べることとした。 花の本『抛入華之園』のパロディーとして作られた『抛入狂花園』は活花の見立絵本として最初の本で、もっと も質の高い、充実したきれいな絵本である。およそ『抛入狂花園』に描かれた三十七の花は、当時著名な四代目市 川団十郎、二代目瀬川菊之丞、初世中村仲蔵等の歌舞伎役者、反魂丹売りの大道芸師松井屋源助などの人物 の特徴を捉えて花に仕立てている。 『見立花くらべ』は『抛入狂花園』の影響を受けているが、『抛入狂花園』が人物中心であるのに比べ、風俗 を中心に描いている。それに比べると『一目千本』は主観的な見立絵本で、遊女を花に見立て、その勝負を相撲の 形式を借りている。この形式は浮世絵でよく描かれた。「青樓美人六花仙」、「略六花撰」、「見立花さくら」など がそれである。花の性質と遊女の性質を感覚的にマッチするものでその遊女を詳しく知らない人には分かりにくい見立 てである。『挿花故実化』は再び『抛入狂花園』の形式に戻るのだが、題名にも書かれているごとく「見立て」よ りは「こじつけ」に重さを置いている。

11

아쿠타가와의 기리시탄모노에 나타난 예수와 그리스도

河泰厚

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.147-163

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,100원

芥川龍之介においてはその思想が対立する二元的な傾向が強く、また彼の切支丹物においても各作品の内部、 または各作品の間に兩面性を持っている。この兩面性を分析した様々な試図があり、すべて明快な論として認めざるを えない。しかし、ここにもう一つの試図を加えるならば、それが〈神キリスト〉と〈人間イエス〉を兩軸にした分析である。 ある論者は芥川と教会の関連を度を過ごすほど強調する傾向もあるが、芥川のキリスト教認識は何よりも『聖書』 そのものにあり、〈人間存在〉そのものにあった。彼が尊んだものはキリスト教のドグマでもなく、また制度としての教会や 信徒の信仰行為でもなかった。何よりもキリストの受難の相、また人間存在そのものの実存的形相の根源を見出してい た。言い換えれば、芥川においてのキリスト教認識は〈神キリスト〉にあったのではなく、〈人間イエス〉にあった。のみ ならず、芥川が前者を主題にする場合は軽くて戯画的になるが、後者を取り扱う場合には、作品の内容は重くて実存的 になる。これは芥川のキリスト教に対する二つの相反する態度であり、それがそのまま彼の切支丹物に交錯して表現さ れる。

12

탈냉전 후 일본의 대 한반도 정책의 변화와 전망

金鍾杰

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.165-184

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,500원

1980年代における日本の経済的成功と冷戦の崩壊は日本に新しい可能性を開くように見えた。しかし21世紀に入 った現在、日本は冷戦直後の希望に満ちた姿とは程遠い状態にある。日本は現実国際政治のなかでアメリカの世界 戦略の一翼を担うことで、自分の利益を極大化するといった戦後一貫して維持してきたごく限られた対外政策の椊に 再び回帰したのである。日本の対韓半島政策も以上のような基本線から外れていない。本稿の目的は最近日本が直 面した政治経済的な環境の変化とそれに対応する日本の対外政策の変化を、特に日本の対韓半島政策の変化に 焦点を当て分析していくことである。韓日関係においては今後経済、文化、人的交流の次元でより一層の協力が予想 される。経済協力の面では長期的には自由貿易協定の締結という巨大な目標に向け進んでいくであろうが、短期的 には協定締結それ自体よりは、自由貿易協定に関連した各種の経済協力がより一層拡大されていくであろう。北朝鮮 と日本との関係において最大のイッシュは国交樹立の問題である。現在北朝鮮と日本との国交樹立のためには日本 の経済的補償の金額と方法、日本人拉致およびミサイル問題など解決せざるを得ない難題が多く残っている。しかし 少なくともこのような難題は暫く解決される見込みが非常に少ない。今後の韓半島との平和体制確立のために日本の 役割は重要であるが、そのためにも日本と北朝鮮の国交樹立を韓国政府だけではなく、中国、ロシア政府も積極的に 説得していく必要がある。場合によっては早期国交樹立を前提にした日本の国連安保理への進入を支持していくこと も必要であろう。

