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일본언어문화 [Journal of japanese Language and Culture]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본언어문화학회 [Japanese Language & Culture Association of Korea]
  • pISSN
    1598-9585
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    2002 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 495
제22집 (34건)
No

招請講演

1

日本語学習のためのeラーニングサイトと教師の関わり方三つのサイト開発を事例に

上田和子, 田中哲哉, 川嶋恵子

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.5-20

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4,900원

2

5,100원

This study aims to investigate Japanese conversation course cases operated by Dep. of Japanese Language of Cyber Hankuk University of Foreign Studies, such as Japanese conversation course contents and video lectures, and discover problems on-line conversation courses while seeking improvements at the same time. The subjects of this study, on-line courses, consist of 'situation Japanese conversation', 'role-play Japanese conversation Ⅱ’ and 'video lecture'. Situation Japanese Conversation and Role-play Japanese Conversation Ⅱ are on-line conversation contents mainly developed for learners in the second and fourth years of university, while Video Lecture indicates on-line conversation courses provided in real time for fixed hours over the internet. This study investigated problems occurring while such a course is actually being managed and administrated and the related improvements, and the results can be summarized as follows: Firstly, it is needed to make an attempt to comprehend how these various functions of on-line contents are actually used by learners for classroom activities of off-line conversation courses. Secondly, to properly provide on-line conversation courses for hundreds of learners, it is needed to secure proper human resources and reinforce the connection between teaching staff and contents developers so that one-line learning contents may be established as an organic and systematic system with off-line courses as well as other on-line mediums.

3

6,000원

本稿は「内容(なかみ)」から見た「お・ご~いたす」の使用様相について、ビジネス日本語教科書の用例を資料とし、分析・考察を行ったものである。コミュニケーションにおける「人間関係」「場」「意識(きもち)」「内容(なかみ)」「形式(かたち)」の五つの要素の連動を重視する「待遇コミュニケーション」を理論的根拠としている。「お・ご~いたす」という「形式(かたち)」を用いた敬語表現の「内容(なかみ)」について分析・考察を行った。「お・ご~いたす」は「お・ご~する」と「~いたす」が合わさった敬語形式である。「お・ご~する」の動作に関係する人物を高くするという敬語的性質を持つ謙譲語Ⅰ(間接尊重語)と、「~いたす」の「相手」と「場」に対する「改まり」を表すという敬語的性質を持つ謙譲語Ⅱ(丁重語)の性質を併せ持つ敬語として位置づけされる。「お・ご~いたす」を用いた敬語表現の「内容(なかみ)」は、大きく実質的な意味の「行動」(「自分」の「行動」には「宣言」と「申し出」、「相手」の「行動」には「依頼」)「情報伝達」と、非実質的な意味の「あいさつ」に分けることができた。実質的な意味を持つ「お・ご~いたす」を用いた敬語表現の「内容(なかみ)」のなかで、「宣言」「申し出」「依頼」「情報の伝達」の実質的な意味を持つ四つのすべてに共通する「内容(なかみ)」は、「説明」であった。「宣言」「申し出」「依頼」の「行動」のすべてに共通するのは、「電話」「連絡・伝達」であることがわかった。「自分」の「行動」である「宣言」と「申し出」に共通するのは「助力」で、「自分」の「行動」である「申し出」と「相手」の「行動」である「依頼」に共通するのは「呼出」であった。まとめると、実質的な意味の「お・ご~いたす」の敬語表現の「内容(なかみ)」における使用の頻度は、説明─電話、連絡・伝達─助力・呼出、の順であった。

4

5,100원

本稿は、反語文におけるレトリカルな文法装置の中で<指示詞の使用>に焦点を当て、日本語の疑問型反語文を対象に<指示詞の使用>というレトリックを考察したものである。カード化したデータ(873例)の指示詞分布は「コ系列(9%)-ソ系列(29.8%)-ア系列(5.5%)」の順で、「ソ系列」の使用頻度が高いことが確認できた。なお、一般会話文とは違って反語文にはいろいろな指示詞の中でも「コンナ・ソンナ・アンナ」の使用が多く、そこには話し手のマイナス評価が読み取れやすいことも確認することができた。実例分析を通しては、「コンナ・ソンナ・アンナ」が規定する名詞と「コンナ・ソンナ・アンナ」と共起して名詞を規定する形容詞(相当表現)から、<指示詞の使用>というレトリックが話し手のマイナス評価を伝達するのに深いかかわりを持っていることが分かった。結局、<指示詞の使用>は反語文独特のレトリカルな文法装置の一つであり、話し手の主体的な態度を表すために用いられるレトリックであることが明確になった。

5

6,900원

「-的」は,白話小説など中国俗語文学の影響によって近世末期から日本語に現れ始めたと言われている。そこで本論文では,中国俗語文学の「-的」の用法がどのように近世日本語の「-的」の用法に影響を与えたか,その具体的な様相を把握するために考察を行った。まず,近世・近代日本語にみえる実際の「-的」の用法における形態論的・統語論的な分類基準を中国俗語文学に投影させて,近世において中国俗語文学の「-的」をどのように認識・解釈したかに関して考察した。続いて,中国俗語文学における「-的」の用法がいかなるものであって,またその影響によって導入された「-的」はどのように変遷していたか通時的に考察した。その結果,中国俗語文学の「-的」の用法に対する近世日本での統語論的な認識・解釈を基盤として「-的」が日本語に導入されたことが分かった。その際,近世和文には新しい用法が派生されたが,例えば中国俗語文学の「-的」の用法に加えて,述定用法のような文における統語論的な側面での「-的」の用法も,もう一つの用法として認識・解釈されて新しく見られるようになった。また,和文では「-的」のみでその統語論的な意味と機能を表すことは容易ではなかったため,「-的」に文法表示として送り仮名を付することによって日本語化(導入)した。またその際にして,「-的」の語基として固有名詞を含む名詞(体言)を許容するなど,その語基における拡張も同時に行われた。最後に,中国俗語文学のその他・名詞用法の場合に人を表す用法(~する人・~である人)に加えて,近世日本語の「-的」には物・ことを表す用法(~すること・~である物)が多く見られるなど,用法の傾向においても変化が見られて,「-的」の語性においても変化が行われたことが確認できた。

