2026 (19)
2025 (64)
2024 (69)
2023 (44)
2022 (70)
2021 (59)
2020 (57)
2019 (65)
2018 (61)
2017 (69)
2016 (64)
2015 (73)
2014 (117)
2013 (84)
2012 (96)
2011 (82)
2010 (95)
2009 (89)
2008 (123)
2007 (107)
2006 (115)
2005 (136)
2004 (178)
2003 (136)
2002 (136)
2001 (119)
2000 (84)
1999 (64)
1998 (49)
1997 (50)
1996 (48)
1995 (33)
1994 (41)
1993 (33)
1992 (34)
1991 (27)
1990 (25)
1989 (26)
1988 (26)
1987 (24)
1986 (23)
1985 (23)
1984 (28)
1983 (12)
1982 (13)
1981 (16)
1980 (14)
1979 (9)
1978 (10)
1977 (9)
1976 (10)
1975 (6)
1974 (7)
1973 (6)
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玄月文学は現代社会の家族、階層、世代間の断絶を通じて現代社会が担っている諸問題を直視し、そこから人間本來の実存的意味を問う。特に閉鎖的な空間のなかの個人、前世代と現世代ないし家族構成員間の断絶, 集団主義に追い立てられた虚弱な個人の存在性に対する穿鑿はそのような書き方(グルスギ)の典型である。言わば痲薬、暴力、殺人が亂舞するスラム化された青少年集団と悪意的行動(舞台役者の孤独), 共同体社会での噂という実体のない暴力性(悪い噂)に対する果敢な描写がそうである。しかし玄月文学の社会的逸脱現状と日常の不調和の世界、即ち実存的な書き方の諸様相が普遍性という用語に一括吸収されるには文学的輪が弱いような気がする。言い換えればそれは玄月文学の主題、人物、事件に対する有機的配合の弱さとして、これから彼の文学が普遍性に立脚した書き方を深化させるための課題といってよいだろう。とにかく、玄月文学は現代社会の暴力と疎外された人間像を一層深層的に表面化し反芻しながら現実を直視し、昨今に必要なモラールの可能性を診断しているのはたしかである。そしてそのような現代人の歪んだ自画像に対する自問と照明を通じて個人の実存性を問い返し、そこから人間の普遍性を追求しようとした。従って、玄月が言及した‘人間の普遍性’を基にした書き方というのは既存の民族と連繋された政治性ないし歷史性からの脱皮を意味するし、それはまた“名分より人間そのものに焦点を置いた”書き方として普遍性を確保しようとする作家精神にほかならない。玄月の蔭の棲みか、舞台役者の孤独、悪い噂などにはそういう実存的書き方がよく表れている。
아쿠타가와 류노스케(芥川龍之介)의 「청년과 죽음(靑年と死と)」에 나타난 여성표상의 맹아
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.457-472
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芥川文学の女性表象に関する研究の特徴は、作家の伝記と文学との相即的解釈と作品に登場する女性の性格を<悪の源泉>と見なそうとする傾向にある。しかし、芥川は誰よりも、小説の素材を作者の体験に求め実生活の赤裸々な告白をよしとした自然主義文学とは対極の位置に立って、小説を技巧の芸術と見、理智によって現実を再構成しようとする創作の方法を固執した作家である。したがって、芥川の女性論を考察する場合、このような作家的姿勢と方法に即さなければならない。 その意味で本論文では初期習作である戯曲『青年と死と』を中心に、芥川文学の作品の内部での女性表象を考察してみた。『青年と死と』の女性たちは自己の性を道具として宗教的な真実を追求しようとする二人の青年を積極的に<無意味>で<欺罔>な世界へ誘惑する。女性たちは男性の真実の生の追求において、邪魔な存在であるにとどまらず、利己的発想から積極的に彼らを悪の世界に導く存在となっている。 このような女性表象は、『青年と死と』の執筆前後の翻訳の作品、『バルタザアル』と『クラリモンド』の女性表象と似ている。この二つの作品でも女性は宗教的真理を求める求道者を<快楽>の世界へと誘惑する障害になり、克服しなければならない存在として表象されている。このような女性表象は『青年と死と』だけでなく、『ひよつとこ』『羅生門』『芋粥』『猿』などの、少なくとも初期の芥川文学を貫く特徴となっている。そのような女性表象が初期作品から見えるということは、吉田弥生との恋愛失敗という作家の実生活と作品の女性表象は直接的には関係がないという証拠になる。すなわち、吉田弥生との恋愛の失敗が女性を利己的で否定的な存在として認識させたのではなくて、逆に読書世界で体験した西欧のキリスト教的な女性認識が、その作品の主人公とほぼ同じ年齢(二二歳)であった青年作家芥川をして吉田弥生との恋愛の失敗を媒介にして女性の利己的で否定的な側面を認識させていったのだと思われる。しかし、西欧作家のキリスト教的女性観は男性中心主義から来たのであり、日本の近代国家形成期には良妻賢母思想の形で天皇制家族主義を支えるイデオロギーとして流布され利用されたものである。芥川はそのような事実には無批判的であったことがわかる。
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『播州平野』は宮本百合子の自伝小説で、彼女の終戦体験が主流を成している。この作品は百合子の歴史観と戦争に対する批判的な態度が生き生きと表われている。百合子の分身であるひろ子は1945年8月15日ラジオを通じて聞こえた天皇の放送の中に“ポツダム宣言を受諾せざるをえない”という内容を聞いて日本の降伏を感じると同時に解放感を感じる。彼女は天皇と愛国心ための戦争ということに信頼できず抵抗してきたし、さらに天皇が起こした侵略戦争を強く批判しかつ抵抗してきた思想犯の妻でもあった。そんな彼女に終戦がもたらした感悔が真に感動深く描かれている。特に彼女が経験した終戦の直後、汽車で会った日本人の群像たちと、故国に帰国する朝鮮人集団に関する描写は終戦を迎える二つの国の人びとの互いに違なる心情を鮮かに見せている。日本人の帰還兵たちの自暴自棄的な態度とは違って,その遠い旅情に向っていく朝鮮人たちの様子は活気に溢れてかつ希望的である。作家の目に映じた朝鮮人をまさに未来の希望そのものと描写していた。 戦争で女性たちが経験し、これから経験すべきであろう苦悩、それは‘後家村’の様子を見せることによって赤裸裸に提示している。すべての男性たちが不在する村、その村の悽惨な様子は戦争が女性たちの生き方をいかに変化させたかを告白している。いま表面的な戦争は終った。しかし女性たちにおける戦争はいまだに終わっていないし、多分これからもっと厳しくなるかも知れない。それで百合子は眠れない苦しい心情を明らかにし、戦争を起した天皇をはじめとする人たちを糾弾しているのである。
