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2001 (14)
2000 (16)
1999 (12)
7,200원
近世日本社会が再編成される過程に受容され、勃興された朱子学は、幕藩 体制との適合性という観点から説明されてきた。宗教的な中世社会から現世的な 近世社会への移行、そして近代社会の構築という発展史観によって朱子学は封 建教学として叙述され、教育されてきた。ところが、1960年代に復活される伝統思 想と反比例しながら封建教学説は徐々に研究現場から退かれ、1980年代以降の 日本思想史学界では姿を消したと言ってもよいほどである。その代わりに日本社会 の特殊性を象徴する幕藩体制論と、その幕藩体制に適合的に再構成したといわ れる徂徠学が脚光を浴びるようになった。特に幕藩体制は朱子学の東アジア的普 遍性を挫折させた特殊事例として表象され、日本固有の社会体制として現代日本 で再生産されつつあり、徂徠學は朱子学の代わりに封建教学説ともいわれてい る。こうした研究傾向に一助したのが東アジア三国の社会体制を比較する研究方 法論であった。体制の相違が直ちに思想の相違を証明する結論が導き出され、 近世日本社会の特殊性と日本儒学の独特さが強調されたのである。こういう研究 状況を反映した黒住真の先行研究は注目に値する。棲み分けの三教共有という 思想体制が徂来学によって保証されたこと、また近世日本儒学が体制教学を形 成され得なかったから、かえって多様に発展できたという論理展開には、やはり日 本的な特殊性を強調するものに他ならない。しかし仙台藩に事例研究に即していえ ば、その結論がいかにも主観的であるかが確認できる。ここに幕藩体制と封建教 学説を再び確認してみる意義がある。
6,700원
本稿は韓國近代期の陽明學者として知られている朴殷植(1895~1925)と日本 陽明學との交流などその關聯性について檢討することである。 朴殷植の陽明學に對する關心は彼の52歲(1910)のとき著わした王陽明先生 實記によく示されてある。これには支離煩雜な朱子學を克服し簡單切要な陽明學 の學說卽ち知行合一, 致良知, 事上磨鍊, 萬物一體などを根幹とした儒敎求新 を主張し、さらには大同主義を闡明するのである。 朴殷植の日本陽明學との交流の迹は、當時日本陽明學會の主幹東敬治に 送った手紙卽ち「再與日本哲學士陽明學會主幹東敬治書」․「日本陽明學會主 幹에게」などによく示されてある。「與韋庵書」には,「盖陽明是道學家也政治家也 氣節家也至于今日此學大昌于世日本維新豪傑多是王學派支那學家亦多宗 王學以其知行合一論爲適於時宣也至於西洋哲學家梭格抵底康德比圭梨之 學說亦與知行合一之旨暗相符合則更何疑於王學乎弟之撰陽明年譜及陽明 詳傳(日本高瀨武次郞所箸)傳習錄明儒學案諸書而綜成之者也」とあり、また、 「再與日本哲學士陽明學會主幹東敬治書」には、「盖陽明是活用孔孟之學者 也貴國諸賢又活用陽明之學者也故維新豪傑多是姚江學派其實効之發展優 於支邦者遠甚況至今日繼以貴會之益加昌明則其有裨于精神敎育者何可量 也貴國旣以西洋物質大振國力又以東亞哲學培養民德文明事業克圖完全是 果何登力量耶」とある. こういったことから、彼が、陽明學が日本社會に深く影響 をあたえており、なお近代という世界史的變化に日本がうまく對應することができたの もまさに陽明學の受容にあるものと理解していた、ということが分る。 今後朴殷植において近代日本陽明學との交流がどのように行なわれたのか、と いう理解はより根本的に彼の日本觀についての考察が先行されなければならないで あろう。このため朴殷植全集にある近代史關聯または日本批評關聯資料(たとえば「韓國獨立運動 之血史」, 「韓國痛史」等)をもらさずに檢討する必要があるだ ろう。これらは、彼の日帝植民地政策、アジアの近代についてどう理解していた のかがわかる主な資料になるであろう。
5,500원