13

4,800원

韓日の両国の新しい教育課程は21世紀を対備した教育改革の文書をもとにしている。教育課程に現われた人間 像を具現するために育成する力として、韓国は自己主導能力を、日本は生きる力を追求している。自己主導能力とか 生きる力は学習者を全面に掲げる点から、そして学習者の主体性を強調する点で共通的な属性をもっている。しかし 両国は教育改革の背景とか推進の重点をお互に異にしている。 まず、教育改革の背景から見ると、韓国は国家社会が指向する方向へ接近するための人間像を定立し、このような 人間像を実現するための児童․学生の能力を導出する巨視的な方法をとっている。反面、日本は現在の児童․学 生たちの実態を分析し、これをもとに教育改革の方向を摸索する微視的な方法をとっている。 次に、推進の重点から見ると、韓国は情報化の社会で必要な能力の育成という面で全人性と秀越性を、そして知 識基盤の社会に対備した創意的な人間の育成を強調している。これのために水準別教育、選択学習、裁量学習を 通して自己主導能力を、育成する力として掲げている。反面、日本は情報化の社会を成功的に生きるための能力の育 成という面で生の余裕をもって、生の豊さを創造することができる人間の育成を強調している。これのために総合的学 習、特色ある学級、開いた学級づくりを通して生きる力を、育成する能力として掲げている。 韓日の両国が教育改革で掲げる目標を達成するための強調する能力と力がお互に異なるのは児童․学生がも つ特性に対する両国間の認識がお互に異なるからである。そうしても両国の教育改革が情報化の社会に対処するた めの人間の育成という点で共通な属性をもつ関係で窮極的に指向する方向は余り差がないということができる。それは 不確実し、不安定な21世紀の情報化の社会を成功的に生きるための学習者の自身の力と能力を強調するという点 である。 韓日の両国が目標とする人間像を具現するためには教育的な理想を実現することができる教育現実が裏付けな ければならない。教育の現実は家庭と学校と社会の総合的な努力の結実に、韓日の両国の国家社会の将来を決定 するてことして作用すると考える。

14

일본의 장제(葬制)에 나타난 정화(浄化)관념

関根英行

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.201-218

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,200원

葬制において浄化観念とは、元来、骨の浄化を霊魂の浄化と同一視する観念である。日本民俗学では支石墓、 殯、火葬、納骨、両墓制などについて活発な論議が展開されてきたが、それらの葬制の基底にはこの浄化観念が存 在している。ところで、論議の過程でそれらは「日本固有の霊魂観」という観点から把握されてきた。本稿は、「日本人の 二重構造モデル」や崔在錫、洪元卓の新しい古代韓日関係史の学説から従来の葬制研究の成果を再検討して 見ようというものである。前者は日本人はB. C. 10,000年ごろから日本列島に住み始めた「東南アジア系集団」と、B. C. 3世紀からA. D. 7世紀にかけて朝鮮半島から移住した「北アジア系集団」の混血過程によって形成されたことを 主張しており、後者は、天皇が日本国内で自生的に成立した支配者ではなく、日本列島開拓に進出した百済王族で あることを主張するものである。これらの学説を葬制研究に応用した場合、次のような理由で「日本固有の霊魂観」とい う従来のカテゴリーの妥当性が喪失することになるであろう。一つは、縄文人と弥生人の霊魂観は文化系統が異なる ため、両者の連続性が否定されるからである。もう一つは、弥生人と天皇の霊魂観は両者の連続性よりも、それぞれ三 韓人と百済王族との対応関係が優先されるからである。 浄化観念は複葬という葬制に典型的に現れるが、それらは主に朝鮮半島から移住した「北アジア系集団」に由来 し、形態を変えつつも後世に継承されている。その継承の形態は二つに分類できる。一つは、骨の浄化と霊魂の浄化を 同一視するという古来の形態であり、その典型的な例は火葬による納骨である。もう一つは、象徴的な儀礼によって霊 魂を浄化されるという形態であり、それは追善供養として展開した。これはもともと中国において考案された忌祭祀を受 容した法事であるが、日本においての浄化観念と結合し、独特の変容をしたといえる。