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これまで多くの研究者による「日本近代文学に現れた朝鮮像」というテーマで行われた研究には、韓日近代史における韓民族の倫理上の相対的な優位を確認する目的が内在していると言わざるを得ない。私はそのような観点で湯浅克衛の文学を読む態度が犯しやすい偏狭たる誤謬を問題提起しながらこの稿を構想した。そしてこの稿を通じて日本近代文学史に占める湯浅文学の位置づけを試みたのである。まずこの稿では朝鮮(人)素材の小説を史的に検討しながら、その中に湯浅のような「植民2世作家」の登場がもつ文学史的な意味についても考察した。そして、湯浅のような「植民者2世」における「故郷」「歸省」「日鮮混雑」「朝鮮という他者」などをキーワードに分析した。もちろん、湯浅が生きる1930年代の日本文学の大きな特徴の中の一つが、植民本国における「外地」に対する関心と「外地」に生きる植民2世作家らの登場であることを前提にその分析は成り立つのである。
4,900원
本論文は、万葉長歌の衰退の問題について、家持長歌を中心に、独詠長歌の多作と長歌のあり方、依興歌としての賦の制作の意味、反歌における方法的試みと限界、といった観点から考察したものである。家持は万葉長歌の衰退期にありながら長歌を多作した歌人である。長歌の代わりに短歌が抒情詩の主流となりつつあった時代において、あえて長歌を制作し新しい方法を試みた家持の文学的営みは、長歌再生への苦闘の道程であった。 まず、家持は独詠長歌をもって、内面の世界を表白する自由な抒情形式を試みた。独詠という歌い方は、詩的話者の感情を今ここにおいて表す方法で、抒情の本質にかかわることであるが、家持はこの抒情の方法を長歌をもって独自に試みたのである。独詠長歌の方法は、表現や形式の面で先代の人麻呂や憶良に習っているが、抒情への視線といったところで家持は人麻呂と異なる方向にあり、抒情の表出といったところで憶良と異なる立場にあった。 人麻呂の独詠の抒情は、自己を含め享受者の感情をも踏まえて披露される虚構的抒情であるが、家持のそれはもっぱら自己へと向かう抒情である。また、憶良の独詠長歌は、伝えるべきところを論理的に述べていきながら、それを集約して結論を示す、といった構造であるが、家持の長歌は感情が流れ出すままに言葉を羅列していく構造である。家持の長歌は、脈絡がないように見えても、次々と浮かんでくる言葉を吐き出すかのように並べ立てることによって、抒情を果たしたのである。 しかし、家持の長歌は先人の二通りの方法を自己化しようとしたものの、いずれの方向においても達成の域に至らなかった。独詠の長歌は、自己の感情や感覚に寄りつつも、それを抱え込む統一の観念を有しないと、抒情詩たりえない。ところが、家持は、感覚による抒情の表白に観念をともに盛ることにはそれほど関心を持たなかったように考えられる。このようにして、感覚と観念の統一を保たなかった長歌は、結局抒情形式としての運用の幅をみずから狭くしてしまったのだいえる。 なお、家持は人麻呂や憶良の方法を受け継ぎながら、もう一方では中国の辞賦文学に学び、新しい方法を模索する。この新しい方法的試みはある成果とともに、それとは裏腹に限界をはらんでいたのである。漢文学の世界に対応せしめる衒学的意欲だけが先走って、様式的内実を固めることが出来なかったのであり、叙景とすべき所を、「興」という極めて繊細な抒情を持ち込むことによって(二上山の賦の場合)、破綻が生じてしまったのである。 そして、家持は長歌の終結形式である反歌の制作において、新しい方法を試みる。長歌を真の抒情詩として成り立たせる様式として、反歌の凝集力と連作的羅列を巧みに用いた。取り留めのなく流れ出していく(狭義の)長歌の抒情を分解し直して、長歌の世界を追体験できるような反歌を意図したのである。ところが、この意味深い方法も、ついには情緒を分節し並べる短歌の連作に方法的に取って代わられてしまい、さらに反歌は無意味なものとなってゆき、反歌を欠いた長歌が大部分を占めるようになる。 万葉後期の歌人として大伴家持は、長歌再生のための多彩な方法が試みたものの、長歌は完全な抒情詩への道と正統の叙事詩への道との間でどちらにも至らず、ついに衰運の坂道を辿るようになったのである。
4,300원
本論文は小説における視点の問題を、神話や歴史叙述の場合に適用し、物語ジャンル一般の研究における視点の理論を確立しようとする試みである。『古事記』と『日本書紀』の物語言説における視点構造が<外部視点>と<外面焦点>にみえるのは、ごく当然のことであるが、視点はこれらの枠を超えた、<超越的視点>なのである。両テクストにおける、視点構造を探ることにより、創世神話の出来事を捉える二つの視線のパタンを確認する。創世神話は、「現在」の実際世界を説明する「過去」の非現実の出来事で構成される。『古事記』のように現実を超えて、特権的に捉えられる観念的空間への視線もあれば、『日本書紀』のように非現実そのものを絶対化して、宇宙のはてから捉えられる原初的時間への視線もある。『古事記』は、現実をそのまま非現実化することを試み、『日本書紀』のほうは、現実をできるだけ非現実と関係付けて客観化することを目指す。つまり、前者は物語的おもしろさに重点をおく「神話」であり、後者は記録的緻密さと重みが要求される「歴史叙述」なのが分かる。大事なのは、両方とも語りにおいて、現実を超える超越性をもっているという点であろう。超越的権能をもっている語り手は、視点と焦点の時空間的位置という枠を超える、<超越的視点>によって支えられている。
5,700원
