Earticle

현재 위치 Home

日本思想 [일본사상]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본사상사학회 [Korean Association For Japanese Thought]
  • pISSN
    1229-9235
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1999 ~ 2026
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 철학
  • 십진분류
    KDC 153 DDC 181
제11호 (10건)
No
1

통리(通理)와 반리(反理) : 일본사상의 이중논리

李光來

한국일본사상사학회 日本思想 제11호 2006.12 pp.5-24

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

5,500원

「通理と反理」 日本思想は、なぜ生まれながらに矛盾構造なのであろうか?それは、通理と反理という相反する論理、そして通摂と統摂という互いに異なった現象がその歴史の中に混在したままで構造を決定してきたからである。先に言及したように、通理と通摂は日本思想史の底辺で作用する 「非決定論的」論理と現象、すなわちその遺伝的表現型(phénotype)である。たとえば百済の方術と巫祝信仰を幅広く受容した道仏習合型の常世国神話といった民間道教の類型や、数多くの神宮寺の出現、そして神社に装飾された各種の神道曼荼羅の中に作用してきた、習合の通理がそれである。 これに対して統理と統摂とは、日本思想史のまた異った遺伝形質を形づくってきた 「決定論的」論理と現象である。皇祖信仰と皇道が運命的イデオロギーとして日本思想史を決定するたびごとに、日本思想の表現型は、たとえば日本思想が天皇至上主義と皇祖信仰の強迫観念を脱し得なかったように、内外で反理的論理から抜け出すことができなかった。戸頃重基が、戦後の日本思想と宗教が 回避している十種類のもののうち、第一が天皇制であり、二番目が天皇制と関連した国家神道であると主張しているのも同じ理由からである。これは敗戦までの日本思想と哲学が、皇道と護教論が有する統理と統摂から抜け出すことができなかったことを意味する。 こうしてみると、統理と反理とは日本思想史を拘束しているメビウスの帯である。連続的通時態としての日本思想が、相互に矛盾する二重構造(duplex structure)の中に置かれているのも、その螺旋形の帯が、ただ方向が異なるだけで、運命の鎖のように常に絡みついているからである。

2

6,400원

本研究では、中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、内村鑑三、朝河貫一、石橋湛三のような当時の代表的な日本平和主義者たちの思想についての分析を通じて、近代日本の地域平和思潮の具体的な内容と意味を検討した。こうした分析と考察には方法論的には多國間主義に基づいた 「多者性」という分析枠が使われた。近代日本の地域平和思潮は自由民権、非戰、反植民地主義の思想をもととしているが、これは 「多者性」に含まれている概念的意味と、その脈を共にしているということができる。 近代日本の地域平和思潮は、各学者が強調する事項によって平和国家論、平和連帯論、非戦平和論、戦争廃止論、反覇権論、反植民地論という形態に多用につかわれてきた。本研究では、こうした学者たちの主張を国家間の関係の水平性と自発性、互惠性に基づいた共存共榮、反植民帝國主義、人種的․文化的同質感、地域連帶を通した協力という 「多者性」の、より細部的な分析槪念を適応させて考察してみたのである。その結果学者別にある程度の差はあるが、共通して 「多者性」を受け入れており、地域協力について強い信念を持っていることが明らかになった。従って、近代日本の地域平和思想が今の東アジア地域協力構想に理念的土臺を齎すことができる充分な妥當性を持っていて、現代日本における地域協力の志向的な東アジア政策樹立にも肯定的な寄与ができるものと思われる。 東アジア地域の平和が、日本の國益と深い関係に置かれていることは間違いないことである。従って日本は自分が持っている素晴らしい知的資産を活用して、東アジア地域の国家と地域民たちに平和的な地域秩序を守るというリーダーシップも見せるべきである。今後、日本の選択の如何によって、日本の国家的運命とこの地域の状況が変わる蓋然性はとても高い。この論文は日本が正しい選択をするのに一つの提言になることを希望している。

