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일본언어문화 [Journal of japanese Language and Culture]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본언어문화학회 [Japanese Language & Culture Association of Korea]
  • pISSN
    1598-9585
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    2002 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 495
제12집 (16건)
No

特別 Symposium

1

日本의 古典 藝能과 現代

박전열

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.5-49

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9,300원

2

4,800원

「時の表現」は事象が状態を表すか、それとも動きの成立を表すかによってその意味が決められる。動きの成立に用いられる動詞も、それがどの事象に用いられるかによって、動きの成立はなく、動的な状態が事実として位置付けられる場合があるのである。このような場合、動き動詞は状態動詞化し、「ル」形で現在を表すようになるのである。 文の状態性は「時の表現」を決定するのに関係する事象である。 しかし、この状態性は、動詞だけでは決められず、様々な要素から構成される事象の意味によって決められる。つまり、文は動詞自体の意味としてではなく、文全体の意味として「時の表現」に関係するのである。事象が、状態を表すか、動きの成立を表すかは、動詞だけの問題ではない。動詞は文中での使い方を考えなければならないので、動詞が「時の表現」の意味と形式を決める絶対的な要素にはならないということである。 動きの成立を表す動詞が恒時的な事象に用いられると、動詞は事象レベルで考えなければならないため、状態を表すものとして位置づけられるのである。こういう場合の動詞は、状態動詞化文を構成するので、「ル」形で現在の状態を表す表現になる。

3

상(相)의미의 이행현상과 テイル

睦宗均

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.69-94

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6,400원

本稿は、アスペクト意味が<進行相>から<結果相>へと移行する「基本的意味内の移行」現象を主な考察対象とし、その真相とともに原因を考察したものである。 まず、本稿では「基本的意味内の移行」現象を正確に捉えるために、従来の動詞中心の分析方法に対する問題点を指摘した上、事象(=Event)とテイルの合成から解釈すべきであることを主張した。このような観点からEventを類型し、動作のみのEvent[+E]と結果状態のみを表すEvent[-E]、そして両方のEventを合わせもつ[±E]に分類した。 そして「基本的意味内の移行」現象についても考察し、アスペクト的意味が<進行相>から<結果相>へと移行する際に、同一Eventでの移行なのか、もしくは別のEvent間での移行であるかを区別し、前者は「Event内の移行」と後者は「Event外への移行」と呼んだ。また、<Event内の移行>においてはさらなる検討を加え、主体の動作とその結果状態を共に表すことのできるEvent、即ち[±E]であることが<Event内の移行>が起きるための前提であることを確認した。そして、<Event内の移行>が起きる原因をも考察し、それには「限界達成性」(「限界達成性」には動詞による「内的限界」と動詞以外のものによる「外的限界」がある)が深く関わっていることを明らかにした。

4

6,900원

21世紀になって、インターネットの発達により、サイバー空間を新しい教育の場とするサイバー教育が幅広く行われている。因って語学教育においてもインターネット環境を利用した外国語教育が活発に行われている。しかしながら、未だにコンテンツの質的な向上及び、オンライン講義法の開発等、学習効果の面においては改善するところが多いと言えるだろう。 本研究では、e-learning外国語教育におけるコンテンツ構成方式が、学習効果にどのように影響するかを考察して、今後、e-learningにおける日本語教育方法を模索しようとする。 日本語能力試験を対象とした理由は、既存のオフライン上の日本語能力試験における講義運営のやり方が問題を解き、それを説明するという形なので、実際、学習者にそれ程役に立たないということから、学習上、効果的な日本語能力試験のコンテンツの開発が必要だと思ったからである。 e-learning日本語能力試験の講義を行った結果、試験対策という学習者が比較的興味のない恐れのある授業で、楽しく学習できたというところに意義があり、更に以下のような学習効果があった。 •体系的なe-learning講義を通じて日本語の文法、語彙、聴解、読解等、総体的な日本語学習が可能であったことと、シミュレーションを通じて実践テストのような効果をあげることができた。 • 試験に対する適応力を高めることができた。 •品詞別に毎週実践問題を学習者が実際に解いてみて、問題の類型を把握するようにし、講義と解説を通して、日本語の実力とテストに対する瞬発力と適応力及び、応用力などを向上することができた。 •単純に問題を解いたり、一般的な理論、内容を伝達する方式を採用せず、マルチメディア要素を十分に使用したことにより、学習者の学習動機を誘発することができ、講義に対する集中力を高めることができた