6

「ようだ」「らしい」のモダリティ性

金惠娟

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.113-130

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5,200원

この論文は、「ようだ」「らしい」の<用法>と「過去形」の「主体的」「客体的」側面から「ようだ」「らしい」のモダリティ性を考察した。まず、「ようだ」「らしい」の<用法>の「主体的」「客体的」側面から分析した結果を述べると以下のようである。「ようだ」には<比況><様態><推量>の用法があり、<比況>は現状そのもののほかの表現での記述であり、この場合は「客体的」であると述べた。また、<様態>は話者が自分の感覚によって捉えた事態で、無標形式で表すこともでき、事実(に近い)であることから「客体的」であると述べた。それに対し、<推量>は事実を記述しているのではなく、事態に対する話者の心的態度を表し、「主体的」であると説明した。また、「らしい」には<伝聞><属性描写><推量>の用法があり、<伝聞>は事態の出所を表し、話者の心的態度というよりは、伝え聞いた内容の記述であり、「客体的」であると述べた。また、<属性描写>の属性とは、その社会の中で事実(社会通念)として認められたものであると考えられることから、<属性描写>は「客体的」であると説明した。次に、「ようだ」「らしい」のモダリティ性をこれらの過去形の意味から考察した。その結果、「ようだ」「らしい」は命題の過去形のように、過去の事態を「発話時において」客観的に述べる場合があることを示した。そして、この場合は「客体的」側面を持つ<用法>の場合にのみ現れるという制限があることを指摘し、この場合のタを「命題に近いタ」であると主張した。本稿では、以上の分析結果をもとに、「ようだ」「らしい」は「客体的」側面を持つ<用法>があり、また、「過去形」で現れる場合、命題のように、過去の事態を発話時において述べられる場合があることから、「客体的」であると述べた。そして、過去形を持つモダリティ形式の中で「ようだ」「らしい」はモダリティ性の低い、命題に近いモダリティ形式として位置づけられる可能性を示唆した。

7

SPOT得点差からみた心理的3欲求が動機づけに及ぼす影響

田中洋子

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.131-148

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5,200원

本稿は、韓国の4年制大学の教養課程で日本語を学習する韓国人大学生のSPOT得点の違いによる動機づけの変化を明らかにすることを目的とし、調査、検討を行ったものである。具体的には、1)SPOT得点による動機づけの違い、2)動機促進に影響を与えた心理的3欲求の特定、3)上達の要因として学習者が考えている授業活動、の3点について分析を行った。質問紙は、自己決定理論を基盤とした29項目を作成し、7件法で測定を行った。その結果、学習前は、長期群と中期群は、同一視調整、内発的動機づけ、自律性への欲求、有能性への欲求が高くほぼ一定の似通った特性を示していた。しかし、関係性への認識のみ学期初期には、長期群が中期群よりも肯定的なイメージをもっていた。短期群は、3欲求が長期群、中期群よりも低かった。1学期間の学習を経ることにより、長期群の学習者は典型的な外発的動機づけが減少したが、内発的動機づけや心理的3欲求には上昇はみられなかった。一方、中期群は外的調整と有能性以外はすべて有意な上昇がみられ、自ら意欲的に学習に取り組んでいることがわかった。短期群は外的報酬を求める傾向にあることが示唆された。内発的動機づけが有意に上昇したのは、中期群のみであった。内発的動機づけの上昇と心理的3欲求の変動をスピアマンの順位相関係数により相関を検討した結果、関係性への欲求の変動に関連がみられた。前半にグループ活動を取入れたことにより、関係性が充足され内発的動機づけの上昇に影響を与えたと考えられる。自己決定理論では、関係性は内発的動機づけの上昇において中心的ではなく副次的な役割をなすものとしている。しかし、本調査からは、文化による違いが示唆された。しかしながら、学習段階による違いも推察され、さらなる調査が必要であることがわかった。学習者が考える上達の要因としては、シャドーイングよりもグループ活動によるプレゼンテーションがあげられた。グループ活動により関係性への欲求も充足され、動機づけにもよい影響がみられることが自由記述から明らかになった。しかし、グループ活動による、どのような側面であるかについては、インタビュー調査をして明らかにする必要がある。実際の教育現場で求められることは、動機づけを高めるための教育介入を行うことであり、関係性への欲求を充足させるような活動を行い検証を重ねたい。

8

日韓ビジネス言葉の「保留表現」に関する一考察

松原嘉子

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.149-169

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5,700원

日本語のコミュニケーションの問題として曖昧さが指摘されることが多く、その中でも、誤解が生じた場合に大きな問題になりかねないビジネス上での依頼に対する返答において、はっきりと「受諾」「断り」をせずに「保留」する表現がある。本稿は、ビジネス場面の依頼において被依頼者が「保留表現」で返答した場合、依頼者がどのように認識するのかについて、日韓比較して調査、分析したものである。調査は、値引き依頼について被依頼者が「上のものと相談させてください」「考えさせてください」「検討させてください」「努力します」「最善を尽くします」の5つの「保留表現」で返答した場合、依頼者の立場で①受諾②やや受諾③保留④やや断り⑤断りのどの認識で受け取るかを日韓両国母語話者の社会人に対してアンケートを行なって分析考察するものである。調査結果をまとめると次のようになる。第一に、日本の「保留表現」に対する認識の特徴としては、依頼に対して返答自体を保留する「考えさせてください」等の「返答の保留表現」をした場合には、「保留」の認識が強く、それに比べて、行動は試みるものの行動の完了は保証しない「努力します」等の「行動の保留表現」をした場合は「保留」の認識が薄いということである。次に、韓国の「保留表現」に対する認識の特徴としては、認識に個別性が高いという点がある。「保留表現」に対する認識が「受諾」寄りか「断り」寄りかのどちらかにはっきりした偏りが見られず、均等に回答されていることからも、「保留表現」に対する個人的なイメージが大きく影響しているといえる。つまり、韓国では、「保留表現」は「保留」という役割を果たしておらず、依頼者のイメージによって、「受諾」にも「断り」にも受け取られる表現であると言える。最後に、「保留表現」を保留として認識するかどうかに日韓で大きな差があることが分かった。日本の場合、「保留表現」自体だけでなく、その会話全体から正確に得られる情報を判断材料とし、それに対する自分の考えなどの要因はあまり反映されていないものが多いが、韓国は個人の持っているイメージにより認識に大きく影響していることが分かった。当初の予想では、日本では曖昧さを重要視する社会的共通認識から、「保留表現」の返答に対し、YES,NOを判断していると考えていたが、調査結果からは、「保留表現」は「保留」で認識されていることが明らかになった。