15

4,900원

新しいブッシュ行政部は日米同盟の強化を通じて中国を牽制しようとする政策をとっている.日本もこのような米国の 動きに引きずられている。今度の日米同盟の強化は海洋国家間の同盟という点で1902年の日英同盟と類似点を持 っている. 韓国はその歴史過程で中国という大陸勢力との闘争と協力の中で軍事的、文化的アイデンテイテイーを形成して 來た. しかし1945年の国の分断は韓国のアイデンテイテイーにも変化をもたらした. 韓国は国土の分断によって大陸と の陸路が無くなって1945年以後は島国として生きてきた特別な経験がある。また冷戦期には日米同盟,米韓同盟を 通じて米国,日本と緊密な関係を維持したので1945年以後の韓国は海洋国家としての運命を歩んだとも言える。 冷戦が終り韓国は再び大陸国家との関係を修复した。そのなかでも中国との関係は経済,国防,外交などの面 でその重要性が急速に増えている。日米同盟の強化は韓国にも難しい選択を強いられている。韓国は伝統的な大陸 国家としてのアイデンテイテイーと1945年以後形成されてきた海洋国家としてのアイデンテイテイーの間で葛藤して いる。韓国が国益を最大にするためにはどうすればいいであろうか。韓国は1945年以來の海洋国家としてのアイデンテ イテイー を緩和して大陸国家との関係が疎遠されることがないように中国に配慮すべきだ。

16

談話の中に挿入される相づちの一考察

郭末任

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.235-245

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,200원

本研究では、韓国語を母語とする日本語学習者と日本語母語話者との接触場面で、学習者に対する母語話者 の話し方、相づちの打ち方を把握することを目的とし、なかでも、機能と出現位置との関係、機能と表現形式との相関 関係に焦点を当てて、分析を行った。 考察では、第一に、実際のデータには「情報の了解」、「同意の表示」、「感情の表出」の機能を果たすもの が、「聞き手」、「ターンの前」、「話し手」というすべての位置に使用されていたこと、第二に、「情報の了解」機 能には53%が「ターンの前」に現れ、特に、日本語が上手でない学習者に対し、母語話者が使用する率が非常に 高く、その表現形式も複合的な形が多いこと、第三に、極めて簡潔な形である「うん、ええ」が、「聞いている」、「情 報の了解」、「同意の表示」の三つの機能に使われ、学習者にはこれらの機能の判別がしにくいこと、を指摘した。 最後に、本研究の結果に基づき、実際の談話に使用されているような広い範囲での相づち教育の必要性など、新し い視点として取り入れるべきことがらについて、日本語教育への応用の観点から論じた。

17

17세기 후기의 町人社会와 遊芸 - 井原西鶴의 작품을 소재로 하여 -

구태훈

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.247-264

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,200원

元祿時代は町人が経済的実力を握った時期でもあったのであるが、封建的身分秩序が強化された時期でもあっ た。この時代の町人に残された唯一の可能性は財産を蓄積することであった。井原西鶴は日本永代蔵を書いて金 持になりたいと希望した町人たちにその道を案内しょうと思った。そのために西鶴は遊芸に対して批判的な立場を取って いた。しかし 西鶴は遊芸批判論者であるとはいえない。西鶴は金持になりたいと希望する貧しい町人たちのためにいろ いろな資料を取り上げて遊芸の危険性を強調してはいるが、門閥町人の遊芸に対しては決して批判していない。また、 家業に励まなければならない年齢である青壮年期の町人が遊芸にはまることを警戒しているが、成功した町人が隠居 して遊芸を樂しむことを批判したのではない。否、青壮年期に家業に励み、その結果成功した町人が隠居して遊芸を樂 しみながら悠々自適に生活する町人こそ、西鶴が描こうとした望ましい町人像であったのである。そして、家業に励み、ま た自己節制力のある町人の遊芸に対しては愛情のまなざしで見ている。貧しい町人が経済的に成功して遊芸を学び、 それを通して上流社会の一員になることは、彼の目標であったのであろう。西鶴は、その町人たちに、遊芸は警戒の対 象でありながらも苦しい現実を通り抜けるに役に立つ、実現可能な夢であると言っているのである。

