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日清戦争(1894-5)から太平洋戦争の敗戦(1945)までの期間は、日本が二年に 一度の割合で戦争ゲームに熱中した、いわば日本の五十年戦争の期間だったとい える。 日本が朝鮮半島の実権を事実上掌握し、日韓併合や第一次大戦参戦、シベリ ア出兵、満州事変ひいては十五年戦争へと突き進む契機となった日露戦争では、 日露それぞれで10万前後の人命が犠牲となり、戦費数十億円が費やされた。だが このような覇権維持と帝国建設の欲望と狂気に対する代価と犠牲を前に、日露の知 性は沈黙してはいなかった。トルストイは、戦争に興奮する日露の当事者に向けて 「爾曹悔改めよ」を発表し、キリスト教的人道主義の立場から戦争がもたらす惨禍 と犠牲、道義的退廃に警告を発した。与謝野晶子はトルストイのメッセージに触発さ れつつ、徴兵された弟の生還を祈願する反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を詠ん だ。彼らが共にヒューマニズムに訴えて、戦争に狂奔するロシアと日本に異議を唱え たことの意義は、決して軽視すべきではない。 1903年4月、ロシアが満州還付条約で定めるの満州からの第二次撤収期日を破 ると、東京帝大法学部の戸水寛人以下7名が、韓満交換政策に反対してロシアと の衝突不可避を主張する「対露意見書」を6月24日付東京朝日の紙面で発表す るなど、新聞各紙は対ロシアの強硬路線を煽り、日本国内では急速に主戦論が高 まった。ついに数回の御前会議が開かれ、朝鮮の保全とロシアとの開戦が決定され た。 医療哲学者カンギレムによれば、正常とは本来、生命の規範についての表現で ある。そしてこの規範は、正常な状態よりむしろ逸脱状態においてよく確認される。このような認識は 、肉体だけでなく精神にもあてはまる。日露戦争前夜は、いわば精神 に主戦論という虫歯ができた人々が多数を占めている状況だった。しかし、歴史の 逸脱状態をよく認識(診断)していた正常(健康)な少数者は、生命の規範にも等しい 健康な歴史の意味を構築し得たのであった。少数とはいえ、彼らは歴史のリトマス試 験紙としての役割を果たした。 20世紀初頭の日本で戦雲を感知した「リトマス試験紙」は、『万朝報』 『平民新聞』などの一部言論と、キリスト教徒、社会主義者などからなるヒューマニ ストの一団であった。内村鑑三はロシアとの開戦危機が高まると、社会主義者幸徳 秋水、木下尚江、堺利彦らと共に『万朝報』で反戦の論陣を張り、戦争は決して 外交問題の最終的解決策ではないという趣旨の「非開戦論」や、戦争それ自体 の犯罪性を指摘した「戦争廃止論」などを発表した。内村らはその後も同紙上で反 戦平和運動を続けたが、同紙上での運動が頓挫すると万朝報社を退社し、内村は 『聖書之研究』『新希望』などで反戦言論活動を継続した。また秋水と堺は石川 三四郎・西川光次郎・安部磯雄・木下尚江・片山潜らと平民社を興し、機関紙 『平民新聞』を発行した。そこで秋水は論説「開戦論の流行」などで開戦不可 避論の背後に蠢く浅薄な感情論や虚栄心や利己主義などを暴露し、戦争の無益さ を説く一方、「ロシア社会党に与える手紙」では両国の軍国主義者に対する共闘を 呼びかけ、『ロンドンタイムズ』掲載のトルストイの「爾曹悔改めよ」を翻訳掲載し た。彼らは、圧倒的輿論だった戦争不可避論の意味を解体・脱構築すべく銃に対 してペンで戦った者たちの中で、最も大きな波を引き起こしたのである。 西田幾多郎は、国家の本質は歴史的世界の枠を作る形成作用にあり、価値形 成的で理性的で倫理的な国家となるところにあり、そのため国家は先ず、歴史的世 界を形成するための世界史的使命を担わなければならないと主張した。