『教訓抄』は、未だに解明されていない部分の多い伎楽を追跡、研究するに當たって欠かすことのできない重要な資料である。『教訓抄』を手がかりに伎楽の骨格がある程度把握できた点などがそのことを端的に表している。ところが、過去の研究では『教訓抄』の成立背景やその性格をはじめ、内部徴証の吟味などが精緻に行われないまま、伎楽研究自体が滞っているというのが現状である。一方の韓国では、百済人の味摩之が伎楽舞を伝えたという『日本書紀』の記事が触媒になり、韓日両地域の仮面劇を比較するという試みが次第に「百済伎楽」や「高麗伎楽」へと膨張し、ある意味では「伎楽」という虚像が実際の研究成果を越えて一人歩きをしてしまった感が否めない。本論文では、雅楽関係の資料をも踏まえつつ、『教訓抄』の解釈を丹念に試み、堅実且つ確固たる伎楽追跡の一過程を全うしようとする。その過程において、そしてその結果として、韓国仮面劇研究の一環として行われた先行研究の誤謬や『教訓抄』の誤った解釈を正すことができ、ひいてはこれらが結集して精度の高い韓日仮面劇の比較研究として胎動すれば極めて幸甚である。
『요루노네자메(夜の寢覺)』의 온나키미(女君)를 둘러싼 두 남성-온나키미(女君)에 대한 애정의 표현의 분석을 중심으로-
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.553-564
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本論文は、『夜の寝覚』の女君をめぐる二人の男性の造型を、彼らの愛情の表現を分析することによって考察し、『夜の寝覚』の女君のヒロイン性と彼らの造型がどのように関わってくるのかを探ろうとしたものである。 これまで『夜の寝覚』の帝という人物は、主に、いわゆる帝闖入事件によって女君の男君に対する愛情の深さを目覚めさせる存在としてのみ認められてきた。しかし、男君と帝の、女君に対する愛情の表現を分析してみると、新しいことが浮かび上がってくる。つまり、帝と男君の造型は、いずれも「宇治十帖」の薫と匂宮になぞらえたものであり、彼らの愛情の表現も薫と匂宮の浮舟に対するそれに類似したものが多いが、『夜の寝覚』の作者はその表現を意図的に分類して引用していることがわかってきた。 まず、男君の場合、女君に対する愛情のために悩みつつ、その感情を「むすぼほる」という語を使って表現している。「むすぼほる」は、『源氏物語』の中では、藤壷や六条御息所、柏木などの、執着や未練のために極楽往生をも妨げる特殊な感情を言い表す語として使われているが、『夜の寝覚』の中では単に愛情のため欝いだ感情を表現する言葉として引用されていた。 帝は、女君に対する激しい愛情のため現存本の中で出家や譲位をも仄めかしているが、諸資料から確認する限り、末尾欠巻において実際に出家と譲位を果たしているとされる。特に、末尾欠巻部分では物語の展開において大きな役割を果たすのであるが、女君に対する愛情の程度とその活躍ぶりは、現存本の愛情の表現からも窺える。中でも、彼の和歌に見られる「いたづらになる」や「泡」などの表現は、『源氏物語』における柏木の、女三の宮に対する我が身を滅ぼすような破滅的な愛情を言い表す表現でもある。作者はそれを承知の上で引用しているのであろう。 ということは、帝は、そのような深い愛情を女君に捧げることによって、中間や末尾欠巻を含めて物語の展開の中で男君の存在に及ぶ人物と化し、複数の求婚者と女君という対置の構造を作ることにより、女君の物語の主人公としての精神的な成長のきっかけを提供することに大変深く関係しているといえよう。
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有島がゴーリキーやトルストイなど、ロシア文学の影響を受けたことは良く知られているところである。反面、同時代の代表的作家であるドストエフスキーについてはあまり言及されて来なかった。しかし、有島が大望を抱いて書いた『星座』には、ドストエフスキーの影響が考えられるのである。本稿では『星座』の特徴である多元的視点と<音響的効果>に注目し、そこにドストエフスキーの影響があったのではないとの予測を立てた。そしてミハイル·バフチンの『ドストエフスキーの詩学』に書かれたドストエフスキーの作品論を中心に両者の比較検討を行った。その結果、両者は[①中心人物の知覚に完全に視点を限定する「限定視点」が採用されている。②作品の中の主人公たちは、作者から独立して自由に振る舞っている。③各々、主人公たちは相互の関係性の中に描かれている。④各章が独立性を持ち、その幾つかの小説が組み合わされている。⑤その結果、作品は音響的な効果を得ている]という5つの点において非常に類似していることが確認された。有島はドストエフスキーの作品の特徴を充分に理解し、それを摂取·応用してドストエフスキーばりの長編小説を描き出そうとしたのであり、それが『星座』創作の一つの動機だったと推測されるのである。
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大正期のキリスト教の牧師であり、キリスト教社会主義運動家であった賀川豊彦(1888年~1960年)は、彼の代表的な作品である、三部作である『死線を越えて』を残しており、これは大きく世評を呼んだ当時のベストセラーであった。賀川の「自伝系の小説」として分類され、賀川本人と見なされる『死線を越えて』の主人公新見栄一は、公娼制度の廃止、勞働組合の結成、貧民問題など、あらゆる社会問題と戦って行く自称「基督教社会主義者」であった。一方、明治期のキリスト教社会主義者と知られていた木下尚江も『火の柱』の主人公篠田を通して、彼が抱いていたキリスト教社会主義思想をあらわしていた。ところで、明治期から大正期にわたって続いていたキリスト教社会主義、木下と賀川に対する比較研究があまり見られなく、作品における文学的評価はともかく、当時の思想界に強い影響力を持っていたことは否定できない。両者のキリスト教社会主義運動の違いと類似点を本格的に探ってみることは、両者の比較研究における第一歩であろう。 本研究を通して確認した主な内容は次の通りである。大正期のキリスト教社会主義は、明治期の「基督教社会主義」に見られたような、社会主義の為に「福音」における<犠牲>の理論を展開することで終わるものではなく、その「福音」思想における<奉仕>として、社会問題を解決しようとする動きが、大正期の社会運動家によってより多く見えたと思う。キリスト教社会主義者木下が<十字架>に見られる<犠牲>の理論のみによって社会主義社会の建設を進めていた反省の形が、大正期の賀川などの社会運動家などにおいて、「十字架の実行」という「無産者」の「解放の福音」としてあらわれることになったと思う。また『死線を越えて』の栄一が述べていた「基督教社会主義」は同じく明治の「キリスト教社会主義者」として、木下の『火の柱』における篠田が社会問題の解決のため社会組織や社会制度を破壊することではなく、いわゆる無抵抗主義的「イエス主義」によって、社会問題の解決を試みたところに明治期のキリスト教社会主義との違いがあったと思う。そして、キリスト教における原罪の贖罪の教理としての十字架より、人間の実生活に密接な関係を持つ<十字架>として強調し、人類を罪から救済するイエス·キリストの福音が、「人類福祉の絶対福音」として「無産者」の為に「新経済学」の「福音」に変えられているところに、貧民の福祉事業につとめていた社会運動家賀川の性格がよくあらわれていたと思う。が、ナザレの大工「イエス」を日本の「無産者」を代表するものとしてみ、彼らの「イエス」が「個人」より「社会」全体を、また「亜細亜人」の「パン」を象徴するものとみていたところに大正期のキリスト教社会主義の特徴があったと見られる。