5

6,000원

한국어의 「눈」을 통해 표현되는 감정유형으로는 「분노」, 「흥미(관심)」, 「욕심」, 「놀람」의 순으로 감정표현이 나타났으며, 일본어의 경우는 「흥미(관심)」, 「분노」, 「놀람」, 「감동」의 순으로 나타났다. 눈을 이용한 감정표현 중에서 한ㆍ일양언어에 있어서 유사한 발상에서 나온 것을 살펴보면 다음과 같다. 「目を三角にする」와「눈을 모지게 뜨다」의 경우 눈에 각(角)을 세워서 분노의 감정을 표출 한다는 점에서 유사한 발상으로 보여 진다. 「目の上のたんこぶ」와「눈의 가시」도 거의 유사한 발상이며, 「眼中にない」와 「눈 밖에 나다」에서는 「안」과 「밖」의 정반대의 단어를 이용해 똑같은 감정을 표현하고 있다.「目を剥く」, 「目を皿のようにする」와「눈을 부라리다」, 「눈이 등잔만 해 지다」의 경우는 동공의 확대를 통해 분노와 놀람의 감정을 각각 나타낸다는 점에서 유사하다고 할 수 있다.「目が飛び出る」와「눈알이 나오다」의 경우는 돌출을 통해 놀람의 감정을, 「目に入れても痛くない」와「눈에 넣어도 아프지 않다」에서처럼 삽입을 통해서 사랑의 감정을 나타낸다는 점에서 한ㆍ일양언어의 발상이 같다. 「눈」을 이용한 감정표현 중에서 한국어에서만 나타나는 표현 중에서 눈에 띄는 것을 살펴보면 다음과 같다. 「도끼눈」은 분노의 감정을 예리한 농기구에 비유한 농경문화에서 나온 표현이며, 「눈에 쌍심지를 켜다」는 분노의 감정을 하나의 등잔 속의 두개의 심에서 타오르는 불에 비유한 등잔문화에서 나온 표현이다. 일본어에서만 나타나는 표현 중에서 대표적인 것으로 「目を白黒させる」라는 표현이 있는데, 이것은 순간적인 색채의 변화를 매개체로 놀람의 감정을 표현하고 있다고 할 수 있다.

6

5,800원

本稿の目的は韓・日両語對照硏究を通じて得た2種の類似形式を例にして韓国語を母語とする韓国人日本語学習者(KJ)が目標言語を習得していく過程の中で起きる目標言語(日本語)と母語(韓國語)との間の言語干涉を明らかにすることである。 拙稿(2007a)を通じて同一状況を説明するのに日本語学習歴のない韓國人(K)の用いる「해 버리다[hay polita]」の使用率は日本人母語話者(J)の「してしまう」の使用率の15%に及ばないことが分かり、意味上類似している場合でも自国語での役割および運用において大きな違いがあることが明らかになった。これを元に、本稿ではKJの「してしまう」の使用率はJより低いが、学習歴が高くなるにつれJに近づいていくことを確認した。一方、 KJの「해버리다」の使用率はKの4倍に達し、目標言語の干渉がより深刻であった。問題は、學習歴が高くなっても「해버리다」の使用量は調整段階が見られるにせよKとは距離があり、母語においての誤用が深刻な状態であることである。ちなみに、KJの両形式、つまり「してしまう」や「해버리다」の使用傾向は類似していて、目標言語と母語の間の言語干涉を確認させてくれる。 拙稿(2007b)を通じて變化過程を表す「してくる」の使用量が「していく」の2.4倍に及ぶほど多い反面、韓国語の対応形式の「해오다[hay ota]」の使用量はごく少なく、なお、「してくる」が「해오다」に訳される例が13.6%にすぎず、55.4%も基本形「하다[hata]」に訳されるところから両言語間の違いが明らかになった。これを元に、本稿では變化過程を表す際、KJがJに比べ基本形「する」の使用量が高く、「してくる」は低いことから母語の干涉を確認したが、学習歴によって「してくる」の使用量がJに近づいていくことが分かった。一方、母語で変化過程を表す際KJはKに比べ、「하다」の使用率が低い反面、「해오다」の使用率が高く、依然目標言語の干渉が見られた。ここでも問題は學習歴が高くなっても依然とKとは距離があるということである。 類似形式の場合、目標言語の學習過程に起きる母語の影響は學習歴により克服されるが、学習者の母語に起きる目標言語の干渉はややもすると化石化する嫌いさえあることが分かった。學習過程で起きる学習者の母語の誤用に関心を注ぐべき時期なのである。

