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일본학연구 [The Journal of Japanese Studies]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    단국대학교 동아시아인문융복합연구소(구 단국대학교 일본연구소) [Institute for Convergent Humanities in East Asia (ICHEA)]
  • pISSN
    1598-737X
  • eISSN
    2465-8448
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1997 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 492
제22집 (23건)
No

【심포지엄 특집논문】

1

5,100원

18世紀末には、江戶は政治面のみならず、文化面・経濟面でも京・大坂をしのいで、唯一の巨大都市となった。その時期に至る江戶の實像を知るには、無垢な目で江戶に接した歐州人や朝鮮通信使の紀行を讀むのが簡便であるが、他方、小說をはじめとする近世文學に描かれた江戶は、作者の主觀をまじえたイメージとしての「江戶」像ではあるが、實像以上に「江戶」らしさを强調して描いているという意味で重要である。近世文學に描かれたそれらの「江戶」像は一樣ではない。江戶以外の作家が描く「江戶」と、江戶に住む作家が描く「江戶」は自ずから異なるし、また時代による変遷もある。  上方の17世紀末の作家西鶴が「日本永代藏」「万の文反古」などで描く「江戶」は、知惠・才覺によって立身出世のチャンスがある新興の都市であるが、一方、元祿前後にはすでに元手を持たない者は金をもうけにくくなっているという認識も示される。また「世間胸算用󰡕では、江戶の人間は、細かなことにこだわらず氣が大きい「大名風」の氣質だとする。18世紀後半の上田秋成の「諸道聽耳世間狙」「世間妾形氣」「書初機嫌海」「胆大小心錄」などになると、資本のない人間の江戶での成功は困難であることが强調され、また大氣で義俠心の厚かった江戶の男も、上方者と変わらなくなったという。そこには、江戶が優位となった時代における、上方の屈折した感情もうかがわれる。  一方、上方ではなく江戶で書かれた文學作品については、1770年代に「江戶っ子」と いうことばが登場し、山東京伝の「總籬」にあるように、將軍の膝元であり、「いき」や「はり」を大事にし、金離れがよいという自己肯定的な「江戶っ子」像が描かれる。また、平賀源內の「根南志具佐」「里のをだまき評」等々にも繰り返し江戶自慢が見え、また江戶ことばが寫される。源內のような江戶生まれではない人間も、「江戶っ子」であることを自慢できるところに、江戶という都市の特性と美質があるのである。

2

5,700원

台湾新文學は、日本留學経驗の持つ知識人が增加した1920年代から創成された。多くの作家は当時の「國語」=「日本語」を創作の手段とした。このような植民宗主國の言語による創作活動は、日本語世代の作家たちに、上の世代や留學経驗のない作家とは異なる芸術性をもたらし、台湾新文學の性格を決定付けた。だが、彼らが植民宗主國に對して抱いた感情は複雜なものであった。例えば、彼らが描き、語った「東京」には、戰前の台湾知識人の葛藤が現れている。本稿では、東京体驗を持つ台湾人作家の 「東京語り」を檢討することにより、戰前の台湾知識人が直面した「民族」と「近代」の葛藤を明らかにした。1920年代の作品「可怕的沈黙」に現された東京は、事件や物語を産出する要素としての小說背景という機能を持たない空白の場にすぎない。1930年代に入ると、東京を語ることは豊かな意味を持つようになる。例えば「彼女は何處へ」及び「落蕾」に描かれた「東京」は、具体的な都市像が与えられていないが、主人公が置かれた「現在」の閉鎖性や後進性を照らし出すと同時に、輝かしい將來が待つ理想鄕的なイ メージを与えられた記号として提示されていることが見て取れる。そしてむしろこの「東京」には具体的なイメージが欠如しているからこそ、讀者は作品の背後に見え隱れする「東京」に對する想像力を逞しくし、憧憬を募らせることができたとも言えよう。一方「首と体」と「父の要求」における「東京語り」は、文字化された輝かしい記憶という記号であり、それによって作者と讀者は東京体驗や心情を共有する暗黙の共同体を形成したと言える。そして1938年台湾戰前のベストセラー『可愛的仇人』の翻譯作業にお ける舞台・東京に對する加筆ないし改編は、作家の自己存在の確認の手段であり、「東京語り」は自らの東京体驗を內在化する過程にもなりえる。「東京語り」は1920~30 年代の台湾人作家にとって、台湾島內の被植民体驗を語るほどに苦痛ではなく、むしろ彼らにとっては望ましいことであったと思われる。東京描寫が具体的であれば具体的であるほど、「東京」の持つ近代性が、作者から作品の隅々まで浸透する効果があった。つまり、彼らが語ったのは植民宗主國の首都である「帝都」東京ではなく、「モダ ン都市」東京であったと言えよう。