中上健次物語ソウルは韓国を舞台としながら登場人物がすべて韓国人であ る.これは彼の他の作品でも異質的なものとしか言いようがない.彼は1978年~84年 まで7回にわたって韓国を訪問し,そこでいわゆる準周辺部の地域や風物にこだわり 取材を行ったのである.このような活動は他の日本作家からにはあまり見られないこと であろう.取材の結果物として世に出されたのが物語ソウルである. 中上はこの作品においても独特の‘路地物語’を展開させていく.小説の空間や登 場人物が違うだけに,いままで彼がみせてくれた作風とは少々異なるところが多く発 見される.その代表的なのは,物語ソウルを通じて中上が韓国社会に自分の文学 的発言を行ったことである.すなわち韓国ソウルの準周辺部に住居している人たちが 持っているダイナミックな生き方を強調し,それを生かして韓国の既存社会を変革して みればとの発言である.しかし,中上の韓国社会に関する原体験の不在により作品の 叙事的構造は歪んでしまい,それが結局のところ作品性までを落とす原因となってい るのも否定できない. 特記すべきは,物語ソウルが発表されたことによって,彼がこだわり続けてきた‘路 地物語’がもっと拡張される契機を獲得したことである.
7,900원
近世東アジア思想界の課題は、中世敎學の支柱であった朱子性理學を克服 することであり、そのための論理の一つとして提示されたものが「古學」であった。 實學硏究の現段階における重要課題は、一國中心主義から脱却して、東ア ジア史全體を視野に入れた交流史と比較硏究である。なかでも、様々な点におい て類似性を見せている朝鮮後期の実学と日本近世古學の比較との相互関連性を 究明する作業は、特に重要な主題であると言える。 日本の古學が朝鮮に紹介されたのは、日本を訪問した通信使行員を通じてで あった。彼らによって傳來した古學派儒學者の書籍が、一部實學者たちに伝えら れたのである。日本古學派儒學に対するより深い硏究は、實學者たちによって行 われたが、通信使行員たちも日本現地で古學派儒學者たちと面会して討論を行 い、それに関する論評を残している。この点から、彼らが残した記錄と論評は、非 常に重要な意味を持っている。本稿では、通信使行員の日本使行錄に收錄され ている日本の古學派儒學に関する論評を分析した。また、通信使行員が著述し た日本使行錄の目錄を作成し、朝鮮に傳來した日本古學派の著書に関しても、 その傳來經緯や時機などを含む圖表を作成した。 本稿において分析對象とした通信使行員は、1719年の己亥通信使行である申 維翰(製述官)、1748年の戊辰通信使行である曺命采(副使)ㆍ柳逅(書記)ㆍ洪 景海(子弟軍官)、1763年の癸未通信使行である趙曮(正使)ㆍ元重擧(書記)ら である。 通信使行員らは、その大部分が朝鮮中華意識に基づく閉鎖的な世界觀、儒 敎的價値基準による日本夷狄觀、壬辰倭亂による敵愾心などによって、日本文 化に対する認識が消極的であった。そのため、日本の儒學界の水準を全般的に 低く見ており、當時日本で發展した陽明學や古學に対しても批判的であった。日本の古學に関し ては、好奇心の對象としてそれらの著述を求めたりもしたが、眞摯 な關心を抱いて硏究した人物はいなかった。単に古學派の經典解析が朱子を批 判し、性理說を否定しているという点に注目して、それを異端であると規定するに 過ぎなかった。 だが、元重擧の荻生徂徠に対する評價は、単なる否定一辺倒ではなかった。 彼は、徂徠の古學的志向に対しては批判しつつも、彼の學說が日本を風靡し、 文章や學術方法などにおいても一定の境地を開いたとして、その學術的な功勞に 対しては、肯定的に評價したのである。元重擧の日本文化と古學派儒学者に対 する認識は、李德懋をはじめとする實學者たちにも一定の影響を與えることとなっ た。
야나기타 쿠니오(柳田國男)의 ‘일국(一國)민속학’과 문화내셔널리즘 - 단일민족론의 민속학적 형성과 전개 -
한국일본사상사학회 日本思想 제8호 2005.04 pp.201-234
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7,600원