9

名詞に接続する「さき」の意味と機能

方允炯

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.171-185

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4,800원

本稿は名詞に接続する「さき」の意味と機能について分析・考察したものである。その結果は以下のようにまとめられる。現代日本語の名詞に接続する「さき」は大きく次のような3つの場合に分けることができる。①部分を表す場合は「Nのさき」は基本的に前接名詞の突き出た部分を表し、形式名詞として機能する。②前方を表す場合は基本的に前接名詞を基準にして前の方向を表す。基本的には形式名詞の機能を果たすが、ニ格の発達が著しい。③時間を表す場合は基本的に前接名詞の事柄が行われる後続時間を表す。基本的には形式名詞の機能を果たすが、ヲ格の発達が著しい。以上のことを結論的に整理すると次のようになる。第一に、「Nのさき」の「さき」は、部分・前方・時間といった3つの意味を持っている。第二に、「Nのさき」の「さき」は基本的に形式名詞として機能するが、前方と時間の意味を表す場合は今後後置詞化する可能性がある。この点は前方や時間の意味を表す場合は特定の格が発達していることが裏付ける。第三に、「さき」に前接するNのタイプと述語のタイプは「Nのさき」全体の意味と機能に関係している。

10

5,400원

大量の発話・発話場面データにもとづいて話者の言語運用の実態が調べられる対談番組のマルチメディア・コーパスを、今後より多面的な分析に活用するため、コーパスにおける40時間分の音声文字化テキストをβ単位に分類し単位ごとに見出し語・品詞・語種を付与・搭載したが、その際、本来書きことばの解析のために開発された形態素解析プログラムを用いたことから、大量の誤解析が発生した。用いたプログラムは形態素解析システム用の日本語辞書“UniDic(1.3.12)”とオープンソース形態素解析エンジン“MeCab(0.993)”である。そして、その解析結果の精密度を測るためにサンプリング調査を行ったところ、β単位への分類及び各種の言語情報の付与は約97.52%の精密度で自動的に解析できるということ、その精密度は対談番組の対談形式によって大きく異なるということ、誤解析は主として「終助詞・間投助詞」「擬音語・擬態語」「感情表出表現」「未登録語(固有名詞・方言など)」「語形変化が伴った語」「非語彙的な母音・子音の拡張及び縮約が伴った語」のいずれかの言語項目において頻出するということなどが明らかになった。このように誤解析のパターンを今後とも精密に記述していけば、話しことばに十全に対応できる形態素解析プログラムの開発や、誤解析の発生を軽減させながら大量かつ精密に音声を文字化する方法論の模索にもつながると考える。

11

5,800원

本研究は、多文化化が進む社会的状況を背景に、日本国内の日本語教育現場に新たに参与し、日本語母語話者教師(Native Japanese Teacher;以下、NT)とのティー厶・ティーチング(Team-teaching:以下TT)経験を持つ現職の非母語話者日本語教師(Non-native Japanese Teacher;以下、NNT)の実践経験から、日本語教育現場における「教師間協働」へのプロセス、在り方を模索するものである。本調査では、日本国内の日本語教育現場で約3年間TTを経験した現職経験者、NNT10人を調査対象者として、各自のTT経験を振り返ってもらった。当時、NNTが担当したクラスは、日本国内某私立大学の日本語教育研究センターで開設された三つの「教科書型」日本語授業、初中級クラスである。調査時点(2010年~現在)において、NNTの多くが出身国に戻っているため、調査方法として個別メール、電話、チャット、質問紙調査を併用し、記録の文字化・コーディングを行った。調査項目の詳細は、(1)NNT自身の現在の状況の語り、(2)TT前後のイメージの変化-「日本」「日本人」「日本語」についての質問紙調査、(3)日本国内現場のTT経験の振り返り-求められる役割、教育能力・資質などに関する語りと質問紙調査である。調査結果、NNTは、全員、日本国内におけるTT経験を有意義であったと答えた。また、NNTに求められる資質、役割に関しては「人間性」を高く評価する反面、「専門的な知識」の必要性を強調していた。一方、日本国内現場に対する不安と期待に関してはNNTのTT体験による個人差が強く現れ、肯定的な評価と否定的な評価に分かれた。NNTは、TTの中で経験した①担当授業・科目の偏り、②非対称的役割の分担、③「内」と「外」の隔たりを問題として語った。 現在、日本語教育現場の参加者間の「協働」は、学習者側を中心としているが、今後、現場の教師間協働を模索するTTは、形を変え、試行錯誤を重ねながらも確実に進むと考える。また、教師間協働のプロセスとしては、先ず、教師を対象とした異文化・多文化理解教育が必要であると考える。そして、実際、教師間協働を行うためには、メンバー同士のコミュニケーションをサポートする必要があり、段階的なネットワーク形成が求められると考える。今後、更に多くの教師間協働の事例を見ていき、より良い協働に向けて新たな提案ができるような「協働モデル」を考えていきたい。

12

5,100원

日本語版ワンピース巻一には、407種類のオノマトペが617回にかけて登場する。オノマトペが絵の内容を補助的に説明する視覚的な機能を担当したり、また音を示すことによって聴覚的な機能を受け持っている。オノマトペを使うことによって、絵の面でも、文の面でも単純化した漫画という媒体の限界を補っていると思われる。合計617例は、効果音で386例、セリフで231例が使用された。セリフといっても文の中で使われたのは8例に過ぎず、残りは単独発話である。また617例は、擬音語が353例、擬態語が212例、兼用のものが52例で、擬音語のほうが1.6倍多い。漫画は視覚的媒体なので擬音語の使用は十分予想できるが、擬態語も多数用いられていることは、オノマトペの絵の特徴、つまり単純化した絵を補って具体的な模様と状態の描写する役割をしているためであろう。407種類のオノマトペを形態的に分類した結果、103種類の多様な類型にまとめられた。この結果からは臨時的な類型を用いることによって、現実音を反映したい意図が見られる。また用例を音声学的音節の数によって分類すると、1音節から14音節まで多様な音節数のオノマトペが使用されていることが分かる。これは繰り返しによって音節数が長く実現されたためであり、慣習的なオノマトペよりこの漫画だけの臨時的なオノマトペが多数使用されていることを示すものである。韓国語翻訳本との比較では、577例は訳語が確認されたが、40例は訳語が見られない。空のスペースのままのものが34例で、ほかの文字を大きくして該当位置を目立たないようにしたのが6例である。訳語が存在する577例のうち、訳語がオノマトペではないものも10例あった。これらは品詞の異なる一般語彙を用いている。その他、擬音語が擬態語に訳されたり、その逆のものもある。それから一つの日本語オノマトペが、韓国語版では何種類のオノマトペに訳されたものもあって注目される。これは日本語に比べ韓国語は音節数が多いため、バリエーションに富むオノマトペ表現ができるからではないかと考えられる。

