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7,500원
本稿は、陶磁をめぐる韓半島と日本との技術交流文化交流に關する試論である。このテマは、いくつもの大きなトピックスを孕んでいるが、今回は、壬辰倭亂期前後80年から100年ほどにわたる唐津燒の遷 をとりあげた。 中世までの東アジアは、廣い意味で中國を中心とする中華世界システム內部で機能する朝貢交易の組みの內にあったが、公の交易のかげには、常に私貿易の集が存在した。とくに14世紀から16世紀にかけて猛威をふるった倭寇は、中世東アジアの略奪的な私貿易集の代表格である。草創期の唐津燒を主導した波多氏は、自らを「海賊大將」と呼ぶ、倭寇の棟梁でもあった。草創期の唐津は、海賊大將の時代を反映しているといえるだろう。波多氏は、北九州という地の利を生かし、中世的な海のネットワクを利用して自領に朝鮮王朝の技術を呼び寄せ、時最先端であった割竹式登り窯を築いて窯業をはじめた。そこには、おそらく中國沿海の陶工たちの技術も生かされたに違いない。 壬辰倭亂以降、唐津古窯の陶工たちは、思わぬ運命に弄される。彼等には、秀吉の朝鮮侵略を契機に渡來した「新しい朝鮮陶工集」との技術協力と、近世消費社會にむけての大規模な生産擴大が待っていた。彼らは、最盛期を迎えた京都大阪堺の燒物市場に「高級ブランド」の茶陶と使いやすい日常雜器を提供する。この時代の唐津窯祉は、一說に200個所とも300個所とも言われている。 この爆發的な生産の擴大は、それまで日本では知られなかった「白磁」という新しい技術開發につながっていった。1610年代の白磁の誕生が、いかなる朝鮮陶工集によってわれたかは、謎である。しかし複數の出自と技術をもつ、複數の集が關したことは、間違いない。安土桃山から江戶へという、時代の流れに押し流されながらも、「鎖國」以前の東アジアの海は、依然として流動的であり、壬辰倭亂によって、途絶えたはずの北九州と朝鮮王朝との交流も、水面下では活發に動いていたのであり、ヒトもモノも行き來していたからである。 そして家光による鎖國とほぼ時期を同じくする1637年に至ると、再び狀況は急展開する。有田伊万里地區の窯場は、白磁中心に整理統合され、窯業は藩の濟と結びつき、嚴しい統制のうちにおかれた。だ が、したたかな伊万里は、この時期にも中國を手本として、色繪という「さらに新しい技術」の開發に成功する。鎖國を分岐点として、伊万里は、朝鮮王朝の技術と袂をわかち、古九谷、右衛門、鍋島をはじめとする獨自の道を步みはじめた。技術は完全に國産化し、獨自路線を確立する。 そして、國內市場の成熟によって技術革新をとげた伊万里は、折からの中國市場の混亂を受けて、オランダ東インド會社からの要請を引き受け、以後100年間に渡って世界各地に輸出されてゆく。 朝鮮陶工の渡來によって生まれた陶磁の技術は、唐津燒から伊万里燒に身し、「鎖國」を契機に國産化され、國際化されて、世界市場に乘り出して行ったのである。
전후 일본인들의 가치관 변화에 관한 고찰 - 일본인의 국민성연구결과를 중심으로 -
단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) 일본학연구 제15집 2004.10 pp.37-66
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7,000원
According to Japanese national character study by the Institute of Statistical Mathematics, Japanese national traits and belief systems have changed since the 1950s. Their changes due to the influences of rapid economic growth, urbanization, and enhancement of education level. And They was partly inverted during in the 1970s or 1990s. For examples, Japanese traditional usual practices have been weakened such as following precedents without reserve, adopting a child, worshiping ancestors, discrimination between male and female, and inclination of valuing national interests above one's. The other way, lifestyle of enjoying leisure and hobby better than making money, tendency of preferring conservation of nature to exploitation, and inclination of taking a serious view of family have been strengthened. Meanwhile there are some national characters in which have been hardly changed. Harmonious interpersonal relations taking precedence of personal capacity in a social organization, setting a high value on filial duty and labor, thoughtful consideration for others or the whole, and patriotic sentiments are hardly changed until recently.
