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일본언어문화 [Journal of japanese Language and Culture]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본언어문화학회 [Japanese Language & Culture Association of Korea]
  • pISSN
    1598-9585
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    2002 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 495
제21집 (24건)
No
1

5,800원

本稿の目的は韓国語の対訳シソーラスの分析で得られた日本語形容詞の類義関係を考察することである。形容詞は多義性と類義性の特徴を持つ品詞で語彙相互に緊密な意味上の類義関係が存在すると言える。こういう点を基に本稿では日本語形容詞の105語を対象にして対訳シソーラスを使った形容詞の類義関係の考察を行った。その結果、対訳シソーラスが上位数で表れた形容詞は<悪い(99)、大きい(96)、よい(91)、強い(86)·····>のような順であり、下位数で表れた形容詞は<長い(15)、惜しい(13)、厳しい(12)、おいしい(11)·····>のようである。これらの形容詞は韓国語の対訳シソーラスの意味が中心意から転意の方へ近ければ近いほどそれによる類義語も中心意味から多少離れた意味を持つ類義語である傾向を見せる。これは逆にこれらのシソーラスに対応する日本語形容詞でも同じ様相が見られる特徴がある。一方、1語の対訳類義語に対応する日本語形容詞は最大9つから最小1つまで多様な類型で表れた。例えば9つの形容詞が類義関係を持つ例は<뛰어나다→いい/偉い/恐ろしい/すばらしい/鋭い/高い/強い/激しい/よい>などがあり、2つの形容詞が対応した場合の例は<변변찮다→つまらない/悪い><인정머리없다→冷たい/つらい>などがある。この例のように同じ類義語群に含まれている形容詞はある程度密接な相互関係があり、意味的にも類義関係があると言える。本稿では主に対訳シソーラスに対応している日本語形容詞の類義語群の様相を分析してみるのが目的で、その語彙同士の緊密な関係までは具体的に考察できなかった。これはこの論議を基にしてこれからの課題に残す。また、全体の日本語形容詞の類義関係の分析と韓国語形容詞との類義関係に対する考察は今後の研究課題にしたいとおもう。

2

5,200원

韓国語の漢語動詞の使役専用形式である「시키다」形の派生パタンは、一般動詞の使役形式の派生パタンとは異なる特異性を見せる。筆者は、拙稿(2011)において、漢語動詞の特異性に注目し、「시키다」形派生パタンを基準とする漢語動詞の分類を提示した。本稿で提示されている分類は、先行研究の分類を階層的に捉え直したものである。今回は、この分類の中から、他動の意味を表す「시키다」タイプを対象として論を進めた。他動の意味を表すタイプは、自発使役の意味を表す「시키다」形、[A-2-1]タイプと、他動「하다」形とほぼ同義を表す「시키다」形、[A-2-2]タイプに下位分類することができる。まず、他動の意味を表す「시키다」形の下位タイプ別に、その派生パタン、つまり、「하다」形と「되다」形の派生について分析した。また、「시키게 하다」形の派生と関連しては、典型的な使役の意味を表す「시키다」タイプ、[A-1タイプ]との比較分析を通して、他動の意味を表す「시키다」タイプに限って「시키게 하다」という二重使役形式が派生することを提示した。日本語の場合、使役形式は漢語動詞でも一般動詞と同じく「サセル」形のみなので、韓国語のような二重使役現象は見られない。さらに、両言語の[A-2-2]タイプ、つまり、「漢語+시키다・サセル」形が「漢語+하다・スル」形とほぼ同義を表す現象について分析を行った。ます、両タイプが同じ文内で取り替えが可能であることを確認した。なお、単純形があるにも関わらず、有標な形式(marked form)の「시키다・サセル」形が使われる原因について分析を試みた。「시키다・サセル」形が選択される場合、ヲ格補語には身体名詞のような動作主性(アニメイト性)の認められる名詞が置かれる傾向が見られた。その時、ヲ格補語は被使役者の役割を担っていることになる。このような結果は、一見曖昧な分析結果のように見えるかも知れないが、典型的な使役文を作る[A-1]タイプの「시키다」形からは見られない現象であることは動かしがたい事実であると言えよう。

3

6,600원

本稿では、日本語の条件表現の実態調査を、日本の大学生115名と日本語を専門とする韓国の大学生96名を対象に実施し、その結果を対照分析した。設問調査は、条件表現を表す「ば・と・たら・なら」の意味用法を総合した13)の領域に該当する50の質問項目を提示し、適当な表現形態を複数で選択するようにした。その結果、日本も韓国も全般的に意味用法に準じて使用しているが、日本の場合は、意味用法より緩いかたちで表現形態を混用しており、特に「たら」の働きの拡張が著しかった。部分的な「ば」の選択は迷いによる包括的な選択であろうと見做す。韓国の場合も、間違った選択をする場合もあるが、表現形態を混用のかたちで複数を選択していることから、正規の機関における教育ばかりでなく、多様な日本語の学習がなされていることが確認できた。しかし、正確さを欠いたり迷うような場合が多いことから、それぞれの表現形態の特性と意味用法に関する確認学習が必要で、特に「なら」系の表現形態の意味用法と「と・たら」の事実的用法の確認学習が必要と思われる。調査結果のような使用実態を見せる日本語の条件表現を外国人が正しく習得するのは難しいが、調査結果を敎育現場に生かしていくことは重要であろう。

