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일본학연구 [The Journal of Japanese Studies]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) [Institute for Convergent Humanities in East Asia (ICHEA)]
  • pISSN
    1598-737X
  • eISSN
    2465-8448
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1997 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 492
제23집 (19건)
No

【日本語學】

1

6,100원

本論文では「だらけ」「まみれ」「ずくめ」の分析を通してこれらの接尾辭のもつ意味用法上の差異点と共通点をコーパス資料にもとづいて說明した。しかし、コーパス資料にもとづいてはこれらの接尾辭のもつ意味用法上の共通点と差異点を的確にとらえられないという問題点がある。 そこで本論文では作例をとおしてそれぞれの接尾辭の意味用法上の差異点と共通点を說明した。その結果は以下の通りである。「だらけ」と「まみれ」はマイナス評価を下せる自然物に結び付くが、違いは「まみれ」が液体成分や粘液質の成分を含んだ名詞にのみ結び付くというところにある。人工物を示す名詞を通してマイナス評価を下せる名詞には「だらけ」が、液体成分や粘液質の成分が含まれた名詞には「まみれ」が、プラス評価を下せる名詞には「ずくめ」が結び付く。抽象名詞を通して「だらけ」はマイナス評価を下せる名詞に結び付き、「まみれ」は抽象名詞でも粘液質の成分をもつものとしてメタファ-できる名詞に結び付く。「ずくめ」はプラス評価を下せる名詞に結び付き、「不幸」や「苦勞」のようにマイナス評価を下せる名詞であっても100パーセント記述が可能な名詞には「ずくめ」が結び付く。身體構成物(身體分泌物)をとおして「だらけ」がやはりマイナス評価を下せる身體構成物に結び付き、「まみれ」は身体構成物で もやはり液体成分や粘液質の成分をもつ名詞に結びつく。他方で身體構成物に「ずくめ」が結び付かないのは身體構成物がある空間を100パーセント占めることができないという現實的な問題のためであり、「血」のようにある對象の空間を100パーセント占められるものが存在するとしても「ずくめ」が結び付かないのは、それがそもそも液体成分や粘液質の成分を含む名詞に結びつかないためである。色彩名詞にマイナス評価を下せる根據がないため「だらけ」は結び付かないし、液体成分や粘液質の成分が含まれた色彩名詞は存在しえないために、「まみれ」も結び付かない。これに對して、「ずくめ」が色彩名詞に自由に結び付くのはある對象に屬する空間を特定の色彩で100パーセント滿たすことができるためである。

2

5,700원

從來、「~てくれる」と「~てもらう」は主語が異なるものの、現象面においては同じ內容を表してい ると見られることが多かった。「~てくれる」と「~てもらう」の互換性と意味についての硏究の先鞭を つけたのは堀口(1987)であったが、それは「~てくれる」と「~てもらう」が未來と現在を表す場合に ついてであった。そこで本稿は「~てくれる」と「~てもらう」が過去を表す場合の互換性について考 察し、意味の違いを探ってみた。 その結果、兩者の間で互換性がないケースとして以下のような場合が導き出された。 ① 恩惠の与え手が無生物であるとき「~てもらう」は使えない。 ② 「可愛がる」を除いて「~がる」の後ろでは「~てもらう」は使いづらい。 ③ 非恩惠型ベネファクティブとして使用される際は文末に「~てもらう」がくることはない。 ④ 兆候の存在の元での推し量りを示す形態が後續する場合、「~てもらう」は可能形にしなければならない。 ⑤ 恩惠の授受の不實現を表す場合、「~てもらう」は可能形しなければならない。 ⑥ 話し手以外に受益者がいる場合、特に聞き手が受益者に含まれる場合は、「~てもらう」の使用が恩着せがましい印象を与える可能性がある。 ⑦ 話し手が發話時に初めて恩惠の存在を知った場合には「~てもらう」は使えない。 ⑧ 虛構的に用いられる「~(さ)せてもらう」構文では「~てくれる」との互換性がない。

