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일본학보 [The Korean Journal of Japanology]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본학회 [Korea Association Of Japanology]
  • pISSN
    1225-1453
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    1973 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제90권 (18건)
No
1

黃表紙에 나타나는 단정표현 「だ」의 정착에 관한 고찰

金鎔均

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.1-13

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4,500원

本稿では、現代日本語で多く用いられる断定表現「だ」の定着、即ち定着過程の中で現れる全体的傾向と定着時期を中心にして、近世後期の江戸語資料の一つである黄表紙を対象に考察してみた。特に安永~享和期(1772∼1803)の黄表紙32種の分析結果に基づいて江戸洒落本と江戸噺本を対象にした先行研究と比較しつつ、資料(黄表紙と江戸洒落本及び江戸噺本)、位相(男性語と女性語)、活用形(終止・連体形と未然形)による遅速差とその原因を検討してみた。また、定着の完了時期も推定してみた。その結果、幾つかの特徴的事実が明らかにされたかのように思う。まず、定着過程の中で現れる全体的傾向としては、①資料別に見ると、江戸洒落本、黄表紙․江戸噺本の順に「だ」の定着が進んでいる。②活用形から見ると、終止・連体形における「だ」の定着は未然形よりはやい。③位相的な面から見ると、男性語と女性語間による「だ」の定着の遅速差は見られない、という事実が指摘できた。一方、「だ」の定着時期としては、④天明期に定着が完了したものと推定されるという事実が指摘できた。言い換えれば、このような黄表紙の考察を通して断定表現「だ」の定着は資料、活用形によって遅速差を見せながら進んだということと、位相による遅速差が見られないということ、それから新しく定着時期が明らかにされた。併せて黄表紙の資料性、少なくとも断定表現「だ」の考察の場合、口語資料としての評価が高いとされる江戸洒落本には劣るが、江戸噺本には優るとも劣らないということが分かった。つまり、当時の言語研究資料としての可能性を再確認できたのである。

2

4,000원

口語での分かりやすさは、文語での分かりやすさを左右する要因以外に、話速が新たな重要な要因となる。日本のテレビニュースにおける平均話速は、402.4MPMで、1990年代の465MPMに比べ相当程度遅くなっている。韓国のニュースを日本語に通訳するさい、忠実に訳したときの話速は618.46MPMに達し、日本のニュースの平均話速の1.54倍の速さとなり、非常に分かりにくい話速になってしまう。また、韓国に対する背景知識が不十分な日本の視聴者のため、情報の挿入が求められることもあり、ニュースの韓日通訳においては、発話量を大幅に減らして、ある程度'正確さ'を放棄せざるを得ない状況となる。発話量を減らしながらもできる限り情報の損失を少なくするための通訳ストラテジーとして、基本的に簡略な表現を心掛けることの他、重要度の低い情報を省略したり、2つの文を1つにする方法などがある。通訳者は、状況によってこうしたストラテジーを適切に駆使しながら、'正確性'とのバランスを考慮して、より分かりやすく聞きやすい通訳を目指すべきであろう。

3

伴信友와 神代文字 ─ 平田篤胤와의 비교를 중심으로 ―

閔丙燦

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.25-35

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4,200원

呪術的ないしイデオロギ的な色合いの濃いいわゆる「神代」に、日本固有の文字があったのかどうかをめぐって展開した論争のうち、平田篤胤と伴信友はそれぞれ存在論と非存在論を代表する人物として取り上げられてきた。本稿は、このような従来の評価について再吟味を試みたものである。伴信友は『仮名本末』で『古語拾遺』等の記事をもとに、上代に文字が存在しなかったことを強く主張する。これは、『古史徴』や『神字日文伝』を通じて<神代文字>の存在を積極的に主張した平田篤胤とは対立する見解であり、たとえばハングルが日本の「肥人書」を真似て作られたものであるとする平田篤胤の説を否定し、「吏道」の変形こそ<神代文字>の実体であるとする主張に代表される。ただし、伴信友は、世に写し伝えられているとされる<神代文字>がハングルと似ている理由を説明する際、それは新羅の薛聰が作った「吏道」が日本に伝えられ残っているものだとしたり、世宗が創製したハングルは「吏道」の変形だとしたりするなどの謬見を提示する。要するに、ハングルが「肥人書」の偽作であるとすることと「吏道」の変形であるとする主張は、<神代文字>の有無を論ずるうえで正反対の結論を導いているという点において全く逆であるが、その論証の過程に注目した場合、伴信友と平田篤胤は共通の認識に基づいていたと捉えざるをえないのである。それは、本居宣長以降、面々と受け継がれている「皇国」の「正音」こそ最も優れているとする態度に他ならない。そして、ハングルにたいする間違った理解を出発点として自らの主張を合理化しようとしたという点においては、従来の韓語研究者たちの成果を全然受け継いでいないという共通点もある。