4

諸鈍方言の音韻構造 -音節制約とアクセント付與-

孫範基

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.75-90

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4,900원

本稿は、鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍方言の名詞の音韻構造の特徴を述べ、それを一般原理で説明することを目的とする。諸鈍方言は「閉音節化」と言われる高母音削除が起こり、残された子音は直前の音節の末尾子音に交替され重音節を形成し、その結果二つの音韻的特徴が現れる。一つは閉音節化によって生じた末尾子音には有声性の中和が起こることで、もう一つは高母音削除によって生じた重音節には高いピッチが付與されることである。早田(1996)は、この二つの特徴に対して個別規則を仮定して説明したが、本研究はその規則の背景にある一般原理に基づく説明を試みる。一つ目の特徴に対しては頭子音・末尾子音の非対称性(onset/coda asymmetry)に現れる位置的忠実性(positional faithfulness,Beckman 1988)という原理に基づいて説明し、二つ目の特徴に対しては、重音節のアクセントの牽引性(weight-to-stress, Prince 1990, 田中 2005)という原理から説明する。以上の議論によって、諸鈍方言の音節構造とアクセント付与に見られる特徴をより普遍性のある説明に還元することができた。

5

5,100원

本研究では、社会人の初対面二者間の自然会話における「とか」の使用様相を調べ、またその結果の日本語教育への応用可能性についても考えた。以下に、その結果を簡単にまとめる。まず、実際会話に見られた「とか」の談話上の機能は例を挙げて列挙する「例示」の機能と「例示」の機能がなく、単に断定回避をすることで発話を和らげる「発話緩和」の機能の二つに分類された。さらに、談話上の文脈によって「例示」は 「列挙」「代表例示」「具体化」 に、「発話緩和」は「話題導入 転換」「意見提示」「感情表出」「引用」「不確実さ」「その他」に細分類された。「とか」は文中や文末の出現位置とは関係なく「発話緩和」として使われた割合が50%以上と、「とか」の基本的な機能と言える「例示」よりも高い使用割合を見せていた。すなわち、「とか」は実際対話では複数の例を列挙するという「例示」の基本的な機能よりも断定を避けて発話内容を柔らかくする「発話緩和」の機能としてより多く使われていると言える。また、「とか」は対話相手の年齢に応じて方略的に使われていることが分かった。このような「とか」は人との円滑なコミュニケーションを図るための1つの言語方略と言えよう。本研究の結果を日本語教育現場においても積極的に活用でき、学習者のより自然なコミュニケーション能力の向上にも役立てればと思う。今後、より様々な世代及び人間関係、また状況などを考慮に入れた綿密な研究をしていきたい。

6

일본어 동사활용형의 명칭과 제시 방안에 관한 분석

장근수

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.109-125

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5,100원

本論文は、日本語教育で提示している動詞活用形の名称と提示の方法について議論したものである。動詞活用形に関する今までの研究は、主に学校文法に見られる活用表に対する批判であり、日本語教育における活用形に対する批判は施されていない。このような問題点を提起し、動詞活用形に関する名称の問題、および活用形の範囲と提示の仕方について分析した。その結果は以下の三点にまとめられる。第一に、日本語教育では学校文法と違って「書かない」「書きます」「書いて」のような自立的な形を「ナイ形」「マス形」「テ形」という活用形として認めている。しかし「書き-」の形を「マス形」として認める場合もあって、用語の一貫性という問題は改善の余地がある。第二に、日本語教育では「仮定形, 過去形, 否定形」のように活用形の機能を用いた名称と「バ形, タ形, ナイ形」のように活用形の形態を用いた名称が混在している。本研究では、動詞活用形の提示においては「バ形, タ形, ナイ形」の活用形の名称を用い、「条件形, 過去形, 否定形」の活用形の機能を用いた名称は動詞の文法範疇の側面として説明する方法を提案した。第三に、動詞活用形の提示は初級段階の基本的な項目であり、学習の負担も大きい。それだけ基本活用形の提示は最小限にする方法を提案した。「五段動詞(1グループ動詞)」という名称との関連性を保つという側面で、「辞書形」「ナイ形」「マス形」「バ形」「ウ形」の五つだけを提示し、その他の「テ形」「命令形」「受身形」「使役形」などの活用形は学習の段階を考慮して提示する必要がある。