3

6,100원

本硏究では、現代の日韓兩語における符号の種類及び用い方について考察し、また、これが近代以降、西歐語の影響で兩語にどのように移入され使われているかについて若干の用例を取り上げ槪觀した。これらの考察を通して、近․現代における兩語の符号の使用樣相を見ることができた。要点を纏めると、次の通りである。  近代語が成立し、西歐語の論理的、分析的、客觀的表現の影響により、文章符号が確立したのである。句讀点を始め、各種の文章符号の確立は近代の文章構成上欠かせないものだと言える。日本語において「、。!?「」『』—……」等の、歐文符号が出現したのは大体明治10年頃からであるが、それらを多少改良した新符号が定着したのは明治20年以降である。しかし、最初は句讀点の打ち方に標準が明確でなかったため、句讀点が不自然な例も少なくなく、讀点が頻用されているものも多く見られる。文章符 号が完全な定着を見るのは大正期に入ってからのことである。  一方、韓國語も本來句讀点等、文章符号を持たず、近代以降に日本語を通して受け入れるようになるのだが、韓國語では日本語の場合よりも句讀点の打ち方が不自然な場合が多い。從って、韓國語では句讀点が定着して適切に使われるまでに日本語の場合よりも更に時間を要したのである。  近代韓國語の小說に見られる歐文式符号には、句讀点のほか、「、。!?「」『』—……」等、日本語の場合とほぼ同じであるが、頻度は日本語ほど高くない。また、句点の場合、現代語では「.」とするところに「。」が使われているが、これも日本語の影響であると思われる。

4

5,200원

本論文の目的は韓國人日本語學習者に日本語の音素/o/を關する發音させ、硏究者本人の聽覺的な觀點から分析ㆍ定型化することである。實驗對象の音素は日本語の/o/である。 硏究の分析結果、 語頭で、專攻者は非專攻者より發音器官を狹く使い、非專攻者は專攻者より發音器官の活用度がもっとも大きい事が分かる。 非語頭で, 專攻者は語順に關係なく日本語の/o/を[o]で發音し、非專攻者は專攻者より日本人の發音に近づいていることが分かるのである。 音聲資質別との分析結果、專攻と關係なく韓國人日本語學習者は日本人より多少幅廣く日本語の音素/o/を發音していることで分析される。 性別の分析については、男性は女性より發音の仕方が多樣であることが分かった。

5

6,600원

本稿は、日本語史において仮名遣いの重要な時期に該当する慶長期の仮名遣いを提供するとともに、キリシタンの文字社會を明らかにして日本語表記史に位置づけるために、キリシタンの寫本の一つである『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の和語の仮名遣いを考察したものである。  まず、『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の動詞の活用語尾の表記をみると、おもにハ行四段動詞の活用語尾は「ハ・イ・フ・ヘ」、ハ行下二段動詞の活用語尾は「フ・ヘ」、ヤ行下二段動詞の未然・連用・命令形の活用語尾は「ヘ」、ワ行下二段動詞の活用語尾は「ヘ」、ヤ行上二段動詞の活用語尾は「イ」、ワ行上一段動詞の活用語尾は「イ」の表記である。これに對して『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』と同じ文字社會のキリシタン版國字本宗敎書の仮名遣いは、ハ行下二段動詞の活用語尾だけが『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』と完全に一致するのみで、他はゆれているか不一致である。また、このような傾向は久保田篤(1986)で調査した近世初期版本の表記とも似ている。  次に、『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の動詞の活用語尾以外の表記をみると、語頭のi音、wo音は「イ」、「ヲ」で、語中・語尾のi音、u音、ye音、wo音は、それぞれ「イ」、「ウ」、「へ」、「ヲ」の表記で安定している。しかし、語中・語尾のwa音は「ワ」と「ハ」の表記が拮抗しており、語頭のye音は「ヱ」であるが1例だけなので判斷が難しい。これに對してキリシタン版國字本宗敎書は、語頭のi音は「い」、語中・語尾のi 音、ye音、wa音はそれぞれ「ひ」、「へ」、「は」表記であるが、他は表記の優劣が判斷し にくい。今野眞二(1984)で調査した連歌書と久保田篤(1986)で調査した近世初期版本の仮名遣いも、キリシタン版國字本宗敎書の表記と類似の傾向である。ここから判斷して、『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の動詞の活用語尾以外の表記は、一部一致する部分もあるが、全体的には異なるものであったことが分かる その次に、当時の仮名遣いとの關係を見るために、歷史的仮名遣いと一致しない『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の75語を、当時の仮名遣書、易林本『節用集』、仮名文獻『狹衣の中將』と比較した。その結果、これらの文獻の仮名遣いと一致する語が少なかった。  以上のことから、『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の仮名遣いは、キリシタン版國字本宗敎書の仮名遣いとも、当時の仮名遣書の仮名遣いとも異なるものであったことが分かる。すなわち、『イエズス會日本コレジヨの講義要綱』の仮名遣いは、これらの文獻の仮名遣いとは異なる慶長期のもう一種の仮名遣いであったと言えるだろう。