단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) 일본학연구 제15집 2004.10 pp.67-92
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6,400원
「やりもらい」の補助動詞はそのもとになる動詞の動作がだれのために行われるかを現わすもので、話す相手や、話の中の人物․事件を、自分側のものか、そうでないかによって言葉を使い分けなければならないので、外國人學習者には間違いやすい表現の一つである。その中でも「~てもらう」の構文は恩惠を受ける人を主語として、恩惠を與える人を對象語としているので日本語を學習する外國人學習者には習得しにくい構文である。そこで本稿では英語をつかう學習者を對象に「~てもらう」の構文をとりあげ、「~てもらう」の構文の機能と形式を習得するとき、母語である英語からはどんな影響を受けているのか、また日本語と英語では、文の組み立てかたや主語の立てかたなどにどんな違いがあるのか を考えてみた。 その結果、全體の正答率は英語話者が72.2%でもっとも高く、その次が韓國語話者(66.2%)、中國語話者63.1%の順である。「和語+てもらう」の正答率は「漢語+してもらう」より高く、「漢語+してもらう」の表現はレベルが上がっても正答率があまりのびないが、「和語+てもらう」の表現はレベルがあがるにつれ、正答率が高くなり、「漢語+してもらう」の構文より「和語+てもらう」の構文の習得が進むと言える。これは韓國語話者、英語話者、中國語話者に共通する結果である。 例文ごと見ると英語話者と中國語話者は正答率が高い例文と低い例文が同じ傾向を見せているが、韓國語話者の場合、多少違う傾向を見せている。「~てもらう」の英語の譯には話者の立場や恩惠まで表す譯はあまり見當たらなく、事實を話者とは關係のないこととして譯しているものや主語を反對にとらえ、逆に解釋したものが多い。他に「receive」「get」「favor」などの表現や受身の表現が使われている。英語話者と中國語話者のそれぞれの特性を全體的にながめると中國語話者より英語話者の表現がもっと豊富であることがわかる。
단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) 일본학연구 제15집 2004.10 pp.93-115
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6,000원
本稿は日本中世キリシタン文獻にあらわれる「しあはせ」を對象としてその語義變化について考察したものである。 鎌倉ㆍ室町時代の語彙を考察するにあたって、その時代の言語を知る上で特別に重要な文獻はキリシタン關係の資料である。キリシタン資料は十六世紀後半から十七世紀前半にかけて來日したカトリック宣敎師たちが、キリスト敎の布敎のため作成したもので、そのなかには日本語をローマ字で記した文獻がある。その中には天草版『イソポ物語』『平家物語』『金句集』等をはじめとして、當時のキリシタン文學の代表的である『ぎやどぺかどる』『こんてむつすむん地』等の宗敎書がある。これらの資料は『狂言』『捷解新語』などの文獻とともに當時の日本語を知る爲の貴重な資料である。本稿ではキリシタン語彙の中で、キリシタンの敎えにとって重要である「しあはせ」を對象として、その意味と特質、語義變化を歷史的に考察した。多樣な語彙變化の中で、現代と違う意味で使われている語彙、「しあはせ」について考察した。又、人間の感情をあらわす「しあはせ」の意味の變遷にはその類義語である「さいはい」と「幸福」との關係もあって、その系譜についても考察した。 意味用法、そして語彙の變化をまとめてみると、「しあはせ」は室町時代頃から用いられるようになり、「さいはい」によってかわるようになる。 意味面においては「しあはせ」は「運、なりゆき」といった元の意味から、現在のような「幸運、幸福」といった意味にかわってきた。それには「さいはい」の意味が大きく關係していて、元來には<めぐりあはせ>といった中立的な意から江戶中期頃から意味の變化が進み、<よいめぐりあはせ><幸運、幸福>へと意味が變化し、プラスとかマイナスの評價的の意味に變化する語義變化の一例である。以上、その意味變化についてまとめてみると、「しあはせ」の場合は元、中立的意味の語が評價の語義への變化する例であると思われる。 本稿ではキリシタン資料の中で特殊な意味用法に使われた用語についてその語義變化を大系的に考察して明らかにした。敎育の場においては語義變化を大系的にまとめて語彙史の硏究と日本語の敎育に利用すれば效果をあげると思われる。しかし、まだ體係的硏究には殘された課題が多くて今後も引き續き硏究して行く考えである。