3

5,100원

80年代から江戶․東京學に對する關心が日本の學界で高まっている。「東京」においても多樣な硏究方法によって、江戶時代以來、或は明治以後の東京人が蓄積してきた生活をはじめ、その舞台になった都市空間を再評価しようとする動きが活發に展開されている。その背景には、東京の魅力喪失や伝統への溫存意識、そして人間に住みよい環境造成という問題意識が內在されているようである。硏究史的にみても生活史や都市地理、都市計畵學の觀点からの分析が目立っている。  江戶․東京學におけるこのような動向を念頭におきながら本稿では、文明開化期の思想的流れとこれを先導する明治國家の近代化政策が、大変革期に處された庶民達の心情的世界に及ぼした影響とその結果を分析した。具体的には、近代日本の文明開化を象徵した都市「東京」を中心に、分明開化の發展樣相とその中で生活者としての新しい生き方を營む庶民の心情的世界、そしてそれに反映して現れる東京「表象」の歷史的意味などを檢討した。

4

5,800원

本硏究の目的は文明開化期以降の轉換期明治期の東京表象を通じて、日本人の「心象地理」あるいはアイデンティティー問題を究明することにある。特に、西洋の模倣に奮鬪していた時流、すなわち歐化万能時代に對する炎症と副作用が表面化され始めた轉換期明治期に注目し、東京が實質的な都市(首都)として定着して行きながら以前に比べ近代都市としての多樣な機能を遂行するようになり、これによって東京を取り囲んだ日本人の心象やアイデンティティーも 「日本/ 西歐」、「‘江戶/ 東京」、「文明/ 伝統」などのような二項對立の槪念が交差して拮抗する中に構築され, 形成されて行ったことを論議した。具体的な內容としては維新後約二十余年の間の文明開化期を経ながら、急激な都市化による多くの副作用について惱み始めたが、こうした点を文明化あるいは近代化を相對化する複眼的視野の定立という側面から把握した。同樣に江戶の相對化を可能にする視野も文明開化期を経て轉換期明治期に形成されて行ったことを論議した。また、明治政府が野心をもって推進して來た近代國家あるいは國民國家プロジェクトに積極的に參加する「國民」と、「散策者」としてその周辺に位置する、異なった「國民」の姿を通じて、夏目漱石ら同時代の作家が共有した帝國主義に對する批判的視線の不在、あるいは欠如の部分を指摘した。

【日本語學】

5

6,000원

This paper aims to research into grammar terminologies in the field of Japanese education by investigating teaching materials of reference books for the study of Japanese which were used between 1890s and 1918. This period is the time when Japanese learning began among the common Korean people, and so this period is very important in the field of Japanese education. At that time, reference books for the study of Japanese were the core learning materials for Japanese education. Therefore, to describe Japanese grammar education of the period, it is necessary to research into the reference books for the study of Japanese of the time. It is necessary for the research of Japanese education development, and important for the ongoing development of Japanese education to make a study of early Japanese grammar education in Korea. This paper investigates grammar terminologies used in Japanese reference books for native Korean speakers. This papers also compares and examines these terminologies, and then analyzes and clarifies their differences and problems. These works of this paper will contribute to Japanese education in Korea and the contrastive studies between Korean and Japanese. Most Japanese reference books of the time gave priority on conversation, but there were some Japanese reference books which were compiled focusing on grammar. The titles of such books include 'word dictionary', 'sentence dictionary', and 'grammar'. It is thought that these books were named after the famous books which were widely used in Japan at that time. This paper's investigation of grammar terminologies is divided into two fields, namely 'parts of speech' and 'syntax'.

6

5,400원

本稿は「調子」を表す形容詞述語文について文型論の觀点から文の構造と語の意味との關係を分析考察したものである。 硏究の目的は「調子」を表す形容詞述語と文型の把握、各文型と名詞句や形容詞述語の意味特徵․助詞の役割などとの關係の分析、「調子」の形容詞述語文の主要文型と用法及び文構造の特徵の把握、などである。 分析の結果「調子」を表す形容詞述語文の主要な文型と用法として「N1は․が+形」文型は本義と轉義の「調子」判斷の基本文型、「N2は(が)+N1が+形」文型は轉義の「調子」判斷の基本文型と1項目表現の分化や背景の追加、「N2で+N1は․が+形」文型は「調子」判斷の手段や方法及び原因や理由、「N2に+N1は․が+形」文型は「調子」の判斷を受ける主体などがあることが分かった。また、「調子」を表す形容詞述語文のその他の主な特徵としては本義と轉義の用法の特徵が比較的に明らかなこと、本義「危ない」の狀況や雰囲氣に對する判斷の包括的用法、轉義「明るい、暗い」の人間と組織に對する判斷の項目數の特徵、轉義「明るい、暗い」の人間に對する判斷と「視覺」や「身上」の意味の判斷との接点、「N2で+N1は․ が+形」文型と「N2に+N1は․が+形」文型の項目の順序の交替の自由度、などがあることが分かった。