6

5,100원

筆者は談話展開の方法の地域差は、話者が情報內容を効果的に伝えるために相手に送る談話標識にも反映されていると考え、談話標識の出現傾向から談話展開の方法の地域差について明らかにした。  本稿では、今までほとんど言及されてこなかった若年層における談話展開の方法を宮城縣白石方言を例として取りあげ、考察した。  その結果、談話標識の出現頻度では、自己確認形式である「ウン」、引き込み形式である「ネ、サ」、說明開始・累加形式である「ソレデ」の使用が多いこと、談話標識の組み合わせパターンでは「說明開始・累加(ソレデ)」や「自己確認(ウン)」を行うパターンが多いことが分かった。  すなわち、白石市若年層話者は「ソレデ」で話の進行を單純にマークしつつ、「ウン」で自分の話について自分で納得しながら話を進める「自己納得型」の談話展開の方法を取っていることが明らかになった。  このような傾向が他の地域の若年層においても見られるのかを明らかにするため、さらに地域を廣げ、若年層における談話展開の方法について明らかにしていくことが課題として殘されている。

7

20,000원

本硏究では、「發表が予定されている授業を欠席しなければならない」という狀況を設定し、それを先生に手紙(メモ)で伝えるという同一條件を提示して、日韓大學生の對人コミュニケーション行動をポライトネス・ストラテジーの觀点から分析してみた。 その結果、以下のことがわかった。 ① 日本人大學生も韓國人大學生もポジティブ・ポライトネス・ストラテジーよりはネガティブ・ポライトネス・ストラテジーをより多く採用している点では共通していた。このことは、兩者とも發表が決まっている授業を欠席する行爲は相手(先生)の「フェイス侵害度」が高いと見積もった結果によるものと分析できる。 ② 兩者の比較で、ポジティブ・ポライトネス・ストラテジーの使用においてはほとんど違いが見られなかったが、ネガティブ・ポライトネス・ストラテジーの使用においては違いが見られた。 ③ 兩者の見積もった「フェイス侵害度」へのRx(ある特定の文化の中でどのぐらい相手に負荷をかけると見なされているかという「行爲(x)が相手にかける負荷度(R)」)の影響にはほとんど差が見られなかった。 ④ 異なる文化間でのポライトネス・ストラテジーを比較する際には、ネガティブ・ポライトネス・ストラテジーを使うか、それともポジティブ・ポライトネス・ストラテジーを使うかに焦点を当てることも大事だが、同じネガティブでもその具体的なストラテジーの內容が異なることに注意を向ける必要があることが示唆された。