13

空間語彙の教育方法における一考察 -「手前」と「先」を中心に-

奥山洋子, 石井奈保美

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.247-268

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5,800원

空間語彙「手前」と「先」の習得のための問題点、および効果的な教育方法を探ることを研究目的として、2つの調査を実施した。まず、「手前」と「先」の韓日間の差異の意識化を図った学習者を実験群、特に意識化させなかった学習者を統制群とした。両群の口頭試験の結果を比較分析し、授業において空間の捉え方を意識化させることの効果を検証した結果、自発的発話による出現数にはほとんど差が見られず、またその数自体も少ないことから、学習者の使用語彙としての定着には至らなかったと結論付けられた。しかし、誘導的質問や確認を行なった実験群18人中の12人の学習者から「手前」あるいは「先」が確認されたことから、理解語彙としての定着は評価できるのではないかと考える。一方、日本に留学中の韓国人大学生に「手前」「先」に対する空間の捉え方、および韓日間の表現の違いについてインタビュー調査を行った。その結果、「手前」も「先」も全く出現しなかった。したがって、韓国在住の学習者にとってだけでなく、留学生にとっても「手前」「先」は使用語彙にはなりにくいことが明らかになったと言えよう。しかし、韓国語を使用するときと日本語を使用するときでは、辞書的意味が同じ語彙だけではなく、異なる語彙を選択する場合もあったため、その選択した語彙と投影方法の選択を自分たちなりに関連させ合っていたと考えられる。また、日韓間の投影方法と語彙の選択の組合わせにおける差異にはすでにある程度気づきは起きているものの、日本語の投影方法に合った「語彙」をまだ習得できていない。さらに、理解語彙にとどまっている「手前」「先」のどちらが反射投影で、どちらが移行投影なのかについての気づきはまだ明確に起きてはいず自信もないため、使用語彙になりにくいと考えられる。以上の結果から、韓国における教育方法を提案をする。(1)学習者自身がどのような参照枠を用いているのか意識化させ、同時に同じ韓国人であっても異なる参照枠を用いている場合があることを意識化させる。(2)学習者自身の投影の仕方を各自確認させ、それを意識化させる。(3)日本人の多くが使用している参照枠と投影方法を理解させ、意識化させる。具体的には、相対的参照枠、「手前」は反射投影、「先」は移行投影。(4)ある空間について学習者自身の参照枠と投影の仕方に一致する日本語の語彙をさがさせ、通じるかどうか確認させる。(5)多様な地図を用いながら実際に使用させてみる。

14

5,100원

本研究では、中古音の1・2等開口韻が韓國漢字音にどう受容されているかを日本漢字音の吳音・漢音との對照を中心に分析した。その結果をまとめると次のようである。1)韓國漢字音において、1等重韻の低位後舌母音ɑは아/a/で、中位後舌母音ʌは/ɐ/で辨別して受容されている。また、2等重韻の低位前舌母音aは아/a/で、中位前舌母音ɐは/ɐ/で辨別して受容されている。即ち、韓國漢字音においては、前舌と後舌との違いは排除され、低位と中位との違いのみを아/a/とᄋᆞ/ɐ/として弁別して受容されているのである。これは、漢字音の受容段階から已にᄋᆞ/ɐ/が韓國語の音韻として存在していたことを意味し、中位後舌母音ʌと中位前舌母音ɐとを아/a/で受け入れている字音形は秦音を母胎としていると判断できるのである。2)日本漢字音の漢音においては、1・2等重韻が全て合流した秦音を母胎にしているので、1・2等重韻の主母音は主にaとして反映されている。しかし、吳音においては、低位前舌母音aと中位前舌母音ɐはeとして、中位後舌母音ʌはoとして入れ替えられる傾向が観られる。3)韓國漢字音の受容の際には、中國語と韓國語との音韻構造の相違によって、入れ替え, 結合, 脫落という三つの形式が見られる。それは、母音の數の違いと一音節化に因るものであるといえる。單母音の場合、中國語より母音の數が少ない韓國語においては、他の母音に入れ替えられたり統合されたりして、複母音の場合は、脫落・結合して一音節化されている。4)中古音における重韻の合流過程は、母胎音の判別に重要な根拠になるが、韓國漢字音の受容の際に現れる原音の変容を踏まえて考えなければ正しい判断から外れる可能性があると考えられる。

15

자연대화와 고등학교 교과서에 나타난「けど」의 담화상 기능

이은미, 정상미

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.287-303

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5,100원

本稿は、従来の日本語教育現場で「逆接」と「前提」の意味を持つ接続助詞として指導されてきた「けど」を考察対象とし、それが自然会話に用いられる際の機能を明らかにしている。さらに、その自然会話の分析結果に基づき、「けど」が高校の教科書においてはどのように取り挙げられているのかを調べ、学習者の効果的な習得および実際のコミュニケーションへの応用のための指導のヒントにすることをその目的とする。本稿ではまず、「けど」が文中に現れる位置により、「文中」と「文末」に分け、それぞれの機能を考察した。今回の考察結果を見る限り、自然会話の中で「文中」の「けど」は、「対比」と「前提」の機能を果たし、一方、「文末」の「けど」は「行為誘導」と「理解誘導」、「補足」の機能を果たしていることが分かった。さらに、「けど」は自然会話の場合、初対面よりは友人同士の会話で多く使われており、「文中」よりは「文末」の「けど」が頻繁に用いられている。また、「文中」の「けど」は「対比」よりは「前提」として用いられることが多く、「文末」の場合は、「行為誘導」より「理解誘導」の方が多かったが、このような傾向は年齢や親疎に関係なく同様である。それに対し、高校の教科書では、「文末」よりは「文中」の「けど」の用例が多く、自然会話とは逆の傾向を見せている。機能面では、「文中」の場合、「前提」よりは「対比」の用例の方が20%ほど多く、自然会話と逆の傾向を見せているが、「文末」になると、自然会話と同様に「理解誘導」の方が多く見られる。また、教科書では以上のような異なる使用傾向の他にも、会話参加者の親疎関係や場面の特徴がそれほど反映されていなかったり、類似表現の「が」「のに」と「けど」との明確な意味区分への配慮もされていないのが現状である。学習者の実際のコミュニケーションの向上を達成するためには、実際の会話における該当の表現の使用様相とその特徴をより具体的に反映した教科書の構成の見直しが必要であるように思われる。

