2026 (19)
2025 (64)
2024 (69)
2023 (44)
2022 (70)
2021 (59)
2020 (57)
2019 (65)
2018 (61)
2017 (69)
2016 (64)
2015 (73)
2014 (117)
2013 (84)
2012 (96)
2011 (82)
2010 (95)
2009 (89)
2008 (123)
2007 (107)
2006 (115)
2005 (136)
2004 (178)
2003 (136)
2002 (136)
2001 (119)
2000 (84)
1999 (64)
1998 (49)
1997 (50)
1996 (48)
1995 (33)
1994 (41)
1993 (33)
1992 (34)
1991 (27)
1990 (25)
1989 (26)
1988 (26)
1987 (24)
1986 (23)
1985 (23)
1984 (28)
1983 (12)
1982 (13)
1981 (16)
1980 (14)
1979 (9)
1978 (10)
1977 (9)
1976 (10)
1975 (6)
1974 (7)
1973 (6)
4,300원
本稿では、日本語の時の表現に見られる「に」格表示のパターンについて、次の2点に注目し考察した。一つは「時を表す「に」がつく時の表現とつかない時の表現との違いは何か」であり、もう一つは「「は」「でも」などのとりたて助詞が後続すると、普段は「に」がつかない時の表現にも「に」がつくのはなぜなのか。さらに同じ条件の下でも「昨日」「先週」など発話時以前を表す時の表現には「に」がつかないが、それはなぜなのか」ということである。考察の結果は次のようである。まず、一つ目の問題については、時間軸上で時の表現が表す時点を特定しやすいか否かという性質を、時の表現の持つ<特定性>と規定し、この<特定性>が「に」格表示に関与しており、<特定性>の弱い時の表現は「に」格表示が難しいということを明らかにした。二つ目の問題については、仮定の状況や選択肢・可能性を表す状況において一回的な行為・出来事にかかわる時を表す際には、たとえ普通「に」格がつかない<発話時を基準にする時の表現>にも「に」格表示が許されるということを明らかにした。また、<発話時以前を表す時の表現>に「~には」「~にでも」などの表現が許容されないのは、仮定条件を表す「は」や<ぼかしのとりたて>を表す「でも」が単純過去を表す文には用いられないという特性のためであることを明らかにした。
4,300원
This study compared Okinawa in Japan and Jeju in South Korea concerning the language revitalizations. Language revitalization is the attempt by interested parties, including individuals, cultural or community groups, governments, or political authorities, to reverse the decline of a language. The process of language revitalization is the reverse of language death. The background of the language revitalization in Okinawa is related to racial independence. Therefore the Okinawa people try to protect their language. Jeju people looked for their identities through their language, in two flows of globalism and regionalism. It is a background of the language revitalization. Language standardization has already been completed in both areas. This is a common background. The Okinawa prefectural assembly enacted the ordinance of “Day of the dialect”. The Jeju provincial assembly enacted the ordinance of the dialect promotion. This is the first case that the local government started the protection of their language. A regional language indicates the cultural diversity in a language community. In both areas, the events of the same kind are held for the activation of regional languages. For instance, a speech contest in a dialect, dialect signboards, and a dialect souvenir, and so on. It is not a true revitalization to protect a regional language like a cultural asset. A true revitalization is to recognize the regional language as a means of communication in the language community.