7,000원
朝鮮時代以前の外國語學習機關としては、從來述べられている如く、『三國史記』の「史台 掌習諸譯語」ㆍ「又置史台 掌習諸譯語」という記錄によって史台が知られている。その後、高麗忠烈王二年(1276)に通文館が設置されたが、朝鮮時代になると、司譯院が設けられて、甲午の革新(1894)まで存續する。司譯院は、隣接諸國の言語を學習し、交通の實務に役立たせる機關であった。朝鮮時代初期までは、漢語の習得を主な目的としたのであるが、蒙學ㆍ倭學ㆍ女眞學をも順次加えて、「四學」體制に發展していった。 本稿では、司譯院の倭學書、つまり司譯院で日本語敎育のために用いられた日本語學習書の編纂經緯及び書誌事項について考察を行うとともに、これらの資料による日本語硏究の現狀についても考察を試みた。この種の資料を用いて日本語の歷史を考える際に、注意すべきことは、同種の先行資料からの影響(司譯院傳來の轉寫原則の傳承)、學習書としての規範性、方言的要素、韓國語の事情などの特殊な要因による、日本語轉寫への干涉の問題である。このような要因によって、ある場合には、日本語の現實の一面が隱蔽されたり、遲れて記されたり(或は、別の形で現れたり)したのである。從來の解釋上の誤謬といえば、殆どこの方面への注意及び認識の不足によるものと言っても過言ではあるまい。從っ て、各資料のハングル音注の表す日本語の的確な理解のためには、この類の要因によって誘發される矛盾にも格別な注意を拂わなければならない。これらの要因が、各資料の日本語轉寫にそれぞれどれほどの影響を及ぼしていたか、その範緯に一線を畵すことはきわめて難しいが、この問題を克服するためには、ハングル音注の精密な分析とともに、同時代の他種の資料(仮名資料ㆍキリシタン資料ㆍ中國資料)との對照的考察、各資料の編纂時代を追う韓國語の事情についての徹底した考察などが總合的になされなければならないであろう。
단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) 일본학연구 제15집 2004.10 pp.147-167
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本稿は、形式名詞「ワケ」の意味轉成に關して考察を試みた。 形式名詞「ワケ(分けㆍ譯)」は、動詞の「分く」の連用形の「ワキ」が表す「區別ㆍ分別ㆍ違い」の意味から轉じて「物事の道理ㆍ道筋ㆍ原因ㆍ理由」の意味に廣がり、「当然ㆍ可能性の判斷ㆍ不可能ㆍ義務」などの意味になったものと考えられる。 本稿は、古語辭典に見える「ワケ(分けㆍ別け)」の意味を整理して、中世の口語資料である「狂言」「キリシタン資料」「朝鮮資料」「抄物」などを中心として、その用例を分析した。 まず、『岩波古語辭典』に示された語義を發生順に整理してみると大きく二つに分けられる。 一つは、「區別ㆍ違い」「分別」「道筋ㆍ道理」「事情ㆍ由來」と「食べ殘し」の意味で用いられるもので、これらは中世の文獻にその用例が見えることから、これらを中世の用法として分類した。 二つは、「男女の事情」「勘定」の意味で用いられるもので、これらの用法は近世の文獻で「ワケ惡しㆍワケが立つㆍワケが付くㆍワケが出來るㆍワケを通す」などの例が見えることから、これらを近世の用法として分類する。 本稿では、中世の文獻を中心として「ワケ」の用法と意味を考察した。 その結果、中世の口語資料に見える「ワケ」の用例の中で「食べ殘し」を意味する「ワケ」は例は「抄物」以外の他の文獻にはその例が見あたらなかった。 これに對して、「區別ㆍ違い」「分別」などを意味する用例は「狂言」や「キリシタン文獻」にその例が見えたが、天草本『イソポ物語』に1例、『平家物語』に2例しか見当たらず、虎明本狂言にも「鬼類小名類」1例、「出家座頭類」2例が僅かに見えるだけである。また、大藏虎明本狂言の3例も「ワケ+動詞+否定」の形で用いられていた。 これらの結果に基づいて「朝鮮資料」である『捷解新語』(原刊本ㆍ第一改修本ㆍ重刊改修本)の三本を比較して「ワケ」の例を調べてみると、原刊本では「ワケ」の例が1例しか見当たらないが、第一次改修本で8例、重刊改修本で4例が用いられていた。これらを第一次改修本を中心として整理してみると「タウリ(道理ㆍ通り)」と對するのが2例、「ヤスス(樣子)」「シヤベツ(差別)」「シサイ(子細)」と對するのが1例見えた。 このような用法の変化は江戶時代に入って「ワケ」の意味が擴大したためと考えられる。 結局、「ワケ」は「ため殘したあまり」の意味から「區別ㆍ分別ㆍ違い」の意味を経て「物事の道理ㆍ道筋ㆍ原因ㆍ理由」の意味に廣がったと考えられる。