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ここでは『源氏物語』の主人公である光源氏の、愛の世界と表裏を為す<罪>の問題に注目し、その基本的構造、潜在的意識、そして発展的行方などを考察することで、より現実的且つ本質的な光源氏像の意味を追求した。 亡き母の面影を引く美しい藤壷を思慕することから始まる光源氏の愛は、藤壷が父帝の妃であることから、そもそも罪の構造を持つ。そして藤壷への思いが深まるにつれ、光源氏の罪の意識もまた深まることになり、やがて密通を犯すことで、光源氏の内的罪の意識は現実の罪となる。ここに光源氏の<愛>故に存在する深い<罪>の現実的な構造が形成される。 さらに罪の子冷泉帝の誕生、そして罪を自覚し恐れる藤壷の姿を通して、光源氏は一層深く罪を自覚するようになり、須磨退去の折には冷泉帝の安泰のために仏道修行に励むなど、罪を償いたいと思うようにもなる。 藤壷の死後は光源氏の<罪の意識>も薄らいでいくが、藤壷が夢に現れることで、光源氏は再び罪の深さを認識するに至る。しかし冷泉帝に後継者のいないことを物足りなく思う父親の心が先立ち、光源氏は再び罪を忘れてしまうなど、藤壷死後の光源氏は<罪の意識>に徹しきれない姿を見せたりもする。 このように、光源氏の人生は<愛>とともに存在する<罪>に対する問いかけであったと言えるところがある。それは藤壺の場合に限らず、六条御息所や女三宮との関係に対しても言える。光源氏は藤壷の苦悩や六条御息所の死霊、女三宮の密通と出家などを通して、<愛>による<罪>の深さを悟るようになるのである。さらに光源氏は女三宮の子供っぽい尼姿を見ながら、保護の至らなかった自分の罪として反省するようにもなる。そして光源氏は薫の美しく成長する姿に、薫の避けられぬ運命を認めるようになるなど、<罪の意識>をそれなりに超越していく。そうすることで、返って人間の生と愛に対する尊厳性をも悟りながら、より成熟した理想的な人間像を築き上げるに至る。 光源氏の<罪>の問題を凝視することは、光源氏の<愛>の世界を凝視することと並んで、光源氏の内面世界を理解するための欠かせない手続きである。そして、光源氏の<罪の意識>を追求しながら表れる光源氏の内的苦悩と発展は、光源氏を人間味の深い人物へと導くものと理解される。ここに<愛>の主人公でありながらも愛だけに止まらず、<出家>を願いながらも俗世の人間に止まり、それでいてなお理想的な男性像として記憶される、光源氏の意味があると言える。
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本稿の目的は巻三一·23の寺院確執説話を中心にして『今昔物語集』の成立と深い関係を持つ王法·仏法相依理念から説話を読み直すことにある。そこで、まず多武峯が比叡山の末寺となる話を他の資料も参照しながら内容を理解し、藤原道長の役割に注目してこの話における王法仏法の関係を明らかにし、最後に他の寺院間の確執説話にも同じ理論が適用できるかどうかを確認した。僧兵·強訴にたいする『今昔』の態度は、大抵の場合まるで傍観するかのようで特別に非難することがなかった。その理由を考える上で、手掛かりとなったのは「今」を末法と認識しながら本朝仏法史を繁栄の歴史として叙述している点である。末法だからこそ仏法の永遠性と繁栄が再確認されるように、僧兵·強訴に関しても『今昔』は非難と悲嘆の代わりにある種の宣言をしようとしたのである。そしてそれは「公」「王法」の権威に求めなければならない。そもそも僧兵·強訴が各大寺社の自分の権益のため行われ、それを統合できるのは、それ自体権門でありながら一歩離れている「王法」しかなかったことを考えるとこのような『今昔』の意図は必至であったといわざるをえない。『今昔』の意図は朝廷·王によって正当化された法末寺化の経緯を述べることによって、現実の社会不安と無秩序を無化しようとしていると理解される。
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음력 8월 15일에 행해지는 오키나와(沖縄) 우라소에(浦添) 짓차쿠(勢理客)의 사자춤은 일본 국가가 지정한 무형문화재로 그 가치가 높이 평가되고 있다. 그런데 이 사자춤에 사용되는 사자가 오색(五色) 털로 장식된 사자로 한국 북청사자(北靑獅子)의 그것과 유사하며, 더욱이 사자머리(獅子頭)를 조각한 사람 이름이 고레구시친(コーレー具志堅)으로 알려져 있어, 「고레」가 고려(高麗) 즉 한국을 일컫는 말이 아닌가 생각된다. 따라서 본고에서는 「고레두시친」의 역사를 더듬어 한반도와의 관계를 밝히는데 그 목적을 두고, 다음과 같은 순서로 논지를 전개했다. ①고레의 의미가 우야도우이(ウヤードゥイ<御屋取>), 즉 귀족의 별장이라는 의미도 있으므로 별장을 가질 정도의 귀족 가문 출신이다. ②오키나와에 짓차쿠라는 지명이 3군데나 있으므로 구시친(具志堅) 가문과의 관계 속에서 그 연결성을 입증, 이 가문의 이동 경로를 명확히 한다. ③모토부초(本部町) 구시친 가문과 류큐(琉球)의 왕가, 특히 쇼엔오(尚円王)와의 관계를 밝혀, 이 가문이 왕족일 가능성을 입증한다. ④쇼엔오가 이헤야지마(伊平屋島) 출신, 즉 한반도 및 일본 본토 방향에서 온 도래인임을 밝혀 사자춤의 전래 방향을 추측한다. ⑤오키나와의 사자머리를 보관하는 관습을 조사해 전승된 500년간 원형이 그대로 보존되었을 가능성을 입증한다. 위와 같은 순서에 의해 짓차쿠의 오색사자는 한국의 북청사자와 마찬가지로 음양오행설에 근거한 오색의 의미를 지니고 있으며, 그 조각가인 「고레두시친」은 한반도에서 직접, 혹은 일본 본토를 경유해 오키나와로 건너간 부족의 한사람이 아닌가 결론지었다.