18

日本語と韓国語の授受動詞の尊敬表現

金昌男

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.265-275

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,200원

本稿では、日本語の授受動詞「やる」「あげる」「さしあげる」「もらう」「いただく」にいわゆる尊敬形「お ~になる」または「~(ら)れる」が付く形式について、日本語母語話者の使用実態を調査を通して明ら かにした。さらに、韓国語との比較を行い、両言語間にみられる類似点と相違点を明らかにした。 以下、( 1)「やる」の場合は「おやりになる」が「やられる」より多く使われているのに対して、一 方「あげる」と「さしあげる」の場合は「おあげになる」と「おさしあげになる」より「あげられ る」と「さしあげられる」がより多く使われていることがわかった。また、( 2 )「もらう」と「いただ く」の場合は「もらわれる」と「いただかれる」の方が「おもらいになる」と「おいただきになる」 より多く使われていることがわかった。 さらに、日・韓対応においては、( 3 )「おやりになる」「おあげになる」対「주시다」については、 「おやりになる」と「おあげになる」は与え手と受け手と話し手の3 者の関係を問題にするのに対し て、「주시다」はただ与え手と話し手の関係だけを問題にする点で異なることがわかった。また、( 4 ) 「おもらいになる」「いただかれる」対「받으시다」については、「おもらいになる」と「いただかれ る」は受け手と与え手と話し手の3者の関係を問題にするのに対して、「받으시다」は受け手と話し手 の関係だけを問題にする点で異なることがわかった。

19

白井寛蔭著『音韻仮字用例』に見る韓語について

閔丙燦

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.277-291

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,800원

白井寛蔭著の字音仮名遣い書『音韻仮字用例』には、二箇所にわたる韓語の參照が見られる。そして、韓語が 関わっている寛蔭の著作としては、そのほかにも『類合』や『訓蒙字会』を書写し、かつ韓語について記述した『朝 鮮諺文類合』と『朝鮮諺文字会』がある。本稿では、この二書と『音韻仮字用例』とは成立年が同じであること や、内容的に『類合』や『訓蒙字会』に大きく依っているということなどから、深い関係が予測され、これらを取り上げ 、いくつかの側面から寛蔭がどのような手法で韓語を引いているのかを追究し、韓語に対する彼の学的な姿勢ないし 観点を探ってゆき、同時に、寛蔭の説の展開において韓語はどう位置づけられるのかを明らかにした。 その結果、寛蔭は朝鮮漢字音を韻尾の区別を主張する際に引証しているが、それはその主張の限りにおいては必 ずしも必要不可欠なものではなかったものの、その中の〈宣長も朝鮮漢字音を參照すれば、撥韻尾をすべて「ム」と することはなかった〉とする主張に見られるように、韓語重視の姿勢が認められた。そして、寛蔭の韓語理解には、今日 の観点からすると筋道の通らない所があることも明らかになった。それは、ハングルの説明にあたって漢字による「音註 」を解釈の出発点としたことによる。ただし、漢字音研究への韓語利用を目指し、彼の設けた理論において、そこに誤り はなかったと言ってよい。 寛蔭は、自分の設けた説にあてはまる朝鮮漢字音を『韻鏡』を參照しつつ選び出し、それを自説の補強と先学説 の補完に利用した。朝鮮漢字音を『韻鏡』において検証する手法が、彼の論に必ずしも有益であったとは考えられな いものの、韓語參照による字音研究の先駆者ともいうべき全斎の手法に比べてみると、それはやはり一つの進展と認め られる。そして、この手法は、当時の字音研究の流れをそのまま反映していると考えられるのである。いずれにしても、朝鮮 漢字音と日本漢字音を同じく『韻鏡』により一貫して処理しようとしていたことが、寛蔭の韓語利用の手法におけるもっ とも大きな特徴と言える。

20

事実的用法を表す「たら」と「했더니」をめぐって

安平鎬

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.293-303

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,200원

本稿では、現代日本語の「たら」と現代韓国語の「했더니」をめぐって、両者に共通する事実的用法について 考察を加えた。まず、形態素分析を通じて、「たら」「했더니」には一般的に「過去」を表す形式として説明される 「(たり>)タ」「었」という要素が含まれている、という共通点について指摘した。 なお、「たら」と「했더니」には、条件節の制限(話し手に限られる)があり、この制限には「パーフェクト性」と証 拠性(evidentiality)が関連するという視点から管見を述べた。

21

日本語受動文の分類について ― その試論的な考察―

李成圭

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.305-321

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,100원

22

多義語동사「見える」의 意味의 존재양식에 대하여

金成龍

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.323-333

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,200원

23

4,800원

24

4,900원

25

和歌に見る掛詞式の擬音語について

黃圭三

한국일본학회 일본학보 제52권 2002.09 pp.367-381

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

4,800원

 
페이지 저장