柳田国男については多くの議論が行われてきたが、それは主として内在的研究 に留まっており、日本全体の文脈のなかに位置づけ使用とする傾向はそれほどなさ れてこなかった。ところが、彼は同時代の日本帝国における論壇でなされていた民 族論の主流とは異なり、混合民族論から単一民族論へ転向した論者である。そ れと同時に、彼の思想はアジアと西欧との葛藤構造のなかで"日本の自画像をど のように描き出すか"という問題が集約的に現れているモデルケースとしても重要な 意味を持っていると言える。このような状況や事実を踏まえて、本稿では柳田の民 俗学的著述を当時の日本国内の状況と結び付け、また文化ナショナリズムという 次元で全面的な再検討を行うことを主な目的としている。 柳田自ら'新国学'とまで主張した'一国民俗学'の思想的特色は、第一 に、一国の主要種族にその対象を限定していること、第二に、郷土を部分とする '一つの共同体'としての日本社会を対象としていること、第三に、一国民俗学 を'自民族同種族の自己省察'と見なし、'国土のなかに一つの種族が広まっ ている'と認識していたこと、第四に、彼が用いている'固有'という概念は集合 的自意識としてのナショナル・アイデンティティのなかに根を下ろしていることである。 このような柳田の思想を当時の社会的文脈からみると、柳田にとって国家とは、 家に基づく連続体であり、それとともに彼が強調したのは郷土であった。国家ある いは国と国民を繋ぐ媒介として、郷土を提示していたのである。山人という異民族 を想定していた柳田が、沖縄を発見し、ジュネーブにおいてヨーロッパ人と接した あとには日本人を単一とした存在として描写している。この際、登場する概念が常 民であり、柳田民俗学は下からの国民統合を主張することになった。また、氏神 信仰が日本全国に共通している事実を国民一人一人に自覚させ、閉鎖的な宗教意識を民族的なレ ベルの国民意識に転化しようとしていた。つまり、柳田には国 民の統一像もしくは国民の統一した感情のイメージがあり、そこにすべてを収斂させ ようとしたのである。このように、天皇制を中心とした単一民族史観に立った柳田の 一国民俗学は、植民地の民衆には国民としての資格は与えず、もっぱら道徳的 で精神的な義務のみを強調している。
21세기 동아시아 공동체 모색과 한일관계 - 동아시아 민족주의의 역사적 반성 -
한국일본사상사학회 日本思想 제8호 2005.04 pp.235-263
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6,900원
本硏究は、21世紀における東アジア共同體を摸索するために、東アジアの民 族主義的歷史から敎訓を得て、韓․日兩國の地域的關係を理解することによっ て、東アジア共同體意識を展望することを目的とするものである。 1950年代以後、国家ごとに民族․民主․資本․イデオロギーの関係構造が 異なる様相を見せながら進行した結果、東アジアは従来の平和共存形態ではな く、民族主義激動期に進入し、新たな21世紀東アジア的冷戰體制對決という力 の政治の様相を呈していると言える。 日本は、60~70年代の高度成長を背景に經濟大國となり、80年代後半から 政治․軍事大國化して、‘右派民族主義’が擡頭している。韓國は、60年代の經 濟成長過程で民主化が問題となり、光州民主化運動を契機として民主勢力が權 力を掌握し、運動圈民族主義が台頭した。中國は、70年代の改革․開放以 後、經濟、軍事的成長を成し遂げ、それが政治にも反映し、覇權主義的中華 民族主義を形成している。 上記の內的要因以外にも、アメリカの存在感と影響力行使が、東アジアの現 實として存在している。 東アジア共同體の歷史は、21世紀共同體の登場背景を理解するために參考と なる事例である。2003年末に日本は、東亞共同體構想を發表した。日本による このような構想発露は、これが初めてではない。その最初は、日中戰爭の際の 大東亞共榮圈であるが、世界史の流れを認識できなかった自国中心の民族主 義に過ぎなかった。二度目は、80年代にアメリカと貿易摩擦を惹起した頃に提議さ れた。