7

5,400원

本稿では先行研究を踏まえながら韓国済州方言の形容詞文に見られる時間的限定性について言語類型論的な観点から考察し、その適切な位置づけを試みてきた。その主な論点をまとめると次のようになる。まず、方言調査とその文法的な特徴から考察した結果として、済州方言の「다」は恒常性明示形式であり、「염쩌」の形式を一時性明示に近い形式である。一方、「다」の方は一時性も長期持続(習慣相)も表す形式である、という点が本稿の一つの主張である。こういった結果は中世韓国語の資料にもその痕跡が見られ、歴史的にも裏付けるものである。次に、日本の方言では青森方言から九州方言まで<一時性>を明示する形式が発達しているように思われるが、韓国の済州方言では<一時性>を明示する形式も存在するが、<恒常性>を明示する形式がすべての述語に見られる、という点がむしろ特徴的であるように思われる。最後に、言語類型論的な観点から考えると、もちろん個別言語の特徴や形態論的な特性は認められるものの、この<一時性>と<恒常性>という時間的限定性に関わる現象は日本語や韓国語など個別言語の特殊な現象というよりむしろ世界諸言語で観察される現象と言えそうである。

8

使役文における主語の働きかけについて

崔瑞暎

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.147-165

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5,400원

これまでの使役文の研究では、主語の補語に対する働きかけが多様であることについては指摘されていたが、主語の働きかけは具体的に如何なるものなのか、どのような様相で表れるのかについて詳細に記述されている研究は見られない。このような問題意識の基に、本稿では主語の働きかけの在り方を、主語の有情・非情性、動作の意志・無意志性との関係の中で考察した。これまで見てきた使役文のタイプ別の働きかけの特徴をまとめると、次のようになる。第一に、働きかけの意味的な類型を見ると、人が人に意志動作を行わせる使役文では、発話や動作のような動的な働きかけしか見られないが、人の無意志動作を引き起す使役文では、状態、性質のような静的な働きかけのタイプも見られる。第二に、人を主語にとる使役文における、発話による働きかけについて述べると、人が人に意志動作を行わせる使役文では、働きかけが「命令して/命じて/依頼して/すすめて/言い含めて」などのような動詞によって表現される。発話の内容や性格、態度や様子の具体像が表されることは少なく、従属節の動詞(命令をしたか、依頼をしたか、すすめたかなど)の意味を通して含蓄的に表現される。一方、人が人の無意志動作を引き起す使役文では、発話の内容や態度が特徴づけられ働きかけとして作用する。「面白そうな話をして/つまらないことを言って/馬鹿げたことを言って/冗談を言って/毒舌をはいて」のように発話内容の性格や、「正確な意味もつかめぬまま口にして/うっかり饒舌って/時折とんちんかんな言い回しになって」のように、発話時の主語の態度や様子が明示され、それと因果性の高い人の無意志動作を引き起すのである。第三に、人が人に意志動作を行わせる使役文と、人が人の無意志動作を引き起す使役文では、主語と補語の人間関係に相違が見られる。人が人に意志動作を行わせる使役文では、主語である人と補語である人の関係が上下関係または同等な関係にあるのに対し、人の無意志動作を引き起す使役文における主語と補語は、「生徒─家庭教師」「娘─義理の父」のようにいわば上下が逆転した関係もしばしば見られる。人が人の無意志動作を引き起す際は、主語と補語との間に社会的関係の制約はないのである。

9

6,100원

本稿の目的は、学習者間のFBの様相と内省のあり方を探るために、1学期間の日本語会話の授業過程の中で、自己FB→教師FB→学習者同士FBによる3段階のFB活動をプレイスメントテスト、中間試験、期末試験後に試みた。分析対象は、授業後に行ったFBに対する意識調査の記述式回答結果(受講者全員)、およびFB時の発話データとフォローアップインタビュー結果(2名の学習者)である。これらを分析考察した結果、以下のような示唆を得ることができた。学習者のFB活動に対する意識調査結果では、1段階目の自己FBで得られた内省と評価が土台となり、2段階目の教師と学習者のFBで内省が深化し、さらに3段回目の学習者間FBで、一層内省が拡張していくという内省像を捉えることができ、学習プロセス把握への示唆が得られた。また、学習者によるピアFB活動での発話記録の分析結果では、学習者同士でFB活動を行う過程で相互に評価するにあたって、比較する、発話の長短を探す、調べる、理由説明をする、ほめるなどの行為を自発的に行うようになる。また、発話に対する指摘を相手に理解してもらえるように、会話を分析しながら間違いの原因究明をし、直すための方法を共に考えるといった取り組みが行われる。このような一連の活動は、双方で何度も自己の会話力を振り返る機会となり、自己の会話力を自覚させ、会話力向上への動機づけを促し、モニタリング化するといった内省活動促進への可能性をひめたものであることが分かった。 今後は分析対象者を広げ、FB活動での内省における微視的変化を見るなど詳細に分析する必要がある。そうすることで、学習者の内省活動の差が明確になり、ピアFB活動の様相を具体的に提示できると思われる。