4

4,500원

本稿は、第二言語教育実践にその研究成果が応用される第二言語習得研究の動向を追い、それらの研究の知見から、第二言語学習者の言語活動の一つの捉え方を提示し、第二言語学習者の言語活動を念頭に置いた教育実践の課題について検討するものである。まず、昨今の第二言語習得研究において継続的に議論されている諸問題、そして、近年第二言語習得研究において注目されている社会文化的視点に基づいた枠組みの一例として第二言語習得のダイアロジカル․モデルを紹介し、第二言語習得研究の動向を探る。次に、ダイアロジカル․モデルが扱っている事象を参考にして、第二言語学習者の言語活動の捉え方を「対話」「実践」「リテラシー」の3つの概念から理論的に考察し、第二言語学習者の言語活動の基本的な様相を明らかにする。最後に、そのような第二言語学習者の言語活動の捉え方に基づいた言語教育実践の課題を提示する。

5

『倭語類解』와 『日語類解』(2) ― 下卷의 대조분석을 중심으로 ―

李康民

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.51-63

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4,500원

本稿は、前稿に続き、『倭語類解』(1783-88年刊)と『日語類解』(1912年刊)の下巻を対照分析し、語彙史研究資料としての両本の持つ意味を考えてみようとしたものである。日本語語彙をハングルで記した『倭語類解』は、従来、日本語音韻史の資料として注目されてきたのであるが、この『倭語類解』を改訂した『日語類解』の存在によって、両本の語彙史研究資料としての活用の道が開かれるのではないかと思う。そのための一つの試みとして、本稿では、『倭語類解』と『日語類解』の下巻を対照分析し、その変化の様相を追跡してみることにした。対照分析の結果、両本の間に見える日本語の変化には、活用形を連用形から終止・連体形に訂正したもの、文語的要素を口語に変えたもの、方言形を正したものなど、様々な視点からその背景を探ることが出来た。しかし、これらの変化の中には、近代語の言語現実を反映しているものがあり、利用の仕方によっては、近代日本語の語彙史研究に貴重な情報を提供し得るものであることが分かった。また、両本に見られる近代漢字語の場合、近代韓国語への流入の問題と関わり、韓国語の語彙史研究に資し得る事象があり、今後のより細密な検討が必要であるように思われる。

6

4,500원

最近改訂されたばかりの韓․日両国の小学校1~2年国語科教科書を対象として教育課程編制․教科書政策と挿絵を関連づけて比較․分析してみた。まず、韓国は挿絵から家族中心․人中心․女性についての性固定観念があることが分かり、さらに男中心(職業)․伝統․親孝行․主人公が長男及び長女であることから責任感等が読み取れる反面、多文化への配慮が足りないことが分かる。挿絵の場合、頻度は高いが、ぺージ当りの比重は日本に比べて低い。教科書の量は多いが、国語科の授業時数は少ないため、授業負担があるのではと懸念されるところがある。一方、日本は相対的に言語機能以外の社会․文化的な価値観を強いていない感がある。挿絵では女性についての性固定観念があることが分かり、男中心(職業)である面においては韓国と類似しているが、挿絵において人より動․植物の比重が高く、伝統よりは多文化関連の挿絵が多かった。特に、挿絵を2ページにわたって配置させるなど、挿絵のぺージ当りの比重が高い。韓国に比べ、国語科の授業時数が多く、国語科の比重も高い。その反面、教科書の分量は非常に少ないが、これは教科書以外の実物教材の活用が薦められていることと関連があると思われる。他に、両国は挿絵に登場する中心人物や動․植物に類似․相違点が見つかり、外国語教育で活用できると思われる。今後、挿絵の内容分析や教科書の語彙・ストーリについて分析していくとともに、3~6年の国語教科書にまで研究を広げていきたいと思う。