4,000원
連体修飾節の主名詞が後文で再び登場するには、照応形式を伴うのが普通である。そもそも、照応形式は情報の既知性を明示すると共に、言語表現の持っている冗長性(redundancy)を打ち消す機能を持つ。ところが、情報の既知性の明示や冗長性を消す働きをする照応というのが必ずしも明示化されているわけではない。主名詞が後文で現れるには名詞の意味特徴から幾つかの段階があると見られる。これを照応形式と絡んで、その形式の必須度から段階別に低い順番に並べると、固有名詞→普通名詞→時間・場所・転成名詞→形式名詞といった順に纏めることができる。固有名詞は照応形式は剰余なもので、無慓であっても何の意味的な差は見られないので、一番、必須度が低い。具体的な意味合いを持つ具体名詞の場合は照応形式が意味上の解釈には無慓でも構わないが、有慓の方がより自然に解釈される。更に人タイプの名詞は時間・場所・転成名詞といったような意味特徴により分けられ、三つの必須度は時間・場所より、転成は必須度がやや高いと判断される。それから、形式名詞は照応形式を必須としながら、人タイプの名詞とは、照応形式と名詞が分離できない形をとっていることで異っている。今回の研究を通して、次のようなことが主張できる。従来の連体修飾節の研究に「照応」というのは主に「こ・そ・あ・ど」というような指示詞をめぐって派生してきた。ところが、この研究の結果、照応形式と名詞には必須度による差があり、これは上記のように段階別に表すということが言える。したがって、名詞の様々な類型を照応形式を通しても考察できたことに成果と意義があると考えられる。
4,300원
本稿は、1872年、ヘボンとブラウンが訳した『新約聖書馬可伝』の言語資料としての性格およびその日本語の特徴などについて考察したものである。『馬可伝』には、明治初期、ヘボンとブラウンによる訳の成立以降、およそ100年間にもわたって改訂作業が繰り返し遂行されたという経緯がある。このことを踏まえると、『馬可伝』をもって明治期という変革の時期における日本語の諸相を通時的な観点から比較考察できるという点において、その価値が認められると考えられる。本稿は、今後、翻訳物をもって明治期日本語についての研究を押し進めていこうとしている筆者にとって、具体的にどのような言語現象が議論の的になるのかについて検討したという意味を合わせ持っている。本稿では、ヘボン・ブラウン訳『馬可伝』は、仮名遣いの上での誤謬や音便現象の視覚化、そして語彙選択における問題など、言語の面において様々な問題を抱えているということを明らかにした。このような、翻訳という創作の過程で発生した言語上の諸問題が以後の改訂作業を通じて修正されていったものと見受けられるが、ここで見逃してはならないのは、『馬可伝』における日本語は文語体と口語体とが交錯する重層的な性格を持っていたということである。このことこそ、明治期日本語の在処を雄弁に物語ってくれる一方で、現代語の形成過程を議論していく際に欠かすことのできない重要なポイントになるものと考えられる。
4,300원
In this paper, I discuss syntactic licensing condition of bakk-e-anh-da (hereafter, bakk-e) ‘only’ in Korean and shika-nai (hereafter, shika) ‘only’ in Japanese. Arguments of this paper are as followed:(1) Unlike previous studies, syntactic licensing condition of bakk-e and shika is not the same. (2) shika is directly licensed by Neg. (3) bakk-e is a kind of multifunctional expression unlike shika. In other words, there exist two different usages in bakk-e. Usage of bakk-e1 corresponds to one of shika while usage of bakk-e2 does to one of igai-nai or hoka-nai. Moreover, syntactic licensing condition of bakk-e1 and bakk-e2 is different. Namely, bakk-e1 is directly licensed by Neg, unlike bakk-e2. For bakk-e2, it is not bakk-e2 that is licensed by Neg but covert Indeterminate-do such as amu-do ‘anyone’, amugeos-do ‘anything’, amude-do ‘anywhere’. In previous studies, there are two different approaches to syntactic licensing condition of bakk-e and shika. First approach suggests that bakk-e and shika are directly licensed by Neg. Second approach proposes that it is not bakk-e and shika that are licensed by Neg but covert Indeterminate-do for bakk-e and covert Indeterminate-mo such as dare-mo ‘anyone’, nani-mo ‘anything’, dokoni-mo ‘anywhere’ for shika. However, there are some problems for each approach. First of all, first approach cannot explain why bakk-e is able to appear in adversative predicate, whereas shika is not able to. Second of all, second approach cannot explain when bakk-e or shika is in the non-argument positions such as adjunct positions. In other words, the approach can explain only when bakk-e or shika is in the argument positions. Therefore, this paper suggests that the arguments of previous studies should be modified.