8

6,300원

日本語の使役受身文「Vさせられる」は、實例を分析してみると積極的に迷惑を表す≪强制≫や消極的に迷惑をあらわす≪ありがた迷惑≫、また文脈によって迷惑に搖れの見られる≪中立≫、さらには≪心理的壓迫≫や≪自發≫表現まで多樣である。 本稿では、動詞の意志性だけでなく關与者の關係、そして動作の利益性のありか(述部動作を行うことによって誰に利益性が生じるか)、さらに關与者間の働きかけ(間接的・直接的)を分析要素としてタイプ化することで使役受身文全体像の体系化を試み、意味的分類における典型と周辺を位置づけることを目的として考察を進めた。 動作の利益性のありかが使役主にある≪强制≫と≪義務≫を典型とし、それ以外のものを周辺として位置づけをした。典型は、關与者名詞句が<私的>であるか<公的> であるかという差によって下位分類される。意志動詞による使役受身文には≪强制≫≪義務≫のほかに≪不本意≫≪中立≫≪ありがた迷惑≫≪心的負担≫がある。≪ありがた迷惑≫は、動作の利益性のありかが動作主にあるものである。文脈の支えによって迷惑感が消えることもあるが、動作主の氣持を無視したものである限り、迷惑 感が完全に消えることは稀であるということを述べた。≪不本意≫と≪中立≫は、動作の利益性が曖昧であるという共通点を持つが、使役主からの指令が非意図的であるか≪不本意≫意図的であるか≪中立≫で分かれる。≪心的負担≫は、意志動詞にも關わらず心理描寫をするという点で、意志動詞による使役受身文と無意志動詞による使役自發文をつなぐものであるといえる。≪使役自發≫は、表現自体が、「させられる」を除いたもとの形でも文が成り立つという点やニ格表示性の高さという点で使役 受身文において最も典型から離れたところに位置するという見解をのべた。

【日本文學】

9

5,200원

『朽助のゐる谷間』、この物語は國家的次元の工事のため、絶對權力に翻弄されている老人の悲劇が井伏式タッチで、巧妙に描かれた初期の秀作である。さらに、時代的な背景を勘案してプロレタリア文學の影響もあると考えられてきたことも事實であり、朽助の心境の変化を辿っていくと結果的に自然主義的要素も含まれている。  井伏は、朽助の多大なる信賴を受けている「私」をナレーターとして設定することで、作品の進行に重要な役割をつとめる役柄を担わせている。これは單なるナレーターに止まる役でなく、作品の展開に積極的に關与しない井伏文學特有の登場人物の出現であり、私小說の「私」とは全く異質的な性格の「私」である。以後、井伏の文体の獨特さは、新たな機能が付与された「私」を通して現實を認識し、徹底した客觀的寫實に基づいて具体化されて行く。  『朽助のゐる谷間』のなかでも、作者は古い備後地方の方言を丹念に選り分け、地方の方言に古風な味を与えている。情趣あふれる懷かしさともいえる、忘れかけていた奧深さを蘇らせることに成功したといえるだろうが、井伏の文体のテクニックはまさにここから始まったと言っても過言ではない。そういう意味から考えて見ると、私小說的「私」への決別、新たな「私」の誕生とその確立の道程は、1930年代の井伏の文學的營爲と深く關わってくる。  視点を自分の悲しみから庶民、農民たちに移し、彼らの日常生活の喜悲劇を、以降の創作活動の主なモチーフにした井伏の獨特の作風の成立は、『朽助のゐる谷間』からその可能性を見せ始めたといっても差し支えないだろう。

10

6,000원

本稿では『白金之獨樂』の詩篇を白秋と仏敎、さらには「ありのまま」という指標を中心に見てきた。白秋は前期において、西洋世紀末詩の影響を色濃く受けつつ、頹唐趣味や都會趣味の作風の詩を多く殘していた。ところが、「桐の花事件」による挫折を経て、三崎と小笠原の豊かな自然と向き合う日々の中で、仏敎的な要素を取り入れつつ、實驗的な詩作に自らの新生を託そうとした。  從來『白金之獨樂』を論じる際にキーワードとして取り上げられていた「麗らか」さに對して、本稿では「ありのまま」に重点をおき、その形象化にこの詩集の重要な特徵を見出した。都市を離れた白秋が、三崎・小笠原体驗を経て、自然を作りかえるという人爲的人工的な美意識や自意識から解放され、ありのままの自然の樣態に素朴な美を見出すあり方へと開眼していったのである。そこでは同時に、凡夫としての裸形の人間の發見がなされ、自らの苦惱を詩化しようする求道的な側面も表れていた。そこから、西洋的な視点による創造から、東洋的な精神による創造への轉回を見ていいだろう。  また、漢字片仮名混じりの形式にも、「ありのまま」につながる「素朴」さへの志向性が込められているが、一方では、そこには三崎や小笠原の自然に對して、前期から引き継がれる異國情緖的な感性も働いているようにも思える。つまり、その光景を「內なる異國」と見て特殊化し、効果的に表象する手段として、漢字片仮名混じりの意図があったようにも感じられる。  なお、次作『水墨集』以降においても、「ありのまま」という指標は老子などの東洋思想と連動しながら白秋の言說に度々表れる重要なキーワードとして注目できる。