7

4,500원

推量の助動詞「む」は「む→ん→う․よう」という表記の変遷過程を経て現代に至っているが、移行原因を具体的に把握するためには各時代の資料を対象に、「む」․「ん」․「う」․「よう」の使用実態を分析し、文体的な特徴を把握する必要がある。 本稿はこのような問題意識から近世前期の口語資料である近松門左衛門の世話物浄瑠璃を対象にして「ん․う․よう」の表記形態の様相と文体的特徴について考察したものである。考察結果、近世前期の口語では「う」の表記が一般化しており、「う」が口語体であることが確認できた。そして、近世前期の資料であるにも関わらず「ん」の用例が多数現れているのは、文章効果を高めようとした特殊な文に意図的に使われているためであることが分かった。また「ん」は決まった表現形式として使われていることが発見できた。これに対して「う」は日常の会話を再現した普通の文でよく使われており、<意志><勧誘>の意味用法が多い。現代日本語において<意志><勧誘>が「う」の主な意味用法になっているのは、このような文体的な特徴と関係があるように思われる。さらに、近世前期の資料には「う」表記省略形や「あろう」などのような、中世後期とは異なる接続形態が混在する。「よう」の表記もまだ不完全で過渡期的な形態も見られる。このことから近世前期は「う」の表記形態において変化に富んだ時期であることが分かる。さらに、「ん」․「う」․「よう」の固有の文体的な特徴を綿密に把握するために活用形について分析した結果、「う․よう」は「ん」に比べて連体形としての使用頻度が低く、普通名詞に接続する形式も少数であることが確認できた。その理由は「う․よう」は主観的な性格が強くて文末に来る特徴があるからである。現代語においてもほとんど終止形で使われ連体形は一部の形態にのみ残っているのはこのような特徴のためと考える。そして、「う․よう」のこのような文体的な特徴が連体形をとる<仮定․婉曲>の意味用法の縮小に影響を及ぼしたと推測できる。

8

4,200원

本稿は、現代日本語において時間限定を表すとされる「マデニ」に対応する現代韓国語の形式は「까지」であるという一般化の不十分さを指摘したものである。そして、考察の結果「マデニ」は「까지」だけではなく、「전에」(日本語の「マエニ」に当たる)という表現も対応する形式であることが分かった。従って、「マデニ」と対応する韓国語の形式についての従来の説明に何らかの補充が必要であると思われる。また、「까지」に訳される「マデニ」があり、「전에」に訳される「マデニ」があるということを踏み台にし、時間限定を表す「マデニ」の持つ性質を明らかにすることを目的としたものである。本稿の考察の結果、「PマデニQ」における「マデニ」の用法は、①<期間を表し、「P」が完了する時点に重点がある>という用法と、②<期限を表し、「~P」のうちに「Q」が生起すべきである>という用法とに分けられることが分かった。なお、②の「マデニ」は、韓国語の「전에」に訳され、「マエニ」との交替が可能であることも分かった。次に、一般に「マエニ」は、「PマエニQ」において、「P」が発生する以前に「Q」が発生するという時間的な前後関係を継起的に述べる形式であると言われている。しかし、本稿では、「マエニ」の表す用法は、①<「P」以前に「Q」が発生するという時間的な前後関係を表す>という用法と、②<期限を表し、「~P」のうちに「Q」が生起すべきである>という用法とに分けられることを指摘した。

9

後藤明生『夢かたり』─植民地的身体の戦後の日々

朴裕河

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.107-120

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4,600원

後藤明生の『夢かたり』は、日本帝国時代の北朝鮮体験を描きながらも、「戦後」ー帝国崩壊後の「現在」に焦点を合わせている作品である。つまり単に小さい植民者としての体験の記憶を書き留めるにとどまらず、それを呼び起こす「現在」のメカニズムにこそ焦点が合わさっているのである。しかも、そのメカニズムを、植民地ー「異郷」において培われた感覚と感性がいまなお身体の奥底に存在していて日常のなかでそれを呼び覚まされるものとして描いている点は、記憶する自らの身体を対象化し得た成果である。そのような感覚は、不確かさや不安、無念、もどかしさなどであり、その感性・感覚を確認することは、現在の身体が植民地において形成された「植民地的身体」にほかならないことを認識する過程であった。あくまでも「少年」の感覚や視点にこだわってのこのような植民地の描き方は、告発や怨恨に陥ることなく「帝国」やその崩壊にまつわる矛盾を突いており、人間の欲望をめぐる悲しみを描くことに成功している。そのような達成があり得たのは、「内地」ー祖国に根付くことのなかった「引揚者」としてのたち位置を積極的に引き受けた結果でもあった。