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『山の音』は、日本中世の物語様式のごとく、劇的必然性に拘らず整然とした論理を求めるよりも心理の自然な流れに任せながら挿話の重層と連鎖によって展開される方式から成った小説である。 『山の音』は、俳句的な感受性を基にした簡潔で含蓄的で反复的なスタイルと絵画的で音樂的で季節感溢れるスタイルの作品である。 『山の音』は、作品のテーマを循環的·宇宙的な時間の受容として捉えれば、それは仏教的な日本の伝統的世界観につながるものである。 『山の音』では能面などの伝統芸術品が日本的な情趣を漂わせるだけでなく、それがストーリーの展開に不可欠の要素として機能したりする。 『山の音』には多様な木と草と花と昆虫などの自然物が登場し、よく作られた日本庭園のような雰囲気を醸し出す。そのほとんどは単なるアクセサリーの次元にとどまらず、主人公の生活の奥まで関わりながら彼の心の中の絶え間ない動揺と微妙に絡まっている。つまり『山の音』は、古来の和歌や俳句などに著しく表われた日本人の自然親和の伝統を充実に引き継いだ作品と言えよう。 以上のことからして、川端康成は西洋の近代文学から洗礼を受け、その影響も少なくなかったが、結局のところ彼が到達したところは西洋ではなく日本であったし、彼の文学の性格と本質自体が、西欧的なロジックとは体質を異にする、非常に日本的なものであったと考えられる
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This thesis is to study the image of women depicted in the works of Akutagawa Ryunosuke taking the subject of the Meiji civilization era.One can not overlook the fact that women was a main subject in his three works written about the civilization era.In his works, women were described as civilized citizen living in the civilization era, yet there is a hint of minus and negative image.It is obvious the women appeared in his works; 「Husband of Civilization」 is heavily influenced by the negative image of the 'New Woman' from the women's magazine 「Seitou」 that received the cynical criticism from the journalism then.It is clear that Akutagawa took a positive and friendly stand toward the women's liberation but on the other hand he had a negative and disallowing view against their lowness and immoral speeches and behaviors. Ultimately, it is well noted in the study of the thesis that Akutagawa was not against the civilization of Japan but he was criticizing the shallowness and superficiality that the civilization of Meiji implies.
지카마쓰(近松)의 ‘義理’ 考―『아미지마의 정사(心中天の網島)』를 중심으로―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.657-669
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いわゆる義理人情説は、坪内逍遥が近松の浄瑠璃は義理と人情との葛藤による悲劇であると規定していらい、近松を捉える上で代表的な研究方法として定着してきた。いろいろな学者によってさまざまな角度から近松の義理の問題がとりあげられているが、今日においては義理と人情は対立葛藤するものではなく、むしろ相補的に両立するものとされ、近松は義理も是、人情も是となるものとして肯定しているというような見方が支配的になってきている。このような近松の義理を人情との結合の構造として捉える立場では、近松が義理というものを作品の中でとりあげた意図についても、義理とは何か、あるべき義理とは何か、あるいは義理に従う生き方はどうあるべきかとか、そういうことを明らかにしようとしたものではないということを力説する。筆者も近松の義理が人情に支えられた義理であり、決して人情と矛盾対立するものではないという見解に基本的に賛成している。しかし、近松が義理を作品の中でとりあげた意図について、義理そのものを描こうとしたものではなく、義理を道具として、義理によって否定されなければならない人情とくに「私の情」というようなもの、それの大切さというものを描こうとしたと捉える見方に対して、甚だ疑問に思えるのである。本稿では、義理と人情の結合の様態を示す典型的なものとして、従来しばしばひきあいに出されている『心中天の網島』という作品を中心に、近松における義理の意味について考える
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少考では、『人間失格』の主人公の大庭葉藏をキリスト像を基軸に論じた。太宰治生涯の総決算であり、太宰のキリスト論といわれている『人間失格』を通じて、佐古純一郎の指摘した「キリストの文学的意義」が作品の中でどのように現れているかに対して具體的に調べてみた。 大庭葉藏に反映しているキリストのイメージは二つに分けて考えられる。一つは慈しみ深いキリストのイメージで、社会的弱者に対する関心と愛情という点で葉藏とキリストのイメージは重なっている。二つは受難にあうキリストのイメージで、身近な人々から捨てられて受難にあうことになる点で二人のイメージが重なっているのである。しかし、この二つのイメージは葉藏とキリストにおいて、完全に重なっているのではなく、作者によって多少変容されている。 聖書をキリスト教という宗教の経典としてだけではなく、人間と世間の存在様相に対するより多様な考察が含まれている「古典(Classic)」として受け取っているのはもう一般的な傾向で、特に太宰が心酔していたマタイ福音の場合、多様な比喩と豊かなアレゴリーと構成されていて、福音書のなかで文学的な特質を現れているといわれる。この太宰が注目したキリスト像から、具体的な事件の主体、個性的なキャラクターとしてのキリスト像を窺うことができるのもそんなに不思議ではない。太宰は葉藏を通じて、聖書のなかの慈しみ深いキリスト、受難にあうキリストのイメージを自己流で解釈し、それに新しい意味をつけられたといえる。
임진왜란 관련 일본문학의 전개양상에 대한 연구― 조선군기물의 전개양상을 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.681-694