7

意味論的接続と語用論的接続 -「から」と「ので」-

李英児

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.171-190

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5,500원

「から」と「ので」を教える場合にいつも遭遇するのは、日本人社会の現実の使用が、教室で教わったとおりではないという学習者の不満であると富田(1991)は言う。その原因の一つを「永野論文以降の研究の主観/客観の区別の代案の多く─私の論理/対象の論理、またphenomenal knowledge / structural knowledgeなど─が、結局は主観/客観の区別に還元できてしまう」と指摘する岩崎(1955)の問題意識に見ることができる。 本稿では、主観/客観の区別に還元されない道具立てとして、意味論的接続と語用論的接続という次元の異なる捉え方を援用することを提案する。つまり、多くの先行研究で大同小異に言及されている「から」の「強すぎる感じ」と「ので」の「和らげる感じ」というものの根本的な性格の違いをどこに求めるべきなのか、また、「から」と「ので」の使用条件として必ず引き合いに出される文体(だ体/丁寧体)に絡む問題をどう捉えるかについて、「から」には命題性が、「ので」には待遇性が特徴づけられることを指摘した。また、以下の引用の如く、接続語を捉える概念の違いは、結局のところvan Dijk(1981)の接続を捉える二つの次元に行き着くものであり、同時に、意味論的接続と語用論的接続という次元の異なる捉え方の援用によってのみ、「から」と「ので」の微妙な違いを説明できることを述べた。 言葉を用いる実際の言語使用において、「から」と「ので」という似たような選択肢を使い分ける基準は、何かを伝えるための発話者の趣が、命題寄りなのか、聞き手寄りなのか、というレベルの差として捉えるべきことを認めてはじめて両者の違いの説明がつくものなのである。 An adequate theory of natural connectives involves both a semantic and a pragmatic account. At the first level they represent all kinds of connecting relations between ‘facts’(the values of propositions), and at the second level they represent more the relations between speech acts. Thus, connectives may function as semantic or pragmatic connectives. 自然言語の接続語を扱う適切な理論は、意味論的説明と語用論的説明の両方を含む。第一の次元では、接続語は「諸事実」(命題の真理値)間のあらゆる接続関係を表示し、第二の次元では、それよりも発話行為間の関係を表示する。よって、接続語は意味論的または語用論的接続語として機能することができる。(vanDijk,T.(1981)StudiesinthePragmaticsof Discourse.(p.23) 日本語は筆者訳。)

8

신어의 어종에 대한 일고찰

임영철, 송민수, 황혜선

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.191-207

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5,100원

今回の調査研究を通じて得られた知見は、次の通りである。 1)調査によって得られた最新の新語1000個を語種別に分析した結果、混種語が43.7%でその割合が最も高い。続いて固有語が28.2%、漢語が16.8%、外来語が11.3%の順であった。 2)このように混種語の割合が高いのは、まず、造語方法の多様化によることと思われる。特に、漢字は造語力が高いばかりか表意文字なので、意味を把握しやすいという特徴がある。 3)そして、漢語は2音節の単語が多いので、新語が作りやすく、その位置も語頭、語中、語尾等に自由に結合できうるからである。 4)世界化、情報化時代の影響のため外来語、その中でも特に、英語からの借用が多かった。そして、外来語は固有語や漢語と結合して混種語を作り、日本語、イタリア語、フランス語、中国語からも借用していることがわかった。 5)混種語437個のうち、固有語+漢語が39.8%を占めて、その割合が最も高く、続いて外来語+漢語が32.5%、固有語+外来語が16.9%、外来語+外来語が9.2%、固有語+漢語+外来語が1.7%の順であった。

9

5,700원

『木乃伊の口紅』(1913)は、作品名から見られる官能的な表現は、自我實現と永遠な愛の約束のための變容として表れている。夢に暗示された一端の描寫を、「ミイラ」というはるかに遠い昔の亡骸を通して、たえまなく生命と藝術の昇華について語ろうとした。 生活を大事にしようとする義男を理解できないみのると、藝術を愛することしか知らないみのるを理解できない義男との間に生じた葛藤は、みのるをして自己模索と自我實現に向かわせる原動力とならしめる。みのるの夢は遂に藝術に對する志向を抱くようになり、みのるの夢、すなわち、<木乃伊の夢>は「人間解放」という女性たちが抱いていた大きな主體意識が內包された自立の渴望として表れた。 自己認識から自立するようになり、自ずから力を持つようになる一連の過程は、女性問題を越えて、人間主體的な自立というところまで及ぶものと思われる。さらに、これは、義男に對する情熱的で官能的な愛を、赤い口紅によせて表したものであり、鼠色の男女のミイラと赤い色の口紅という組合せた表現は、<木乃伊の夢>という素材に生命力を加えている。すなわち、これは、みのるの自立と永遠な愛という念願がかなえられる底力になっており、<木乃伊のゆめ>には、みのるの念願と共に未來を夢みる希望が託されている。