10

5,100원

本稿は『近代文学』という戦後の思想空間の上で論じられている具体的な言説に関する考察である。とりわけ近代文学派が唱えた<文学者像>に注目する。彼等は自らが主張する芸術の自立や知性の解放による文学の新たな出発のためには、まず文学者の位置を規定しなければならなかった。1946年、創刊号の「政治と文学」論にみられるように、創刊の当時からテーマセックトとして働いた『近代文学』は、蔵原惟人や新日本文学会のヘゲモニーを相対化しようとする観点に立っていた。近代文学派の議論は、戦前のプロレタリア文学運動に対する批判的な省察から出発し、民衆との関係の再成立に基づいた'インテリゲンチャ'の文学者像を導き出す。その上、1947-48年度に至っては、日本の近代化においてのインテリゲンチャの覚醒と省察を求める議論が進められる。文学者は'近代的な主体としての知識人'になるべきだという観点は、それ自体が文学者の役目に関する議論に他ならない。過去の日本が歩んできた歪曲された近代化についての歴史的な認識に基づき、真の近代化や民主主義文学の創造を目指した近代文学派は、社会的な責任を備えた市民のエネルギによってこそ戦後文学が繰り広げられると唱えた。

11

『聖書之研究』창간 전후

尹福姬

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.139-150

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4,300원

“Seisho no kenkyu” was a long-running monthly magazine that Uchimura Kanzo founded in September 1900, and would continue to publish until his death some thirty years later. Previous to this, through his activities in the English column of “Yorozu” and in the pages of “Tokyo dokuritsu zasshi”, Uchimura had already exhibited his fervour for social reform. In particular, “Tokyo dokuritsu zasshi” went on for two years, and various theories have been put forward to explain its sudden demise. But with no fixed explanation, the truth behind its demise has been regarded as one of the great riddles of Uchimura’s life. And most of the major previous research dealing with Uchimura’s biography has recognized this as a gap in his biography, and one gets the impression that an approach other than one based on the biographical has been stymied from the first. Perhaps for this reason, one gets the feeling that in the existing research, even Uchimura’s true intentions in abandoning publication of this magazine have been suppressed. Thus, the present paper has attempted to approach Uchimura’s true intentions hidden behind the scenes during the period from the cessation of “Tokyo dokuritsu zasshi” until the founding of “Seisho no kenkyu”. As a result, it has revealed that while on the surface the cessation of publication of “Tokyo dokuritsu zasshi” was due to discord among its reporters, in fact there were more basic reasons, such as limits to the social reform he had been engaged in until that time due to its secularization, etc. Thereafter, Uchimura would found “Seisho no kenkyu” and once more put his efforts into the fundamental improvement of society. The fundamental improvement of society was the very “improvement of the heart” of the person, which stood upon a Christian outlook on life and upon the Bible.

12

4,600원

本論文は2000年代以後の芥川賞受賞作品の考察を中心として日本女性文学の現在を考察しようとした。女性作家の高い比率以上に女性文学の存在感を示すのは、その問題意識の幅と奥行きである。その内実を四篇の主な受賞小説を通して分析した。その結果、<身体>と<疎通>、<労働>と<日常>、<歴史>と<個人>という三つの視座を抽出することができた。綿矢りさ『蹴りたい背中』と金原ひとみ『蛇にピアス』において、<身体>は主体と他者の<疎通>可能性と不可能性を同時に担保する両犠的媒介体として機能する。津村記久子『ポトスライムの舟』は<労働>に満ちたある女性の<日常>の物語である。観葉植物ポトスライムは彼女の<日常>を、舟は<夢>をそれぞれ象徴する。暗鬱な現実を淡々に生き続ける生の有り様を多様な女性群像の描写を通してうまく再現できたことこそが本小説の美徳である。最後に<歴史>と<個人>の話頭は赤染晶子『乙女の密告』において顕著にぶつかる。アンネ․フランクという<歴史性>が乙女という特殊な<個人性>に遭遇した時、そこで生じたのは何だったのか。歴史の省察的召還に通してのみ<個人>はようやく<主体>として生まれ変われるという主題意識は正しい。だが、その結論を導出する過程の軽々しさは批判すべきものである。依然として<歴史>は、<真実>は、重いものであるからだ。このように現代の日本女性文学は厳正な普遍性を保持する。完結体よりは可能体よして、女性文学は芥川賞の現在と日本文学全体の現座標を象徴的に表す縮図といえる。