日本にとって、対米關係の緊張は望ましいものではなかったため、アメリカと の關係を維持し、アジアを强化する方法として提示されたものが〮、アジア・太平洋經濟協力體 (APEC)である。‘ア․太’には、アメリカを排除も組入れもしないという 意味合いがあるように思われる。そして、今回の構想は、2002年以後における中 國の東アジア關係强化に対する主導權回復を狙ったものと考えられる。 歴史的にもすぐれて政治的性格の濃い東アジアでは、多角的協力よりも兩者協 力が一般的であった。さらに、アメリカの存在感と影響力の行使が、東アジア地 域主義の强化を難しいものとしている。アメリカを含んでは、‘東アジア性’は維持で きない。この結果、東アジアの国々は、國際協力に加擔し、地域協力は弱まる ばかりなのである。 東アジア相互協力のために重要なことは、關係の平等性であり、そのためには 民族主義の現實化と實踐が要求される。それは、國民國家を批判して民族主義 を克服するのではなく、帝國主義侵略とその推進權力を反省、克服すべきなので ある。そして、21世紀における東アジア共同體摸索に要求されるものは、國家と國 民を犧牲にするような國家權力を克服する市民的力量である。歷史的反省を通し てこそ、對內外的平等を基礎として、平和と繁榮のための東アジア共同體意識の 擴大が可能なのである。
우키요에(浮世絵) 표현기법으로서의 미타테(見立) 연구 - 스즈키 하루노부(鈴木春信) 작품을 중심으로 -
한국일본사상사학회 日本思想 제8호 2005.04 pp.265-303
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江戸文藝で使われてきた「古典借用遊戱」を意味する見立技法は文化全般に わたって活用になったものである。この見立の形成過程を通じて江戸の文藝観を確 認することができる。言わば、「共通の記憶」と言える大衆の共通的な趣向と知識 の普及で形成された文化的なカテゴリーによる産物が見立である。 見立の技法は、浮世絵で和歌、謡曲、物語など、大衆の觀心と趣向を反映 した古典文學と日本、中國の有名な古事の中で登場する人物、場面を江戸風 の構圖に變換させる裝置で使われている。このように、完成された作品の中には 古典世界と作家が生きている現在が共存する。原典のイメ-ジと象徵性の連関性 をおもんじながら、作用するこの技法は鑑賞者と作家が共通の記憶を共有するのを 前提に成立しており、主題を浮き立たせる要所で機能する。 このような見立技法を作品に應用した代表的な畵家であり、なおかつ、錦繪の 創始者でもある鈴木春信を例としてあけられる。彼は古典的な主題で繪畵の素材 などで靈感をうけて沢山の作品を作り出し、見立絵の流行を主導した。 春信の作品において古典作品の引用は重要に作用しており、彼は意圖的に見 立という道具を利用して傳統の再生を試み、過去とのつながりをはかった。文字で 伝われてきた古典をイメ-ジ化する作業を通じて視覺化しながら江戸の中に再現させ た。絵その自體が古典を包含している春信の絵には別々の古典を判斷できる要所 が揷入されている。 春信の作品を構成している古典を調査して見ると中國より日本の古典を多く活用 していることを確認することがわかる。その中にも、王朝文學の傳統的な素材とも言 える和歌を使っており、また、人物と背景を融合させた構圖と人物の描寫法などは 大和絵と共通點が見える。このように春信は作品の完成において王朝文化を喚起 させることに大きな比重をおいている。そのため、江戸時代の光景を表現されているが、その中 に王朝文化のあわれが感じされるのはこの理由であろう。そして、他 の画家の作品で借用した要素を春信の図像に結合させて、自分なりの形象を完 成させた。 春信の作品は江戸時代の文化思潮を理解する重要なもとになり、繪畵需要の 拡散とともに一般化と大衆化された古典の種類を知られる契機になると考えられる。
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