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일본학연구 [The Journal of Japanese Studies]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) [Institute for Convergent Humanities in East Asia (ICHEA)]
  • pISSN
    1598-737X
  • eISSN
    2465-8448
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1997 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 492
제24집 (22건)
No
1

7,500원

アジア太平洋戰爭に敗北した日本は戰後において平和憲法に則り、新たな出發をした。特に植民地の放棄と軍隊の解体は、戰前日本を淸算する極めて重要な方針轉換であった。しかし、朝鮮戰爭を轉機に、日本の戰後政治は外形的な民主主義とは別に、日米安保体制に依存しながら、再び非民主的な制度と思想を生み出すことになる。戰後日本は米ソ冷戰構造にも便乘する格好で、韓國をはじめとする對アジア外交においても、新植民地主義とも表現可能な權威主義的な姿勢で臨むことになる。日本の敗戰と植民地放棄により、アジアの一員として平和外交を展開することによって、アジアにおける平和共同体構築の展望が見え始めた時に、日本はこれに逆行する方針を選擇してしまう。それは韓國の軍事政權との癒着關係において最も典型的に示された。すなわち、日本は軍事政權を支援することで、過去の植民地責任を回避しようとし、韓國を足場として再びアジア覇權の道を模索しようとしたのである。しかし、今日、アジア地域における平和共同体構築への願望や、平和外交を求める國內外の世論のなかで、日 本はあるべきアジア外交を展開すべき時に來ていると考える。韓日關係をどのように構築していくかは、日本の外交のこれからを占う試金石となろう。

2

6,700원

本考の目的は、日本での韓流をもたらした「冬のソナタ」現象を中心にして、日本文化論 の觀點から韓流の言說について再考することにより、文化の間におけるコミュニケーションの新 しい可能性を確認することにある。そのために、まず「風景」というメタファーを媒介にしつつ 韓流言說および「冬のソナタ」言說の性格について究明する。要するに、本考は旣存の韓流 の言說を「文化としての韓流」言說と「文化商品としての韓流」言說に大別しながら、その なか特に前者の流れに注目する。ところで、「文化としての韓流」を取り扱ってきた旣存の諸 言說は主に生産者を中心にしたマクロな言說が大部分であるが、そこでは他の地域での韓流 と趣きを異にする日本での韓流を分析する場合、限界があることを認めざるを得ない。それで 本考は日本文化論と關わる主要な諸槪念を手がかりにしつつ、享有者(消費者)中心のミクロ な言說の方に焦点を当てようとする。このような問題意識に立脚し、本考では日本文化の原形 質ともいえるような諸槪念、例えば「場所」「義理と人情」「マコト」「もののあわれ」など のコードをはじめ、近來日本社會で流行っている「スピリチュアリティ」コードなどに照らして 「冬のソナタ」現象の意味を再構成する一方、ひいて日韓の間におけるコミュニケーションの 新しい在り方について考えてみる。

3

6,100원

戰後の日本のイメージが、「フジヤマ、ゲイシャ」から「トランジスターのセールスマン」 「エコノミック․アニマル」「日本株式會社」「商人國家」へと変わりながら、金儲けだけに突っ走る國といった、やや否定的なイメージが國際社會に定着していた時期を思い出すと、今日の「クル․ジャパン」の世界化には隔世之感を感じざるを得ない。世界中で一國に對する國のイメージが數十年の間に、こんなに変わっていった例が、果たしてあるのかという氣もするが、確かに今文化の面で日本という國の「品格」が上向きにあることは事實である。経濟大國日本があれほど願っていた國の「品格」向上が徐々に現實化されつつあるのは、いうまでもなくソフト․パワーの强化に力を入れてきた結果である。國力や國のイメージを決めつけるにおいて、政治․経濟․軍事力といったハード․パワーよりも、文化や制度の魅力、イデオロギーのようなソフト․パワーが大事であることを、戰後日本はどこの國よりも切實に感じたからである。 しかし、日本が日本文化の世界化を含めたソフト․パワーの强化を、國をあげて本格的に叫び始めたのはそれほど長くない。にもかかわらず、その基盤となる文化力の培養とそれを外交の主要な柱として戰略的に推進したのは、戰後の復興に成功した50年代からである。その頃からすでに日本政府は、政府と民間による官民一致の協力体制の必要性を强調しながら、経濟協力の支持基盤の强化と日本文化の世界への伝播を核とする文化外交の方向性を確立した。そして、1960年代になると、その方向性は世界の注目と非難を一身に浴びた高度経濟成長の経濟力を背負って、日本外交の新しい動力として徐々に力を付けていった。本稿では第一部の論文に續いて、1960年代を中心に、日本の高度経濟成長と國際社會における日本の地位変化、それと伴って活發に推進される對外経濟協力の推移、その過程のなかで日本外交のもう一つの柱として比重を高めていく文化外交の展開過程、そして、その成果と時代的効果などを 具体的に分析した。