13

4,500원

日本の古典、例えば『源氏物語』のような古典傑作と観光との関係を説いている書物は、『源氏物語』ゆかりの地や史蹟を巡る際のガイドとして、『源氏物語』が生み出した史蹟を丹念に辿る場合が殆んどである。あるいは、『源氏物語』を現代の加工文化として扱う文化論の場合は、ドラマや映画、歌舞伎など、加工された文化のコンテンツとしての古典文学『源氏物語』を取り扱う場合が多い。本稿は、観光文化としての『源氏物語』について考えるため、社会学的な視点から古典文学『源氏物語』を捉え直し、文化遺産としての『源氏物語』がどのような仕組みによって「観光文化」として機能しているのかを探ってみた論である。本稿で特に注目したのは、宇治市による「『源氏物語』のまちづくり」である。一九八九年、「ふるさと創生事業」として各自治体に交付された1億円の地方交付税の使途のアイデアを市民から広く募集し、『源氏物語』の作者である紫式部にちなみ、全国の女性作家を対象とした「紫式部文学賞」と男女を問わず市民を対象とした「紫式部市民文化貢」を制定したのである。それとともに、源氏物語をコンセプトとした多彩なイベント「源氏ろまん」を開催する一方で、ハード事業として市内に散在する史跡や観光施設をネットワーク化する「源氏物語散策の道」整備事業を実施し、地域文化の向上、観光振興など、地域振興に大きな成果をあげている。本稿では、その象徴的な施設である「源氏物語ミュージアム」と源氏物語千年紀の観光商品などにも注目しながら、『源氏物語』を中心とした日本古典文学のストーリーテリングと観光産業の関わりについて考察してみた。

14

『征韓録』에 대한 일고찰

최관

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.179-188

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4,000원

『征韓録』は島津久通の編纂によって、1671年6巻6册に完成される。薩摩藩の立場から秀吉の朝鮮侵略をまとめようとした特異な作品である。編纂の目的は、壬辰倭乱期に活躍した島津家の祖先の武勲を宣揚しようとすることにあるが、それのために他の朝鮮軍記物とは異なり、藩内だけでなく国内外から関連資料を集め、また薩摩藩の範囲を越えて客観的に戦乱史を構築している。本稿では韓日両国でいまだに『征韓録』についての単独論文が見えない現実を踏まえ、『征韓録』の特徴を、いわゆる「神功皇后の三韓征伐」との関連性、「征韓録」と「征韓論」との関わり、李統制と牧司(もくそ)についての記事、中国資料の引用という側面から考察したのである。『征韓録』の中では、『武備志』、『両朝平壌録』などの中国側の資料を読んだと明らかに示されている。全体的に島津家やその家臣たちの動きを強調したり詳しく叙述したりする限界はあるものの、中国側の資料を検証しながらも戦乱の全貌を客観的に記述しようとしたのは、重要な特徴といえよう。このような特徴により、朝鮮軍記物の展開段階から見て第二段階の『朝鮮征伐記』とほぼ同じ性格であると指摘できる。同時に『征韓録』から見られる内容の独自性は薩摩藩の優れた情報収集能力と薩摩藩の根強い対朝鮮認識を見せてくれる。

15

바쇼(芭蕉)와 란란(嵐蘭)의 하이카이를 통한 교류에 관한 고찰

許坤

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.189-202

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4,600원

嵐蘭は蕉門初期の1675年に入門した門人である。嵐蘭は芭蕉が江戸で自分の俳諧を改革し、発展させるにおいて大きな役割を果たした人物であると評価できる。芭蕉と嵐蘭との交わりは約19年間にわたって続けられその間ふたりは互いに大きな影響を与えたのである。まず学問的には俳諧を媒介にして互いの俳諧の発展を極めたのであり、人間的には師弟の関係を乗り越え,場合によっては長いつきあいの友人としての道をともに歩んで来たのである。書簡というのは芭蕉と嵐蘭が生存していた江戸時代の当時は交通の都合がよくなかったため大事な通信と交わりの手段として活用されたし、‘座の文学’ともいわれている俳諧においては欠かせない交わりの手段であっに違いない。芭蕉は自分の俳諧師として生活の中で多くの門人との交わりの手段としてよく書簡を利用していた。その中で芭蕉が嵐蘭に送った書簡には嵐蘭に対する芭蕉の気持が加減なく書かれている。師弟としての書簡の交流はいうまでもなく、特に長い間つきあっていた嵐蘭が病気で急に死んだ後で書いた芭蕉の書簡からは耐えられない彼の悲しみが感じられる。本稿では、このように芭蕉と嵐蘭とのつきあいを書簡を中心として調べ、お互いに与えた影響関係の実体を究明しようとしたのである。