16

6,000원

本稿は、日韓両言語のV1がV2の手段を表す、所謂「手段」動詞結合を対象にして、1)「殴り殺す」は成立するのに、なぜ「*落とし壊す」は成立しないのか、2)「殴り殺す」は成立するのに、なぜ「*때리 죽이다」は成立しないのか、3)「殴り殺す・殴って殺す」と「*때리 죽이다・때려 죽이다」の相互の対応関係をどのように整理すれば良いのか、という疑問を明らかにすることを目的とするものである。本稿の主な主張を考察順に整理すると、以下のようになる。第一、日本語の「*落とし壊す」類が成立しないのは、状態変化と位置変化の両方を一つの述語を用いて表現することはできないというGoldbergの一義的経路の制約に違反するからである。第二、韓国語の「*때리 죽이다」類が成立しないのは、韓国語の動詞語幹の自立性が低いことによる。第三、日本語の「*落とし壊す」類が成立しないのは、位置や状態といったV1とV2の意味特徴が関わるので意味レベルにおける問題であるのに対して、韓国語の「*때리죽이다」類が成立しないのは、V1の形態が関わるので形態レベルにおける問題である。即ち、日本語の場合は意味的な制限であるのに対して、韓国語の場合は形態的な制限である。第四、対応形に注意を要する領域では、まず、形態特徴・統語特徴・意味特徴の共通点を有する同タイプが存在するかどうかを確認して、原則として同じ特徴を有する同タイプに対応させるべきである。

17

5,800원

本稿では、日本人交換留学生の韓国人に対する認知について、質的方法を用いて事前、六ヶ月、事後の縦断的変化を明らかにすることを目的とする。KJ法を用いた事前の韓国人に対する認知の様相、肯定的イメージ、否定的イメージの縦断的な変化の類型化と典型的な発話の分析を行い、肯定的イメージ、否定的イメージに関する認知の構造と時期による変化を明らかにした。日本人交換留学生の事前の韓国人に対する認知として、197の発話と11の大カテゴリーが抽出された。「肯定的イメージ(34%)」が最も多く、次いで「否定的イメージ(16%)」であった。「親密な対人関係(16%)」、「異なる生活規範(9%)」と対人関係に関するものや「未知の人々(11%)」も多く見られた。肯定的イメージ、否定的イメージの発話数には縦断的な変化が見られた。事前、六ヶ月、事後韓国人に対する認知の変化の類型として「肯定的イメージ」は事前が最も多く、六ヶ月目で減少するものの、事後には再び増加していた。「否定的イメージ」は事前から一定程度見られたが、六ヶ月目で最も多くなり、事後は減少していた。肯定的イメージと否定的イメージに関する認知の構造と内容の変化では、事前と六ヶ月に構造的な変化が見られ、事後ではその構造が維持されていた。六ヶ月では、「イメージと異なる韓国人」に関する発話が増加し、「否定的な体験の一般化抑制」「韓国人の反日感情の可変性」が現れた。これらに当てはまるケースは少数ではあるが、「肯定的イメージ」に当てはまる韓国人との「人間としての交流」があるケースでは、「否定的イメージ」に重なる体験をしたとしても、「肯定的イメージ」と「イメージと異なる韓国人」による反証が行われ、「肯定的なイメージ」が保たれるのではないかという可能性が示唆された。ただし、この結果は、本稿の対象者の特徴と調査時の社会的文脈を反映したものであり、今後の検証が待たれる。

18

5,700원

本稿は「そうだ」と「と思う」の類似点と相違点を整理し、アンケート調査を実施して、学習者が両形式をどのように使用し、特に「そうだ」の使用が日本語母語話者にどのように判断されうるかを考察した。その結果、次のことが明らかになった。1.「C.外観として観察される性質や内的状態の推測」は初級の段階から正しく使用ができる。2.以下の場合において初級レベルの学習者を中心に「そうだ」を不自然に使用してしまうことが考えられる。D.未成立もしくは想像上の事態の動作主が二・三人称の予測E.話者の意志ではコントロールしにくい動的事柄を仮想し、帰結を予測F.話者の既知の情報・知識を根拠とした推測G.話者自身の意志的な行動の予測3.D,E,F,Gについて、学習者のレベルが上がると不自然と感じられる恐れのある「そうだ」の使用割合が減り、「と思う」の使用割合が増える。特に2のE.とG.については中級レベルでも不自然に「そうだ」を使用することが懸念される。以上は外国人日本語学習者の認識のモダリティ形式の使用実態を調査した山森(2006)を傍証する結果となった。また、初級の学習者を中心に話者の既知の情報・知識を根拠とした推測を表す際に「と思う」ではなく「そうだ」を用いてしまう場合があるということを明らかにできた。今後は詳細な更なる考察を進めるとともに「ようだ」などのモダリティ形式の使用実態についても考察していきたい。そして明らかになったことを日本語教育の現場に応用できたらと思う。

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7次改訂日本語教科書の音声項目の分析

李香蘭

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.373-389

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5,100원

本稿は今年(2012年)から高校で使っている改訂日本語(Ⅰ)教科書6種類を用いて、音声項目を調べて分析・検討した。第7次改訂教育課程の目標の一つはコミュニケーション能力の培養にある。このことは発音教育の重要さと繋がる。特に自然なコミュニケーションに近づけるためには、文節音よりアクセントやイントネーションのようなプロソディに関する音声項目の指導が必要である。ところが、今回の調査では次のような結果が出た。1つは、仮名の発音表記が様々で、IPAに近く表記した教科書は一つしかなく、残りの教科書はパソコンに入力する方法や何の説明もなくローマ字で表記されたのがあった。特に「ザ・タ・ダ・ハ行」の発音がいろいろなパターンで記載されていた。2つは、撥音「ン」は全教科書で扱っているものの、異音の現われパターンが3つから5つまでで、そのばらつきが大きい。また鼻母音[v ~]と口蓋垂鼻音[ɴ]を一緒に扱った点は今後考慮すべきである。3つは、教科書ごと差はあるが、全教科書に促音「ッ」や長音「-」を音声項目の中では割合に多く取り扱っているが、例を並べるだけで、発音方法や詳しい説明はない。この二つの特殊拍は1拍の長さで発音しないと、意味が変わってしまう点に焦点を合わせ、最小対立語「イタイ(痛い)・イッタイ(一体)」「ビル(building)・ビール(beer)」などの例で、発音指導を行うのがより効率的であろう。4つは、拍の概念を説明している教科書は、一つのみであるが、拍の感覚がない韓国人学習者には体系的な指導方法が必要である。5つは、第6・7次課程の教科書より全体的に音声項目の比重がかなり減っていて、それにコミュニケーションンの流暢さと関わりの深いアクセントやイントネーションなどプロソディより、相変わらず分節音に焦点を合わせている点が特徴である。本稿での結果は、改訂教科書の目標の一つであるコミュニケーション能力を養うことに逆らっていると言える。以前より音声教育の重要さが感じられる昨今、より効果的な発音教育のため、今後の教科書には音声項目を採り入れる場合、何かの基準を設け、指導すべき音声項目の調節や発音指導方法の開発に力を入れるべきである。