しかし彼は、 20世紀初頭から日本が辿った道はこれに反しており、皇室を主とし日本を主体化する こと即ち皇道の覇権化・帝国主義化に過ぎないと指摘した。日本精神の真髄は 「物に於ても事に於ても一となる」ことにあると、いわば矛盾的自己統一の皇室中心 主義を説いた西田は、1905年1月5日の旅順高地攻略で日本国中が祝賀ムードに 沸いた晩の日記に「幾多の犠牲と遥遠な前途に思いを致さず斯くの如き莫迦騒ぎに 興じるとは人心は浮薄なもの」と書き、1932年11月に親友山本良吉へ送った書簡でも「皇室が反動的な 思想勢力と結びつくのはこの上なく危険なこと」と軍国主義者を 非難した。またちょうど旅順攻略の40年後、敗戦直前の3月某日書簡で「我国の皇 室については…我々の予見した通りになりました。…民族の自信を武力に置いたこと は根本的な過ちだったと思います」と「遥遠な前途」への憂慮が半世紀の戦争で現 実化したことへの悔恨を記した。 西田は、一つの民族国家を中心とする帝国主義的理念は今や過去の遺物に過 ぎず、今日は全世界を一つの世界的空間となす世界的自覚の世界史的時代に入っ ており、真の世界平和実現のためには、世界史的使命を自覚した諸民族と国民 が、各自の地理的条件と歴史的伝統によって自ら構成する特殊的世界を通して一 つの「世界的世界」に結びつく「各自が自らに即しつつ自己を越える」世界新秩 序の原理によらねばならないと述べる。それはまた、帝国主義的国家主義が構築 し、軍部とそれに附和雷同する偏狭な日本主義者・皇道主義者が依拠する狂信 的国体論を脱構築(解体)するため、西田が仕掛けた「意味の争奪戦」「解釈の 争奪戦」でもあった。 日露戦争、それは果てしない歴史的「意味の争奪戦」である。この戦いは一世 紀が過ぎた今なお終わらず、ただ戦場が歴史の中に移動しただけである。 『文芸春秋』が1999年、2003年に日本の著名人対象に行なったアンケート 「20世紀に書かれた後世に残る本」「日本を見直す最良の本」で共に一位を占 めたのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』であった。明治時代の人物群像で国家 論でもあるこの小説が注目を集める理由は、日露戦争のハイライトである旅順203高 地の攻防戦に最大のクライマックスを設定している点に求められよう。しかし我々の興 味をひくのは、日露戦争についての司馬遼太郎の解釈よりも、現代日本の著名人が この本を支持している事実のほうである。また2006年にはNHKで全20回でのドラマ 化が予定されており、その時には100年余り前に終幕した日露戦争は、日本のお茶 の間と日本人の心の中で再現されることであろう。 一方ロシアでも、たとえば歴史学者のマルク・ドイッチは、2004年3月15日付の 『モスコヴスキ・コムソモレツ』紙上で論文「日露戦争、失敗か勝利か?」を発 表した。ソ連共産党のイデオロギーが禁じた質問が今になって現れたのである。彼 は、全権大使ウィッテが日本側の戦争賠償金47万ドルの要求を拒絶したこと、旅順要塞の戦闘でも死傷 者がロシア側1万7000名に対し、日本側11万名だったこと、そ の上戦争の原因となった東清鉄道を日本に譲らなかったことという事実を挙げて日露 戦争を再評価し、「ロシアは負けていない」と主張した。 しかも彼は、東清鉄道は日本が考えていたような極東支配の軍事路ではなく、今 日の極東ロシアの経済発展が立証するように通商路だったと強調する。日露戦争 100年後の現在、そのルートに沿って石油の供給を求めている日本は、ドイッチの主 張にどう答えるだろうか?