16

「東亜医学」と帝国の学知: 「提携・連携」と侵略のはざまで

金津日出美

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.203-214

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4,300원

本稿は1930年代に本格化する「東亜医学」復興運動を主題に、帝国日本における医学という学知がいかなる問題を有していたのかに焦点を当てたものである。近年、提唱されている「帝国医学」「帝国医療」という研究潮流を前提にしながらも、それらの研究が主として西洋医学を中心に論じられていることに対し、東洋医学(漢方医学)の動向も含めて論じる必要性を提起した。そのために、まず明治以降の近代西洋医学導入の様相、帝国日本の植民地であった台湾․朝鮮、そして傀儡国家․満州での医育政策を概観した。そしてそうした状況のなかで提唱された「東亜医学」の様相を、主として東亜医学協会の設立を中心に、「昭和の漢方」が新たに担った課題はなにであったのかについて明らかにしたものである。近代以降の東洋医学は西洋医学との比較の上で、「非文明․野蛮」と名指されたが、「昭和の漢方」の課題はそれらの名指しに対抗しつつ、1930․40年代の時代的要請を受けて、「東亜の文化提携」の名のもとに日本帝国の侵略を下支えした。敗戦後に漢方医学が再度振り返られる際にも、30․40年代の動向はほとんど省みられることはなく、あるいは時局に責を預けるか、「復興への努力」として語られることでしかない。東アジア共同体が声高に語られる現在、かつての「文化提携」の語り口を検討することは必要な作業であると考える。

17

일본에 있어서 대학발전전략으로서 국제화의 특징과 전망

구견서

한국일본학회 일본학보 제90권 2012.02 pp.215-228

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4,600원

本稿の目的は、日本の大学が前向きで進めている国際化の現況, 特徴、有效性, 価値 などを考察した上で、21世紀に大学の望ましい国際化モデルの方向を示すことにある。日本の大学は国際化を改革と発展のための核心戦略として推進し、ある程度よい結果を得、今では普遍的な政策として定着されている。大学の国際化は キャンパス, 教育, 研究, 制度․ネットワークの多様化とグローバル化を通じて実現されている。その結果、大学において脱国境化、大学のアジア化、世界化が進み、小宇宙共同体として新しく生まれるようになった。他方では、国際化の過程で大学国際化の富益富貧益貧という現象を引き起こし、大学国際化の序列化と特徴のない心太式化という新しい問題が出てきて、その価値と有効性が問われている。従って、これからの大学の国際化は 百貨店式の国際化から専門化され、また特化される新しい方向へと転換しなければならないと思われる。そして、お互いに持っているメリトを活かし、また補完出来るような形での国際化が進められるべきであろう。

18

4,800원

2004年9月から2005年8月にかけて放映されたドラマ「不滅の李旬臣」に場違いな葛飾北斎の『富嶽三十六景』のひとつである『神奈川沖波裏』が登場したことを契機に韓国において浮世絵がどのように認識されたかを究明しようと試みた。ジャポニスムとの関係、芸術と卑俗の問題、芸術的時事絵としての機能、浮世絵の属性などを近年の研究成果と対比して考えてみることが本稿の目的である。とりわけ北斎が評価された理由を印象派を支持する批評家たちのアカデミズムへの挑戦とみる視座について再検討し、いままで風景版画としての名所絵は「四季に彩られた江戸の名所を描いたもの」であり、従来時代と没交渉のものと考えられてきたが『名所江戸百景』の出版が地震の混乱から立ち直ってくる江戸の姿を知りたいという情報ニーズによるものであることが確認されたことから風景画さえ時事絵的性格をもつという論点を導入し、'卑属性の構図や技法に起因するのではなく、製作動機や意図など浮世絵がもつ大衆的出版物である属姓からくるものであることを明らかにした。

 
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