7

5,800원

『大辭林第二版』・『デイリー新語辭典+α』と『廣辭苑』第一版~第五版での家族に關わる見出し語を中心に日本における<親子>に對する基本認識及び意識変化を分析した結果、次のような內容がまとめられた。 一、基本的な家族構成員は「夫婦」「親子」「兄弟」、<血緣關係>における法定血族などの血族範囲の変化、<血族關係>から<姻族>をも含む<親族關係>への家族成立條件の変化など、語釋からは<血緣關係>は家族成立條件の一つであり、<血緣關係> だけで家族が成立するのではないという家族の成立條件と家族構成員に關するものがまとめられる。 一、「親子」の語釋と子見出しでは親子關係の成立や仮想の親子關係など、<親子關係の認定>に關する說明が主であり、家族構成員としての親子は示されていない。家族構成員として親子は「家族」の語釋にて示される。「親子」及び「家族」の語釋における人間の親子關係には、<血緣關係>という從來の成立條件がそのまま提示されており、いわゆる<生殖醫療>の發達から現われた非配偶者間の体外受精や代理母などこれまでになかったタイプの出産の類型は反映されていない。 一、「親」は親子關係、根源、大きいもの、中心(的な役割)、發起人、祖先などの意味特徵を持つ。人間の親子關係の場合、「親」は「實父母・養父母の總称」であり、「親子」とは異なり、<非血緣關係>が含まれている。「親+@」では親・子・祖先・親子・仮想の親など多樣な主体による親子關係が見られ、その內<子>が主体になる場合は<子が@している(していない)樣><子が@する)しない)こと>という意味を表わす。 「@+親」は<仮想の親>を表わすものが大部分を占めているが、これは「親代わり」「親子成り といういわゆる 擬制親族 を命名 成人式 結婚式など人間の成長とともに行われる<行事>、出産・授乳などの<出生>、<養育>などに關わる仮想の親を具体的に提示するものである。 一、「子」は親子關係、年少、派生・從屬、若さ、愛称、女性などの意味特徵を持ち、接尾語としても用いられる。「子+@」では親・子・祖先・親子・仮想の親・仮想の子など多樣な主体による親子關係が見られ、その內<親>が主体になる場合は<姙娠․出産><育兒><子との關係><子の有無>などの意味を表わす。「@+子」は<人>と意味が擴大し<@している人><@狀態の人><@に当たる人>などの意味を表わす見出 し語が多く、その主体が女性の場合は<若さ>、子供や小さなものの場合は<愛称>の意味を帶びることもある。

8

6,900원

․音聲象徵語の槪念は 音聲象徵素によって語感分化形を持つ語彙である。 ․韓國語と日本語の音聲象徵語の場合 西洋語と違って 有契性が認められる。 ․1900年以來今日まで100年あまり論議されてきてもまだ名称が統一されていない。 ․音聲象徵語は一般副詞と違って名詞、形容詞、動詞に轉成できるが、他の品詞から 音聲象徵語へは轉成できない。 ․音聲象徵語は副詞でありながら必ず ‘と’, ‘に‘を伴ってはじめて副詞になれるものもある。 ․音聲象徵語は一般副詞と違って特別な對象や述語と强い共起制約を持っている。 ․音聲象徵語のこのような 共起制約は强いほど動詞は省略し安い。 ․音聲象徵語は時代を反映する鏡で、語彙は生成、成長、消滅している。 ․音聲象徵語の多樣な特性は判別基準を定めるに難儀なことになっていてまだ明確な基準がない。 ․本稿では次のようなことを判別基準にあげることにする。 1. 音聲象徵素によって音韻形態特徵をもっている固有語 2. 名詞、形容詞、動詞に轉成できるが、他の品詞から音聲象徵語へは轉成できない副詞 3. 文脈から 音聲象徵語と見做されているし、共起制約を持っている語

9

5,800원

本稿では、程度副詞の中、比較に關わる「いちばん、いっそう、さらに、ずっと、もっと、もっとも、よほど」の副詞を對象とし、構文的特徵と意味機能について考察した。  共起關係において、比較程度副詞は名詞や形容詞(形容動詞)、動詞との共起が自由である。比較程度副詞は質的․量的程度の比較の兩方が可能であるため、共起關係においても純粹程度副詞と量程度副詞の特徵をともに持っていることがわかる。  構文の階層において、質的程度の比較は判斷․提出․表出段階にわたる均一な分布を見せており、量的程度の比較は判斷段階を中心に現れる傾向を見せる。これによって比較程度副詞はことがら的側面とともに陳述的側面を持つ二面的副詞であることがわかる。  モダリティとの關係においては、働きかけや表出などとは共起しにくく、<述べ立て>との共起が一般的である。ただ、「もっと」は働きかけなどのモダリティとの共起が普通に行われており、その原因は「もっと」の陳述的性格のためであると考えられる。  意味機能においては、主に狀態性の語と共起して狀態や感情などを下位意味として表わす質的程度と、動作性の語と共起し、動作の時間的․空間的側面を限定する量的程度の機能をもつことがわかる。