10

並列を表すシテとスルシの比較考察

八野友香

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.191-209

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5,400원

本稿は類似関係にあるシテの並列用法とスルシを比較し、それぞれのもつ本質的意味を考察した。先行研究では、シテ節が状態的な述語の場合にシテが並列を表すとしているが、シテ節が動きを表す述語でも前後件の主語が異なる場合は並列を表すことなどから、本稿では前後件の出来事レベルでシテの用法を判断すべきことを指摘し、まず並列を表すシテとスルシを《並立》と《状況説明》に下位分類してから次の方法でそれぞれの文法的環境を分析した。分析方法1:前件と後件の出来事が動態的か静態的かの区別と主語の異同による区別。分析方法2:前件と後件の動詞の意志性と自・他動詞の区別。《並立》用法ではシテは同一主語の無意志的な自動詞による静態的出来事を、スルシは異主語の無意志的な自動詞による静態的出来事を繋ぐ傾向が見られた。他動詞の意志的動作の場合、スルシは用いられるが、シテは主に<時間的継起>や<付帯状況>を表す傾向があることから用いられづらい。《状況説明》の場合、シテは同一主語でも成立するが、スルシは異主語のみである。また、シテは出来事をすべて列挙するのに対し、スルシは一部だけを列挙することで、聞き手に命題を暗示させるといった違いがみられる。つまり、スルシの表す意味は、結論が文中に現れる現れないに関係なく、スルシが示す出来事を前提として、結論に導くことである。以上より、本稿では並列を表すシテとスルシの表す意味を次のように提示した。並列のシテ:二つの出来事が並立並存するものを単にすべて列挙する。スルシ:話し手が何らかの結果を導くに相応しい出来事の一つ一つに焦点を当て、暗示的に一部の要素を列挙する。

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한일영상매체의 담화의 행위요구표현양상

한미경

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.211-233

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6,000원

映像メディアの談話を調査対象として韓日両国語における行為要求表現の様相を調べ、韓国人と日本人の談話行動における表現の特徴を明らかにする調査を行った。韓国語の全体の談話数は2307例でありその中で行為要求表現は408例で18%を占め、日本語は全体の談話数1883例のうち、279例で15%を占めている。そういう行為要求表現を表現意図により命令、依頼、勧誘、禁止、助言、警告、義務にわけたところ、韓日両国語ともに命令、依頼、勧誘の表現が行為要求表現の80%を越えている。それぞれの使用様相を分析した結果、韓国語は命令表現が37%で最も多く、命令の次は勧誘と依頼の順に多く使われた。日本語は依頼表現が33%で最も多く、命令、勧誘の順に多く使われている。他の表現は両国語ともに禁止、助言、警告の順に使われ、義務の表現は韓国語に僅かな例が見られ、日本語には例が見られなかった。韓国語は命令表現を多く使い、日本語は依頼表現を多く使うことからいえることは韓国人は相手に行為を求めるとき直接的な表現を使い、日本人は自分の必要によって相手に行為を求めるときも相手に行為の選択を任せるような言い方をすることを好むことがわかった。また、韓国人は命令表現の一種である禁止の表現をよく使い、勧誘表現の一種である助言の使用例も多かった。韓国人は自分の必要によって積極的に相手に行為の要求をしているし、相手の行為をとめたりしていることがわかった。なお、相手にプラスになるようなことはためらわず助言をする。それに比べると日本人のほうは差出がましいことをさけ消極的な言い方をしていると言える。なお、韓国人の表現には相手に行為を求めるとき促す表現を頻繁に使っている。反面日本語では相手の行動を促すような言い方は少なかった。    行為要求表現の使用様相から韓国人は積極的に相手に自分の必要性を表し、行為要求の目的を達成しようとしているが、日本人は自分の行為要求のために相手に依頼する表現をよく用い、相手の行為をとめるとか、相手の行為に影響を与えるような助言はさけるなど消極的な面を見せていることがわかった。

12

発話時現在を表わす発話 -ル形とタ形の使い分け-

桧田圭三

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.235-255

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5,700원

日本語の発話時現在を表わす発話において、タ形とル形がどのように使い分けられているかを考察した。発話時の内的な情態を表わす発話は、発話時における発話者の感情によってタ形とル形が左右されることがわかる。発話者自身が関心を持っていることに対する喜びや驚き、聞き手に対する親身さを表わす時にタ形が使われ、反面、関心のないことや他者に対する感情などはル形が使われる。「情態」は発話者のみが感じることができるものであるため、テンス的な制約を越えてタ形とル形を使い分け、発話時の情態を巧みに表現しているものと思われる。期待ㆍ発見ㆍ想起のムードのタ形の発話は、ある出来事に対する発話者の関心度を強調するムード性を持っており、期待が成された喜びと、思わぬ発見ㆍ思い出しの驚きを表わすことができる。発話時の外的運動を捉えた発話においては、瞬間的な動きや動き始めた瞬間を捉えた時、さらにその動きを目撃した時はタ形が使うことができる。これに対して、すでに視野の中にありながら、見つけられなかったものを探し出した時や、発話時に聞え続けているものを、そのまま捉えた時もル形で表わす。実況時においては、タ形が発話者や視聴者の、関心の焦点のある動きㆍ速い動きㆍ際どいタイミング等を捉えて、迫力や盛り上がりを表わすことができる。ル形を使うとこれらのマイナス的なムードを表わす。「発話時間」をどう捉えるかを考える時、発話時点を瞬間的な点として捉えるのでなく、話し始めから話し終りまでという幅を持たせることにより、「発話の現場で、話し手が直接<知覚>した出来事」を捉えた発話は、発話時現在を表わす表現の定義付けができるようになる。また、出来事時点より前に話し始め限界終了と同時に話し終える話法と、出来事時点から話し始める話法とがあることも確認した。