4,600원
本稿では、(1)(2)のような構文を対象とし、これらの構文を「場所名詞句の主題化構文」として位置づけるとともに、これらの構文の特徴をめぐって考察を加えた。考察の結果、以下の点について明らかにした。 (1)館はいたるところに彫刻がほどこされ、思いきった内装がされていた。(2)実はあの写真額には、一分の隙もなく、油絵の具で彩色がされている。 ●これらの構文は、場所名詞句が主題化された(=動作主が背景化された)構文である。 ●文全体的には、「場所名詞句(に)は→VNが→されている」といった項構造をもっており、アスペクト的に「結果継続」の意味を表す。 ●場所名詞句の主題化構文におけるVNに関しては、動作主の意圖的な行爲の結果、對象に変化(動作主の行爲の結果、具体的な生産物が生じるという変化)が起きる動作の意味を表す「VN」でなければならない、という意味的な選択制限が働いている。 ●対応する能動文からの派生過程において、<「VNを」→「VNが」>といった格表示の変化は、「VNを」のままでは動作主を完全に背景化できないから伴われる変化である。 ●これらの構文における「サレル」は、一種の「代動詞」的な働きをする。
4,300원
韓国人学習者が発音した外来語を、一般の日本語母語話者に聞かせ、アクセントが自然か不自然かを判断してもらい、不自然とされた割合が高い単語についてその原因を分析した。その結果、(1)特殊拍の脱落や、余分な添加によるモーラタイミングのずれ(17%)、(2)アクセント核のずれ(55%)、(3)モーラタイミングのずれとアクセント核のずれの両方(28%)が理由として挙げられることがわかった。モーラタイミングのずれの中では、特に長音の脱落が目立った。アクセント核のずれが起こる原因としては、重音節にアクセント核を置く傾向や、韓国語の外来語のピッチを日本語の外来語にも当てはめているのではないかと思われる誤用が見られた。
4,500원
本研究は、日本人という集団に対するイメージが日本人とのコミュニケーションを阻害しうる側面に注目し、韓国人大学生の日本人イメージの形成メカニズムを詳細に記述することと、日本語学習の影響を明らかにすることを目的としている。2段階の大規模な質問紙調査から得られたデータに因子分析と回帰分析などの統計分析を加え、最終的には「侵略者・支配者」「気遣う原則主義者」「自己表現者」「非自己開示者」「働き者」という5つのイメージの形成に関する因果モデルを導き出した。本研究の結果、1)「侵略者・支配者」イメージは社会化(socialization)の過程で教育やマスメディアを通して形成され、社会的に共有されていること、2)「気遣う原則主義者」イメージは日本人のコミュニケーション行動の特徴に関する内容であることが示唆された。日本語学習の影響については、1)日本語の授業による直接的な影響と、日本語の上達による間接的な影響が存在すること、2)社会的に広まっている日本人に対する偏見の解消に貢献する一方で、日本人に対する先入観を再生産する可能性がうかがえた。
4,500원
本稿では韓国人日本語学習者が日本語母語話者とのコミュニケーションで言語知識の不足を補うために用いるCSについて考察を行った。その結果、韓国人日本語学習者は「援助の要請」、「言い換え」、「言語の切り替え」、「逐語訳」のようなCSの使用が多いことがわかった。また、韓国人日本語学習者の場合、日本語の習得レベルによって使用するCSが異なっており、熟達度が増すにつれ母語である韓国語に基づくストラテジーから日本語を使ったストラテジーへと移行する傾向がみられた。
「おいでになる」와 「行かれる․来られる」의 사용상의 기준― 신약성서(신공동역)의 4복음서를 대상으로 하여 ―
한국일본학회 일본학보 제83권 2010.05 pp.113-124
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,300원