10

5,800원

本稿は、第二言語習得(SLA)硏究が日本語敎育にどのように応用できるかという可能性を探り、言語習得の觀点から日本語敎育現場の在り方を見つめ直す糸口を提供しようとしたものである。  まず、日本語敎育に携わる者にとって、言語敎育の原点とも言うべき言語習得への關心と知識は欠かせないものであるとし、言語習得のメカニズムの解明を追究するSLA硏究について槪觀した。そして、SLA硏究の領域についてまとめ、日本語の習得硏究を紹介した。さらに、SLA硏究の成果を日本語敎育に生かせるための提言-SLA 硏究と敎室活動との關係・SLA硏究から得られた、個々の敎師が自分の授業を見直す時の手がかり・SLA硏究がシラバス・デザインに与える示唆-を示し、応用可能性を伺うことができた。  そこから、SLA硏究の成果を日本語敎育の現場で實踐ㆍ檢証して、その結果を再び硏究に戻し、そして新たに得られた硏究成果を敎育現場に適用・再檢証するようなサイクルが構築されることによって、双方の强固な連帶關係に基づいた上昇効果が來たされ、言語習得のメカニズムの解明につながることで、ついには學習者の習得をより促進させる道が切り開かれるものと展望した。

【日本文學】

11

5,400원

本稿で取り上げる『道成寺緣起繪卷』は、寺院や高僧の驗德を語る「緣起」には違いないが、その扱い方はどちらかというと、說話のおもしろさに重点がそそがれ、繪畵もそれを反映して全体が流れるような構成となっている。  また、煩雜とも言えるほどの畵中詞が多い。こうした畵中詞は、繪を指し示しつつ讀み上げたなら、そのまま繪解きとなり得る表現をとっており、もちろん黙讀しただけでも臨場感あふれるものとなるが、實際に繪解きの演者によって語られたなら、その効果は絶大であったに違いない。現に先述の繪解き台本では、いずれもこれらの畵中詞が十分に活用されている。  そこで、本論では『道成寺緣起繪卷』の繪解きについても論じてみたのである。  道成寺說話の成立と展開について、それと『華嚴緣起』との關わりについても調べてみたのである。  特に、『道成寺緣起繪卷』と『華嚴緣起繪卷』とに見られる說話を、基本モチーフ每に各場面を分けて、槪略的に比較對照してみた。これらの作業を通して、二つの繪卷の內容は、極めて似ており、構造の類似性も甚だしいことが判明したと言えようか。つまり、龍蛇の形像は異なるものの、『道成寺緣起繪卷』を構想するにあたって、先行する『華嚴緣起繪卷』の影響を少なからず認めざるを得ないのである。二つの繪卷のさらに詳しい比較對照及び影響關係については、あらためて別の機會に考えてみたいし、本稿で触れえなかった『華嚴緣起』と『道成寺緣起繪卷』との問題点については、今後改めて檢討してみたいと考えている。

12

5,700원

本論文は氣質物の創始者とも呼ぶべき江島其磧の『浮世親仁形氣』の主題を再考することを目的とする。主題と關連する人物に關する先行硏究は『親仁形氣』の親仁たる人物の現實感有無に關して意見の分かれるところであり、ここに着眼して現實感の性格と意義を追求してみたい。これにより、作品の主題に近づけると考えるからである。  まず、『親仁形氣』の人物は大きく二つに別れる。一つ、過去執着の類型人物である。これに当るのは、一卷一・二章から二卷三章まで、四卷三章、五卷一・二章、五卷三章の八名の親仁である。彼らは若い時分の性格や趣味、もしくは過去の社會的背景の傾向を捨てきれず、老後にもその傾向を維持し續けるのである。二つ、欲望露出の類型人物である。これに当るのは、二卷二章、三卷一章、三卷二章、三卷三章、四卷一章、四卷二章、四卷三章の七名の親仁である。彼らは老後に経濟・社會的安定を得て、押さえ付けていた子への愛着、長壽、色欲などの欲望を露にする。  この二つの類型は一見何の關わりもないものとも考えられるが、「人間の普遍的心理」を現した姿と違わないのである。つまり、二卷二章に「形は変り行けど、百年たちても、人の心に違ひはなし。」とあるよう、作中に登場した類型は一部の親仁に限らず、實存可能な人間像、現實的人間像として設定されているのである。これを裏付けるように、作品全体の枕詞としての導入部である一卷一章の敎示的言說は、「親仁」に限って述べられていない。「おのれが好ける道によって身を果たすは、人間の習ひぞ かし。」という言說は、所謂全ての人間の生々しい實体を見せ付けていて、其磧は『親仁形氣』を通してこの生々しい人間の實体を垣間見させるのである。  以上の考察により、『親仁形氣』は特殊な親仁に限らず實存可能な現實的人間像を描き、人間の過去と今に關する普遍的心理を浮彫りにしたと考えられる。