13

4,900원

本稿では、連体修飾節の述部要素の中でも特にモダリティ要素に注目し、修飾節に見られるモダリティ要素の生起制限の様相と、このような現象が現われる理由について考察した。考察の際は、連体修飾節の作られ方による分類である内、外の関係と、修飾節と被修飾名詞の意味関係(修飾の仕方)による分類である制限的、非制限的修飾関係を分析の基準とした。分析の結果、連体修飾節におけるモダリティ要素の生起制限は、モダリティ要素の性質のみに起因する現象ではなく、連体修飾節の文としての独立性と、連体修飾節と被修飾名詞の意味的な結び付きの度合いに起因している可能性が高いことが分かった。今後は、モダリティ要素の生起に影響すると思われるこの二つの要因の関係とともに、モダリティ要素が有する意味とこれらの要因との関わりについて考えていく必要があると考えられる。

14

『呪はれた戯曲』論

김상원

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.275-288

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4,600원

本稿では、1919年5月「中央公論」に発表された谷崎潤一郎の呪はれた戯曲について考察してみた。呪はれた戯曲は所謂「妻殺し」的モチーフの作品で、柳湯の事件、ある少年の怯れ、途上などがその代表的例であるが、本稿では「妻殺し」の問題は論外にした。本稿で注目したのは呪はれた戯曲の構造である。呪はれた戯曲では「善と悪」という戯曲が挿入されているが、本稿では主に呪はれた戯曲の中での、その「善と悪」の機能について考察してみた。その結果として、まず第一に呪はれた戯曲のプロットと構造では、戯曲「善と悪」が妻を殺すための殺害書として機能しているのが分かった。第二に戯曲「善と悪」については、戯曲が小説の中で主人公の井上によって、読まれる戯曲と働き、読者の恐怖感を極大化しているのが分かった。そしてそのような構造は、佐々木の玉子を殺害した罪責感を読者への極限の恐怖に変質させて、結局、語り手の「私」は佐々木を最高の芸術家と規定していた。ちなみに呪はれた戯曲は、現実と芸術との間で悩んだ谷崎の芸術への意志が余すところなくこもっている作品なのである。

15

5,100원

リメイク版ドラマ制作の魅力は、定評のある原作に依拠することによって、ある程度の視聴率が確保できるということにあると考えられるが、実際の制作には、視聴者の共感を引き出す仕掛けが必要になる。例えば、同一言語内で、過去に製作されたドラマを新たに作り直すときは、時代の変容をどのように加味するかが成功のカギを握る。一方、異なる言語間におけるドラマのリメイクの場合は、原作の内容をいかに自国化できるのかが視聴者の共感を引き出すポイントになる。だから、異なった言語間におけるリメイク版のドラマは、当該国における人々のライフスタイルや価値観、風俗習慣などの相違点を見つけ出すのにいいテキストであるといえる。こういうことを念頭において、本稿では、テレビドラマ結婚できない男の原作である日本版と韓国で製作されたリメイク版との比較分析を通して両国における相違点をなるべく詳細に抽出しようとした。ドラマ分析を通して分かるのは、両ドラマにおける家族間の親密性には差が読み取れるということである。深入りも辞さない韓国の家族関係とは違って、日本の場合は、いくら親子であるとはいえども、ある程度の距離を保っている。両国における差については、「付かず離れず、中間的な距離を保つ営み」のような日本的「付き合い」や儒教の教えに基づいた韓国の伝統文化などのような文化的土台の違いが人々の生活に影響を及ぼしていると結論を出してしまいがちである。しかし、日本社会における親密性の変容あるいはその保ち方や表し方の変貌は、実は、日本社会だけに現れる結果ではなく、アンソニ・ギデンズが指摘したように、現代社会における親密性の変容として考えなければならない。同じく工業化・都市化の過程を経験した韓国社会でも何れ日本と同じような問題に直面するということである。しかし、ドラマが実際のライフスタイルに何らかの意味でつながっていることを思うと、韓国社会には儒教文化が依然として根強くあるということを意味する。儒教文化をめぐる各世代の困惑も考えられるが、それでも何かを人生の指針として、支えとして選び取る場合、儒教文化がまだまだ有効である。韓国の社会では儒教的な家族愛や家族関係がやはりそのような思考の末に選び取られるということである。