5,800원
日露戦争はメディアの転換においても、また戦争の方式においても戦争の前後に 相当な変化の見られる戦争であった。メディアにおいては、写真が日露戦争の様相 を伝え、何よりも映像により戦争の姿を一般民衆に伝えた点で新しいメディアの変遷が みられた。日露戦争に動員された人数は109万名に達し、家族を戦争に送ったのも 膨大な数に至り、家族の安否を気遣う神経が日露戦争期の映像の上映がなされた 映画館に足を向けさせたのであった。このような事態は相対的に自由にメディアに描 かれ、戦争を嫌悪する雰囲気さえ相対的に描くことができたと思える。また、列強の 仲間入りをしたと日本人に意識されたのは日露戦争であったので、日露戦争での勝 利は日本人の新たな自負心を養い、西洋列強に対して歪んだ優越心を植えるように なった。 その結果、軍部は日露戦争では、建前として防禦戦争を名分としてたが、戦争 終了後には国策レベルで「攻勢主義」的軍事戦略が採用され始めた。具体的 には「軍令」と「帝国国防方針」である。これは軍事官僚機構の自立化を意味するも のである。その結果陸海軍の統帥部が主導権を掌握するようになり、このことは、日 本の軍部がアジア太平洋戦争にいたるまで軍部の独走をもたらしたものであった。何 よりも日露戦争終了後、軍部の発言力を高めたのは、植民地領有、支配と密接な 関係によるものであった。朝鮮や満州において日本軍を中核とする軍事支配体制が 確立し、朝鮮では民族的抵抗が激しくなったためこれをを抑圧するため軍部の機能と 役割が強化されるに至ったのであった。その結果、軍事官僚機構の政治的発言力 を高め、軍事官僚機構そのものが独自的に政治勢力化する基盤となった。 また、日露戦争の終了後には日本軍隊特有の精神教育が強化されたのも注目に 値する。これは膨大な軍隊の動員と新しい都市化、社会主義思想などの影響により 批判意識をもつ層が軍隊内部におこったのと無関係ではない。また、新しい兵器の 登場により戦術の関係上、軍紀の強化と末端の担当者として兵士の単位として軍隊 の末部まで意識教育が必要であると認識されたことによる。このような精神教育が天 皇制イデオロギーと接合したのもこの時期の特徴であるといえよう。歩兵操典改定後 の基本1項には「操典に採用する所の諸役の制式、訓練及び戦法は悉く国体、民 情、地形に適い、且国軍の組織と其境遇とに応せしむること」とされているが、ここ に天皇を意味する国体が明記され、以後、戦争イデオロギーと天皇との連結が日本 軍隊の特色をなすに至ったのである。 日露戦争後独自的な政治勢力として軍部が成立することによって、日露戦争を境 界として天皇制イデオロギーが確立し、西洋に対する感情は変化しはじめた。本稿 ではこのような変化を近代的意味の漫画としてはじまっている政治風刺と言論風刺の 領域の絵図を素材として具体的に変化の意味を探ろうとした。日本軍部の独走の方 向性は維持されますます進行し拡張されこのような動きにブレイクがかかるのは1945年 の日本の敗戦を待たなければらならなかったのである。
7,600원
本稿は、朝鮮前期の通交違反者を硏究するための基礎作業として、倭人統制 策の實施背景とその內容、そして通交違反者に対する流刑および處理などについて 考察したものである。朝鮮初に實施された多樣な倭寇對策により、倭寇の侵入は少 しずつ減少し、日本から渡航してくる通交者は增加した。朝鮮では、通交者の增加 による治安․經濟上の負擔と、對馬島征伐以後における倭寇に対する自信感、そ して日本の國內情勢に対する知識の擴大などを背景として、倭人を統制するための 書契․圖書․文引制度や、歲遣船の定約など、様々な制度が實施された。 倭人統制策を實施する過程で、これに違反して渡航する倭人たちが発生し始め た。