13

5,100원

藤村が小說を書くに当たってどのような問題意識を持っていたか。藤村の初期短編『綠葉集』(明治40年)に收錄されている『爺』(明治36)、『老孃』(明治36)、『水彩畵家』(明治36)の『破戒』が書かれる前の短編を中心に、作品に現れた家族の樣相を中心軸に檢討した。『綠葉集』に收錄されている藤村の初小說『旧主人』『藁草履』では天皇描寫が姦通場面と連動していることから、地方の田舍の中心に及ぶ明治近代の勢いにより価値体系の規範を逸脫する人物の明治天皇制社會の価値体系の枠組みに抵触するという構図で当代社會の歪んだ姿が多層的に浮上している。續いて本論で取り上げた『老孃』『水彩畵家』では『爺』を間にし、天皇描寫があった前2作品とは違いを見せ、『老孃』では「結婚するか、それとも結婚するか」の女性の生き方の問題が提示され、『水彩畵家』では田舍に近代的な生を生きようとする「新しい家庭」における問題が描かれている。前者と共通している点は社會の規範からはみでる 心の內部が對比されつつ「罪」意識が問われているところである。違いは、前者が下層階層の側面から問題を見ているならば、後者は知識人の近代的な生き方を追求する「世間靑年」の抱える問題であった。藤村の社會の矛盾を捉える視線の構図は、明治30年代初頭の社會において、近代を「極端」に追求することの限界を「家」「家庭」の場において掘り下げているという特徵が見られる。『老孃』のテーマが近代的な知識人が前近代的な「家」や近代的な「家庭」で表される社會も否定する生き方、すなわち近代知識人の「破壞の思想」という否定に否定を生きる生き方の限界を直視しているとすれば、『水彩畵家』では「破壞の思想」を止揚し、內的葛藤の共有という和解の模索がされている。さらにこの点は、近代を否定して生きた「父」の問題と重ねられており、前近代と近代の衝突という後の藤村が掘り下げている「父」の問題の構図が仄めかされており、近代と前近代の相克、人間の自然性と社會の關係性の境目に藤村の問題意識が向けられていることが導き出された。

14

7,200원

「鼻」は主人公の「內供」と呼ばれる僧の、その時その時の心理の変化が鮮やかに描かれていることは誰しも認めるところだろう。とすれば、「鼻」を論じるに際してもっとも中心的な課題は、長大な鼻が人並みになった內供が、それにもかかわらず、なぜひき續いて世間の人々から笑われねばならなかったのかという問題に解釋をあたえることにある。なぜなら、そのプロットに自我―現在からすると自己の主体性といってもよいが―と身体性の問題が集約されており、この作品の解明にとって必要なことにちがいないからである。そこで本稿でも、最終的にはその問題に至ることを目標にするが、そのために內供と周囲の人達との關係を具体的に見直すことから始めることにしたい。<見直し>とはなにか。それは本稿に一貫する課題、すなわち完結的構造を有する物語では世界と人間の相關に意味(主題)があるとするところから、暗黙のうちに現實世界と地續きの世界觀を背景にして人間のエゴイズムの葛藤を論述することはできないという仮說にもとづくからである。 鼻がたしかに短く人並みになったことを確認しているこの內供の姿は一つのドラマの完結を示すものであるとともに、新たなドラマの開始を告げるものとして描かれている。すなわち、鼻が人並みになった內供がさらに笑われるというドラマである。鼻を短くして、普通の人間にという理想は實現されたにしても、理想自体すでに戱畵化されている。內供と、すでに物化された鼻とはそのアイデンティティを交換していることはすでに繰り返し指摘しておいた。これは轉倒した世界である。鼻を一個の獨立した生き物のように見立ててその支配を企てる內供の偏執がアイロニカルな滑稽さを生じさせるのである。その長い鼻に象徵される肥大化した內供の<自我>、というよりも自尊心は、これも繰り返し强調してきたように、鼻を媒介にして他者とのかかわりにおける自己確認をひたすら意識し また自らの姿や生きざまを他人によって見られている鼻に合わせることに終始している。そのような<自我>の轉倒によってかえって眞の<自我>を喪失してしまった。こうしたアイロニーを形成しながらも、結末では劇的な反轉を試みて始發の狀態に戻ったということがかえって風刺的効果を高めている。 重く深刻な主題にセクシュアリティのメタファーがつきまとうところに「鼻」の主題創出のアンバランスが認められる。作者芥川の<物語の方法>は、一方で物語伝統のきわめて大きな要素である<笑い>の遊びを継受しながらも、いま一方で、近代の知識人の深刻な問題を物語の內部、というよりも鼻のさまざまな表象に組み込まないではいられない焦燥があった。物語伝統と<知>の近代とがせめぎ合うところに「鼻」という作品(テクスト)の位相があった。