11

7,000원

食いものの味を表現するのは、多くの作家がいっているように難しいことこの上ない。開高健はそれに挑戰した。“食”は死ぬまでつきまとう根源的な欲求であるのに、食談や食欲描寫や料理の話というのが、これまでの日本文學にはめったに登場してこなかったという僞善的な知的フィールドに果敢に挑んだわけである。本稿では開高健が仕事の一分野として“食”に關する文章にいつごろから手を染めたのか、そして彼の“食”の表現へのこだわりとはどういうものであったのかに触れてから、『最後の晩餐』 で展開されている“食”の森羅万象の諸相をみてみた。そのような分析は当然ほかの同種の作品では、どのような展開を示しているのかの考察を誘い、それを本書の刊行以前․以後に分けて詳述した。その結果、食談はもはや私生兒扱いをまぬかれ、今日作家たちは“食”の描寫を作品の核として、あるいは痛切な細部として生かそうとする作品を生むのに意を用いるようになった。

12

5,400원

『國境の南、太陽の西』は、自我を獲得した大人が他者とどう<關係>を持っていくのかを、結婚という環境で描寫している。この作品は『ねじまき鳥クロニクル』とも關連しているが、主人公の設定、存在感が目立つ妻、夫婦關係の根本について問いかけている点などがそうである。  主人公の“はじめ”は幼年時代、それぞれの欠落感を共有できた親密な存在“島本さん”を純粹で完璧なイメージとして思う。やがてそれは自分が経營するバーを通して形象化するが、それはもっぱら自分だけの世界である。實際彼が生きている現實は高度資本主義のシステムの中であることに抵抗を覺えている。自ら<空中庭園>と考えている所にに過去とは違う“島元さん”が訪ねてきてから“はじめ”に現實からの逸脫が始まる。現實感を帶びていない“島元さん”は“一方的にはじめ” を死と不毛の<太陽の西>に向かわせる。また、高校時代深く傷付けたことのある“イズミ”が砂漠のような存在として“はじめ” に過去の虛無さを象徵している。 一方、妻の“有紀子”は中間的ですべての余地を含んだ意味として<國境の南>を目指している人物として考えられるが、自分の他者性を夫に實感させることから、夫婦としての二人の<關係>の在り方を確實に表現している。『國境の南、太陽の西』は過去の幻想や空白を極端的な槪念で持ち續ける夫とそれを他者同士の<關係>により中和しようとする妻の物語である。