この通交違反者の類型を見ると、書契․圖書․文引を僞造․變造したり所持 しない事例や、書契に記錄されていない物品を私的に進獻した事例、私圖書や死 んだ者の圖書を使用する事例や、期限切れの文引を使用した事例などが存在す る。また、數外の歲遣船を定約分の歲遣船と重疊して送った事例や、歲遣船を定 約しない事例など、歲遣船と関連した違反者も多かった。その他にも、はじめて通交 したり、通交が斷絶した後に再び通交した事例や、日本國王の名を稱託したり、使 節․格軍などを稱託した事例、受職倭人が私船を派遣した事例や、孤草島釣魚 禁約を違反した事例などが確認された。 これら通交違反者に対する朝鮮政府の處理を見ると、違反事實がはっきりしている 場合には、進上と肅拜を拒否し、過海糧を與えて送り返した。しかし、通交違反者 の違反手法が多樣かつ巧妙であったため、違反事實を明らかにする事は簡単では なかった。そのため、朝鮮側で通交違反者と疑ったとしても、彼らを送り帰さず、諸 事情を考慮して接待することを許し、さらには違反事實が判明した場合であっても、 彼らを處罰せずに上京させて接待したりもした。朝鮮では倭人たちに要求した外交儀禮、すなわち書契․ 圖書․文引の所持と進上․回賜の朝貢貿易という形式を満た していれば、通交違反者の眞僞與否は特に問題視しなかったようである。このように 朝鮮政府が通交違反者を强力に取締ることをせず、微溫的な態度で處理した理由 は、遠方から来た使節は薄待できないという名分論と、日本との不和および倭寇の 再發可能性のためであった。 一方、多くの通交違反者が発生すると、朝鮮ではそれに対する處理を對馬島主 と議論したり、違反事實を對馬島主に通報したりした。これは、通交違反者を處罰 することよりは、對馬島主に対し文引發行に愼重を期するように警告する意圖からで あったと考えられる。だが、朝鮮政府が對馬島主を通して間接的に通交倭人を制限 しようとした方式は、對馬島主が正しく文引を發行しているかを確認する制度的裝置 がないという限界を有していた。このような間接統制方式と文引制度の限界性が、通 交違反者を增加させる要因となったのである。
6,600원
外交使行は両国のそれぞれの政策が表現される一次的ルートである。よっ て、外交使行体制がどのように構成されたのかを分析すれば両国の外交における 特性を把握できる。 これまで朝鮮後期の韓日外交関係史を論ずる時、外交使行システムという 観点から本格的に論議されたことはない。通信使行に関する多くの研究があるだ けである。研究の集中による現象といえるのであろうが、‘善隣友好’と‘文化交流’ の象徴としての通信使行に対する肯定的な評価が古代と近現代の暗い韓日関係 史を克服できる教訓的な事実として作用した面が大きいだろう。ただし、実体にア プローチする韓日関係史の成立を困難にするという否定的な作用をも内包しているこ とも事実である。 その一つ目として、朝鮮は将軍の襲位を祝賀するために江戸に国王使節 (通信使行)を派遣したという事実のみが強調された点である。外交は双方の関 係人的物的交流相互間定枠組中共存であるためものめられたみのでするもの、 通信使行派遣双方観点言及歴史的事である。よって、のものからされてこそより 実に近づいて評価できる。しかし、通信使の派遣のことしか言及しなければ、とも すると日本の優越的対等、つまり朝鮮は国王使節を派遣したが日本は国王使節 を派遣しなかったので、日本が相対的に優位だったという表面的な評価の域を出 られない。朝鮮から日本に派遣した通信使行と問慰行、そして朝鮮の対日外交 使行体制に対応する日本の対朝鮮外交使行に対する分析も同時になされなけれ ばならない理由もこの点にある。そうした視点から通信使行と大差倭、問慰行と小 差倭の使行体制を設定してみることも可能であろう。 二つ目として、外交は自国の国内外の情勢を反映するもので、国家間の関 係を検討する際は相手国の状況を分析しなければならない。