15

5,700원

日本近代詩人と韓國との關係を論じる際、その冒頭におかなければならない詩人は、いうまでもなく三木露風と朱耀翰であろう。韓國近代詩の先驅者と言われる朱耀翰は留學時代に『文藝雜誌』大正五年十月号に「五月雨の朝」を、續いての十一月号に「狂人」を投稿して、日本詩壇にデビューを飾った。その時、詩欄の選者をつとめた詩人が三木露風であった。一見して投稿者と選者との關係に見えるものの、これは日韓近代詩の成立という文學史の上で考えてみると、大きな意味あいが含まれている。というのは、日本近代詩の成立に大きく寄与した口語自由詩の先驅者の一人と、韓國近代詩を切り拓いた詩人が、密かに出會ったことを意味するからである。このことは、韓國近代詩の確立において、日本近代詩から多大な影響を受けていたことを物語る象徵的な出來事といえよう。そしてこの二人の詩人の詩文學の中での交流に注目すると、耀翰が露風の詩的情緖に深く共鳴していたのである。  まず、露風によって佳作として選定されて、揭載される幸運に惠まれた「五月雨の朝」「幼き昔」は、センチメタリズム的な傾向を呈するものである。語り手の生に對する意欲と、その內面世界で常にうごめく思い出の詩情を、自然の情景に織り込んだこの詩は、どことなく露風の初期の詩作を連想させる。とりわけ、『廢園』の百二十編の中で、「廢園」、「涸れたる噴水」の章に收められた詩編から讀みとれる明るい詩的背景の奧底に一末の悲哀を打ち込めた詩想と類似しているのである。また三木露風と耀翰 の詩想の根底には、豊かな叙情性と追憶の空間が位置している。  一方、耀翰は「日本近代詩抄」(二)の中で、露風について「近代的―という修飾語が何より先ず、氏の詩に接するときに感じられる。繊細なる情緖、敏感な感覺、古い時代から新時代へと線を畵す詩人の最も重要な要素を氏は持っているのである。」と書き記している。これは耀翰が、露風の象徵詩より、感傷的なロマンチシズムに傾倒していたことを物語る。それは「日本近代詩抄」に譯した四つの露風の詩からも見て取れる。また「去りゆく五月」からその例を見たように、あくまでも感覺によって對象を捉 え、さらに刹那の印象を大事にすることに共鳴を覺えたのである。そしてもう一つは、深い叙情性を釀し出す追憶の詩情は、どうしても叙述的な表現を多用する傾向があるが、「去りゆく五月」の例から讀みとれるように、露風はむしろ印象を隱喩的な表現へと昇華させているのである。これらの露風の抒情世界の特徵が耀翰にして「繊細なる情緖、敏感な感覺」といわしめたのではなかろうか。このように露風の追憶の詩情についての高い評価は、耀翰が露風の初期詩文學の特徵といえる<叙情の微光化> と<端正なるロマンチシズム>に强く魅了されたことを物語ることではないだろうか。

16

5,200원

川端康成の作品「伊豆の歸り」における主人公の彼が喪失感を回復するために表出した旅を通じて救濟への期待と現實への安らぎを求める姿を感情救濟という面から調べてみた。 川端康成の場合、初戀との婚約は現實においての喪失感が補償される機會として存在する。しかし、結婚約束の破棄によって、再び喪失を経驗することになる。これは自分を救ってくれる對象の喪失を意味すると思う。この現實における喪失感は「伊豆に歸り」にも主人公の<彼>を通して、妹の葬式そして失戀という姿として描かれている。 旅は挫折から離れて新しい據點を探そうとする意志から始まると云うように、主人公の彼の旅は現實から離れたところに假像を構築して美しい彼女を作り出した。そして彼の想念で、彼女に對する美しい記憶だけを殘すために旅立ったこととして現れている。言い換えれば、旅を通じて苦しみに落ち込んでいる体と心を淨化しようとする意志、すなわち感情の救濟を經驗することとして理解できるだろう。このように克服の意志として、旅を通して假像を構築して、その想念の中で彼女を設定して彼だけの リカ子像を作り出した。けれども、過去でない現在の現實で彼女との再會により想念の彼女の像が崩壞されてしまう。これは假像から 現實への歸還を意味すると思う。そして現實への歸還は憾情の救濟という面で認識轉換の結果として現實への安住を提示しているのがわかる。 つまり、自分の存在は脫出とか逃避とかによって得ることでなく、克服を通じて得るのを示唆している。旅の日常は現實の日常において変わった姿で現れて、現實と假像とを連結する主人公の得た世界、一つの土地として象徵されている。そして主人公において認識の轉換は自分に對する認識の轉換でありながら、現實に對する認識の轉換でもある。また、これは日常において克服の原動力として作用していると言えよう。このような觀點から「伊豆の歸り」を考えてみた場合、憂鬱で感傷的な失戀小說と して評價するよりは旅行小說としての評価も得られると思う。精神的な救濟の姿を描き出した「伊豆の踊子」と同じように明るい氣持と感情の救濟との作品として把握してもいいだろう。