本稿では「おいでになる」と「行かれる」、「おいでになる」と「来られる」を対象として、敬語動詞と「レル」型の敬語の使用上の基準を検討することにより、李成圭(2010a)で行った研究方法が果して適切であり、その検討内容が妥当であったかを考察した。本稿で考察した内容を簡単にまとめると、以下の通りである。1.「行く」においては尊敬語形式として「おいでになる」と「行かれる」が使われており、前者は対話文、後者は地文といった区分が先ずなされているが、待遇関係や文体的な要因等を勘案した場合には、対話文の場合にも「行かれる」が使われているという使用上の基準が認められる。2.「来る」においては尊敬語形式として「おいでになる」と「来られる」が使われており、その使用の実態は「おいでになる」と「行かれる」のそれと比べやや複雑に展開されているが、基本的には<イエス>の移動について対話文では「おいでになる」が、地文では「来られる」が尊敬語表現として使われているという点では「おいでになる」と「行かれる」における使用上の基準と一致する。一方、預言者の言葉を引用した文脈や、イエスが用いた引用文に「おいでになる」が使われ、群衆の叫び声や、ヨハネがキリストを誉め称える場面、そして救世主の再臨といった甚大な事件を扱う場合には、伝統性かつ慣用性を反映して「来られる」の表記を選択的に使っているといった点が特徴的である。以上の考察内容は、李成圭(2010a)で「言う」の尊敬語形式である「おっしゃる」と「言われる」を対象に行った使用上の基準が有効であることを立証する。
4,200원
本稿では、日本人社会人の初対面の自然会話に見られる「思う」を取り上げ、ポライトネスの観点から、その「ヘッジ性」を中心に、その使用様相を調べてみた。その結果を簡単にまとめると、日本人社会人の初対面の自然会話における「思う」は、約30%くらいは、動作としての思考を表わすのではなく、断定などを避けて発話内容の力を和らげるヘッジとして使われることが分かった。また、女性の方が男性よりヘッジ性を持つ「思う」をより多く使っており、このことは女性が男性より柔らかい、またポライトな話し方をしているとの従来の研究に対する1つの実証的な結果とも言えよう。さらに、話し手の性別を問わず、ヘッジ性を持つ「思う」が会話相手の年齢に比例して使われており、ヘッジ性を持つ「思う」が年上に対する配慮を表わす1つの言語使用となっていることが窺える。以上のようなヘッジ性を持つ「思う」は、円滑な人間関係を保つための1つのポライトネス・ストラテジーとして機能していると言えよう。
4,200원
本稿では、類議関係にある副詞「どうやら」と「どうも」の意味用法について記述した。「どうやら」と「どうも」は、「証拠性(evidentiality)」という意味範疇に属する副詞であるという点で類似しているが、両者の意味や使用状況などには違いが見られる。本稿の分析によって得られた結論を以下にまとめる。第一に、従来「どうやら」と「どうも」の違いは、証拠の性質による確実性の程度にあるとされてきたが、この違いは文末のモダリティの意味であって、副詞の意味ではない。「どうやら」は命題内容と証拠との関係が「推論」に基づいていることを表すが、「どうも」は命題内容と話し手の予想や期待の世界との「ずれ」を表すという異なる意味をもつ。「どうやら」と「どうも」が用いられる用法や使用状況の違いは、このような意味規定によって説明できる。第二に、「どうも」は主に形容詞文と共起し、話し手の否定的な態度を表す用法がある。従来、この用法については漠然とした記述がなされ、「推定」とはまったく別の用法として扱われてきた。本稿では、二つは用法は別のものではなく、意味上、連続する用法であることを主張した。「どうも」の使用条件として提示した証拠と命題との「ずれ」という意味は、否定用法にも適用できる。
4,500원
本稿は、コーパス調査とアンケート調査によって、頻度の副詞と「命令」「意志」「希望」「勧誘」の文末表現との共起傾向を明らかにした。「いつも」「常に」「ちょくちょく」「たびたび」などの頻度の副詞は「命令」などの文末表現との共起を制限していないが、「しょっちゅう」「しばしば」「絶えず」「めったに」「始終」「しきりに」「よく」「まれに」などの頻度の副詞は「命令」などの文末表現との共起を制限している。前者の頻度の副詞は、発話時までに事態の実現の有無に関わらず用いられるが、後者の頻度の副詞は、発話時までに未実現の事態には用いられない。本稿の考察結果は、日本語教育現場で頻度の副詞の習得に活用できると考えられる。
張赫宙의 「朝鮮傀儡部隊의 最後(朝鮮傀儡部隊の最後)」론- 抗日軍 토벌에 임한 間島特設隊 조선인 장교의 변명 -
한국일본학회 일본학보 제83권 2010.05 pp.163-174
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,300원