自国内の状況だけ で国家間の関係を規定してしまうのは、コインの一面だけを見るのに等しいからである。17世紀初めの 韓日関係史はこうした観点から朝鮮の問題を単純化して理解し ている。つまり、朝鮮は日本の交渉要求に‘南方の安全’を図るために応じたという 評価になっている。従って、朝鮮では光海君から仁祖へと続く政治勢力集団の変 化にとそれにともなう対外政策の再編という多様な観点から分析しなければならな い。そういう点で、仁祖政権の登場以降、後金の成長に伴う名分外交から実利 外交への転換が対日交隣体制の再編をもたらした事実に留意する必要がある。 三つ目として、朝鮮後期の韓日関係史は基本的に‘善隣友好’、‘誠信交隣’ を基本にしたことは否定できない事実である。両国が対等な関係で外交を推進しよ うとした点も他の時代の韓日関係史には見られない肯定的な要素である。しかし、 倭寇、倭乱などの直接衝突や北東アジア情勢の中での自国の安全保障という現 実的要求が内在していたために、‘対等’の‘交隣’は多様な形で表れた。これにつ いての分析と検討が行なわれなければ、朝鮮後期の韓日関係史に対する日本の 歴史教科書記述のように朝鮮⇔日本ではなく、朝鮮(国家)⇔対馬藩(地域) の枝葉的な関係と認識される余地が残ることになる。 最後に、17世紀の初めに対日外交関係が再び正常化する過程で顕著に表れ る現象は、自国中心で相手国の行動を理解しているという点である。すなわち、 歴史的な真偽如何による政策判断よりは国内的なヘゲモニー掌握という大命題の 中で、名分を確保するための一連の行為を要求しているのである。従って、今後 の韓日関係史研究で、当時の朝鮮と日本が相手国の外交行為についてどう理 解していたのかを更に綿密に検討しなければならない。過去において両国の外交 担当者がどう理解し、問題を解決していったのかを理解するなら、未来志向の韓 日関係史が可能になるであろう。
7,800원
本稿は、近代韓日関係の展開過程における近世倭館の性格と、その地 位がどのように変化したかについて考察したものである。検討対象時期は、 1868年の日本における明治政府成立から、1876年の朝日修好条規、そし て1877年の釜山口租界条約の締結によって、草梁倭館が日本の專管居留 地に転換するまでとした。 硏究結果をごく簡潔にまとめると、次の通りである。 第一点は、1873年に明治政府が草梁倭館の名称を大日本國公館に変 更し、外務省直屬に編入した「倭館接收」行爲は、明治政府成立初期 から準備された日本の緻密な対朝鮮侵略意圖の結果であったという点であ る。草梁倭館は朝鮮の対日交涉窓口であった対馬島に対して提供されたも のであり、もし対馬島が交涉窓口としての機能を喪失するならば、倭館の存 続は必要でなくなる。そうなれば、倭館の管理と管轄は、対馬島から朝鮮政 府に還元されねばならず、倭館が位置する草梁地域は、當然釜山の草梁 邑に帰属することにならねばならぬ。それにも関わらず、明治政府は朝鮮政 府に対して何の協議もなく、対馬島から倭館の移管を受け、外務省直轄の 公館としたのである。 第二点は、日本の明治政府は、条約內容を変質させてまでも自分たちの 不法行為を合理化した点である。1876年の朝日修好條規をはじめ、朝日 修好條規附錄、釜山口租界條約など、朝鮮と一連の条約を締結する過程 で、その內容を巧妙に変質させ、倭館地域を日本の專管居留地にしたので ある。その中でも、1877年に締結された釜山口租界條約は、釜山が日本 の專管居留地化するのに決定的な役割を果たしたのみならず、以後の元 山、仁川、木浦、馬山などが日本專管居留地として設定される際や、朝 鮮が西欧列强各国と締結した租界条約のモデルとなったという点からも、特 に注目すべきである。 この問題は、朝日通交體制の改編過程で、近世倭館をめぐる解釈が日 本政府によってどんなに不法的かつ恣意的に行われたかということを垣間見せ てくれる。そして倭館は以後、日本の韓半島侵奪の前哨基地となる運命をた どることとなるのである。