4

5,800원

日本において茶樹の存在は牧野富太郞の自生說と松下智の伝來說があるが、現在は松下智の伝來說のほうが有力である。又、茶樹や茶種の日本の播種については東大寺要錄の行基菩薩の播種に基づいている說と最澄が茶種を日本に持ってきたという『日吉社神道秘密記』說があるが、この文獻による播種說は取り入れにくいところもあると言われている。しかし、今のところは最澄の播種說にウェートをおくしかないと思う。村田康彦は『文華秀麗集』に收錄されている嵯峨天皇の漢詩から最澄の播種說のほうに手を上げているし、谷晃は800年代の前後、日本に茶が渡來して喫茶が始まったと述べている。 日本に唐の喫茶文化をもたらしたのも留學僧で、これは日本文化史上、この上ない大きい貢獻であることは言うまでもない。唐で30年あまり滯在した永忠が嵯峨天皇にお茶を差し上げたという815年の『日本後紀』記錄、勅撰漢詩集の茶詩、季御讀経の行事から平安時代の茶文化を推し量ることができる。季御讀経の宮廷行事で僧侶のもてなしとして出された引茶は儀礼を中心に饗応と藥用の姿を伺えることができる。このような接待文化は草庵茶の特徵とも言えるものだが, この茶の湯には眞心の込めている思いやりや食文化革命が前提されている。しかし、平安時代の茶は儀礼の中に接待と言う饗応とともに藥用の役割を受け止めている。 このような二重構造の文化は特殊な日本社會構造からきているし、權力と權威が別々に存在することのできる社會構造は日本だけの獨特なものであると言っても言い過ぎではないと思う。これは日本の權力と文化を支える根幹になっているし、二重構造の文化を誕生させる基礎を成している平安時代の茶文化は儀礼の中に饗応と藥用という二つの意味を持っている單一二重構造の形態を備えている。これは12世紀に入って2次茶文化が榮西禪師により、日本に上陸してから禪院茶と鬪茶とで兩分化していく。

5

6,300원

The increase of the elder people and the extension of the later life are urgent and practical problems in Japan. We suggest the family strategy by later life family in Hokkaido as the model of the relationship of family and local community. The later life families in Hokkaido, have coped with this necessity with the strategy of the safety net through the neighborhood network. The revitalization of neighborhood network by the welfare and caring for the elderly has reinforced the system of reciprocal responsibility and resident membership based local community. The significance of the neighborhood network that the later life family has played a leading role in and adapted to the change of the social environment and family relationship is as follows: First, to realize the elderly's intention of residing continuously in the local community, the voluntary cooperation care system has supported the care services and protection. Secondly, their self-dependent effort to protect of care can be observed in respect of supplying the care services for the elderly: the elderly can give and take the case based proper services on share, and can keep their dignity. Thirdly, they have searched for establishing local care system and the medical service, and the volunteers work in cooperation to support the neighborhood network for the life of the elderly. In conclusion, the realization of the various networking of the elderly is the first step for the future-oriented aging society. I think the neighborhood network of the later life family in Hokkaido is a distinguished model of family strategy that has made the base of reciprocal responsibility in the local community.