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「大御葬歌」四首は、「大御葬歌」という歌謠名からも分かるように、唯の葬歌ではなく天皇の葬歌で、最初から宮廷儀亂としての喪葬でうたわれた歌謠であることを意識させる称でる。『古事記』の所傳は、ヤマトタケルの死によってはじめて「大御葬歌」がうたわれるようになったという。しかし、四首の「大御葬歌」が天皇の「大御葬」においてうたわれていたことは、このヤマトタケルの場合以外にはなく、しかも葬歌の習俗を記紀以外に求めることは極めて困難であるとのことで、喪葬に葬歌が歌われた傳統は否定されている。從來、この四首の歌謠についての實體推定が、樣々な角度からなされてきている。これらの歌が、死者に對する表現としていかなる意味をもっているかという点は、およそ万葉挽歌の前史としての記紀歌謠のあり方にまで關わってくる問題であろう。「大御葬歌」のうたわれた場として殯宮儀礼を想定している論者の多くは、結局、初期万葉の挽歌の場、卽ち万葉挽歌の嚆矢としてヤマトタケル物語の「大御葬歌」を考え、殯宮儀礼の場において挽歌が歌われた伝統が、そのまま『万葉集』卷二の挽歌群に引き継がれ、柿本人麻呂の「殯宮挽歌」に至って頂点に達したという、文學史的系統づけの最初に「大御葬歌」を据えようとする試みである。しかし、歌謠としての葬歌や抒情詩としての挽歌とは、究極的に、その發生の場を異にすることからくる生態的な違いや、それに伴う發想の方法を異にしている。一方の發展が他方に結實するというような、言い換えれば、初期万葉における挽歌の形成が、儀礼の場を媒介として發生してきたものと考える、葬歌から挽歌へという垂直的な文學史的つながりが、果たして正当性を確保できるかという問題を、ここで問い質してみたい。つまりそれは、挽歌史の系譜に關する問題でもある。
『金鰲新話』と『雨月物語』における「異境譚」の考察 -『剪燈新話』の影響をめぐって-
단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) 일본학연구 제15집 2004.10 pp.201-218
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5,200원
中國明代の瞿佑著の傳奇小說『剪燈新話』は、韓國ㆍ日本に渡來し、それぞれ時代の分岐点となる重要な書物に取り入れられていった。本稿は、その書物の中から『金鰲新話』と『雨月物語』を取り上げて、『剪燈新話』が韓國と日本でどのように用いられ、變容されているかを、「異境譚」をもって考証してみた。 『金鰲新話』「南炎浮洲志」が『剪燈新話』から取り入れたものは、主人公の朴生が地獄へ行き、閻魔王と對面し、地獄を見物し、この世に歸ってきたらそれはすべて夢の中のことであった、という物語の全體構想である。『雨月物語』「白峯」では、西行が崇德院の御陵に參詣した深夜の情景描寫に『剪燈新話』「永州野廟記」が取り入れられている。暗鬱な季節感ㆍ雨ㆍ濕氣ㆍ視界の途絶という空間條件をもってきて、靈的な時間の進行とともに幽怪の出現に近づいて行く。この後、「白峯」では崇德院の亡靈があらわれ、激しく痛ましい怪異が展開される。 次に、內容を比較してみると、『金鰲新話』「南炎浮洲志」と『雨月物語』「白峯」は、ともに歷史上の事件である「癸酉靖難」ㆍ「保元の亂」という王位簒奪事件を起こした世祖と崇德院の行動が、「王道」ではなく、「人慾」「わたくし」によったことを批判している。 以上の考察を通して言えることをまとめると、『金鰲新話』は『剪燈新話』から地獄訪問という奇談的枠組みのみならず、小說の姿勢として現實批判を物語中に折り込み、社會に論理的に切り込むという方法そのものを取り入れていると言えるかと思う。これに對し、『雨月物語』は、崇德院の亡靈が出現する舞台と情景の怪異描寫に、部分的に『剪燈新話』を典據として取り入れ、怪異小說としての完成度を高めてはいるが、その姿勢は「王道」對「わたくし」という、いわば個人的な情念の恐ろしさを描いたと言えるであろう。そして、『金鰲新話』と『雨月物語』に見られるこの姿勢は、韓日兩國の小說の槪念の差異を端的にあらわすものと思われる。
6,300원
學會彙報(1995.12.15 ~ 2004.10.15) 외
단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) 일본학연구 제15집 2004.10 pp.220-244
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