하니 모토코(羽仁もと子)의 신앙과 전쟁 - 한 여성 그리스도인의 반전과 전쟁 지지의 논리 -
한국일본사상사학회 日本思想 제7호 2004.10 pp.151-175
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本稿の目的は、女性キリスト者として社会運動・教育事業にたずさわった羽仁 もと子が、反戦と平和主義の立場から一転して戦争支持と協力へ傾いていく過程 を考察し、その思想的背景と論理展開の流れを明らかにすることにある。明治啓 蒙期の高等教育を受けて成長した羽仁もと子は、大正期の自由主義的な風潮の 中で、人に先駆けて婦人向けの雑誌を作ったり、自分の教育哲学による学校を 創立するなど、当時の日本社会の多方面にわたって先駆的な役割を果たした。 近代日本の時代的な特徴を体現している代表的な女性エリートといっても良いであ ろう。 しかし、篤実なキリスト者として、満州事変期まで完全平和を主張していたもと子 は、日中戦争と第二次戦争を経つつ態度を変え、積極的な戦争協力者になって 行った。筆者は、このような態度の変化が、単なる外部からの政治的な圧力や実 質的な利益を得るためというよりは、日頃からの彼女の聖書解釈やキリスト教的な 世界観と深い関わりがあるという事実を証明しようとした。その結果は次の通りであ る。 武力による戦争に反対していた時期から、もと子が自分の信仰に基づいて幾つ かの「正当な戦争」を肯定していたことは注目に値する。それは、簡単にいえ ば、彼女の生涯を貫いている信念でもあった「自由」と「進歩」を求めるための 「戦い」、そして「愛」から起因した「争い」であったのである。特にもと子の 「進歩」に対する執着は、聖書中の創世記に書かれている、アダムとイブの物 語に関する彼女だけの独特な解釈に至って明らかになる。もと子は、アダムらが神 の命令に背いて「知恵を知る木の実」を食べた行為を、「罪」というより「進歩のためにやむをえない 行為」と見なすことにより、「進歩」を最優先とし、それを妨 げるものに対しては、戦いさえ憚らない考えであることを表している。ただし、抽象的 な意味での戦いの必要性は認めたものの、本格的な武力戦争までは認めていな かったのである。 羽仁子領土対強執着強烈愛国心持主のみならず、もとが、にするいとなのちで あったのが確認される。おそらくそれは、彼女が受けた教育や成長の環境と関わる ものであろう。もと子は、日本の領土拡張が国にとって領土の喪失を意味するとい うことに気づくことが出来ず、単なる神からの祝福の証拠と受け止め日本の領土拡 張を念願していた。彼女にとって、キリスト教信仰は領土拡張の欲求を阻止するど ころか、その欲求を正当化する根拠として利用されていたのである。そしてそのよう な傾向は、成功した戦争あるいは勝利をおさめた戦争は、神から許諾された正し い戦争という確信に繋げられる。それに加え、日本に対する愛国心は、聖書の中 でイスラエルという国を愛さなかった者は、神から祝福されなかったという論理によっ て支えられている。 以上のような考えを持っていたもと子は、日中戦争の勃発という情勢の急変にあ たって、その戦争遂行の正当性をキリスト教信仰に立脚して主張し始める。戦争 の相手が同じアジアの中国である場合には、中国と戦って勝利するように神によっ て日本が選ばれたのだと言う。その反面、相手が欧米列強である場合には、神 の意志に背いた国際情勢を変えて平和を回復するために不可避な戦いだと言う。 それだけではなく、戦況次第によって、彼女の情勢理解と論調における差異が顕 著になる。日本に不利な戦況では、戦争の相手を「サタン」と見なしてもっと積極 的な戦いを注文し、日本が絶望的な状況に追い詰められると、戦争を神の前で の「日本自身との戦い」と定めるなど、当時の時局をキリスト教に基づいて解釈し 続ける。 