17

5,500원

大江健三郞の小說を見ると、ある現象、または登場人物の姿を動物に喩えた表現が多く見られる。中でも本硏究のテキストである『個人的な体驗』(1964)は、<バード(鳥)>と呼ばれる象徵的な人物が主人公として登場している。それで本硏究では作品の中に描かれている動物の比喩を檢討・考察することで、その比喩が持つ意味や作者の意図を明らかにすることに意義を持つ。そして作品を考察した結果、作品における動物の比喩を次の二つの觀点から述べることが出來た。  まず、登場人物の姿や行動を動物に喩えることで視覺的なイメージを强化すると共に、人を戱畵化する効果を持つという点である。いわゆる滑稽、あるいは道化の機能を持つと言えよう。  もう一つは、<比喩される動物>が<實存する人間>とは對照的な存在として用いられている点である。<バード>というあだ名で呼ばれる主人公は、自分の日常生活に對してえたいの知れない不安や期待の無さを感じる人物である。常に現實から離れアフリカへの旅を夢見ていた彼に、障害を持つ息子が生れる。そしてバードは子供を見殺しにするか、手術を受けさせて共に生きるかで惱む。惱んだあげく子供と共生することを決心したバードは、今までの鳥のイメージから変わり人間の顔を持つようにな る。卽ち現實の問題に對して正面から立ち向かうことを決心した時、バードは動物じみた顔やあだ名を捨て、自分の名前を持つ新たな人間として生まれ変わったのである。  上述したように『個人的な体驗』に見られる動物の比喩は、視覺的なイメージの强化と共に、人間における實存の有無を問う裝置として働く。作品におけるこのような傾向は、「動物と人間の關連性」それから、「動物と人間との本質的な違い」について追求してきた作者大江の思考に基づいていると言えよう。

【日本學】

18

6,900원

日本の對アジア戰後處理は冷戰体制の急激な到來によって有利な國際政治的環境の中で行われた。卽ち、米國は、日本経濟に最小限の負担のみを与える範囲のなかで日本の賠償政策がとられるよう配慮した。その結果、日本の賠償は、金額、時期や方法などが債權國との協議に基づいて決められた。さらに、賠償が現金方式ではなく生産物や役務の形式で支拂われることによって、日本の賠償は對アジア経濟進出の土台になる役割を果たした。しかしながら、もう一方では日本の賠償政策は戰後日本外交の 負の遺産を殘す結果にも繫がったと言えるだろう。日本人は、過去における侵略や支配の歷史を懺悔と反省の意味として受け止めることには至らなかった。日本の賠償政策は、國家を對象とする方式をとったために、被害者個人に對する補償は徹底的に排除された。その結果、日本は戰後50年余が経過した今日においても、從軍慰安婦、外國人原爆被害者、在サハリン韓國人、外國國籍の元日本軍、軍屬など數多くの對日被害補償要求などの戰後責任に關するアジア各地からの追及に直面することになった。

19

7,200원

本硏究では、第1共和國から第3共和國に至る14年間に七回にわたって開催された韓日國交正常化條約のための交涉過程(以下、韓日會談)において、韓國側の交涉戰略が「請求權」問題をめぐって、その過程のなかでいわば「名分外交」から「實利外交」へと轉換していった樣相の推移を分析し、その轉換の背景とその意味に內包された外交思想的な側面を再照明しようとした。 その轉換の樣相に對して、從來は朴正熙政權における親日的な性格の反映として、あるいは政權の正統性問題と連動した経濟開發のための資金に目が眩んだためとして、どちらかといえば、否定的な評価が多かった。 だが、實際はそう簡單に片付けられるものではない。すでに第2共和國の張勉政權期からその轉換につながる外交基調の変動が示されていたし、もっと遡れば、第1共和國政府の交涉實務担当者の間ではその端緖が認められる。 このような史實にもとづき、本硏究では韓日會談過程の分析について、單に特定政權の外交政策の問題として限定せず、その會談の14年間の全過程の流れを視野にいれ、そのなかで見られる會談議題やそれへの接近方法の変化に注目し、その外交基調の変動が意味するものを、韓國側における近代的「外交」や國益、國家的課題などをめぐる思想の変化といった側面から捉えなおした。

20

5,800원

Oda regime began to negotiate with Kanto-Ohu's feudal lords for a part of measures on his breakout. Especially as a measure to cope with Uesugi, he established a close connection with influential feudal lords, Uesugi's wirepullers, Mogami, Ashina with Date and Ando as the central figures in the Ohu district and Kakizaki in the Ezo district. Also in the Kanto district as an early measure to cope with Takeda and Hojo, and as a measure against Takeda after the alliance with Hojo, he established connection with influential feudal lords, Satake, Oyama, Tamura, Kajuwara, Mizutani, Ota, Tagaya, Utsunomiya, Minagawa, and Hojo. In addition to these connections , using the method helping them to find an official rank of the Court he proceeded with the policy incorporating them to his regime. With the effect of this policy, Hojo the greatest feudal lord in the district of the East Japan made an expression,"If the marriage of Oda and Hojo is realized, the eight countries of Kanto which is the territory under my rule are rendered to Oda regime and Hojo may be incorporated to Oda regime." However, after that, according as Oda nobunaga was murdered in Honno temple, direct military aggression by Oda regime was not accomplished in most of the Ohu district, which made the substantial reign by Oda regime, that is, the approval of territory and sovereignty by feudal lords undone. But as Date said that most of Ohu's feudal lords had already established the connection with Oda's regime, and he agreed to help the unification of the whole country by Oda's regime, most of Kanto and Ohu's feudal lords were compelled to help the Japan unification by Oda's regime. Accordingly, influential feudal lords such as Ashina, Onodera and Kakizaki called Oda nobunaga Uesama who is the name of a person to rule the whole country. In view of this substance, we can know unexaggerated the sayings of Oda nobunaga and his son, nobutada that including the feudal lord of Tsugaru situated in the north of the Ohu district, several feudal lords rendered their own fine horses competitively, that several feudal lords of the Kanto district including the Hojo district paid a visit of subjection greeting and that several little islands of the East Japan were incorporated to Oda's regime. We can consider that most of the East Japan districts such as Kanto and Ohu were advanced towards Oda's regime in this period.