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韓ㆍ日の誘い行動における交渉 -友人間の会話を用いて-

鄭榮美

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.391-409

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5,400원

本稿は韓日の誘い行動における交渉の特徴を明らかにすることを試みたものである。会話データは親しい友人関係の女子大学生間で行われたもので、誘い内容に対する負担の度合いを少ないものに条件統制して収集した(韓国語12会話、日本語12会話)。韓国語では12会話から計26種類の誘い行動が抽出でき、日本語では12会話から計17種類の誘い行動が抽出できた。誘いはすべて受諾を得たものである。各誘い行動で行われた交渉を交渉の対象となる事柄ごとに区別して抽出すると、韓国語では計27回の交渉が起り、日本語では計46回の交渉が起っていた。更に、各交渉を話し合いの末一連の意思決定に至っているか、意思決定に至っていないかに分け、前者を<決定>、後者を<保留>に分類した。その結果、韓国語では計27回の交渉で<決定>(24回)が約90%、<保留>(3回)が約10%を占めていた。一方、日本語では<決定>(24回)と<保留>(22回)がほぼ半々の割合を占めていた。また、交渉での提案は、韓国語では「具体的な提案→同意」のように行われる傾向が強いが、日本語では「大まかな提案→同意→具体的な提案→同意」のように行われる傾向が強いことが分かった。以上の結果から、韓国語では<具体的な提案→同意>を繰り返しながら、一回の交渉において合意点を導き出そうとする傾向があるが、日本語では<大まかな提案→同意→具体的な提案→同意>が順次に起り、交渉と交渉の間に交渉対象とは関与性の低い話題の挿入が起る傾向のあることが明らかになった。

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의태어・의음어에 관한 연구- 「あひゞき」를 대상으로-

탁성숙

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.411-429

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二葉亭四迷は言文一致に努めた作家である。二葉の翻訳作品のひとつであるあひゞきあらわれる擬音語・擬態語について考察を行った。あひゞきには初訳の原稿と改訳の原稿が存在している。初訳と改訳には約8年の時間差がある。この8年という時間差は、この作品に多様な変化をもたらしていることが予想される。で、様々な表現要素の中から、日本語固有の語彙である擬音語・擬態語にはどのような変化が起っているかについて考察した。その結果、まず、出現数は初訳に比べ改訳の方で9つの増加がある。そして、形態の面では反復形、「ーつ形」「ーり形」の順で採択され、文法的な面も共通している。しかし、文字選択の面においては大きな変化がみえる。初訳においては、擬音語・擬態語の表記には平仮名と片仮名が中心で、片仮名の方が最も多用されている。それに比べ、改訳においては漢字の増加が甚だしい。また、片仮名文字の退出が見られる。今日の擬音語・擬態語の表記傾向とは異なる現象である。ここで二つの疑問が浮かぶ。一つは、擬音語・擬態語は日本語固有の言葉であるのに、わざわざ漢字を採択したことであり、もう一つは、言文一致の努力は、文字の面においてはどのような配慮がなされていたかの問題である。ロシア語で書かれた原文を日本語訳するに至って、擬音語・擬態語を使い、表現しようとした作家二葉亭四迷は言文一致が念頭にあったと思われる。ところが、日本語固有の言葉である擬音語・擬態語をわざわざ漢字を用い表現したということは、いまだ言文一致へ向かっていく過程にあったことの現れではなかろうか。

22

5,400원

伊勢物語の主人公は京に住み憂い「あづま」に住むべき所を探して東下りを始める。本稿では、伊勢物語の7段から15段を中心に主人公が歩いた道を辿ってみた。從來伊勢物語東下りの硏究において「あづま」は「鄙」として輕視された。即ち、「あづま」それ自體の價値觀より「ひなび」として、都の美意識である「みやび」を强調する手段として利用された。伊勢物語の主人公が都の男を代表するわけではないが平安時代の理想的な人物像として見なされていたので、彼を通して「あづま」に対する認識が確認できる。武蔵国では恋物語もあるが、「あづま」に留まる都の男は一刻も都を忘れてないことを見逃してはならない。男にとって都は住み憂い場ではあるが忘れることのできるそんな空間ではなかった。都人の「みやび」はそこからはじまるからである。しかし本稿では「あづま」に焦點をあわせて、東下りの「あづま」を再照明した。東下りの「あづま」は、記紀の「あづま」・「東方十二道」と一致する。よって、「あづま」はこの範圍で把握できる。記紀を通して、「あづま」は捨てられた異國ではなく、天皇支配の擴大という槪念から王權の支配下に置くべき對象の地であったということを確認した。670年前後、東の行政區域を整備し國史を派遣して地方行政を任せていたことを思えば、「あづま」は當時ある程度開拓されていたとみえる。伊勢物語の主人公が「あづま」を選擇したのも東に派遣された知人もいたし、好奇心を刺激する何かがある人の住める場としてみなされていたからであろう。特に主人公が留まったと思える武蔵国には都からの人々が新たな世界を築いていた。武蔵国の人々にとって都はもはや絶對的價値觀の中心ではなかった。武蔵国、そして「あづま」はそれなりのもう一つの價値觀を確立していた。しかし、それは残念ながら「あづま」全域ではなく武蔵国のようなごく一部に限定されることを認めざる得ない。

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5,500원

「月」の呼び名の中で「十五夜」「十三夜」だけが「月見」と呼ばれており、昔から月見行事が行われてきた。東アジアの地域で行われた「十五夜」とは違って「十三夜」は日本特異な年中行事である。樋口一葉が作品の題名として月見の中でも「十五夜」でない「十三夜」を選んだことは彼女の作家意識を隠しておいたある装置ではないかという疑問から民俗学的接近を試みた。その結果、いくつか考えることができたのである。まず、「十三夜」が「十五夜」と差別されるのは季節の象徴性から見ることができる。「十三夜」のほうが時期的に冬にもっと近いということでこれからの険しい阿関の苦難が推測できる。また、月見の供え物である食べ物から考えられる。昔から言い伝えている「十三夜」の時、「臙脂を点じた豆腐を供えて食べると婦人病に安心」という女性との関係がそれである。一番注目されるのは「十三夜」の別称である。「十五夜」の後の月見であるという意味での「後の月」、すなわち主な行事の後の副次的行事という側面、「名月」と区別するため名付けられた「女名月」と呼んだということから「十五夜」とは違う「女性の問題」、主なこととは違う「副次的な問題」を意味する側面が見出された。それは十三夜の阿関の父親の説得の言葉でも見出される。額面的には阿関のためだと言っているけど、結局は長男の伊之助の未来を心配したこと、阿関の父親の「女大学式」の婦徳に関する価値観がその説得の主な内容だと思われる。これらを通して女性問題は男性、または他の主な問題より「後」の問題、乃至は「副次的な問題」であることを示したと思われる。後の問題だけに扱われてきた女性問題は作家樋口一葉に現実的な問題に近づけることができたと見える。すなわち、女性戸主になって家族を扶養する責任を持っていたので生計のために作品を書かなければならなかった点、戸主の責任を果たすため個人の愛を具現させられなかった点などという個人的な問題と共に文壇での作家より「女性」作家として歓待されることに対する冷徹な現実認識があったと思われるからである。このような意味から樋口一葉の意図された作品名十三夜が誕生されたのではなかろうか。「十五夜に月見をしたら、十三夜にも必ず月見をしなければならない。そうでなければ不吉である。」という禁忌のように女性問題を他の主な問題と同等に思わなければならない、という作家の意図が隠されていると思われる。