しかし、論調の変化はあったものの、日本が行なっている戦争の正しさを確信 し、後方で協力しようとする姿勢だけは変らなかった。戦争自体に懐疑を抱くと か、疑義を示すことはほぼ見られなかったのである。それだけではなく、敗北が明 らかになった時には、隣国に対する謝罪や現実を見極めた上で厳重な反省を行う より、「神が日本に試練を授けた理由」を探すことに没頭することによって、結果的には戦争の責任問 題にも沈黙することとなったのである。
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近代日本の国民国家形成期に新しく日本美術史が成立し、その成立には岡倉天 心が中心的な役割を果たした。そのため天心の活動を中心に日本美術史の成立過 程を考察すること自体が日本の国民国家形成期に美術史の役割を理解する上でも肝 心な側面を明らかにしてくれる。 日本美術史が体系化される頃、その前提といえる美術に対する認識は国家主義 と密接な関係をもっていた。天心が『国華』の創刊辞に"美術は国の精華なり"と いったのもその一例であり、同じ認識は明治初期の洋画家である高橋由一の場合にも 確認することができる。天心が日本美術史を成立させる過程で江戸時代までの畵史 や畵傳が参考になり、西洋美術史についての知識が刺戟剤になったことが想像される が、それに加え広範な実物の調査が行われた。特に1888年以後九鬼隆一が企画し 行った調査では21万点を越える膨大な量が調査され、日本美術史の成立のみなら ず、文化財保存? 槨역?897年制定された古社寺保存法、美術史編纂にも大事な 基礎になった。さらに、天心の調査は中国にまで至っていた。日本美術史のもと探し の一環といえる中国現地調査は1893年7月帝国博物館の出張命令で始まり5ヶ月に 及ぶ調査では竜門石窟調査などの学術的成果を上げた。帰国したあと天心が書い た「支那南北ノ區別」や「支那の美術」などは奈良時代の美術に影響を与えた中 国の漢、魏、晋、そして唐の時代の美術を調査した内容とともに中国の河北と江南地 域の地理的環境、文化の違いなど述べるとともに図式的認識も現している。 天心が調査した資料が仏教寺院の所蔵品や建築、石窟などであったため今日の 中国美術史に関する知識とは隔たりがあるものの、日本古代仏教美術が中国の影響 を受けたことを直接確認した点は意義深い。また、そこには日本の歴史と伝統文化の 中で内在化していた中国の文化遺産を対象化した点も指摘できる。 このような過程を経て成立した近代日本の日本美術史は国家と美術の密接な関連の上で造形物を通して の過去再構成作業の結果であった。それは当時日本人の文 化的identityの確立に大事な資産になり、博物館や出版物などで文化的統合を果た すにも貢献したのみならず、西洋に対する造形的対応において伝統というものが重要な 手段になれることを示した。つまり、当代の美術分野での実践とも強く結びづけられて いた。 ところが、天心が中心になった日本美術史の成立を理解するに当たっては他の分 野とは異なった状況が考慮されなければならない。つまり、ジャポニズムで見るように西 洋という‘強い他者’の目が背景にあり、西洋人なるフェノロサの活動によってその基盤 が与えられたことである。高木博志氏はこれを近代日本で日本美術史は欧米に対す る自画像として描かれたと述べたことがある。 第二に、考えるべき点は天心の態度である。彼の態度は欧米に広まったジャポニズ ム迎合する一方で、より主体的面を含めている。東洋の歴史と文化についての西洋 人の物足りない理解を利用し東洋的神秘主義に繋がりうる大事な試みを見せている。 『東洋の理想』に出ているように、その中心が日本であることはいうまでもない。結局 近代日本で天心の主導で行われた日本美術史の成立は西洋に対する対応という点 では二つの側面があり、すでに文明国として日本にとっては‘強い他者’なる西洋に対 してその見方を受け入れる一方で、それを主導的に導こうとする試みまでを含めてい る。そのため天心の態度には‘妥協、そして牽引’という両面が読み取れる。