本稿では植民地末期に多くの親日的作品を書いたことから、祖国が解放されても帰ることもできず、戦争で廃虚になった日本で作家としての新しい方向を模索していた張赫宙が1949年に発表した「朝鮮傀儡部隊の最後」に対する考察を試みた。「朝鮮傀儡部隊の最後」は植民地末期の関東軍と満州国軍により、朝鮮人抗日独立部隊を掃蕩するために、朝鮮人兵隊を中心として創設された国境監視隊と間島特設隊を素材とした作品で、独立部隊の掃蕩に臨んだ朝鮮人将校の主張する当為性と弁明の根拠を盛り込んでいる注目すべき作品である。ところで、「朝鮮傀儡部隊の最後」は間島特設隊部隊長李小源とその部下の隊員全員が自決することで結んでおり、彼らの闘争はこれといった正当性も得られないまま忘れられてしまうことを示唆している。しかしながら、自決に臨んだ朝鮮人将校と隊員達が、自分達のやってきた闘争についていささかの後悔もしていなかったことを浮彫りにすることで、けっして個人的なエゴのための親日ではなかったことを強調している。ところが、このような間島特設隊の朝鮮人将校達の行跡は、その情緒的背景において張赫宙自身の親日的執筆と一脈相通ずるものがあり、植民地末期の作家自身の親日行為に対する合理化と無縁とは言えない。
이토 세이(伊藤整)의 『변용(變容)』론─ 노년의 삶에 있어 성의 의미 ─
한국일본학회 일본학보 제83권 2010.05 pp.175-186
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,300원
伊藤整の『変容』は作者63才から64才にかけての作品で、老年の性を生き方と欲望、死、芸術、道徳などとの関わりの中で取り上げている。本論文では60才を越えて老年に入った主人公「僕」にとって性とは何かという問題を、「僕」が今まで経験してきた数多くの女性たちの容貌の変化、すなわち変容をどのように認識しているかを通じて考察した。老年に入った「僕」の目に映っている現実とは生命の根源としての欲望の追求と道徳の規制とが拮抗する世界である。現実世界における欲望の追求はいつも衒學的になるか自己欺瞞的になるかである。それゆえ「僕」は欲望を追求しようとして挫折感を感じ、遊びのパターンとしての性や芸術に向かわざるを得ない。だからといって「僕」が道徳や見栄から自由になるわけでもない。生というのは道徳や見栄の抑圧と生命の根源としての欲望という、相反する人生の二つの側面の緊張関係によって絶え間なく変化していく過程であるからだ。60才を越えた「僕」が自分の人生を語るにおいて、今まで経験してきた女性たちとの関係の変化と容貌の変化、それからそれらを認識する自分の認識の変化に注目するのは、生というのは絶え間ない変化の過程そのものであると認識しているからである。生のそのような変化過程は老年の生においても同じである。即ち、老年においても生というのは相変わらず意味深い新しい経験で、これから何が起るか分からない恐れるべきものなのである。このような認識に到った「僕」は過去には不完全で未熟だと思ったものたちから実在を感じるようになる。現在の自分とは過去の不完全で未熟な経験からなっている存在で、それを共有している存在から実在を感じるというのである。つまり老年の境地に入った「僕」にとって性の追求とは、現在の私を成している過去の追憶を共有することによって実在を感じらせるのに意味があると言えよう。このような『変容』における、現実と道徳、欲望と性と芸術に関する老年の「僕」の認識態度は、他ならぬ伊藤整のそれと見ていいであろう。それと同時にそのような認識態度はなぜ伊藤整が一生芸術と現実の実践の間の緊張関係を保ち、執拗に性を穿鑿したかということへの答えになると思う。
4,200원
日本は明治維新以後数多い戦争を経験した。このような戦争の歷史は清·日と露·日戦争と太平洋戦争を描いた作品を多く残すことになった。またこれらの作品のなかには直接戦争を体験した作家たちの体験記が多くて日本文学と戦争との深い関聯性を見せている。この論文で取り扱った『望郷』は直接戦争に参加しなかった民間人が,日本人という理由だけで日本の敗亡によって蘇聯軍に抑留されて強制収容所に収容され、結局は捕虜帰還の中に含まれて故国に帰るまでの体験を作品に描いた点で普通の戦争物とは異な事例である。作家は"戦後日本人が何を考え、なにを見詰めていたか"を分からせるためこの『望郷』を書いたと述べていた。彼が人々に知らせるため小説に描いた戦後日本人の生活とは, 人間がなくなった自らの正体性を問いただす生活であったことがわかった。彼が育ちながら教育された日本社会では天皇の存在を否認することは思いもつかなかったことであったろう。彼は結局天皇の存在を認めることによって悲劇の奈落に陥ることになった。しかしその悲劇の中でもただ彼に残った望みは故郷と家族に対する渇望だけであった。彼は家族と再会するためにはいかに非人間的な行動でも躊躇しなかった。このような彼の行動を通じて彼の故郷に対する渇望と共に戦後日本人の社会倫理感の不在から生じる精神的不安をも想像することができよう。.