24

5,400원

本稿では江戸の名所のみを紹介したものの中では最初の名所案内記である浅井了意の『江戸名所記』(1662)について、了意のいかなる意図が反映されているかに主眼をおいて、仏教唱導、教訓と啓蒙、批判意識の発露の三つの側面から考察を行った。まず、『江戸名所記』が刊行された背景としては、全国が平和であったこと、全国的に同一の貨幣が流通したこと、交通網が発達したことを挙げ、庶民が自由に旅行が出来る条件が整っていたことと、1657年に起きた明暦の大火により、江戸に関する最新の情報は上方の読者においては大きな関心の対象であったことを指摘した。次に、『江戸名所記』に選ばれた名所たちは、主に寺院が中心となって紹介されている点と、その内容においても仏教の一般的な教理について説明されていることを挙げ、仏教唱導の意図が大きく反映されていることを述べた。また、了意は仏教の教理に関する説明、歴史の流れに関する概要叙述、有名人の不思議な体験に関する紹介、物語・謡曲・和歌の内容説明など、様々な方法を用いて読者に教訓と啓蒙を与えようとした。特に、「廻向院」では教訓・啓蒙・商売の目的が複合的に働いていたことが分かった。最後に、『江戸名所記』には自分の務めを怠る僧侶について、そして浄瑠璃と歌舞伎に傾倒して財産を使い果たしたり、男色にふけた世態についても批判的に眺めていた。本稿では『江戸名所記』に現れた了意の意図を中心に考察を行った。しかし、名所記物の刊行史、もしくは享受史の側面から『江戸名所記』がいかなる意義を持つかについては考察が充分ではなかった。また、『江戸名所記』に言及された寺院と神社の歴史については、確かに当時に流行した寺社縁起物とも大きな関連性があると推測されるが、了意はどのような書物を参照したかについても研究する必要がある。今後は上記のようなことを課題とし、研究していきたい。

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平安朝物語에 나타난 <性愛>의 視座

류정선

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.493-515

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6,000원

物語に描かれた性愛表現の一つの特徴といえば、赤裸々に描いた説話とは異なって、表現されていない場面から読み手の想像力によって性愛を連想させることである。このような読み手の想像力は肉体的な触れ合いや交情の描写とともに、エロティシズムを高揚させる一つの要素として作用している。特に源氏物語では、伊勢物語と宇津保物語には描かれていない性愛の繊細な心理描写が重要な機能を果たしており、密通をめぐる性愛表現には、所有の欲望、恐れ、罪意識、緊張感などが内在されている。また、性愛表現の表象化と登場人物の心理的な表現は、読み手に想像のエロティシズムを付与している。すなわち、想像力によって人間の本姓、描かれていない性愛を類推していくことが、心象のエロティシズムの一面であり、このような想像力が源氏物語のエロティシズムにおいて、一つの装置として設定されていると思われる。そこには、性愛に対する<女の夢>と<男の幻想>が投影され、エロティシズムが表出されているのである。つまり、女の読み手のために、女の手で書いた源氏物語に描かれた性愛は、直接な表現を排除し、象徴的に表象化された表現によって読み手の想像力を呼び掛けている。このような、物語における<性愛>の視座は、作者による性愛表現の表象化と読み手の想像力を通じて設定されたといえる。

26

5,700원

この論文は、寺山修司の歌集田園に死すの映画化を通じて、短歌と映画の間メディア性について探求し、現代文学として短歌の見せ得る新たな地平を探してみようとしたものである。まず、田園に死すが映画化に成功した理由として、寺山の短歌に俳句的レトリックを借用した特質があったことと、その根底に映画のモンタージュ理論への認識があったことを指摘することができる。形式にとらわれない創作態度は、芸術形式の変換に注目する間メディア性の基本原理と相通じるもので、様々なメディアと疎通できる可能性を示唆していると言える。第二に、短歌が映画の中に引用され、映像メディアに置き換えられる様相を調べた結果、短歌と映像イメージは、それぞれの媒体的特性を維持しながら互いに対話する関係で交わっていることが分かった。短歌の文字テキストは映画の中にスーパーインポーズされることによって、もう一つの映像として視角化されている。また、短歌の内容と映像とがずれるようにモンタージュされたことは主題を重層的に変奏していく効果をもたらしたと思う。最後に、このような映像メディアとのコミュニケーションを通じて期待される効果として、私性の制約を超えた短歌の創作及び受容の可能性を見つけることができた。基本的に叙事性を必要とする映画は、短歌の持つ断片的なモチーフを物語に具体化し、短歌の主体として虚構的人物を創造するのである。即ち、短歌は映画という異質のメディアと出会い、「方法としてのフィクション」という新しい表現を獲得したといえる。田園に死すの映画化は、現代短歌のメディア活用の重要性を示唆する事例として価値が認められる。