문부성 미술전람회 개최와 미술의 제도화 - 러일전쟁과 일본적 회화의 창출운동 -
한국일본사상사학회 日本思想 제7호 2004.10 pp.199-245
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明治維新を通じて日本が志向した近代性は西洋の政治構造を取り入れて 近代國家としての面貌を取り揃えることと同時に國家の本質を成す日本人として のアイデンティティを創造するのだった。1885年に內閣制度の樹立,1886年學 校制度の整備,1889年憲法發布で立憲國家としての面貌を取り揃えた日本は 明くる年,1890年敎育勅語發布で天皇制が制度的ㆍ精神的に完備されて 行った。美術分野は1889年に東京美術學校の設立をきっかけで美術の制度 化は飛躍的に發展して行った。日露戰爭後東京美術學校に西洋畵科が設 置されながら西洋美術をどのように日本の敎育制度の中に取り入れるかというこ とが最大の觀心事だった.しかし、漸次的に西洋美術の勢力が拡がりながら西 洋美術を單純に收容するよりは日本の情緖と風土に當たるように變形させなけ ればならないという意見が壓倒的に廣く擡頭した。それは1900年にパリで開催 された世界博覽會で西洋美術の成績が低調で西洋美術の勢力に押えつけら れていた日本美術家たちの不滿の表現でもあったが、日本が亡びるという悲 壯な覺悟で臨んだ露日戰爭で勝利によって日本の大衆は强く日本民族と國 家を意識し始めた。政治もこれを助けで世界と堂堂と自立する日本のイメ-ジを 新たにつくろうと思った。 文展はそのような狀況のなかで開催されたのだ.露日戰爭の翌年、文展開 催の決定が出たが、黑田はその以前から政府が主導する展覽會の必要性を 力說した。彼は具体的に政府が美術界全般を指揮,監督する政府傘下機構 が設置されなければ美術が“秩序ある發展”ができ、“日本人の趣向に相應し くて,日本に根據を置きながら西洋人に称尿受けることができる”美術品を作り上げることができると申 し立てた。その後、文展の開催が決定されると黑田は“日 本的という精神を忘れない”美術を作られなければならないという主張と合せて “政府下に統一”になった“一種の學士會”のような機構を立てて美術界全般を 統一,監督して,美術家養成と展覽會開催などの仕事を任せて美術發展を成さ なければならないと言った。 黑田を含めた多くの美術家,美術行政家の要求どおり“一種の學士會”のよう な帝國美術院が設立されて美術全般の仕事を擔當した。この機構の成立に より、美術はまさに“秩序ある發展”が要求され、政府が容認しない畵風と新し さを追い求める美術家たちは國家から排斥された。そして御用作家のみを養成 する機構で轉落した。政府が文芸保護振興という名目で芸術統合に出る夏 目漱石は“政府が國家的事業の一端として、保護獎勵を文芸の上に与へんと するのは、文明の當局者として固より當然の考へである。けれども一文芸院を 設けて優に其目的が達せられるやうに思ふならば、恰も果樹の栽培者が、肝 心の土壤を問題外に閉脚しながら、自分の願に入つた枝丈に袋を被せて大 事じ懸ける小刀細工と一般である”と指摘した。漱石は政府による文芸保護獎 勵は自由な芸術の創作のためののではなく、國家が願う芸術のみを獎勵する ためのことだと思っていた.漱石の予測どおり日本の文芸は制度化を通じて思想 的統制をいっそう强化して行ったのだ。
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