4,600원
宮沢賢治の童話の中から代表的な『注文の多い料理店』を選び、作家がこの作品を通して読者に伝えようとした比喩と暗示の世界をその当時の時代背景や社会状況と関連させて研究した。また、1920年代の国際情勢の中での日本と作品の関わりを中心に調べてきた。比喩と暗示の伝達方法として西洋料理店を登場させているが、西洋料理店は当時のオリエント急行を比喩して描かれている。明治維新後の日本はイギリスやフランスのような大国の仲間入りを目指していて、領土を拡張しようとする日本の動向を賢治独特の風刺、批判の観点から考察した。この作品では賢治の童話の中で欠かせない比喩と暗示、そして風刺の手法を極大化して、当時の時代背景を通じて、未来を予見するメッセージを強く訴えたと思われた。賢治の平和を愛する心が当時の日本を考えれば危惧せざるを得なかったからであろう。
5,100원
内村鑑三(1861-1930)は、日清戦争(1894-95)当時、強く開戦を主張した自分の立場を変え、十年後の日露戦争(1904-05)を前にしては非開戦,、つまり戦争を反対する非戦論に方向を旋回した。これによって当時日本では内村非難世論が激しく起り、内村は連日世論に叩かれながらも自分の所信を変えることがなかった。だれよりも偽善を嫌悪した内村鑑三は、過去の自分の歪んだ戦争観を隠すことに決して汲々しなかったのはもちろん、真理を探し求めるためにはどんは変化をも躊躇しなかったし、そのために「変説者」といわれるのを恐れなかった。その端的な例がすなわち、日清戦争当時の主戦論から日露戦争の非戦論に移行して行った彼の戦争観の変遷であり、信仰の深化していく過程であった。西洋のことわざの「智者は変ずる」を引用し、自らに逃げ道を設けた内村鑑三、彼は人生の後半に近づくに従い、信行一致の態度を取った。この信仰と行動の一致に至るまでに彼は絶え間ない内面の葛藤に直面し、この葛藤を統合し、真理を探し求めてはついにそれを発見し獲得する過程の連続が彼の人生であった。それを成し遂げるために、自分自身の変化を絶えず追求してやまなかったのが、内村鑑三がとっていた「学者の態度」であった。一方、日清戦争の義戦を主張した三十代初の内村は強烈な自我の持ち主であった。当時彼の強烈な自我と自己確信は同時代、門下生であった志賀直哉、武者小路実篤ら作家志望の人々に強い印象を与えながら彼らに継承される。しかし内村自身は次第に自分の自我を屈服させ、それを克服し自分に敵対する勢力まで受容していく人格にまで至る。その過程が本稿で考察した時期の内村鑑三の姿である。
4,200원
日本の1920年代は変化に富んだ時期であった。元号が大正から昭和に変わり、また欧米の文芸思潮が時間の差をおかず、日本でも享受できる時期でもあった。都市の成立においても、1920年代は近代都市の成立期ともいわれる。特に東京の場合には、1923年度の関東大震災を境目に大きな発展を遂げつづけ、日ごとに都市の景観が移り変わる。近代の都市空間は単なる街ではなく、空間と人間がともに交流し合う場所でもある。このような時代を背景として作品を残した作家には梶井基次郎がいる。彼の学生時代と同人雑誌『青空』に作品を発表した時期がちょうど、1920年代と重なっている。彼は寡作の作家だが、彼の作品の中では、当時の都市と都市人の姿が詳しく表われている。都市の繁華街を描きながらも都市空間から拒まれている人を描くことにより、都市の暗闇を伝えている。本稿では東京を描いた作品を通し、しだいに変わって行く都市風景の変化に注目し、考察することを目的とする。風景の変化というのは作家の心像風景の変化に伴うものである。だから、都市の中で生きていく人々はどういうふうに都市の変化に対応して来たのか。 都市人が巨大な都市空間に馴染み、適応する過程に関しても考察することになる。
비언어적 커뮤니케이션 기제로서의 이모티콘 사용 및 번역에 관한 연구― 『電車男』의 일-한 텍스트 사례를 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제83권 2010.05 pp.241-252
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,300원
Under the assumption that a non-verbal act goes beyond a simple expression to serve as a certain communication mechanism, emotion can be interpreted as an act that exerts physical and psychological influence on others. In this regard, emoticon, which signifies one’s intension in the form of a non-verbal act, may affect relationship with others. In this respect, this paper presumed that emoticon alleviates face-threatening and functions as a strategy to convey politeness. From the perspective of face-threatening act (FTA) and politeness strategy, this study examined the presumption with a Japanese-Korean text of Densha Otoko(translated as Train Man),which incorporated emoticon in its content. In terms of the scope of research subject, this paper confined emoticon to a combination of characters and symbols, i.e. keys on a computer keyboard, and excluded icons constituted with only a fraction of a computer file.