13

4,900원

繪畵的な作家であると評価されている宮澤賢治が、作品の中で色彩語を度々使っているのは普く知られていることである。色彩語は單なる色だけを表すとはかぎらず、各色に關する作家の感情が含められているので、本稿で行われた賢治の色彩語の驅使に關する考察は彼の創作傾向が現われる重要な意味があると思われる。詩はどんなジャンルよりも含蓄性があるので、詩人の格別な感情を期待することが できるだろうと思われ、本稿では彼の第1詩集『春と修羅』の初版本の全作品、「序」を含め總70篇を中心に、各作品の中で明確に登場する色彩語を抽出して靑色を中心に考察してみた。第1詩集『春と修羅』の初版本の全作品、その70篇の作品の中には靑、赤、黑を初め多樣な色彩語が使われているが、その中で賢治が最も頻繁に用いた色彩は靑色である。靑の作家であると呼ばれるぐらい靑を多彩に表現した賢治は綠も靑で書いたので、外の色彩語より靑色の使用の頻度が多かったことが分かった。のみならず、賢治が靑色で表している世界は一つではなく、靑の使用頻度と比例して多樣であった。この多樣 性はまた彼の宇宙に對する兩面性とも繫りがあると思われる。彼の宇宙を見る目は、裏と表の兩面性を同時に念頭におくことである。したがって樣々なことで表現した賢治の靑の多樣性は一つの限界に制限されない彼の宇宙の兩面性に至るのである。作品「オホーツク挽歌」において賢治は靑色を明確に自分の人生で最も重要な人物である妹のとし子の特性であると定義しているがこの描寫はとし子が生きていたこの現實の世と死後の世、二つとも一つの靑色で統一した表現であると思われる。すなわち賢治にとって彼だけの宇宙の色は靑で充分で、彼がどうして靑色の作家であると呼ばれるのがここで明らかに說明することができると思う。本稿では靑の色彩語だけを考察してみたが今後、各色彩語をお互いに比較する硏究と、第2詩集と,第3詩集で、色彩語の変遷の硏究を共に行うのが必要ではないだろうかと思う。詩で表れた色彩語の全般的な硏究の後は,發表されている童話の色彩語の硏究と比べてみることも以後の課題になると思う

【日本學】

14

5,700원

「近くて遠い國」という決まり文句が氾濫していたように、90年代における日本文化論での「我々」という主語から、やはり日本に對して物理的な距離感より遠い心理的な距離感を强く感じる、その時まで韓國社會は日本が「近くにある『知』らない他者」だったということにたいてい同意していた。本稿はそうような認識のコンテキストが、解放以後の「我々」の中の隱蔽と再生を繰り返された「日本」という「神話」によって作られたことであるという問題提議から出發している。 1940年代前半期の文學史を「暗黑期」だと命名した白鐵の「戰後(韓國戰爭後)」民族主義は、「反共」というフィルターを通過した「選擇的」な歷史を强制する忘却/記憶のパラダイムによって維持されたのである。それは單に白鐵個人だけの問題ではあるまい。雜誌󰡔新天地󰡕がもっとも早く「日本特集」(1947年11・12合倂號)として組んだ企畵の中でもそれを見出すことができる。結局、「朝鮮人が見た日本の態度」に關する文章が欠如されたまま終わったその企畵は、植民地の記憶が深く內面化された朝鮮人にはまだ「日本」という存在を他者化して語りえない時期であったことを暗示している。 植民地時代を生きたある詩人が1961年に告白したように、彼らに「日本語」は、「夢」や「日記」などのような內密な空間でしか使える抑壓の對象であった。それゆえ、韓日國交正常化とともに翻譯・出版された󰡔日本短編文學全集󰡕(1966)は、彼らにとって植民地遺制である自らの日本語を眞なる他者のものとして語りうるきっかけであっただげではなく、これまで抑壓されてきた日本語的な思考=意識の噴出の結果でもあった。 そのように出發した日本語(日本文化)の他者化は、「我々」及び「日本」を本質的に「神話」化するプロセスの中にあったのである。そういった結果、兩者の關係をダイナミックに見出すことができなくなった。その際、必要なのが國家主義的な想像力に富んだ「我々」に對する括弧を解くことであろう。したがって、本稿では90年代における日本文化論の反省とその歷史的な起源に對して考察することを通して、いまこそ他者に對する本質化という近代企畵の沼に陷った「我々」の姿を相對化しながら探索しているのである。