6

5,500원

「色好み」の觀念および樣相は時代․社會の変容と伴って多樣な変化を遂げている。本稿では「色好み」文化の後代に及ぼした影響の大きさを確認するという見地から、なお「色好み」伝統の後代的変容の一環として秋成の小說に現れている「色好み」の樣相を考察したいと思う。秋成の作品が屬する「讀本」というジャンルは大まかにいって中國文學を日本化しようとした作者たちの作品郡である。讀本作者は中國文學を受容するにあたって見慣れない異文化的な要素․內容を自國的に改作するとき興味深くも「色好み」伝統を継承しようとする姿勢を見せている。本稿ではそれを通して「色好み」文化の後代への影響力を確認してみたいと思う。なお讀本作者は外來的要素を日本的に変えながらもその一方で自分の國にはない外來文化の良い側面を前向きに受け入れようとする姿勢をも合わせて取っている。そのた め伝統は姿․樣子を変えることとなる。つまり伝統の変容が成されるのである。本稿は秋成の小說に現れている「色好み」の具体的な樣相を通して日本近世における「色好み」伝統の継承と変容の樣相について考察したものである。

7

6,700원

This study researched Chosun and Japanese literary men’s cognitive aspect of Mt. Fuji which were made in the form of travel description and conversation by poetry-writing in 1682(7th dispatch of envoy). The diplomatic mission deeply fascinated with Chosun’s cultural pride in 17th century underestimated Japanese literary men and Japan so they treated Japanese literary men unkindly. This fact provoked Japanese literary men’s antipathy. So they tried to inspire a sense of self-respect through the medium of Mt. Fuji. In the meantime, lots of conversation by poetry-writing exchanged between two countries and poems about Mt. Fuji were made. It was Japanese literary men who wrote poems about Mt. Fuji first. They took the form of poetry and worshiped beautiful and mysterious aspect of Mt. Fuji. They even showed off excellency of talented men who got a life-giving soul of Mt. Fuji because Chosun’s literary men doubted Mt. Fuji which had symbolic meaning of Japanese cultural pride. This kind of argument had continued because they both strived for superiority. Chosun’s literary men couldn’t idly look on those of Japan trying to attain superiority by writing poems of magnificent, mysterious Mt. Fuji and fosterage men to be great. So Chosun’s literary men generally agreed to the mysterious aspect of Mt. Fuji but on the other hand, they tried to decrease it by assuming the offensive occasionally. It was very important matter to literary men individual and to their countries also. So Chosun’s literary men tried to hurt those of Japan’s pride by taking a skeptical view of the mysterious aspect of Mt. Fuji, Seobok and five hundreds of prodigious children. But Japanese literary men tried to strengthen the mysterious aspect of Mt. Fuji not to lose their pride. As a result, the cognitive aspect of Mt. Fuji between the two countries was somewhat common and at the same time somewhat different from the viewpoint of the mysterious aspect. In the end, the gap between the two countries was not filled up and ended in their individual sense of superiority. This thesis is worth in view of confirming Chosun’s cultural pride in 17th century how to act on neighboring relations and how tensive the confrontation scene was. Because of the limitation of paper space, this thesis didn’t deal with how different the cognitive aspect of 7th dispatch of envoy from those of before and after. It will be remained for the future study.