3

天理敎에서 본 일본의 神國思想

야규 마코토

한국일본사상사학회 日本思想 제11호 2006.12 pp.51-94

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

9,100원

19世紀の日本において、教派神道各派はさまざまな形態の神国思想を 展開したが、天理教の場合は、少なくともその 「原典」からは 「神国」の 用語や、日本を指して神国となす用例は見出しにくい。その代わり 『おふでさき』に頻出する 「にほん」という語が天理教における 「神の国」 をあらわしている。『おふでさき』によれば 「にほん」は 「から」とその根 源を同じくするが、現状においては 「にほん」は微弱で 「から(とふぢん)」 は強勢であり、 「から」は 「にほん」の領域に入り込んで好き勝手にして いる。しかし神はそれを憤り、やがて 「にほん」を助けて 「から」を屈服 させ、 「から」を 「にほん」の領域に入れ、やがてはすべてが 「にほん」と なる。このような 「にほん」と 「から」の関係は大まかに言えば、アウグ スティヌスの 「神の国」と 「地の国」、あるいはイスラム法における 「ダー ル․アルイスラム(イスラムの家)」と 「ダール․アルハルブ(戦争の家)」と 同じ思想類型であるといえる。また 「にほん=神の国」の拡大というモチー フは 『みかぐらうた』ではより直截に、 「世界だすけ」への志向として歌 われている。 また 『おふでさき』にみられる、社会の下層を指す 「谷底」と上流層を 指す 「高山」もまた、それぞれ 「にほん」および 「から」と同じような関係 にあることがわかる。『おふでさき』には 「高山のしんのはしらはとふぢ んや、これが大一(=第一)神のりいふく(=立腹)」という歌まであり、両 者の類似性は明らかである。 このような天理教における 「にほん」と 「から」の構造には、 「から」お よび 「高山」の否定․対立という契機と、「にほん」と現実の日本の同一視 により 「世界だすけ」のためという大義名分のもと日本軍国主義の膨脹政策 に積極的に同調․便乗する契機とが含まれていた。前者の側面は、天理教 教会よりむしろその分派において先鋭的にあらわれたといえる。 ところで明治政府は、キリスト教流入による日本の社会秩序の崩壊に 対する防壁として、全面的な社会改造に国民を従わせるカリスマとし て、明治維新の実権を握った討幕派が権力基盤の脆弱性を補う大義名分 として、あるいはまた西洋諸国のキリスト教にあたる日本国の精神的機 軸として天皇の権威を要請し、それを支える国家神道体制を構築して いった。いわば 「天皇を中心とする神の国」作りを進めていった。それは 天理教教祖の 「神の国」とは明らかに対立するものであった。 教祖自身は教えに無理解な国家権力との対決を恐れず、国法に対する 神の優越性を説破した。しかし教団としては教祖のそうした尖鋭的側面を あえて前面に押し出すわけにはいかず、戦前の天理教教会は天皇制․国 家神道体制に組み込まれながら国家の公認と社会的な認知を受け、そうし ながら宗教的な主体性を追求する辛い綱渡りを余儀なくされた。 一方、 「教祖のひながた」に従うという教えのもと、かつては一般の信 者の多くが教祖に倣って財産を放擲し、地方教会での共同生活を送りな がら布教․おたすけに邁進した。その彼らの心の支えとなったのは、い わば 「から」を 「にほん」の地にする、つまり世界だすけ․の教えを説い て無理解な人々を回心させ、最終的には全人類を陽気ぐらしの世界に導く という意識であった。こうしてみると、一般の天理教信者が教会を支え つつしゃにむに 「神の国」の拡大に邁進する一方、教会本部が天理教の社 会的地位を高めて日本国家の弾圧や社会の反対を抑え、信徒への迫害を最 大限回避する盾としての役割を担ったことが、天理教教団を存続せしめ、 さらには教派神道最大の教団にまで発展させた秘訣であったといえよう。