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本論文は壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)を取り扱っている日本の軍記である朝鮮軍記物に焦点を当て、朝鮮軍記物がどのように展開されてきたかを究明し、その特徴をとらえようとしたものである。 初期には壬辰倭乱の参戦者や従軍僧侶らの体験や見聞による短編的な武勲談、日記などの様々な記録が現れた。その後、江戸幕府が情報を統制している状況の下で、民間レベルで初期記録類を総合して、いわゆる朝鮮軍記物を作り出した。 朝鮮軍記物は概ね次の三段階をへて成立したと思われる。第一段階は、小瀬甫庵の『太閤記』によって、日本で始めて壬辰倭乱七年間の全体様相が整理された。第二段階は、堀杏庵の『朝鮮征伐記』である。これはもっぱら壬辰倭乱だけを描いたもので、そこには中国側の記録が流入されて使われている。第三段階は、1695年京都で朝鮮の『徴毖録』が刊行されてから、名実ともに朝鮮軍記物が完成される。 その結果、近世日本は同時代の朝鮮や中国より客観的な理解が可能になっている。しかし、朝鮮軍記物に内在されている事実性の追求と日本中心的な視角という矛盾した様相は、後の明治日本の壬辰倭乱に対する認識や研究に受けつがれている。
하야시 후미코(林芙美子) 소설에 나타난 전쟁세대― 『눈보라(吹雪)』, 『강문절망독(河沙魚)』, 『밤의 박쥐우산(夜の蝙蝠傘)』, 『뼈(骨)』를 중심으로 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.695-717
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終戦後の昭和21年(1946)からジャーナリズムが復活した時、林芙美子は真っ先に作品活動を再開した。作品がいちだんと円熟したのである。まず応召軍人らの家庭生活の破壊されるという不幸を描いた吹雪、雨(1946)が人々の驚歎をよぶ出來栄えであった。河沙漁(1947)、夜の蝙蝠傘(1948)、骨は戦後日本の現実を生々と捉えていて戦争の絶望と喪失感を完璧に描き出した作品だと言える。本論文はこれらの作品に現われた戦争世帯を中心に深ってみて戦争社会に対する作家意識を究明することによって林芙美子の日本文学史的位置を再照明しようとする。芙美子は1942年10月から翌年5月まで報道班員として派遣されて仏印、シンガポール、ジャバ、ボルネオなどに滞在した。芙美子が経験した戦争のことで一番辛かったのは苦痛の無分別な分配であって、戦争の被害は個人の努力と係わりとは無関係であるという考えで苦しかったのである。このように芙美子は戦争による人間の不幸を作品の中で見事に形成化させたと思う。林芙美子は自分の従軍体験を従軸にして戦争による家庭の崩壊、不幸に覆われた家族の姿を描き出した。芙美子は作品の中で戦争世帯の対する強い批判意識を披瀝しているという結論を本論文を通して導出した。
5,100원
本稿では、日本の代表的な政治小説末広鉄腸の『雪中梅』(1886.8)と、その翻案小説で韓国新小説の代表作具然学の『ソルチュンメ』(雪中梅, 1908.5)とを比較した。『ソルチュンメ』は『雪中梅』の翻案小説であるため、その全体的枠組みや漸進的改良主義の趣向などは相似している。しかし、その作品世界を細かくみてみると、『ソルチュンメ』の世界は、極めて韓国的で、自己主張が強い作品である。特に、本稿はこの自己主張に着目し、政治小説と新小説の<啓蒙主義>を文学表現の問題として把握してみることにする。 両小説の題目「雪中梅」は、苦境を乗り越えて春を向かえる梅として、登場人物を喩えている。ところで、『雪中梅』と『ソルチュンメ』の梅は、それぞれ違う人物を現わしている。前者の梅は深谷梅二郎のこと、国野基という男の主人公であるのに対して、後者のそれはチャンメソン(張梅善)という女の主人公のことを指す。『雪中梅』は男性の、男性中心の論理に基づいた、漸進的社会改良を唱える。それは、女の主人公お春が作品の中で、男に負けずに展開している論理も同じである。しかし、『ソルチュンメ』は女性の改革、そして、その女性によって営まれる<家庭>の改良に作品全体の主眼が置かれている。この家庭は、『雪中梅』の国野やお春にとって、立身出世の妨げになる。しかし、『ソルチュンメ』のテスンとメソンにとって、家庭は社会改良の出発点であり、社会の基盤になる、社会改良においてもっとも重要な土台である。 このような両作品の差異が発生したのは、国会開設が既定の事実として約束された日本と、自主的外交の権利が剥奪され、まもなく植民地へ転落していく朝鮮という、相異なる作品の外延のためである。日本の『雪中梅』は漠然とした「政治参加」が主張され、観念的理念の世界が築き上げられている。それに対して、韓国の『ソルチュンメ』は切羽詰まった状況の中で、具体的実践運動への参加を呼びかけているのである。つまり、韓国の『ソルチュンメ』の時代に最も実践可能な運動が、他ならずして、家庭の啓蒙だったのである。そのために、『ソルチュンメ』が『雪中梅』の翻案であるにもかかわらず、全く異質な作品世界を作り上げているのである。
村上春樹の作品世界―社会的現実に「かかわらない」作家から「かかわろう」とする作家へ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.737-750
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4,600원
本論文は村上春樹の「書く」姿勢の変化に関する考察である。春樹は1995年3月に起きた地下鉄サリン事件を起点にして自分の書く姿勢を変えた。詳しく言うと、その以前には社会的な問題に対するデタッチメントな姿勢を見せていたが、それ以降にはコミットメントな姿勢を見せ始める。このような変化は春樹自身が意図的に追求したもので、彼の作品に反映されていることを確認できる。本論文では、そのような事実を実証的な考察を通してまとめておくことで、春樹作品世界の一端を理解しようと試みた。 その結果、春樹自身が意図的に書く姿勢の変化を追求したという証拠を、本論文の第一章で明らかにし、まとめることができた。また、その変化を自身の作品に反映させ、新しい主人公のキャラクターの造形を試みたという事実を、第二章、第三章で明らかにすることができた。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』などのように『アンダーグラウンド』以前の作品では、主人公「僕」が現実との関係をできるだけ希薄にしながら生きていこうとする人物に造形されているのに比べて、『アンダーグラウンド』を始め、その以降の作品『スプートニクの恋人』『神の子どもたちはみな踊る』『海辺のカフカ』では主人公が現実との関係を大切にする人物として造形されていることが確認できた。そして、このような変化は、70年代に被った傷と、その傷によって抱くようになった社会に対する不信感を完全に払拭させるまではできなかったものの、地下鉄サリン事件のような社会現象が平気で起きている現在、自分の大多数の読者の親ぐらいの年齢になったものとして、若い読者たちに現実を認めさせ、そこで積極的に生きていかなければならないという社会的なメッセージを提供したいと春樹が意識しはじめたからだと判断する。
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本研究は現在、日本において進められている大学改革の方向と進行過程を考察し、21世紀に対応できうる未来指向的な大学改革の方向を提示することに目的がある。日本の大学には大学崩壊をのりこえ持続的に発展可能な大学像の構築、大学の生涯教育機関化、生産的でありながら実用可能な教育のような時代的ニーズに対する代案、体系的な教育パラダイムの開発、未来指向的あるいは生産的な改革メーニューの開発などが切実である。 日本の大学改革は、大学が置かれている内外的な状況、改革に対する指導部の意志とマインド、多様な改革プログラム、行政機関の改革方向、大学教育需要者の性向、大学構成員の特徴等によりさまざまな形で行われている。これから、日本の大学改革は、改革自体の目的ではなく社会的·教育的機能を発揮できるような改革をあきらかにしながら、改革の結果に対して效果を評価する形で行わなければならない。日本の大学は、百貨店式の教育から就業指向的な大学への転換、市場経済原理に基づいた教育市場に応じれれる需要者中心の教育、企業に望ましい学科と教育内容、実務教育並行、教授停年保障、改革主体の一体化、専攻廃止と学点自由化、入学管理·教育管理·就業管理 などにおいての持続的な改革が必要である。大学改革は、学問と教養、研究と就業, 生存と教育、教授と学生、学校と企業、大学構成員と大学指導者、教育原理と市場原理 等のように二分化されている基準のなかで、改革を進めなければならない自律性の限界という課題を持っている