8

5,200원

江戶時代の歌舞伎は、どのような照明方法を考え出し、その演劇性と照明とが、どのような關わり合いを持っているかとの問題について考察してみた。その結果、ある時期まで自然光線のみに賴っていて、その後、享保九年、防火の目的で瓦葺屋根が許可され、劇場全体が永久的に完全な屋根に覆われることになる。しかし、全蓋式になると照明という点から言えば、劇場內に自然光線の激減ということであって、人工光線が未發達の時代には重大な障害となったのである。それで、積極的に光線をとり入れるため「兩窓」を設けることになる。これは「あかりとり」ではなく光量の調節を行う設備であり、これで完全な舞台照明技術ということになる。そして、兩窓を開閉することによって演出効果をあげたのである。しかし、全蓋式劇場では、これだけでは光量が乏しかった。それで、人工光線による照明方法をとり入れたのである。この人工照明の「差し出し」「躄火」というスポットライトの考案は、歌舞伎の照明史上、重要な意味を持つ。すなわち、人工光線による照明技術がスポットライトという型式で現れてきたことは、歌舞伎の俳優中心立者中心といった演劇的特性をさらに强めたとみることができる。さらに、晝․夜を表現する照明の補助手段として、黑幕と淺黃幕、効果音、下座音樂などで表現している。 それで觀客は舞台の明度とは關係なく、あるきまった“時”を思い浮かべるのである。以上のように、劇中の火(灯)はすべて照明としての意味を持っていて、スポットライトとしての役目も持っていたのである。ここで重要な点が、第一に、それらの火(灯)が“つく”“消える”その明暗切り替りの瞬間に、間の面白さ、瞬間的興奮、変り目の面白さ等という歌舞伎の演劇的特性が凝縮されているのである。第二に、火は照明としての効果と、觀客の觀劇心理に强く訴えかけ强烈な印象を殘すことによって、ドラマティックな性格に照明としての働きが重なっているといえる。

9

5,100원

本稿は古代から人々の生活に深く關わって來た牛と人との關連に注目して、日本神話(『古事記』、『日本書紀』)․韓國神話(󰡔三國遺事󰡕)において「牛」はどのように表れているかを調べ、󰡔日本靈異記󰡕․󰡔三國遺事󰡕における仏敎說話の「牛轉生譚」の特徵を究明したものである。第一に、神話における牛に關してである。『日本書紀』『古事記』における天之日矛伝承は從來、上代における日本と朝鮮の交流を集約する說話として注目されてきた。天之日矛が日本に持ってきた神宝は呪具あるいは農器具としての機能をもっていることを念頭に入れると、牛は農神としての意味を持っている可能性が高い。日本神話における牛の登場は農耕を背景とし、白石(赤玉)とも比肩できる(交換できる)神聖な存在として描かれていた。一方、韓國の󰡔三國遺事󰡕の「朱蒙神話」には朱蒙の建國に積極的ではないが、牛は關わっている。 「東明神話」には見受けられなかった、牛の神聖性がここには朧氣ながら投影されていると判斷される。後の資料ではあるが、韓國の「三姓神話」と天之日矛伝承を見比べると、海を渡ってきた外來の存在が牛と深く關わっており、農耕と關わるものを將來して重んじられる点において共通している。 第二に說話における牛に關してである。日韓の牛轉生譚を見比べると話型や思想において色々相違点が見受けられる。たとえば、『靈異記』は牛になる惡因を主に負債とするのに對して、󰡔三國遺事󰡕の方はその原因が不明(蛇福の母)か不護戒(郁面)かであった。また、話型においても『靈異記』の方は『冥報記』の影響を受けて牛轉生譚が說話の內容の主となっているが、󰡔三國遺事󰡕の方は內容の一部としてしか機能しておらず、說話は往生の强調に收斂される感がある。淨土信仰が一般に浸透していない思想的狀況の中、現報を重視し强調しようとする『靈異記』の編者․景戒にとって牛轉生譚は現報を强調する格好の話題であったに違いなく、一方、󰡔三國遺事󰡕の說話の成立の時代が新羅時代であり、この時代こそ韓國の淨土信仰が最全盛期であったことを念頭に入れるべきであろう。

10

5,200원

『靈異記』の仏像靈驗譚は仏像をめぐる靈驗な話で,「感応奇異譚」と「仏像受難救濟譚」と分けられる。仏像は日常の苦難から民衆を救濟し、生をより利する点では大悲菩薩の存在と言える。また、發願が現世求福的で、除苦与樂の傾向が强いし、応報の結果がごく現實的で、具体的で、卽刻的であることも特徵といえる。たが、仏像を尊嚴で、崇高な對象だけではなく、人間のように痛さを口に出し、危機の瞬間に對處する能力を有している對象としても認識しているのは外來宗敎である仏敎の親密度を一層强調するための意図的な作話の可能性も言えなくもない。 ともかく『靈異記』の仏像靈驗譚を通してみた當時の佛敎は佛敎原理の崇尙よりは日常の利益追究がより重要な位置を占めているのがわかる。このような觀念は後代日本佛敎が求福信仰としての役割を一層增加させる結果をもたらすことになる。