10

4,900원

志賀直哉の文学にあらわれる大部分の女性はある種の特徴をそれぞれ持っている。志賀自身、本人の人生に愛着を持っているように作品の中に登場する女性にそれぞれ違う愛情を持っていると思われる。本稿で取り上げられる女性は志賀直哉の作品群の中では余り出てこない悪女っぽい女性であるが、彼女たちにどんな愛情をあらわしているかを考察してみたい。その女性像を心理学者ジョン · リーの愛の類型分類に基づき分けてみると、六つの類型の中でも、遊戯的で悪戯な愛の、ルーダス(Ludus)'として見ることができる。 遊戯的な代表的人物としては『暗夜行路』の栄花と「邦子」の雪子である。栄花は女義太夫だったが、落ちぶれて現在芸者をしている女性である。 栄花には自分の母に似通ったところが見られ同情をも持っているが、世間的に悪行で名が知られているのと美貌のため興味とある種の愛情を持つようになる。一時的で遊戯的な関心として栄花に惹かれるのはルーダスに違いない。もう一人の女性は「邦子」の雪子で、邦子の夫に意図的に近づき誘惑するのである。夫も自分の創作の為に愛情なしの彼女の誘いを受け入れるのである。夫と雪子の関係は遊戯とある目的のためにあったため、ルーダスだと言えるのである。 志賀の作品は明白に‘愛’という主題で書かれたものはない。しかし周りの人に対する愛情のあらわれとして書いた作品は多い。また、人生に愛着を持っていた彼がその人生の中に登場する女性たちを愛情を持って観察したのは言うまでもない。その女性を作品の中にいろんな形として見せようとしている。本稿で取り上げたルーダスとしての女性は作品のなかの割合としては低いが、それが為、彼女たちの存在は他の女性とは区分され、興味そそられるのである。

11

6,100원

本稿では、横光利一(1898-1947)の小説のなかに見られるルビづけの表現様式を具体的に検討することを通して、昭和文学の劈頭を飾りつつ常に新しい小説言語を試みた横光的表現世界の特徴を探った。 横光利一の文学的評価をめぐる従来の研究においては、初期の文学に見られる「表現」重視の流れと、晩年の文学に見られる「思想」重視の流れとをそれぞれ分けて議論した論考が多く、その観点は、横光文学の評価をめぐる定説のように認められてきた。しかし本稿では、彼の小説を通読するなかで発見した表現世界の特徴を通して、「表現」をめぐる彼自身の考え方が晩年の「思想」文学の時代に至るまで非常に強く意識され、工夫されていたことを明らかにした。 横光の表現観は、文学が「文字」から始まる、という大前提から成り立っている。自然主義文学の表現伝統では、文字というのは現実を描くための単なる手段に過ぎず、「どのように」表現すべきか、という意識はあまり重要視されていない。それに対し、自然主義的表現伝統に対する強力なアンチテーゼとして登場した横光利一の表現観では、文学が成り立つための源泉である「文字」を、「どのように」活かすべきかということを強く自覚するところにすべての立脚点が求められている。そもそも文学(Literature)とは、「文字(literal)」の「学」なのであり、その観点からしても、「文字」に対する横光の強い自覚は、文学の本質をつく考え方だったと言える。 本稿では、そのような考え方をもつ横光利一が、実際に彼自身の小説のなかで「文字」の「形式」を「どのように」生かしつつ自分の小説世界を作りあげているかについて、主にルビづけの使い方やその表現様式を通して具体的に分析、考察した。その結果、横光が、「日本語」という「文字」のもつ象形文字としての特質を強く意識しつつ、常に「日本独特の形式論」を視野に入れた創作活動をしてきた工夫の痕跡を読むことができた。その点、横光利一が、日本の近代文学史のなかで、表現の革命という新しい文学の時代を主導しつつ、一時期には文学の神様と呼ばれた一つの要因ではないかと考えられる。