16

5,200원

韓国では昨今、大学でも就職に直結できる実用教育が求められていて、文学関連科目は学生から敬遠されている。こういった状況の中、日本古典文学関連科目は開設すらも危ぶまれている傾向がある。では、いかにすれば、日本の古典が学生に必要とされる科目となるのか。筆者はこういった問題点を踏まえて、一つの事例研究として、筆者の講義内容を本論文で紹介する。事例研究に先立ち、韓国内の4年制大学の教員10名と、学生151名にアンケート調査を行った。アンケート調査の結果、ほとんどの教員が古典文学関連科目運用の際の困難な要因として、学生の古典語への理解力の低さを挙げていた。副教材としては映画や、ドラマ、ドキュメンタリーなどの動画を用いていたが、バラエティーは用いていなかった。学生のアンケート調査によると、古典文学に関しての学生のイメージは、80%以上の学生が「堅い」「難しい」としながらも、受講を希望する学生は66%以上にものぼっていた。しかし、講義に対する学生の興味は古典本文解釈よりも、日本の歴史、伝統文化の特徴、日本人の情緒などにより多く注がれていることが分かった。また、教員と同じく、古典文学関連科目の理解を妨げる要因として、古典語の難しさを挙げていた。学生の望む教室での追加活動は「動画鑑賞」が70%を超え、副教材としての動画の重要性を改めて確認した。以上のような、調査結果を踏まえて、筆者が短編ドラマ、バラエティー、音楽番組などの動画を必要に応じて編集し、副教材として提示したところ、多くの学生が意外にもバラエティーに興味を示した。講義後のアンケート調査で、学生に自由なコメントを求めたところ、現代でも日本の古典文化が至るところに登場することに驚き、また、動画を通じて作品や日本の文化理解に役立ったとのコメントが多かった。筆者は学生が古典語の理解力が低い現状で、韓国の大学で、難しい日本の古典原文理解と提示をする必要があるのかに疑問を感じる。代わりに韓国語翻訳本や現代日本語解釈文、バラエティーなどのソフトな動画などを積極的に活用して、「日本・日本人・日本文化・日本古典文学」に関する理解を高めるため、講義内容を再考する必要があると考える。しかし、このような講義運用を活性化させるためには、「韓国語の教材および翻訳本の開発」と「いい動画教材を探すための教員の時間投資と努力」が現実的な問題点として指摘される。

17

『万葉集』における叙景と鳥 -赤人の鳥の歌をめぐって-

朴喜淑

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.325-340

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4,900원

叙景歌の代表作とされる赤人作歌の九一九(㋐)、九二四(㋑)、九二五(㋒)の三首について、赤人の歌が叙景歌とされることの意味を考えてみたい。この三首、特に㋑については、島木赤彦によって高い評価を受け、以来叙景歌として最高の作と評された。こうした評価は、㋑(㋐、㋒も同様)を特立した作品としてみたことに起因する。しかし、㋐、㋑、㋒の三首は行幸歌の長歌に添えられた反歌であり、長歌を受ける形で讃美の情が詠まれていることはいうまでもなく、現在では、純粋の叙景とはいえないという理解が定着している。そして、叙景歌そのものについては、話者の感情が何らかの形であらわれている抒情詩の一種と見るべきことと了解されている。一方、赤人の歌を叙景歌として捉える従来の理解に対しては、それをアララギ派的な評価とみた上で赤人の歌の読み直しを図る論や、赤人の叙景の意味を問い直す必要性を説く説などが行われている。しかし、赤人の歌が叙景歌として評価されてきた所以、あるいはしっかりした定義のないまま叙景歌と認定された内実についてあらためて論じるべきではないか。集中において、実景(枕詞以外)の鳥を最も多く詠み、鳥の歌い方においても他の万葉歌人に比して特徴的である赤人は、行幸歌にしきりに鳴く鳥を歌うことによって、行幸地を讃美したのである。㋐、㋑、㋒の三首が抒情詩であることは確かであるが、叙景歌の代表作とされたのは、情を託されたその景の中心に鳥がおり、赤人の場合その鳥の表現が万葉集の中で独自の位置を占めていたため、叙景歌として受け取られたのではなかろうか。

18

5,800원

In 1874, History of Korean Church (Histoire de l'Église de Corée) was issued in Paris, written and compiled by french missionaries (Missions Étrangères de Paris),only Westerners at that period having lived and died in Korea before the opening up of the country. This unique work dealing with the "Hermit Kingdom" is promptly detected by a Japanese diplomatic minister in Russia, Enomoto Takeaki (榎本武揚)who will publish Dallet's "Introduction" in double translation (French-Dutch-Japanese), renamed The state of affairs in Korea (朝鮮事情) in 1876, just before the conclusion of The Korean-Japanese Treaty (江華島 條約) in the same year. If Dallet's work established an archetypal image of Korea all over the world, Enomoto's book settled a particular vision of Korea for his compatriot bureaucracy. While the academical and historical values of Dallet's original writings reside generally in the veracity based upon missionaries' actual field experiences, Enomoto's book obtained an extra-authority through modern period in Japan eagering the european civilization with considerable admiration, or even unconditional follow. In brief, Enomoto implanted his political purpose in the translation of Dallet's work, so that his politico-military intention could be legitimated and universalized by "Western imperialist powers" discourses. This is a typical example of historical writings with religious character transformed into politico-military text.