11

6,000원

The value of filial piety brings about the tragedy of 「Gojo」's. Akinari wanted to tell us this in 「Sikubinoegao」. Filial piety is great moral. During the Edo era, people valued filial piety above everything. Akinari hoped to find the reason that a man who is dutiful to his parents is apt to be unhappy. Which is the best way to live when a man is in discord with human's morals and instinct? Should a man contain his feeling in order to fulfill human's morals? 「Gojo」gives us some questions about the filial piety for his parents and love for his sweetheart. We can not find this kind of conflicts in 『The story of Masurao』 However, Akinari tell us discord with human's morals and instinct with 「Gojo」 in 「Sikubinoegao」. Psychical expression of 「Gojo」 makes 「Sikubinoegao」 of great value.

12

5,100원

これまでの井伏文學は「悲しみの文學」と「日常の文學」といった二つの樞軸から大きく離れることなく硏究されてきたが、本稿は、そこに「共同体思想」という井伏文學のもう一つの創作テーマを取り上げている。「共同体思想」は、時には友情として、時には相互扶助精神として、さらには村共同体思想として具現され、究極的には運命共同体精神に收斂される井伏文學の作品終結の原理でもある。井伏文學における「共同体思想」は、作家が愛してやまない都市の下層階級や農民たちの實生活において壓倒的な傾向として顯在化されているが、「共同体思想」は、作品別にそれぞれ異なっており、その時代に相応しい「共同体思想」が具現されていて、井伏文學の敏感な時代性や現實を凝視する銳い目の機能を確認できる實踐的なモチーフであることを改めて思い知らされるのである。

13

5,400원

作品「二重の失戀」を中心に、主人公<彼>が失戀の傷跡から脫するために選んだ旅、そして汽車の中で再會した戀人のはつ子をめぐって、現實での自分を凝視する姿を調べてみた。 戀は命と同じであると思う川端であっただけに、戀を失ったというのは命を失ったことにほかならないだろう。この傷は自身を救ってくれる對象の喪失を意味する。そして失戀の傷は主人公< 彼>に伝わって描き出されている。 <彼>における旅は、ただ、苦しみから離れることだけを意味するのではないだろう。 現實から離れること、言い換えれば、非現實へ入り込むことであるだろう。日常生活で、彼を迫ってくる問題を拂って、現實で自身を自由にする手段でありながら、心の傷を減らす手段が、主人公においては旅なのである。二重の失戀とは、過去の失戀に次ぎ、主人公の心に存在した幻影のはつ子が消え失せたことを意味する。どんな旅でも忘れられなかった彼女の存在が消えた瞬間、彼に再び失戀がたずねてきたのである。 汽車の中で出會ったはつ子、彼女を追っていったが、彼女の姿は見えず、影だけが彼を待っていた。󰡒Be quick as anothers may be waiting.󰡓この文章は、はつ子の幻影を心の中で大事にしながらくらしていた彼が彼女の執着から脫して、自身を發見するという点を示唆する。卽ち、現實の自身を認めて新しい自分の姿を受け入れる、救濟の一面を現わす文章として見てもいいだろう。 作品「二重の失戀」での主人公彼とはつ子との結婚は成立しなかった。だから、確かに失戀小說として見ることが可能であると思う。表面的であるにせよ內面的であるにせよ、作品に表れた主人公の失戀の關連性を中心に見る時、「二重の失戀」は<みち子もの>というジャンルの下に、位置づけが可能な作品に編み入れることができるだろう。同時に、川端文學を理解するため 基本的な要素として救濟の可能性が窺える作品である.