4

内村鑑三に見るナショナリズムとコスモポリタニズム

鈴木貴久子

한국일본사상사학회 日本思想 제11호 2006.12 pp.95-122

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

6,700원

우치무라 간조에서 본 내셔널리즘과 코즈모폴리터니즘 명치시대 국가신도정책을 추진하는 일본에 있어서 우치무라 간조(内村鑑三)는 일본과 또 그 종교적 대립항목인 예수, 즉 ‘두 개의 J’(Japan과 Jesus)를 평생 추구했다. ‘교육칙어’ 가 발포된 다음 해 교육칙어 봉대식 때, 교육칙어에 대해 가벼운 경례를 하는 데에 그친 것이 실마리가 된 “불경사건”을 일으킨 우치무라이지만, 그 논술에 기독교인으로서의 관점과 일본인의 국수주의적인 사상의 일면을 확인할 수 있다. 본고에서 우치무라가 세계에 일본과 일본인을 소개한 ≪대표적인 일본인≫을 중심으로 그 국수주의적인 사상을 검토하겠다. 대표적인 일본인의 특질에 우치무라가 어떻게 일본이 기독교를 수용할 가능성을 찾았는지 검토하겠다. 또 우치무라가 기대하는 기독교국가 [신의 나라]와 일본의 국가관의 고양을 나타내는 [신국]을 비교하고 우치무라의 [신의 나라]에 있어서 국수주의적인 의식을 살펴봄과 더불어 [신의 나라]에 신이 일본에 주신 천직의식을 확인한다. 이 일본 천직에 원천에는 “전체에 잘 봉사한다”고 하는 우주의 “진리”가 존재한다. 그것은 의전논(義戰論)의 근거인 “진리”와 동의인 것도 검증한다. “진리”로 세계주의와 국수주의를 인도하는 양의가 내재한 것을 주목한다. 또한 국수주의에서 세계주의로 변천해가는 원인에 관해서 우치무라의 신앙노정과 관련시켜 고찰하겠다.

5

신국사상과 메이지정부의 국가신도(神道)화 정책

高城 幸一

한국일본사상사학회 日本思想 제11호 2006.12 pp.123-157

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

7,800원

本研究では、神国思想との関連で明治維新及び明治維新における天皇 の果たした役割、更に、神国思想の具体的展開と言える明治政府による ‘国家神道化政策’について検討することにする。 神国思想は、 「神明擁護」 「神孫降臨」 「国土の宗教的神聖視」の3つの 意味を抱合した思想であるが、神々の中心である天照大神の子孫である 天皇が統治する国という神孫統治を中心内容とするようになり、日本の 政治的独自性と対外的優越性の根拠とされた。この神国思想に由来する ‘大政委任論’に立脚して‘大政奉還’による平和的な政権交代がおこなわ れ、‘神孫統治論’と、それに由来する‘王土王民論’に立脚して、‘版籍奉還’ や封建的分権制の解体を意味する‘廃藩置県’を特に混乱もなく施行するこ とができた。このように、神国思想と国家神道が、平和的な体制移行を 伴う政権交代の実現及び国民国家の建設(nation state building)に果たし た役割は大きかったと言える。 明治維新に伴い、新政府は 「神々の中心である天照大神の子孫である 天皇」が統治するという‘神孫統治’を強調し、近世までの神仏混淆の宗教 秩序にかわり、天皇と皇室に関係の深い日本の神々への崇拝を中心とす る新しい宗教秩序の形成が進められた。1868(明治1)年3月13日には、‘祭 政一致’の原則を掲げて神祇官が復興され、同28日には太政官から神仏判 然令が出されて<廃仏稀釈>が引き起こされた。皇室祭祀に新たに創案さ れた祭祀を追加することにより皇室神道を創案し、これを教義の機軸と して、伊勢神宮を頂点とする社格制度に立脚した神社支配体系を通して 全国民を天皇崇拝に結びつけ、国民の思想統制の装置として明治政府に よって確立された国家神道が活用された。明治政府の国家神道化政策 は、1)‘天子’․皇帝․大元帥としての‘天皇像’の確立と人民への告知、 2)天皇と神社の関係強化、3)宮中における神仏分離と皇室儀礼の神道 化、4)神道政策の展開、5)国民教化運動の展開、6)‘神道非宗教説’に 立脚した国家神道の成立の6項目を主要内容とする。 更に明治政府は、国家機構の精神的基盤としての神道を国民に啓蒙す るため、大教宣布運動を起こした。1869(明治2)年7月8日に宣教使が設 置されて、1870年1月3日には 「宣布大教詔」(大教宣布の詔)により<惟神 之大道>を掲げる民衆教化への方針が打ち出された。しかし、1871年8 月8日には神祇官は神祇省に格下げされ、1872年3月14日には教部省に 改組された。神官だけでなく僧侶や民間宗教の指導者をも教導職として 公認して、神仏合同の大教院を中心に<三条教則>を掲げた教化運動が推 進される。 しかし、大教宣布運動の失敗後、1882(明治15)年、官社の神職の説教 活動と神葬祭の司祭が禁じられ、神社は一般宗教とは別の国家儀礼․国 民道徳であるとして、その温存育成が図られた。第2次世界大戦後、占 領軍は1945(昭和20)年末のいわゆる 「神道指令」で、神道と国家との長く 密接な関係を断ち切った。神道は歴史的に、地域社会の住民や国家全体 の統合․調和にかかわる機能をもってきた。