미야자와 겐지(宮沢賢治) 동화에 나타난 ‘바람의 마타사부로(風の又三郎)’ 일고찰
한국일본학회 일본학보 제83권 2010.05 pp.243-255
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,500원
自然現象である風は宮沢賢治文学の主な素材の一つである。賢治は風に<風の又三郎>という独創的な名を付け、6編の作品に描写したが、風の又三郎という素材は作品「風野又三郞」と「風の又三郞」、この二つの作品で<風の又三郎>というキャラクターをほぼ確立したということができる。「風野又三郞」は1924年の未完成の作であり、「風の又三郞」は1931~1933年作で、「風野又三郞」の改稿作と知られている。同一の題目に<野>と<の>の違いがあり、導入部分だけは類似性があるが、内容や展開は全く異なる別の作品である。この二つの作品の主な登場人物は題目と同じ名の<かぜのまたさぶろう>で、新潟から東北にかけて広まっている風の神、風の三郞の伝承にちなんだものである。風の又三郞は賢治の6篇の童話作品の中に登場し、最初はそれ自体が風を指す言葉であったが「風野又三郞」や「風の又三郞」では擬人化され、「風野又三郞」では風の妖精として、「風の又三郞」では転校生の人間として描かれている。口伝の異人として風を指し、風の神や天童、座敷わらし、風の妖精などとして描かれた風の又三郞であるが、作品「風の又三郞」では民俗学でいう天狗との関連性が見られる。天狗は神隠しの媒介体として知られており、主に住むところは山奥である。天狗は羽団扇を持ち、赤い顔色、長い鼻、飛行をすることが特徴である。天狗が羽団扇を持つことは風の又三郞の父親が団扇を持って登場することと同じであり、飛行をする属性も、修験者のような姿で教室の中に突然現し、教室の皆を上から見下ろす又三郞の父親の視線と同じである。風の又三郞の赤い髪や目をきょろきょろする行動は赤い顔色や長い鼻の天狗との関連性が見られる。天狗をモチーフとして描かれた風の又三郞をとおして賢治の作品と民俗学の接点を見出すこともでき、賢治文学の特徴の一つである郷土性を再確認することもできると思う。又、風の妖精である又三郎が気象学を子供たちに教える場面や、妖怪の天狗が化けて村に出現し、村の子供と共に自然をふんだんに楽しむというストーリーからは、童話的な遊戯性を追求した作者の意図が窺われる。又、二つの作品に描かれた風の又三郎は有機性及び循環性が見られる。風の妖精と人間、人間と妖怪(天狗)という其々の世を巡る循環性が現れている。又三郎の循環性は自然である風と属性が同じであり、風の三郎を風の又三郎という名で表現した賢治の意図にも循環性の暗示が込められている。作品「風野又三郞」の中で、風の妖精である又三郎は家族の名前が風の又三郎として同じであることを強調しており、直接的に風の大循環に関して説明している。このような説明は<又>という言葉に循環性や同時性の暗示が含まれていることを意味する。宇宙の循環ということは宮沢賢治の基本的な宇宙感覚と相通することとして、彼は風の又三郎という素材を通して自分の持っていた宇宙の循環認識を十分に表現したと言えよう。
5,100원
This paper analyzes the latter five points of the ten points claimed by the Japanese Ministry of Foreign Affairs web-site over Dokdo ownership, especially focused on the time period from the Russo-Japanese war to the U.S.-Japanese peace treaty. Japan has been using the example of including Dokdo into Shimane prefecture at the end of the Russo-Japanese War based on the indigenous territory theory and unowned land prior occupation theory, to justify territorial claims after the World War II. This paper analyzes the differences between Japan's claim and the reality. Actually, during the Russo-Japanese war, Dokdo was an important strategic place for Japan's victory over Russia. Therefore, we can see that Japan's incorporation of Dokdo into Shimane prefecture was an action focused on national security. Moreover, Japan claimed at the peace treaty with the U.S. at the end of World War II, that Dokdo is territory of Japan, because it had been since the Russo-Japanese war. Meanwhile, Japan used former minister of U.S. embassy in Japan Mr. William J. Sebald to lobby the U.S. State Department, based on the fact that Dokdo is an important strategic place to ensure security of East Asia. So up until the fifth draft at the peace treaty, the U.S. judged Dokdo as a territory that Japan should give up, but just as the statement from ‘consideration of the national security due to the issue regarding U.S. interests’ implies, the U.S. regarded Dokdo as a radar base for its Far East strategies, and so Dokdo was included into the Japanese territory since the sixth draft. However, as the British joined a common draft between the U.S. and the U.K since the seventh draft, Dokdo was not categorized into either Korea or Japan. Overall, this paper analyzes the difference between the claims over Dokdo of the Japanese Ministry of Foreign Affairs web-site, and the actual Japanese territory policies.