14

5,500원

北原白秋の初期詩集である『思ひ出』は自分の故鄕をテーマにして日本人の心に感動を与えた詩集として知られている。この詩集には幼年の記憶と故鄕の風景が印象的な映像になっていて鄕愁を引き起こしている。 特に『思ひ出』の中の故鄕のイメージは当時西洋から入ってきた感覺によるものであった。しかしながら白秋の繊細な感受性による叙情はもっていた。いうなら、西洋の感覺と日本の感性を合わせて獨自の新しい味を出したといえる。これは詩人が自分の故鄕のイメージを母体にして開いたということに重要な意味がある。換言すれば、彼の故鄕だからこそ繊細な感性の感覺を見出せることができた。 また彼の故鄕は誰でもありうる幼いときのことが詩の題材になっているし、故鄕の土俗的なことが題材になって描かれている。でもその故鄕のイメージはあまりにも豊かである。それにその豊かさは反って詩人のこころに潛めいている悲しみを大きく感じさせている。その悲しみは失ったことに對する喪失感ともいえる。すなわちかれの故鄕のイメージは豊かでありながら悲しいものである。しかし、その悲しみを彼は故鄕に賴って克服している。そういう要因として彼のお母さんら(乳母)の存在と水鄕の水が上げられる。白秋にとっての最大の故鄕の意味はここにあると思う。すなわち、究極的に故鄕は彼の現實を乘り越えるための再充電の精神的な安住の空間であったといえる。

15

5,800원

本稿は張赫宙が朝鮮戰爭を題材にして形象化した『嗚呼朝鮮』と『無窮花』の執筆過程についての考察及び文學的分析をつうじて作品の持つ意義と作家の民族意識を追究することをその目的としている。 張赫宙が『嗚呼朝鮮』と『無窮花』を通じて朝鮮戰爭の慘狀を描いた主な目的は韓民族の苦難に對する形象化にあると言える。したがって、作家が力を入れているのは植民地支配から獨立した朝鮮の民衆がその喜びを味わいきらないうちに左右イデオロギーの政治的對立で無慘に虐殺される狀況のリアルな描寫であると言える。 ところで、この二つの作品には左右、または中道派のどちらかに片寄った擁護的發言や描寫は見当たらない。これは作家の心のなかにイデオロギーを越えた民族の存在価値に對する確信があればこそ實現できたことであろう。特に『無窮花』の方は朝鮮戰爭の悲慘さを立体的に描くための時代․空間的背景と登場人物の案配においてきわめて緻密な努力を傾けられたことのうかがえる作品として高く評価できるものと思われる。 ところで、作家は晩年に至るまで自分の生來的劣等意識と親日的行跡から生じた葛藤を盛り込んだ作品を多く殘しているにもかかわらず、『嗚呼朝鮮』と『無窮花』のような民族的作品が書けたというところに張赫宙文學の特徵は認められる。植民地支配下の親日的作品は、民族の苦しい境遇にと立ち向かい戰っていこうとする意志よりも、同族の現實の苦しみを和らげようとして日帝と妥協を試みた姿勢から書かれたものと思われる。しかし、日帝の敗戰により民族的强壓がなくなると、作家の內面に潛んでいた民族意識が『嗚呼朝鮮』及び『無窮花』といった作品に自然と表れ出たものと考えられる。

16

5,500원

本稿では、韓國人學習者のための初級日本語敎材を作成する場合、漢字の使用數についての客觀的な基準を求め、「高校の『日本語Ⅰ』」「大學における第2外國語及び一般人向けの敎材」においての適切な漢字の使用數を提示した。その客觀的な基準は『日本語能力試驗出題基準』による①級別の學習時間、②級別の漢字數。そして、③韓國人學習者[高校生、大學生(社會人)]による韓國語の漢字の讀み․書きの能力を、日本語の漢字の先行學習としてどれぐらい認めるかということを、書きは100%、讀みは50%とし、その合計を2で割ることにより求めた。 一方、高校の『日本語Ⅰ』においては150字の漢字を選定したが、これは先行硏究の『日本語Ⅰ』の6種(309、227、244、283、211、153字)に比べれば少ない。また、「大學における第2 外國語及び社會人向けの敎材」においては242字の漢字を選定したが、先行硏究の大學敎材の9種(659、291、362、397、315、316、274、422、407字)に比べればこれもかなり少ない。初級日本語敎材において、これまでの敎材は漢字を使いすぎることによって、學習に負擔を与えたのはないかと考察する。