19

5,700원

本論文は、最初の女性週刊誌である婦女新聞を中心に、1900年前後頻繁に登場した「改良」に関する言説を考察したものである。その結果、1900前後の婦女新聞の女性言説は「体育奨励」「服装改良」「交際」「労働」に集中されていたことがわかった。ここには上流層女性を改造しようとする狙いであった。一方、こうした言説の基底には、西洋の女性論から日本の良妻賢母主義へと転換するなか、浮かび上がってくる儒敎風の「女大学」に対する批判も表われている。こうした言説には日本の伝統と儒教的なアジア風を区別し、新たな日本風の女性像を形成しようとすることも見られる。本論文で論じた「体育奨励」「服装改良」「交際」「遊び」などの言説は、箱入娘といわれた閉鎖的で虚弱で欝憂性を持っている日本女性を社会へと導くものであった。それが目指したのは、消極的な性向を活溌で進取的な性向へと改造することによって、社会に有益な女性とするものであった。もちろん、そうした言説は第二の国民の生産者である女性の健康を增進しようとする目的であった。また永い歴史を持つ日本服を変えていく原動力が女性の体育であったことがわかった。一方、「労働」についての言説は労働、職業に対し、「卑しむ」という軽蔑する意識を変えながら、「労働の神聖」を主張していった。そこには上流層の女性を社会の労働に導く必要のためであった。そうした過程で実業教育の重要性が高まっていった。こうした女性の実業教育は社会の必要に応じてなされていったことがわかった。

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花袋의 전쟁체험 고찰

李美京

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.385-401

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5,100원

本稿はまず、田山花袋の日露戦争に関する体験を第二軍従征日記を取り上げて彼にとっての戦争の意味と作品の描写について考察することを試みた. 花袋は、明治20年代の文壇の総師とも言える尾崎紅葉の死に追討ちをかけるように、硯友社的な傾向から抜け出し、露骨なる描写を主張するに至る.その後、日露戦争を題材とした第二軍従征日記では、戦闘前後の戦争の場面だけではなく、部隊で起きる日常も写実的に描いていることが確認できた.また、戦争の中での人間性の喪失と戦争悪の発見を自身内部の‘悪’の発見に回して自身内部の悪を告白する私小説蒲団を発表して日本自然主義作家として認められるに至る。戦争の中で‘悪’に対する表現と思索までは従軍記者という限界があったが、文章の中には悪の発見は明確にあったし、それによって根底には主観的であり態度においては客観的、傍観的に変わったことは明らかであろう。また、彼の平面描写の代表作とも言われる一兵卒、田舎教師の考察を試みたが、その中で特に平面描写で書かれた田舎教師が評判が高かったのは、戦争で負傷し失業になった人たちの社会復帰が問題になった時代状況もあったからであろう。読者は田舎教師を読みながら日露戦争に参加もできず寂しく死んでいく主人公と周辺の人を対比し、負傷したにしろ、なにもできずに死んでいく人よりは良いと思ったのではないだろうか.また、田舎教師は実在の人物をモデルとしたものであるが、主人公に花袋自身が移り変わったかのように書いた作品であるため生き生きとした小説になったのであろう.花袋の従軍はただの6ヶ月であったが、死を目前にした戦争体験は彼のセンチメンタルな敍情性を冷却させて作家としての新しい道を開いてくれたのは確実であろう。

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日帝强占期における日本語朝鮮説話集の刊行とその書誌

李市埈, 金廣植

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.403-424

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5,800원

本研究では、「帝国日本による植民地支配期に採集された日本語朝鮮説話集」(日本語朝鮮説話集)について刊行の推移とその書誌、そして先行研究を考察したものである。朝鮮説話といえば、朝鮮にまつわる説話という広い意味での解釈も可能であるが、本稿で取り上げる「朝鮮説話集」は、朝鮮において朝鮮人の間で伝承される説話を集めた単行本に限定した。先行研究を踏まえて、新に発見した資料をまとめて、植民地期に52種の日本語朝鮮説話集が刊行されたことを明らかにした。先行研究では、前近代に刊行された「文献説話集」と、1945年以降に採集された「口伝説話集」を中心に取り上げ、その変容及び関わりを考察する研究が行われていた。しかし、近代初期に刊行された資料集は説話研究史において簡略に言及されるのみで、前近代の資料に比べて、その書誌は不明なまま今日に至っている。近年、ハングル等で刊行された近代説話集に関する研究が進められ、その傾向を把握できるようになった。鄭明基と金埈亨の研究によって、植民地朝鮮では30種以上の「才談・笑話・野談集」が刊行されたことが明らかになった。本稿ではそれを踏まえたうえで、新たに発見した日本語朝鮮資料集を取り上げてその書誌を明確にした。ハングル等で刊行された朝鮮説話集は、<才談・野談集>が中心で、昔話・伝説集が少なかったのに対して、日本語朝鮮資料集に収録された話の中には笑話などが多く含まれるものの、昔話・伝説集が多いことを確認できた。また、植民地支配と共に朝鮮説話も帝国日本説話に強制編入され、朝鮮説話までもが朝鮮の「知の支配」の延長線で展開されたことに留意しなければならない。しかし、帝国日本における朝鮮説話は最初から明確な基準の中で分類されるものではなく、時代と編者あるいは出版社の意図によって変わり得る流動的なものであった。日本語朝鮮説話集の編者の中には、朝鮮の教員と学務局の関係者が多く含まれており、植民地教育と説話が深く関わっていることが確認できた。特に、学務局の関係者の著書は、植民地教科書の説話収録にも影響を及ぼしたことに注意しなければならない。また、朝鮮総督府学務局は1910年代に2回にかけて朝鮮説話を調査しており、それが植民地教科書の説話に反映されたことを確認することができた。新たに発見した資料の内容及び性格に関する考察は今後の課題である。