‘사’와 ‘농공상’ 사이의 인간존재― 직역의 관점에서 살펴본 신분의 주변 ―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.771-786
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朝鮮と日本の前近代社会においては、身分を区別するとき、「士」と「農工商」とを大別するのが常識であって、「農工商」相互の間の身分区別はあまり重要な意味を持っていなかった。精神労動に努める「士」と肉体労動に努める「農工商」は支配·被支配の関係であったので乗り越えられない「距離」が儼存していて, 結果的にその関係は上下関係として認識されていたのである。 17世紀の朝鮮時代と江戸時代の歴史を比較してみると, 政治体制が内包している構造的な矛盾により, 支配層から排除された存在が共通的に確認される。特に「士」と「農工商」との「距離」が離れば離れるほど 「士」は身分的特権を排他的に専有しょうとしたのであり, 「農工商」は絶えず身分の上昇を試みたのである。このような現状に対して政治権力はどのようにしても基準を提示し、論理を立ててあるべき身分秩序を形成しようと意図したのである。このような複合的な働きの結果、「士」と「農工商」のどの側にも属しない「中間的」な存在가社会勢力としてその姿を現したのであろう。 朝鮮社会は良賎制を骨幹とする身分制社会出会ったのであるが、16世紀頃から階級分化が進み、17世紀以後には両班·中人·常民という階級関係が形成された。即ち、中人は班常制から派生された中間階級出会ったと言える。日本の近世社会において帯刀は武士の特権であった。すると帯刀が許された存在は「士」と「農工商」との 中間に位置した存在であると規定しなければならないが, このような帯刀者は近世的な身分秩序が確立される過程で浮刻されてきた中間的存在であった。 帯刀者が朝鮮社会の中人ように独立された身分とみることができるかどうかは議論の余地がある。 朝鮮の場合、「中間的」存在は17世紀にはいってから明確に把握されるようになり、彼らは当時に既に中人と言われていた。日本でも「中間的」存在は17世紀の後期にいたって明確に把握されるようになった。かれらには武士の特権である帯刀が許された。幕藩権力は彼らを帯刀者として把握していた。
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西欧思想として民主主義思想が自由民権運動に導入されることによって、民権家は言論の自由、出版·集会·結社の自由を唱えるなど様々な自由の権利を誓願建白を通して、あるいは著作や新聞·雑誌を通して幅広く主張するようになった。これによって、"自由"は、この時代の思想的特徴として大きな意味を持っていた。特に明治10年代には、広範な民衆側において、"自由"は「解放幻想」としての性格を持って広く唱えられるようにもなった。しかし、このころ自由民権思想に対する認識は、その支持基盤の身分によっても異なった認識を見せていたし、実際に在地の中でも民権運動家と一般民衆側との間には大きなずれがあった。本論では、いわゆる自由民権運動が全国的に広がりを見せている中で、民権運動家がとなえた"民権思想"が田舎の一般民衆側に伝わっていく過程を追うとともに、その過程で形や内容がどの様に変化されていくのかなどを、埼玉県の秩父地域を中心にしてとらえようとする。
메이지 초년의 지역 「민정(民政)」과 지방관회의-메이지 2년 교토부(京都府) 회의를 중심으로-
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.803-818
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本稿は、京都府によって開催された明治二年の京都府会議を素材として、新たに形成されていく直轄府県と旧来の諸藩が、依然としてある一定の地域を複合的に支配していた「府藩県三治制」の実態を検討したものである。京都府が設置された近畿地域は、京都町奉行所が山城・大和・近江・丹波の四カ国を、大坂町奉行所が摂津・河内・和泉・播磨の四カ国を支配国としながら、各支配国で発生した「支配違の出入・吟味物」の裁判権を持っていた地域であった。こうした近世以来の町奉行所的な支配を背景にしながら、明治二年の京都府会議が開催されているわけである。即ち、京都府会議に積極的に参加する府藩県は、殆ど旧京都町奉行所の支配国内のものが多かったし、その会議内容もまた、旧京都町奉行所が担当していた支配国内の「民政」問題が殆どであった。そして、この時期には、京都府会議のような性格の地方官会議が各地域で行われているのである。 このように管轄地域の「民政」困難を解決するために実施された「府藩県三治制」期の地方官会議は、未だ諸藩の領主権を全面否定する廃藩置県的な思考までは至らなかったが、直轄府県と諸藩の領主権を超えて、一定の地域に基づいた地方権力を指向していたことに重要な意味を持っているのである。
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本稿는 韓國(韓國人)의 「國語」이데올로기가 어떻게 形成되어 展開되어 왔는가를 簡略히 素描해 보고자 한 것이다. 이를 위해서 本稿에서는 韓國에 있어서 「國語」란 用語가 使用되기 시작한 1900年 前後로부터 現在에 이르는 時期를 ①「國語」의 形成(1900年 前後), ②「國語」의 內面化(1910-1945), ③「國語」의 復權(1945-1950), ④또 하나의 「國語」의 境界(1950-現在)와 같이 4分해 보았다. 이와 같은 時期 區分을 想定한 것은 韓國의 「國語」이데올로기의 形成과 展開에 있어서 日本帝國主義의 同化政策이 密接하게 關聯되어 있는 것으로 보고자 하는 것이 本稿의 立場이기 때문이다. 韓國人이 「國語」란 用語를 사용하기 시작한 것은 1900年 前後의 改化期에 비롯된 것으로 특히 1906年의 普通學校令은 「國語」의 登場에 결정적인 역할을 한 것으로 생각된다. 이를 前後하여 周時經의 論說과 著書에도 「國語」란 用語가 使用되고 있음이 주목되는데, 이것은 統監府의 主導에 의한 普通學校令과 당시 日本의 學校敎育에 사용되고 있었던 國語讀本에 의해 「國語」란 用語가 韓國 社會에도 受容되기 시작했음을 示唆하는 變化가 아닐까 추측된다. 그러나 韓國의 國權이 喪失된 1910年에 이르면 「國語」는 水面下로 潛伏하게 된다. 周時經의 『國語文法』이 이 時期에 이르러 『朝鮮語文法』으로 名稱을 바꾼 것은 象徵的인 事件이라 할 수 있을 것이다. 하지만 日本帝國主義의 同化政策下에 놓여있었던 35年間은 단순히 「國語」가 水面下에 潛伏해 있었던 것이 아닌 「國語(コクゴ)」를 통해 「國語」의 에토스가 確立되어간 時期로 理解할 수 있을 것이다. 國權이 喪失된 狀況에서의 「國語」는 國家語로서보다는 民族語로서의 性格을 강하게 內包할 수밖에 없었던 것이다. 이와 같은 國權 喪失期에 있어서의 「國語」의 展開 過程을 本稿에서는 「國語」의 內面化 過程으로 解釋하고자 했다. 이 時期에 일어난 이른바 朝鮮語學會 事件은 이와 같은 「國語」의 內面化가 초래한 象徵的인 事件으로 照明할 수 있을 것이다. 한편 1945年의 解放 空間에서 「國語」는 그 무엇보다도 빠른 復權의 길을 걷게 된다. 1945年 11月에는 이미 『國語敎本』이 軍政廳 學務局에 의해서 發刊되고 있는데 이 때는 아직 政府樹立 以前의 段階이며 엄밀하게 말하면 「國語」가 國家에 앞서 復歸된 것을 意味한다. 이와 같은 「國語」에 대한 自己同一性이 暗黙의 前提가 될 수 있었던 것은 이미 民族語로서의 「國語」를 內面化할 수 있었던 歷史的 經驗을 가지고 있었기 때문이었을 것이다. 하지만 解放과 함께 展開된 歷史의 屈曲은 우리에게 統合된 「國語」의 모습을 보여주지 못한 채 오늘날에 이르고 있다. 남쪽의 「國語」는 서울의 中産階級이 使用하는 標準語와 表裏關係에 있으나 북쪽의 「朝鮮語」의 實體는 勞動者와 農民을 비롯한 勤勞大衆이 使用하는 平壤의 文化語를 志向하고 있는 것이다. 즉 오늘날 우리는 資本主義的 民族語로서의 서울의 標準語와 社會主義的 民族語로서의 平壤의 文化語의 對立 속에서 또 하나의 「國語」의 境界에 直面해 있는 것이다.