21

7,300원

本稿では、『日本書紀』に詳述される新羅の眞平王後期に展開した對倭外交について、眞平王の立場から檢討した。これを通して、眞平王が對倭外交を實行したのは、旣往の硏究でいうような新羅側の消極的態度によるものでなく、眞平王による積極的な對倭政策のあらわれであったことを解明した。 まず、眞平王代の對倭外交の特徵を槪觀した。眞平王は、倭に對して在位後半までほとんど外交活動を展開しなかったが、眞平王32年(610)を契機に大きく変化させた。以後、眞平王はたて續けに倭に使臣を派遣して、積極的な對倭外交を推進した。こうした要因には、眞平王16年(594)からはじまった對隋・唐外交が成功をおさめたことがあげられる。新羅はその關係を通じて高句麗・百濟に對抗できる外交能力を獲得し、これにより新羅の外交意識は一層高揚され、眞平王の積極的な外交政策は對倭外交に 並々ならぬ影響を及ぼした。 『日本書紀』の記錄によれば、眞平王後期に倭に數多くの仏敎文物を送ったことを確認できる。特に眞平王45年(623)には、使臣とともに、仏像をはじめ、仏舍利、幡など多彩な仏具を送っている。またこの時、百濟や高句麗の僧侶たちが集まる飛鳥寺にかわり四天王寺が新たに登場し、新羅が送った仏舍利などの仏敎文物もそこに納入されている。眞平王代の新羅では、仏敎が王權を象徵する存在であったことから、新羅が送った仏像․仏具も同樣に新羅王權をあらわしたとみられる。眞平王は、こうした仏 敎文物を倭に送り、新羅の王卽仏思想を倭に伝えることで、倭王を眞平王の仏國土に引き込もうとしたと考えられる。  またこの時、新羅の使臣は在唐倭人留學生を倭に送りとどけている。歸國直後に新たな外交政策を建議した惠日の言動から窺われるように、留學生は倭國內の外交活動において直接的役割を担ったとみられる。ここで惠日が推薦した法とは、百濟や高句麗の法に對峙する性格の仏法であったことから、唐の法でなく新羅の法と推察される。この623年を契機に、眞平王は留學生たちと關係をとり結び、倭に新羅の思想・制度などを伝えようとしたと考えられる。

22

6,000원

淺川巧(1891ー1931)は1914年、植民地支配下の朝鮮に渡り山林關係や朝鮮工芸などの硏究に携わった人物である。そして「民芸」運動の創始者として知られている柳宗悅に大きな影響を与えた人物でもある。本稿では具体的に第Ⅱ章ではテクストとして淺川巧が韓國ではどのように讀まれているのか、そして第Ⅲ章では淺川巧の思想的基盤がどのように形成されているのか、最後の第Ⅳ章では淺川巧の朝鮮認識が世界構造としての彼の民芸論にどのように反映されているのかについての檢討である。淺川巧と柳宗悅ははじめ報告者と硏究者のような關係から始まっているものの、次第に淺川は民芸論において美的価値判斷の基準になる柳の眼(直觀)とある程度距離を保つようになる。それは淺川の民芸論が、朝鮮の陶磁器という道具を通じてその製作․交流․消費のネットワークに參加することによって得られた、朝鮮人との交涉の結果であったからである。このように淺川が朝鮮の民芸品を媒体にして朝鮮人との交涉に成功したとすれば、それはどのように民芸論のなかに投影されているだろうか。本稿では淺川が朝鮮との交涉を、道具という媒体を通じて行っている点に注目している。こうした道具が世界との關係、他者との關係を考える時に重要な手段になるからだ。淺川巧は柳宗悅が主唱した民芸運動の基本理念を誰より徹底しながら、それらを黙々と實踐に移した人物である。社會的に低い身分の陶工が造る陶磁器から、美が生まれた事實を重視していた柳の民芸論は、倫理美學的な方向へ走ってしまう。これに比べて淺川の民芸論は、モノの名称․用途などの實証的な調査に向かう。こうしたモノの調査の過程で、淺川は多くの朝鮮人からの協力を得る。そして民芸調査において朝鮮人との交涉が何よりも重要だという事實を發見する。淺川はモノをとおしての朝鮮人との交涉をするなかで留保的な視線を獲得することができたのである。

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5,400원

 
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