22

5,100원

芥川の童話の中で「杜子春」は「蜘蛛の糸」とともに名声に高い。よく人口に膾炙され、国民的児童文学ともいえるかもしれない。芥川において芸術は彼の人生の全部だったと言っても過言ではない。永遠を飛び越えて神さまになろうとした彼は現実的な感覚を要求する周辺状況で現実に目を向けるようになった。この時期に発表された作品が「杜子春」である。その頃童話をほとんど文壇が問題視しなかったし、批評もしないから童話を通じて彼は自分の本心を現わしたことである。他の作品にはない彼のナイーブさがよく出ているのはこの童話だといえる。その点で芥川の童話の持つ意味と価値もあると思われる。人間の世界に愛情が尽きて仙人を志した芥川は現実世界にがっかりして芸術世界へ、幻想の世界へ幸せを捜そうと思った芥川の姿と重なる。‘杜子春’が志向した仙人とは変えて言えば芥川が志向した芸術至上主義ではないかと思う。しかし地上のすべての人情と道徳を乗り越えられなかった彼は結局仙人になるのを諦める。芥川が‘杜子春’に仮託した地上の人情味のある平凡な生き方に対する願望は私たちに強く伝わって来る。人間の薄情さに愛情が尽きて世の中を捨てて人間の苦痛を超越した仙人になりたがった芥川は結局「杜子春」で‘何になっても、人間らしい正直な’ 暮らしをする人間愛への肯定的視線を送っていることが分かる。非情な人間世界を捨てて仙人志願の ‘杜子春’の志向は ‘精神的に偉い人になりたい’と努力をした芥川の理想と言えるが、世の中のすべての苦痛を超越した仙人になるよりは生死を一緒にする人間に対する肯定的な視線を把握することができた。

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<法華霊験記>における「焼身供養」

趙恩馤

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.443-461

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5,400원

『法華経』の「薬王菩薩本事品」は、『法華経』の教えを実行し、修行する実例を薬王菩薩をもって説いている。そして、『法華経』がもっとも功徳に優れたお経であり、その中でも、「薬王菩薩本事品」だけを聞いてもその功徳は無限であり、それは、薬王菩薩の「焼身供養」の功徳によるものであると述べる。この憙見菩薩の「焼身供養」は、後に、〈法華霊験記〉の中で法華経持経者の修行における一つの話型として定着していく。しかし、日本における「焼身供養」は、平安中期に、源信が唱えた往生思想と、平安末期に流行した末法思想の影響が大きく、個人の往生の手段として焼身が行われており、「焼身供養」が、自らの身をもって供養し、衆生を感化する目的であったものの、その意味が変わっていた。本研究では、日本の「焼身供養」を伝える、主な資料が、「往生伝」や<法華霊験記>であり、これらのテキスト編纂には、源信を中心とした天台宗の僧侶たちと、慶滋保胤のような中下層貴族たちの個人化され閉鎖的な特徴をもつ浄土思想の影響が大きいことに注目した。特に、『法華験記』には、人々を避けて厭う持経者の姿が多く、「焼身供養」の特徴となる大衆の前での焼身と結縁についての記述が簡略化され、焼身した後の往生の描写に集中していることを確認した。

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『가게로일기』 참배 여행의 의미

허영은

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제21집 2012.04 pp.463-486

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6,100원

『蜻蛉日記』 で道綱母は、初瀬、石山、唐崎、鳴滝などの地に物詣をしている。兼家とうまく行かないうっとうしい日常から逃れたこうような体験は、道綱母に思索と内面観照の機会を与えている。そういう意味で、この物詣の経験が結局蜻蛉日記執筆の大きな原動力となっていると言えよう。星野英記は、巡礼とは日常生活を一時離れ、聖地に向かい、そこで聖なるものに近接し、ふたたび日常生活に戻る行為であるとした。道綱母の物詣も同じことと理解することができる。夫の来訪を待つ苦しい日常を離れ、非日常の空間である山に入るのである。山は神聖な他界であり、そこで彼女は「死」を疑似体験する。唐崎祓えでは水の生命力で魂を浄化し、過去の自分を捨てて、新しい自分を向かえるのである。また、石山詣ででは、「谷」とその谷を照らす「月」の力で、「死」と「再生」を経験する。彼女は物詣を通して神聖な他界に入ることによって、弱まった生命力を復活させて新しい活力を得ている。『蜻蛉日記』 の物詣の意義はまさにここにあると言える。しかし、日常に戻った彼女を向かえるのは冷たい現実であった。兼家の来訪は相変わらず間遠であり、その分彼女の失望も大きかった。中巻以降物詣の記述が殆んど見られないのは、彼女にとってもはやリフレッシュの機会も必要ないことを物語る。それと共に『蜻蛉日記』 の執筆目的も無くなってしまうのである。

 
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