12

만들어진 도공의 신화

노성환

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.273-296

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6,100원

鹿児島の苗代川は慶長の役の時、捕虜で強制的に連れられて行った朝鮮陶工たちが作った村である。現在も彼らの子孫たちが先祖代々の仕事を受け継ぎ焼物を生産しながら生きている。彼らのなかで特に我々によく知られている人物が朴茂德と沈壽官である。朴茂德は日本外相を歴任したし、沈壽官は當代であまりにも有名な陶工である。これまで我々はその人物にたいしてあまりにも誇張して包裝し、英雄化し利用した感じがなくもない。 例えば彼らが住んでいた苗代川の人たちは日本軍に拉致されて行きながらも書籍を大事に持って行ったとか, また本を読む声がとだえなかったとかという話しがそれである。それだけではない。ここの出身である朴茂德は二つの祖國の朝鮮と日本を愛した人で, 韓国の獨立にも大きく貢献した人物として紹介した。そして沈壽官は日本の著名な歷史小說家である司馬遼太郎によってもっと英雄化された。つまり, 彼の作品“故鄕忘じがたく候”に主人公として描寫されている。それによると捕虜になってここに定着したのが、400餘年経った今も朝鮮の名前を捨てずそのまま使っており、それだけ朝鮮の貴族の末裔として誇り高く, 不義とは妥協しない, また祖国の韓國を忘れることのない英雄的な人物として書かれているのである。 ここに本考は、國家と民族の目で英雄化するのは禁物だという認識をもって、そのような內容が事實とは異なっていることを指摘し、それは言論人と小說家のイデオルギによって作り出した神話だと分析した。というのは彼らを民族的な英雄だと見て國民の啓蒙に利用するのも重要であるが、彼らのためには偏見なしにある個人の生き方だと見るのが何よりも大切だと判斷したからである。

13

일본어판 한국문학사 재고

서재곤

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.297-321

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6,300원

本稿では日本で出版された日本語版韓国文学史の内容を分析し、相互比較を通じて各文学史の特徴と問題点を明らかにすることで、将来出版されるべき理想的な韓国文学史について検討してみた。 現在、日本語に翻訳されている韓国文学史は1970年代と80年代に出版されたものだけで、最近のものはなかったし、第1世代と2世代の韓国文学研究者のものがほとんどであった。次に、多数の学者が執筆し、最新の研究成果を収録したシリーズものはなく、現代文学についても触れていなかった。そして日本人学者が書いたものはなかったが、金東旭の場合は比較文学的立場から、卞宰洙は社会主義文学観に基づいて書いたものであった。 執筆者たちが日本の植民地支配を経験しているという共通点があり、金台俊以外は自ら日本語、または韓国語に翻訳している。70年代のものは韓国側の、80年代のものは北朝鮮側の学者によって執筆された。 最後に、各分野の専門家が執筆し、現代文学まで扱っているシリーズもの韓国文学史の刊行が望まれている。

14

5,400원

解放以後韓国は韓国戦争と民族分断、軍事政権と高度経済成長、民主化運動と民主化、インタネットによる情報化社会の到来など、約60年という短い時間の中で様々な経験をしてきた。この多様な歴史的な経験は韓国人の生活と意識はもちろん、韓国文学と映画など芸術分野にも根強く影響を及ぼした。本研究はこのような点を顧慮し、日本で韓国映画やドラマなどとは違って韓国文学が少数の日本人のみにしか読まれていない特殊文学として位置している原因を調べるため、解放以後から2000年までの韓国文学と韓国映画を照らし合って考察し、将来日本での韓国文学の受容可能性について論じた。 解放以後韓国文学と映画は戦争、分断、軍事政権という韓国の暗い歴史と一緒に歩んできたが、このような歴史の中で韓国文学は正面から政治に対抗してきた反面、映画は政権が替る毎に政略によって映画法も変り政治性向が少ないメロー物に目を向け韓国の社会像を描いてきた。韓国文学は解放以後から1950年までは植民地時代や韓国戦争を素材とした作品、1960年代から1980年代の半ばまでは軍事独裁に抵抗した作品や急激な高度成長による弊害を告発する作品、1980年後半からは脱冷戦時代という国際的状況と一緒に今まで扱ってきたテーマのだけでななく新世帯の多様な趣向とともに脱政治的、脱イデオロギ的な人間の内面的世界を直視する小説が登場するようになった。これとは違って、韓国映画は解放以後は日本からの解放の喜びを描いた光復映画を、1960年代に入ってから国家保安法や反共法で韓国の政府によるシナリオの検閲が厳しくなってメロー映画に目を向けた。しかし、これはかえって韓国映画は商業性と芸術性が一致した作品を作るきっかけになり、1980年代の維新政権の終末ともに今までタブーであったテーマのほかにも大衆性と芸術性と商業性を兼ねた作品を描いて、国際的に注目を浴びるようになった。 海外で韓国映画やドラマが受けいられる理由は、論理的なことより娯楽、興味、欲望などのような感覚的なことを楽しみ自己満足を追求する世界的なコードを受容しながらも、目上の人を尊重し、家族血縁を大事し、倫理道徳と信義を重んじ、その中での穏やかなユーモアという韓国の特有の色を失われていないことであると言われる。韓国文学も世界的なコードや韓国的情緒から読者の共感を呼ぶことのできる普遍的な感情を作品の中に引き出すことができれば、日本での韓国文学の受容もそう難しくもないと考える。