일본 학생의 학습동기의 척도 개발 및 타당화 연구―내재화 이론에 기초하여―
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.855-870
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The purpose of this paper was to study motivation to learn, based on the internalization theory in a variety of educational and psychological standpoint. Furthermore, the scale was developed to assess for learning motivation, and examined in the various statistical techniques for the students from elementary school to junior high school in Japan. The results showed that 4 constructs(extrinsic, introjection, identification, intrinsic) of learning motivation was revealed on the simplex structure. That, the beside construct was higher in the Pearson correlations than another construct. The reliability of this scale was reliable. The reliability was examined by the item-total correlation .775~.848 and test-retest reliability .767~.859. And the validity of the scale was showed at high level, tested by content-related by 2 Phd. in the education and 3 current teachers in the school, constructs-related by factor analysis, and concurrent related with GAMI as well. Finally, the results of this paper supported the hypothesis of motivation by Deci & Ryan(1985, 1989, 2000). This paper, however, had different evidences between American and Japan students. This paper was revealed that the reason to study in Japanese students, especially for the society and the their future. and reflected Japanese educational culture. The Japanese students' autonomy was lower than American students.
제3차 교과서 문제에 있어서의 일본의 대응과정 -회의록을 통한 국회내 논의를 중심으로-
한국일본학회 일본학보 제61권 2004.11 pp.871-884
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1982年に初めて起きた韓日間の歴史教科書問題は,日本の国内問題として出発したが,両国の外交問題にまで発展した事件となった. 1990年代に入って人的交流が増加し,とりわけ1998年の「韓日パ-トナ-シップ宣言」以後,日本文化の開放政策が実施されるなど,最も良好な関係に見えた. 2001年に再燃した教科書問題は, 歴史問題が依然として韓日関係に大きな葛藤の要素になり得る要因の一つであることを露呈させる事件となった. 本稿では,2001年の韓日間に起きた教科書問題を題材とし,とりわけ国会内の議論に焦点をあてる. 日本政府および政党の対応過程を分析することで,外交問題としての教科書問題の本質を探る研究に一助する目的とする. まず,日本国会内で議論の出発点となったのは,韓中からの抗議を批判する内政干渉論であった. 外務省側は「国際法上,内政干渉として認識するには無理がある」という見解を貫いたが,主に自民党と自由党側からはそのような日本政府の対応に対しても非常に批判的な発言が多った. そして,責任を追及する意見が目立つが,検定中の教科書の内容が外部に流れたことに不快感を表し, その責任の所在がマスコミと韓国および中国にあると強調する意見である. 問題の背景に関する議論においては,ナショナリスティックな意見が多く見られ, 問題が深刻化すると保守強硬派の発言が控めになった80年代の傾向とは異なる特徴を見せた. 解決方案に関する議論は意外と頻度が少なく,日本政府の同問題に対する無為的対応が目立った. 日本政府の立場は,終始,検定制度における韓日間の差異を説明する対応で一貫した. この点が教科書の内容に重点を置き,解決策を促した韓国側と最も認識の温度差が見られた点である. さらに,日本国内政治の状況と根強い相互不信,歴史問題における対韓外交のアジェンダの不足が,日本政府の無応答型対応としてあらわれたと言える.
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本研究の目的は、最近再論されている日本の幼保一元化論に焦点を当て、これまでの幼保一元化論との違いを明確にし、最近の幼保一元化論の背景やその戦略、それにその問題点及び課題を探ってみることである。これは今後ありうる我が国の幼保一元化に対備して参考となるような資料を確保することで、本研究の意義があると思われる。 今度の日本の幼保一元化は、保育所での待機児童の問題や幼稚園での定員の未充員の問題がその背景として作用しているが、現在論議されている幼保一元化論は、児童福祉施設としての保育所の機能を後退させているという指摘がなされている。すなわち、父母や児童中心の幼保一元化論ではなく、日本の政府の論理による一方的な幼保一元化論であるという指摘である。したがって、今後幼保一元化論に関して論議する中で、いかに児童不在の幼保一元化論を改善し、児童の権利保障の観点で幼保一元化論を考えるためには、保育所と幼稚園を違いをどのように認識するのかが非常に重要であると思われる。
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