4,600원
戦後日本外交の基本的なスタンスは、平和外交理念を実践することであった。日本の平和外交路線は、高度経済成長と相まって広い分野での経済協力と文化交流の拡大を伴った。いわば、経済外交と文化外交の一層の強化である。特に文化交流分野においては、国際交流基金の創設が代弁しているように、文化交流予算の大幅の増額と交流体制整備にも助けられ、交流の質も高まった上、交流の両も飛躍的に増加していった。その意味で70年代は、経済外交だけではなく、日本の文化外交・政策の面においても、一つの大きな分岐点になったといえる。以上を踏まえ本稿では、「経済大国ニッポン」のプライドが60年代をへて徐々に高まっていく中で、70年代の新しい文化外交の基盤になった「アームズ・レングス(arm's length)」政策の導入背景として、まず、日本経済の飛翔と責務をめぐる国際社会の視線、それに対する日本社会の「自己認識」の欠如(=国際社会に対する国としての「ノーブレス・オブリージュ」意識の不在)、そして「自己認識」の欠如に対する自己反省が外交路線へどのように反映していくのか、等を検討した。
4,500원
日本の植民敎育の實體とその性格を明らかにするためには、高句麗の趣味あるいは高句麗の文化現象というものに対して考察するのが課題である。そのなかでも、高句麗の人物として、聖德太子の師といわれる慧慈と法隆寺の金堂壁畵を絵がったといわれる曇徵は注目すべきである。韓國古代の知識人、學者、僧侶などは日本近代の國體イデオロギ-敎育の場面で主な存在として召喚、動員された。日鮮同祖、一視同仁、內鮮一體、八紘一宇という歷史の幻想と敎育の妄想を作った人物としては佐藤淸、崔載瑞、李光洙などの官制學者および親日知識人がいった。彼らは高句麗(的なもの)の發見を通して日本精神と國體イデオロギ-の優越性と正當性を說破しながら歪曲された敎育を敢行した。彼らは日本と對比される国としての高句麗ではなく、日本文化と聖德太子を憧憬・欽慕したといわれる高句麗の人物たちに注目した。高句麗の古墳壁畵をモティブにして聖德太子の正室夫人といわれる橘大郞女に関する模寫畵を製作したことも日本の美術家たちの熱情とアウラの産物であったというが、それもまた高句麗のためではなく、日本を中心とする大東亞共榮圈の理想を實現するという妄想の産物であった。
전후 일본 정치학 연구의 경향― 연보 정치학 게재 논문 분석을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제83권 2010.05 pp.313-327
※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.
4,800원
本論文では戦後日本政治学の研究の傾向を探るため1953年から2005年までの『年報 政治學』に掲載された論文を分析した。その結果日本政治学の研究の関心は日本自国の集中しており、研究のテーマも既存の主張とは異なって地域研究・比較政治(一つの国の研究を含めて)が政治史や政治思想、政治哲学より多かった。研究の関心単位も既存の国家から国家下部集団(政党、行政部、地方自治団体など)に移っていることが分り、日本政治学のこれからの方向が見られた。研究の方法の面では単純な記述を通じた説明方法から理論を検証したり、新しい理論を提示する論文が増加し、日本独特の理論の樹立に高い関心を持っていることが分かった。また説明の方法でも統計などを利用した計量分析方法を使う論文が増え、世界的に広まっている研究方法に沿って研究を遂行する日本の研究者が増えていることが見られる。
4,300원
韓国と日本の夾紵像の制作技法について検討し、つぎの結論を得た。第一に、韓国の夾紵像は、心木を入れず、塑形を仏像の完成の形に近くつくり込み、木屎漆による表面の整形はあまりおこなわれていないのに対し、日本の天平時代の夾紵像は、心木を入れ、木屎漆によって表面を整形するから、韓日夾紵像の制作技法においては差が認められる。第二に、中国の作例は少ないものの、心木を入れず、漆布によって成形され、木屎漆による整形がみられない点、韓国の作例と共通性をもつ。おそらく塑形を仏像の完成の形に近くつくり込む技法がを用いられていたのであろうか。日本は中国の技法が次第に簡便化されたものと推定された。第三、日本における夾紵像制作技法の変化は、漆の調達の困難や値上がりによる材料や人件費の軽減のために考案されたと推定された。
0개의 논문이 장바구니에 담겼습니다.
선택하신 파일을 압축중입니다.
잠시만 기다려 주십시오.