2025 (48)
2024 (51)
2023 (49)
2022 (46)
2021 (50)
2020 (54)
2019 (59)
2018 (54)
2017 (59)
2016 (71)
2015 (82)
2014 (99)
2013 (84)
2012 (88)
2011 (87)
2010 (61)
2009 (39)
2008 (33)
2007 (40)
2006 (44)
2005 (31)
2004 (31)
2003 (35)
2002 (10)
5,200원
本稿は、社会的コノテ-ションという意味概念に注目し、一単語内のデノテ-ションが多義となっている場合、それぞれのコノテ-ションがどのように付加されているかを、多義語「人間」を例に検討したものである。「人間」のデノテ-ションは、<全体としての人間>と<一部としての人間>に分けられる。<全体としての人間>には、≪本性として短所を備えた存在≫≪こうあるべき存在≫≪本性として長所を備えた存在≫という社会的コノテ-ションが、<一部としての人間>には、≪(本性として)短所を備えた存在≫≪不幸な存在≫≪(本性として)長所を備えた存在≫という社会的コノテ-ションがそれぞれ付加されていることが確認できた。≪本性として短所を備えた存在≫の否定的なコノテ-ションは両方のデノテ-ションに共通しており、もっとも典型的である。一方、≪こうあるべき存在≫の当為的なコノテ-ションは<全体としての人間>だけに、≪不幸な存在≫の同情的なコノテ-ションは<一部としての人間>だけに付加されており、デノテ-ションの多義構造に連動している。このような「人間」に付加された社会的コノテ-ションの様相は、人間に対する社会のものの見方を反映する。つまり、日本社会では、人間に対して基本的には否定的なものの見方が優勢であるといえるのだが、特に人間全体に対してはより強く、それを克服すべきだという見方まで存在する。これに対して、個人の人間に対しては同情的な見方がみられる。このように、社会的コノテ-ションを多義構造に取り入れることは、その単語が表す対象に対する社会の価値観も含めたより豊富な意味記述が可能になるという点で大きな意義がある。
6,000원
本稿は、テレビニュースの字幕翻訳の特徴と問題点を、テレビニュースの日本語発話と韓国語字幕との比較し、両者の違いを中心に探ってみた。テレビニュースの字幕は放送言語であるため、本稿ではSTである日本語発話とTTである韓国語字幕との間に生じる違いが、放送言語の指針によるものであるという観点からの分析を試みた。また、放送言語の指針によるものとは言いにくい誤訳の例も挙げ、そのような誤訳が生じた原因を探ってみた。まず、先行研究から放送言語の指針を「簡潔性、正確性、明瞭性、自然・平易な口語体、品のある丁寧体の使用、標準語の使用」とまとめた。その後、テレビニュースの字幕翻訳においてのSTとTTの間の違いを、放送言語の指針との関係から省略、縮小、挿入、語の変換、強調、文末形式の変換、標準語化と類型化してみた。また、放送言語に指針に合わせて翻訳する過程で、STの意図・意味が変わってしまうことがあり、注意を払う必要があることを指摘した。次に、誤訳によるSTとTTの間の違いを、文の一部が誤訳された例と文全体が誤訳された例に分けてみたが、誤訳の程度によって、STの意図・意味を推し量ることができる場合と、STとも記事の内容とも合わない、意味不明の文になる場合があった。誤訳の原因としては、翻訳者の語選択のミスや聞き間違いと記事編集上の技術的問題などを挙げた。
신문광고 헤드라인에 대한 한・일 대조연구 -1990년대와 2000년대의 한국 중앙광고대상과 일본 광고電通상 수상작 중심으로-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.79-96
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5,200원