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北村透谷의 文學과 運命

矢野尊義

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제22집 2012.09 pp.539-556

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5,200원

透谷の詩や戱曲や小說は、彼の評論とは根本的に性質を異にする。透谷の評論では精神的戀愛が論じられているのに對し、彼の小說では悲愴な悲戀が描かれており、これらはみな死に向かっている。これらの作品には一貫して處女の霊魂が現われ、主人公を動揺させ、處女と精神的に結ばれることで死に至る。愛することで死ぬのである。ここに描かれた悲戀は、常に死と裏腹にあり、自分ではどうすることもできない苦しみである。これらの內容は、透谷と教え子である松子の精神的戀愛を思わせる。一點星では、嵐のような現實にあって一點の光のような希望が現われるが、それは我牢獄で見るように自分でも知らぬうちに罪人としての罪の意識へと化す。星夜(1892.7)では周圍によって隔てられた二人は、失戀したものとしてあきらめようとする。しかし、それが宿婚鏡ではあきらめきれない處女が生きた霊魂として我を來訪することにより、二人の思いは爆発する。二人の愛が確認されるやいなや現實に遠く離れた地にいた二人が、同時に死ぬ。上記の作品內容は、松子との精神的愛とそれに對する罪の意識、そして決して結ばれることのない運命にあることを知った少女の苦しみと死と透谷自らの死への旅立ちを表現したものと解釋できる。一見松子との出会いがこれらの悲劇を生んだように見えるが、實は、透谷は松子と出会う前から處女作楚囚之詩で處女霊魂との精神的愛とその別離、そして自らの死についてすでに書いている。この事實から考えると楚囚之詩が松子との出会いの豫言とも松子との出会いが透谷の運命であったともみなすことができる。死を前にした透谷は、詩に運命を「かみ」と表示し、松子の死を「かみ」が用意した運命であると書いている。このように透谷は松子と自分の死を自らの運命と受け止めていたことがわかる。

28

5,200원

この論文は韓國で行われている、文化間コミュニケーションに関する研究をメタ分析という方法を利用して分析したものである。研究の流れ、学術誌、学科、研究対象地域、理論の適用、研究テーマといった6つの研究問題を持って、韓国の文化間コミュニケーションの研究がどのように行われているのかを考察した。韓国で文化間コミュニケーションの研究は1990年代半ばから活発に行われた。学術誌の中では、国際地域研究コミュニケーション学研究に多くの研究が掲載されている。コミュニケーション学分野で文化間の研究が多く行われているため、韓国も文化間コミュニケーション分科が作られ、より活発な研究が行われるべきである。学位論文では、多くの研究が教育、言語・文学分野で行われている。そして、研究対象地域としては米国と日本だけで57.8%を占めている。研究地域が片寄っており、多様な地域を研究する必要性が提起される。理論の適用では、2000年以降、西欧の理論を適用または検証している研究が出ている。研究テーマでは、文化間研究が一般論にとどまっていることが分かった。今後、一般論から脱し、特定地域を対象にした比較研究がより活発に行われるべきである。

29

4,800원

本稿はジャク・ラカンの<欲望理論>という観点から芥川龍之介の作品である「羅生門」(1915)に現われた下人の欲望を考察してみようとする。ラカンは人間を欲望する主体として見ており、欲望の主体は常に欲望が欠乏していて、絶えず欲望の対象を探している存在と主張している。しかし、このような欲望の対象はいつも隱喩と換喩で振り替えてしまい、欲望を引き延ばさせる‘objet petit a’、つまり、対象aによって再び欲望を探さねばならないと語っている。例えば、「羅生門」の主人公である下人は彼の無意識的な欲望構造が空間の移動に従って、具体化されている。まず、門の下の場合、下人はラカンの言う想像係にいると思われ、この時、下人は自分が見ることとの同一視、そして、対象の不在(凝視の不在)によって、自分の欲望が死と誤認してしまう。それに反して、門の上へ辿りついた下人は死骸と老婆との出会い、死骸ではなく老婆の行為を通して自分の無意識的な欲望を対象化させている。すなわち、下人は見える老婆という他者の認識の中で自分の欲望 - 生 - を満足するきっかけを得るのである。このように、門の上という象徴系が他者の領域であり、主体の欲望は他者を通すしか得られない欲望であろう。しかし、下人における欲望の獲得は、同時に老婆の言葉 - 泥棒(悪) - からずれも生じる。ということで、自分と対象aとの間に埋めることができない欠乏は、欲望の完成とともに、分離現象を起こさせている。結局、下人は老婆との出会いで自分という存在の基源認識と連続性を気づくことと同時に差異をよる老婆との同一視は失敗してしまう。従って、欲望する主体は常に欠乏を感じるしかなくて、ただ想像系と象徴系の間から發生する剰余快楽 - 対象aとして下人の場合、老婆の言葉(悪)を引いた生という差額 - は、再びその欠乏を満たすため欲動が発生、絶えず新しい対象aを探そうとする反復のみある。とすれば、作品「羅生門」に現われた空間的背景や登場人物もある意味で下人の欲望構造によって造り上げられた世界であると言ってもいいだろう。

30

5,400원

浅川巧(1891-1931)生誕百二十年記念として彼の生涯を画いた日韓共同制作の映画道-白磁の人が2012年6月と7月に日本と韓国でロードショーされた。2011年9月5日には韓国プレスセンターでソウル国際親善協会主催の「時代の国境を越えた愛-浅川巧の林業と韓国民族工芸に関する研究」という浅川学術会議も行われた。日本でも2011年に大阪市立東洋陶磁美術館で特別展浅川巧生誕百二十年記念の「浅川伯教・巧兄弟の心と眼-朝鮮時代の美」が行われ、同年山梨県北杜市高根町の浅川伯教・巧兄弟資料館で浅川巧生誕120年記念の「朝鮮の土となった日本人-浅川巧からのメッセージ∼自然法に帰せ∼」の展示会があった。浅川巧に関する以上のような日韓両国の関心は彼が植民地であった朝鮮へ向けた同情的な眼差しと、朝鮮王朝の白磁など民族固有の文化研究及び日本支配者たちの朝鮮に対する差別的な視線への彼の批評的な行動に注目している。浅川巧は朝鮮の自然と人々が創った伝統的な陶磁器と建築物の美的価値に敬意を表しながらそれらを保存することは人類の使命だと日記で記されている。彼は西洋風の近代と日本の宗教(神道)を朝鮮に強要する帝国主義日本を批判している。朝鮮と日本の歪んだ政治的な関係からもたされた社会問題などを解決する方法として巧が考えたのが宗教的な理解のもとに日常生活を楽しみながら互いに愛し合う関係として結ばれた社会であった。それが日記のなかでよく書かれている「新しい自由の教会」という理想的なキリスト教の社会であった。具体的に彼が夢見た理想的な社会とは自然と人を友に生活することでもあった。韓国と日本の交流のため現在浅川巧を普遍的な人類愛の実践者と自然との共生を唱えた環境主義者としてのイメージを顕彰することはあまり役立たないと思う。かえって浅川巧を通して侵略者としての負の過去歴史を持つ日本人としての反省と、日本の植民地支配という過去歴史を認めて受け入れて、そこから新しい韓国と日本の関係のなかでの韓国人としてのアイデンティファイの過程が必要だと思う。このような過程を通して韓国と日本が共に社会的知性を育んでいくのがより大事なことではないだろうか。結論的に筆者は浅川巧を韓国と日本の不幸であった時代に国家主義を乗り越えて社会的知性の役割を果した人物として評価している。

 
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