15

7,600원

日本では年金に對する國民の不滿不信が强まり、國民年金未納未加入者が增え、年金空洞化を招いている。本稿では第1、日本の年金改正プロセスを振り返り、相当以前に少子高齡化の急速な進行を見込みながら保險料引上げや給付削減を先送りあるいは小手先的な措置を繰り上げるなど對症療法式な改革によりむしろ世代間對立は激しくなり年金債務は累積されてきたことを確認した。  第2、年金負担の持續的な增加と給付と負担間の不公平性を是正し、持續可能な公的年金制度構築に必要な基本原則と方向性を提示した。そこで年金市場の失敗に鑑み、公的年金の社會保險方式の下世代間公平性確保のためには ① 被保險者の出生年度、性別、ライフスタイル別生涯年金給付・負担比率に關する國民的合意形成、② 一般財源による所得調査付き普遍的保障, ③ 就業形態やライフスタイル選擇に關する中立性確保という3つの基本原則で現行の2階構造改革に必要なイッシュ別基本方向を示した。  第3、2004年度年金改革については保險料固定ー給付自動調整裝置投入など幾つかの長所を認めながらも 結局「負担は現狀對比 30% 增加, 給付は現狀對比 15% 削減」の下むしろ世代間不公平性は 擴大していることを確認した。厚生年金の場合、給付・負担比が1935年生まれは8.3倍、1985年生まれは 2.3倍に過ぎなく世代間格差は甚だしい。  第4、次期2009年改革向けの爭点を提示し、基本立場を明らかにした。卽ち、①公務員年金は現在進行中の法案通り厚生年金に一元化されてよいと思われるが、自營業者とパートタイマも加入條件を緩め、1階部分には社會扶助原則をも加味し、無據出・無年金原則を徹底すべきであること、②基礎年金國庫負担比率引上げについては 所与の措置として認めるも殘りの財源については世代間所得再分配効果に關しては 現在野党側より主流になりつつある年金目的所得稅が消費稅に比べて高いということ を考慮し、財源選擇により愼重であるべきこと、③年金所得控除は縮小․廢止する一方高齡者が生活保護層に陷ることのないように年金受給者階層內不公平是正のための 経過措置と增收分は基礎年金の國庫負担、次世代育成支援に当てることによって將來世代の保險料負担カ緩和に寄与すること、④世代間不公平を拔本的に是正するためには積立方式の下2階部分の民營化を積極的に檢討すべきであることを指摘した。急速な制度移行に伴う副作用を最小化するため企業年金や個人年金によって老後設計を補 完し、積立金不足による隱れ債務の顯在化等移行期問題解決のための公論の場が欲しいと言うことである。以上、我々は日本の年金改革シナリオとして同一最低保障であってもすべての國民に一律的に支給する方式(A案), 納入した保險料に基く年金を基本にしながら低年金層に不足分を補う方式(B 案), 公的年金はこれら最低保障に限定し、比例報酬部分については民營化する方式(C 案)等 幾つかを 念頭に置き、議論を進めてきた。  結論的には第1、各種年金制度は早期に一元化し、1階部分は國民全員强制加入、年金目的所得稅を財源に社會扶助的要素を强化し、2階部分については職業などに關係なく所得水準にしたがって年金額が変わっていく構造を構築し、個人別に年金予想額を明確に分からしめることである。自營業者、會社員、公務員間に垣根を溫存し、將來ビジョンだけでは將來不安は拭えないだろう。第2、高齡者が生活保護層に墮ちないよう中高齡層の雇用確保、所得比例部分の段階的縮小、民營化と企業年金の擴充、節約された予算は医療・介護サービスの質の向上、兒童養育、次世代育成、障碍者支援等に投入すべきである。この意味で少子・高齡化時代に活力と生涯安定のための雇用、医療、年金、福祉介護全般に亘る社會保障システムの在り方、將來ビジョンについて所要財源と共に示すのが肝要である。第3、ここで提示した2009年改革の基本方向を幾つかのシナリオに具体化し、その成果の比較分析は次期の課題にしたい。