15

지카마쓰자 한국공연의 실태와 반향

이응수, 최경국, 명진숙, 홍선영

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.343-362

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5,500원

この論文は、2005年4月に催された近松座の韓国公演(『曾根崎心中』『棒しばり』)を前後した公演に関連する記録を整理した後、韓国の各種メディアの反応を紹介し、専門家のインタービュを分析したものである。 メディアの反応には、その性格からして深層的な報道よりは当時韓日両国の政治的な状況についての報道が多かった。内容においては、公演の意義や韓国人には慣れていない女形について集中的に追究されていた。特に座長の中村鴈治郎が今回の韓国公演で1200回以上もお初役を勤め、ギネスブックに載せられるという事実が注目された。 演劇專門家のインタービュでは、まず政治的な状況に関係なく持続的に文化交流が行なわれるべきだという、交流の重要性を唱える意見が多かった。さらに交流が、大都市に限らず全国的に拡大すべきだという意見、若者にも両国の高級文化を享受できる環境を作るべきだという意見、また伝統文化の学術的な比較研究にまで発展すべきだという意見などがあった。 それに、今回の公演についての劇評の中から注目すべきことは、女形を演じた鴈治郎に関する評で、メディアの報道では74才のおじいさんが19才のお初を演じるという事実そのものが関心事であった。しかし、専門家インタービュからは、女性は女形について肯定的な答えを出したのに対し、男性の中からは否定的な見解が多く見つかったのが特徴である。

16

三島由紀夫の『花ざかりの森』に見える浪漫主義的憧憬

李智賢

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제12집 2008.04 pp.363-377

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4,800원

본 논문은 미시마 유키오의 초기작품 「꽃이 한창인 숲(花ざかりの森)」을 통해서, 미시마 작품 속의 낭만주의적 ‘동경’이, 초기부터 어떻게 드러나 있었는가를 고찰한 것이다. 미시마의 작품은, 낭만주의의 이로니적 특징을 가지고 그것을 축으로 후기작품까지 구성되고 있고, 그의 생애 또한 낭만주의적 이로니의 완결이 되었다고 볼 수 있다. 「꽃이 한창인 숲(花ざかりの森)」은, 그의 이러한 문학적 특징이, 소년시대에 이미 발현되고 있었음을 보여주는 작품이라 할 수 있다. 미시마는 이 작품에서, 어린시절 자신의 영혼이 손짓한다고 생각하는 어떤 대상에 대한 알 수 없는 동경(憧憬)에 대해 설명하고, 이러한 동경은 자신의 선조들에게서도 발견되었던 유전적인 것이었음을 말한다. 그리고 자신이 품고 있는 동경의 본질이라는 것은, 도달 할 수 없는 절대적 대상에의 동경이므로 도달하는 순간 그 의미를 잃고 만다는 것을, 선조들의 예화를 통해 나타내 보인다. 미시마가 평생을 통해 추구했던 절대적인 것에의 동경은, 시간에 따라 그 대상을 조금씩 달리하기도 했지만 결국 일본의 천황으로 귀착되게 된다. 본 논문은, 미시마가 일본 천황에서 자신의 절대자의 모습을 찾아내었던, 후기의 낭만주의적 이로니의 특징이 그의 첫 작품에서 이미 짙게 발현되고 있다는 점을 확인할 수 있다는 것에 의의가 있다. 따라서 텍스트 속에서 작품 속 주인공의 대화와, 동경을 정의하는 부분 등, 미시마의 낭만주의적 성향을 뚜렷이 드러내고 있는 것을 확인하고, 이러한 특징이 후기에는 어떻게 발전되어 가는가를 확인해 보았다.

 
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