6

7,600원

小論では、洪秀全と中山みきの各々の自国認識を比較し、その根本的 な相違を探ってみた。洪秀全(1814-1864)は、中国の近代に反乱を起こし 太平天国を建国した指導者であり、中山みき(1798-1887)は、日本の近代 に天理教を創始した指導者である。いずれも宗教指導者として、各社会 の宗教運動に深い影響を及ぼした人物でもある。 これら二人の自国認識には、伝統的な観念からの影響や新しい時代の 状況からの影響が共に現れている。こうした現象は、彼らが生きていた 時期がちょうど、両国社会․国家の近代が始まろうとしていた時期で あった事実から説明できる。 例えば、洪秀全の場合は、西洋の国々を 「蕃國」あるいは 「遠くの国」 と呼びながらも、一方では、中国より立派に神を信奉する国、それゆえ に信仰の面においては、中国より進んでいる国として認識していた。こ うした事実からみれば、彼の自国認識は、伝統的な華夷思想に即した中 華主義的な認識が弱くなり、そしてもう一方では、より近代的な自国認 識が芽生えていたと言える。 このように、伝統的でかつ近代的な観念、すなわち伝統の観念と近代 の観念が混じって現れる現象は、中山みきにおいても同様である。すな わち彼女は 󰡔おふでさき󰡕のなかで、 「天竺」․「から」․「にほん」という 伝統的な 「三國世界觀」の様子が見られると同時に、 「にほん」がこれか らは 「から」や 「天竺」に影響を与える、という新しい観念も見られる。 さらに進んで中山みきは、自國を世界の中心に据えた、擴大して行く日 本觀を提示している。 こうした考察と共に、本稿では、こうした問題をより深層的に考察す るために、二人の神秘體驗や二人が属していた各社会の創造神話を分 析、対比してみた。具体的には、洪秀全の自國認識は 「脫魂的な空間認 識」という側面から、そして中山みきの場合は、「憑依的な空間認識」という 側面から探ってみた。自國認識とは、結局のところ、それを取り巻く社会 の世界觀や空間認識と深く関連するものであると、筆者は考えているか らである。 洪秀全の神秘体験や盤古神話には全世界(天下)に対する展望が詳細に 描かれている。また天下がまず提示されたりあるいは形成されてから、 その後國家、すなわち中国世界が登場する。洪秀全の自国認識は、まさ にこうした世界観の枠の中で形成されたものであり、それは基本的に全 世界の形成や秩序を念頭においた自國認識であると言えよう。ところが 中山みきの神秘體驗や彼女が提示した 「泥海こふき」そして 「記紀神話」 に見られる自國認識は、洪秀全の場合とは対照的に、まず國家に対する 強力な強調から始まるのが特徴である。とりわけ 「泥海こふき」や 「記紀 神話」は、まず日本がこの世界に形成されてから自然の様々な事物や現象 が形成される。こうした両者の本質的な差異が、洪秀全や中山みきの自 國認識に深い影響を与えていたと言えよう。