16

6,600원

本稿では、日本における護憲運動の代表的な事例として九條の會運動について分析した。全國にわたって結成されている約250個の九條の會についての分析をとおして、地域をベースとした九條の會運動がかなり活發に行われていることを確認できた。この運動は特定の階層や特定の地域に限られた運動ではなく、普通の市民が參加し、全國のネットワークを形成して行われている運動である。大都市だけでなく、中小都市、農村地域においても活發な運動が展開されている。また、ある特定の市民運動家や進步的市民に限定された運動ではなく、平和主義と民主主義という普遍的な価値を求める普通の市民が參加する運動として行われている。こうした点で、日本における護憲運動は、戰爭を嫌い、日常生活の平和を望む戰後の平和運動の系譜を受け継いでいる。 一方、こうした市民側主導の運動が、これから改憲の動きが本格化するにつれてどのように勢力を結集し、効果的な政治鬪爭を行うかが、この運動に殘された課題である。また、保守的なマスコミをどのように動かし、護憲に無關心である若い世代をどのように引き入れるかも大きな課題である。

17

5,400원

本稿では羅蕙錫の繪畵作品『裸婦』をそこに描かれている「乳房」をキーワードとして考察してみた。考察してみる上で、日本の裸体畵との比較をも行う。日本や西洋では豊滿な女性の胸は、魅力的な性的な表象であり、一方母性と結びつく神聖なイメージが宿る場として描き續けられてきた。しかし『裸婦』には豊富な乳房ではなく、垂れ下がった乳房が描かれている。その胸の問題を「母性」を手がかりで分析してみた。羅蕙錫は「母性」に關する言說の中で母性を本能的なものではなく、母の体驗から得られるものであると定義している。また近代には母である女性がセクシュアリティを排除されることに反して、羅蕙錫は生殖と性欲を分けて捉えている。さらに彼女は母の性的欲望を自ら肯定しており、母でありつつ、一人の女性として認められることを主張した。槪して、繪の女性の垂れ下がった胸は子持ちの母を意味する。ということで、ここでは垂れる乳房から「母」であることを想定してみた。繪の中で、母はもっぱら子どもとともに描かれることで、母としての存在を認められていた。しかし、羅蕙錫は子どもを排除し、母のからだを洗練し美しく描いている。つまり、母なる女性の「性」の主体性が󰡔裸婦󰡕にも濃やかに發露していると言える。

18

5,700원

日本地域硏究の大學院敎育において書誌檢索の敎授は必須である。昨今では電子化が日々、進展し、日本地域學の場合、日本地域一般の知識のみならず方法論的な理論學の習得も必要である。その兩面を踏まえつつ、昨今の電子化された情報、すなわち電子書籍の大學院敎育に活用を考え、電子書籍・電子化された檢索システムの提供・入手方法での分類一覽を見たのち、敎授における可能性と問題を考察した。 電子檢索システム・電子書籍・出版・書店の學術的利用における先行硏究・活動の分類硏究をその方法や內容傾向で簡單に分類したのち、電子書籍、そしてそれに準じる電子化された檢索システムを利用する際の見取り図を、提供・入手方法で分類した簡單な表としてまとめた。學生指導上の理由から、時間、勞力、経濟上のコストがかからない資料入手を第一とすることがこの分類の理由である。①WWW上で提供者から利用者までの過程がすべて電子化濟み。②提供者から利用者までの過程がすべて電子化 1.コンピュータアプリケーション 2.携帶型辭書辭典類 ③一部のみ電子化。1. 書誌檢索サイト2.図書檢索・注文サイト3.相互貸し出し、複寫等の遠隔利用サービス申請サイト、と整理した。 次にそれぞれの利用の現狀と學生たちへの敎授利用における問題点と對處法について考えた。狹義の電子書籍(狹義)・電子書籍專用書店は過度の著作權保護が學生らに受け入れにくい雰囲氣を作り出している、また電子図書館は膨大化する地域アーカイブとあわせ、新たな硏究を導くかもしれないがまだ中途段階である。結局、文獻檢索(および入手)システムであるNDL-OPACとGeNii(Webcat Plus, CiNii等)に慣れさせ、アマゾン等で書誌檢索・入手、さらには資料等を「電子政府の窓口」他データ ベースで、關連する時事ニュースを「ヤフーニュース」各トピックスで、そして『ヴィキペディア』の批判的利用を薦めることから始めることが最も要を得ていると思われる。ただし、電子媒体の限度を見極めさせ、進展中の電子書籍關連情報に留意させる必要がある。

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5,400원

 
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