17

5,800원

韓國の觀光資源や文化を外國人に話せるような語學敎育を行なうには觀光關連の用語や內容を盛り込んだ敎材開發が必要とされる。そのための基礎作業として現在、韓國で出版されている高等學校の日本語敎科書の分析が必要である。觀光資源や文化に關する用語や內容がどの程度記述されているのかを調査し、その分析結果が今後の敎材開發の方向づけになるからである。 分析結果、文化關連分野の用語數(70)に比べ、觀光關連分野の用語數(164)が遙かに多く、特に出版社によってその數に大きな違いが見られた。 文化關連分野の分析結果の特徵として、「キムチ」や「ピビンバプ」等の食べ物に關する單語が一番、多く、「オンドル」や「ハンボク」等の衣食住に關する單語の使用も目立っていた。觀光關連分野の分析結果では、觀光都市として「チェジュド」と「キョンジュ」が觀光地では「プルグクサ」が多く取り上げられていた。 今後の高等學校の日本語敎科書の課題として、次のようなことが擧げられる。まず、日本語Ⅰや日本語Ⅱのレベルにかかわらず、出版社によって文化․觀光關連分野の用語數や練習問題の有無、あるいは單純な置き換え問題にとどまる傾向が見られたことは、第7次外國語敎育課程で文化の項目を新設し、文化敎育の重要性が强調されても敎科書を作成する側によって全く、あるいはほとんど文化に關する部分が考慮されていないという大きな問題点がある。從って、新しい敎材からは敎育科學技術部側(日本の文部科學省に該当)が文化․觀光關連用語の使用の獎勵、あるいは義務化が今後の大きな課題として擧げられる。 次に、韓國語の固有名詞を日本語で表記する際の檢討と統一の必要性である。ほとんどの出版社が觀光地名を片仮名で表記しているが、出版社の中には片仮名と漢字が一緖に書かれていた敎科書や漢字だけの敎科書があった。このように高等學校で使用される日本語敎科書に出てくる韓國の代表的な文化․觀光關連分野の用語は重複するものがほとんどなのであ

18

5,500원

今回の調査を通じて得られた知見をまとめると、次のようである。 1)前置きの表現は韓國人より日本人のほうにその割合が高い。 2)人に贈り物をするとき、日本人は「謙遜․消極型」が、韓國人はその物の良さを表す言葉を添える「自慢․積極型」が多い。 3)會議などで提案をするとき、日本人は會議の場の流れを汲み取り、人に合わせようとする「他者優先型」が、韓國人は「場合によると思う」のような曖昧な態度を取るよりするかしないかをはっきりさせたがるタイプが多く、さらには「自己優先型」が多い。 4)韓國人は思いやりのあることばを使うかどうかについては日本人より自己意思を明らかにしている。 5)自分が惡いと思っていなくても、日本人のほうが韓國人より、より多く謝る。 6)周囲の人々に聲を掛ける割合は韓國人より日本人が、聲をかけずに無言で行動をする割合は日本人より韓國人のほうに高い。

19

5,200원

本論文の目的は日本語の學習および敎授法についての韓國人日本語學習者と韓國人敎師との信念を比較したものである。敎師が自分の信念にもとづて授業を行っても實際には學習者の學習効果が落ちるのを見かけたりする。このような問題を解決するためには、まず敎師は學習者の信念を確認する必要がある。 これに本論文では學習者と敎師を對象に敎授法と學習法に對する設問調査を實施しその結果を分析した。本論文では設問調査の結果を言語內的要素と言語外的要素とに分け、それぞれの要素をさらに細分化して分析した。つまり筆者は言語內的要素に對する學習者と敎師の信念をさらに日本語の發音、正確性、語彙および文法學習、言語4技能に分けそれぞれの分類にかかわる學習者と敎師の信念を考察した。言語外的要素に對する學習者と敎師の信念はさらに言語習得、學習道具、意思疎通、文化學習に分けそれぞれの分類にかかわる學習者と敎師の信念を考察した。その結果、敎師と學習者の數値が非常に一致する項目と、そうでない項目はそれぞれ17項目と10項目もあった。筆者は本論文が敎師が學習者との信念の違いをもとに今後授業の計畵および授業運用、敎材編纂に役に立つことを確信する。