7

6,400원

日本近世茶道の大衆化と批判論の台頭 日本の茶道は長年の歴史の中、多様な観念を背景に展開されて来た。武士社会を中心として茶道の形成期には茶禅一味思想が強調され、禅の境地を重視し精神性が強調されたが、江戸時代に入ると町人文化に編入され大衆文化である遊芸と認識され、裕福な町人の高級な芸能文化の一つとして位置づけられた。 本稿で論議しようとするのは町人社会に遊芸として愛好された茶道に関する問題である。町人の中には茶道などの遊芸に夢中になるあまり財を費やしやがて沒落する場合もある一方、若い頃は遊芸を避け隠居後に楽しむ場合もある。このような事例から遊芸のもつ二重的価値が読み取れる。 江戸時代に茶道が遊芸化すると、これを指導する師匠の必要性が生じる。また社会的な権威が認められる師匠は、家元として茶道の教習システム、すなわち稽古体制を構築する。同時に家元は権威と家門の安全な繼承環境を構築するために教習権と兔許発給権を確保しようとし、稽古者は権威のある家元に所属することで安心感と社会的地位確立をはかる。このような過程は時間の経過にしたがってマンネリ化し副作用を生んだりしたが、家元は新しい教授方式の創案などで難関を乗り越えた。 しかし富裕な町人が茶道の中心的な稽古者になって否定的な側面がクロズアップされると、これに対する批判が茶道の内部と外部から起こり始まる。これによって茶道観はさまざまな変化が起き新しい方法を模索するようになった。 茶道は社交的性格、儀礼的性格、修養的性格、芸術的性格、遊芸的性格など実に多様な性格を持つ日本の伝統文化であり、どれ一つの側面だけでは説明しにくい総合芸術的な文化でもある。本稿は、このなかでもとくに精神性すなわち修養性を重要視す伝統を継承しながら、一方では遊芸化してゆく日本近世の茶道のもつ両面性とそのプロセスを把握しようとしたものである。

8

요시다신도의 교학사상에 관한 시론

이희복

한국일본사상사학회 日本思想 제11호 2006.12 pp.219-264

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

9,400원

吉田神道の教学思想に関する試論 本稿は吉田兼倶の神道著書を土台に吉田神道の教学思想を検討したものである。日本神道の教学思想は、神社神道を中心に発展した伊勢神道、神仏習合による両部神道の本地垂迹説を先駆とする。このような本地垂迹説と神社神道の特徴を巧みに組み合わせた吉田神道は自国中心の反本地垂迹説を代表する神国思想として表象されてきた。特に神道は万法の根本であり、儒教は枝葉、仏教は華実という神道根本論は、インドは果実、中国は枝葉、日本は根本という国家イデオロギーとして拡大解釈されながら近世日本社会へ広まった。近世儒家神道を学習してきた筆者が吉田神道に関心を持ち始めた背景もここにある。ところが本稿で検討した如く、神道根本論という国家イデオロギーの実体は、先行研究の表象とは異なり、微弱なものであった。兼倶の教学思想は戦国時代に突入するきっかけとなった応仁の乱の真っ只中で体系化されたものであり、安定と平和な暮らしを願う中世日本人をどうやって救済するかを工夫した宗教思想であった。カミとは人間の心であり、その人の心構えによって無病長寿や福祿除受が成就できるという心法神道を説明するために兼倶は建国神話から神々を招待し、儒教の五行陰陽説を活かして神々の調和を説いた。また両部神道の習合思想を越えることを掲げながら仏教思想である本地垂迹説を借り入れた教学思想であった。唯一宗源神道と強調した吉田神道で唯一とは、卜部家が神話時代の以来継承してきた唯一の神祇職という意味であり、宗源とは儒教と仏教が受容される以前、もっと遡れば原初的な状態で主宰するカミの調和をあらわす形態で体系化された。このように中世日本社会で兼倶が体系化した吉田神道はもっと開かれた宗教であり、教学思想であった。ただ、兼倶の教学思想は兼右と梵舜、近世の兼雄に受け継がれながら自国中心の神国思想が強まった。神道大意の変化から確認した如く、心法神道と十二代神の記述に止めた兼倶の教学思想は、延喜式内の神社鎮座、二十二神社由来、三十番神由来、などが加えられ、やがて 「神道は儒仏の宗であり、万法の源」という神道根本論が聖徳太子に仮託されて主唱されるようになった。しかしそれは近世日本社会で吉田家が十一世紀上代の兼直に仮託した家学でもあった。以上のような仮説を確立するには後続研究が必要であることは勿論である。特に兼倶が講義した 「神代卷」 「中臣祓」に関する研究が必要であり、また中世日本神道史の中で吉田神道が占める歴史的な意義の確認も必要であろう。

서평

9

4,300원

10

4,000원

 
페이지 저장