20

5,200원

本考は1925年から1960年までの韓日兩國の流行歌の上位頻度の語彙分析を通じて当代の人々が歌で表そうとしたものとを可視化して語彙の特性と意味を各時代の差別性を考えて比較考察した。 韓日兩國の流行歌の上位25位語の中で、1945年という築を基準にして共通語彙が前期には14語(泣く․私․夢․あの․見る․心․夜․君․來る․ああ․淚․戀․胸․行く/울다․나․꿈․저(관형사)․보다․마음․밤․너․오다․아아․눈물․사랑․가슴․가다)、後期には15語(來る․いる․行く․ああ․戀․泣く․夢․君․夜․私․淚․この․胸․見る․する/ 오다․있다․가다․아아․사랑․울다․꿈․그대․밤․나․눈물․이(관형사) ․가슴․보다․하다)に及んだ。 これを通じて上位25位語の順位の中で多少の変動があっものの韓日の流行歌の語彙が相当に類似していることが確認できた。 このような結果は日帝强占期を通じて韓國の流行歌が日本の流行歌の影響を受けたか、または韓日兩國が持っている文化的な情緖が元から類似したかを現在では斷言しにくい。勿論、韓國の流行歌が直間接的に日本の流行歌の影響を受けたことは事實である。しかし、流行歌というのが時空を超越して大衆に廣く歌われた人間の普遍的な情緖が投映された語彙の結晶体と考えるほうが妥當であろうと思われる。今後は本考を基にして1960年代以後の流行歌との語彙の比較․考察を通じて社會相、文化相、政治相などの推移による流行歌の語彙の変化を總体的に察してみたい。

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6,400원

し、動詞に限定させ、動詞分類及び動詞活用に關する用語使用の現狀を考察․整理したものである。 韓國において1960年代に出版された多くの日本語敎材は日本の學校文法をそのまま韓國語に對応させたことが大部分だった。それは、当時は日本語敎育を担当した世代が日帝時代の國語敎育(日本語敎育)を受けた世帶で敎材と敎授法がそのまま影響されたからである。 1970年代の日本語敎材は敎科書がほとんどなかった60年代に比べると學習者の增加といっしょに敎科書も增えてきたが、1960年代と同じく國內の旣存日本語敎材の範囲を脫することができなかった。しかし、日本で外國人のための日本語敎育は從來の日本學校文法とは違うものでなければならないという見解と共に從來の形式を脫した敎科書が作られるようになり、韓國でも一部の敎師によって導入されたた。1980年代に入ってからは東アジアに廣がった日流とと共に日本語學習者層はもっと多樣化され、日本語敎材も急激に增えた。ここに日本では、外國人のための日本語敎育硏究がより活發に進行され、外國人には必要以上に難しい日本學校文法の動詞分類方法や動詞活用に關する樣々な硏究が行われた。日本學者たちの多角的な解釋による多樣な文法用語の出現はすぐ韓國に影響を与え、敎材に無分別に取り入れるようになった。その後、90年代と2000年代にもこのような現象は續いており、韓國の日本語敎育現場で使われている日本語敎材は韓國人日本語學習者に學習項目の理解だけでなく文法用語の 混亂さえもたらしている。 本硏究は今回の硏究を通じ、敎師自らも一貫された文法指導ができ、また學習者たちも文法を体系的に學習するように、學會次元で韓國人に合う文法用語の合意が一日も早く導出されることを期待する。

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5,400원

 
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