本稿では、韓国の中央広告大賞における新聞部門の受賞作、日本広告電通賞における新聞広告部門の受賞作のヘッドラインの語彙を、九種類の業種部門の中で三つの業種部門に分類して語種別に調査分析した。 その結果、韓国および日本の広告使用語彙の構成要素を調べると、両国ともヘッドラインにおいて固有語の使用率がそれぞれ48.1%(179個)、55.2%(243個)で、固有語が最も活発に用いられていることが分かった。それから韓国のヘッドラインの語種を業種部門別に調べると、食品·飮料部門では漢字語の使用頻度の数が30.7%と高く現れた。特に酒類に係わる語彙がよく目立った。生活用品の部門では、総70個の語彙の中で固有語の使用が42個(60.0%)で使用頻度数が顕著に高いことが分かった。この部門は、医薬品の広告が大部分であるため広告のヘッドラインで身体部位名の固有語がしばしば現れた。そして、2000年代はこの部門で受賞した広告は發見できなかった。運輸·輸送部門では外来語の使用が22.8%と高い結果を見せた。その原因は、新車を生産するとき名前を外来語にする場合が多いからである。消費者に新しい印象や高級で洗練された感じを与えて購買欲求を呼び起こすために外来語を使う場合が多いためである。また日本のヘッドラインの語種を業種部門別で調べると、韓国と同様にすべての部門のヘッドラインで固有語が圧倒的によく用いられていることが分かった。その次には、漢字語が三つの部門で総語彙数の約3割程度を獲得するほど多く登場している。その次は外来語で、生活用品の部門で外来語の使用率が最も低かった。最後に混種語は、すべての部門で韓国と同じく使用比率が最も低かった。
韓国語を母語とする日本語学習者の表現教育のための日本語の条件表現の実態調査 - 韓国人日本語学習者を対象に -
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.97-119
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6,000원
本稿では、日本語を専門とする韓国人の大学生96名を対象に、日本語の条件表現の習得状況の実態調査を実施し、その結果を分析した。条件表現を表す「ば・と・たら・なら」の共通の意味用法と個別の意味用法を総合した13の領域における例文、50項目を提示し、適当な表現形態を複数で選択ができるようにした。その結果、意味用法としては定着していないが、日本内で反復性の構文に頻繁に現れるようになった「たら」が韓国人の日本語学習者の選択でも、一般的な条件ばかりでなく、真理のような既定事実的な条件を表す場合においても選択されていることから、何らかの形で日本内の傾向に関する情報を得ているものと考えられる。このような現象が現れたのは、日本語の条件表現の学習が意味用法に準じてはいるが、日本語学習者が多方面に渡って日本語と接触し、正規の学習機関での学習に限らず習得が行われたためであると判断される。このような現象とは違って、各表現形態の意外な選択や間違った選択など、表現形態の選択の弁別力が劣るという結果も出たが、それは各表現形態の意味用法の学習の不安定によるものであり、正確な確認学習が必要と判断される。「と・たら」の事実的用法においても弁別力が劣るという結果が出たので、確認学習が必要であり、特に、「なら」の意味用法の特性の理解度は考えていたより低く、間違いも多く現れ、「なら」の意味用法に関する確認学習も必要と判断される。
5,500원
日本語のアスペクト体系に関しては完成相スル(perfective)と非完成相シテイル(imperfective)との対立は明確である。しかし、英語のアスペクト体系に関しては日本語に見られる完成相と非完成相の明確な対立は文法化されておらず、動詞の辞書形をもってスルの示す完成相の場面にも、シテイルの示す非完成相の場面にも用いられる。このように両言語のアスペクト体系は大きく異なるのであるが、その根底には動詞レベルでのアスペクトの違いがある。本稿は英文とその対訳を対照しながら、認知言語学的観点からも日英のアスペクト文法形式のはたらきについて考察したものである。たとえば、事態を完成相的に、もしくは非完成相的に表す言語時間の把握は認知的に空間を認識し、それを構造化することとの共通点がある。完成相であるスルは展開する場面を時間軸上で一時点に圧縮し、示そうとする。それに対して、非完成相であるシテイルは時間軸上の一時点に収まらない引き延ばされた同質の場面を示そうとする。一方で、英語動詞の多くは完成相スルと異なった認知に基づき、時間把握される。英語動詞の多くは時間軸上で境界づけられず、コンテクスト次第で完成相、非完成相のどちらの解釈も可能となる。英語のアスペクト体系では日本語のように完成相か非完成相かといった述部レベルでの抽象的なアプローチではなく、進行相形式やパーフェクト形式など具体的な場面から入り、コンテクストによって、完成相的な場面か、あるいは非完成相的な場面かを識別する。論文では日本語のアスペクト体系では完成相と非完成相の明確なアスペクト体系が中心となっている一方で、英語のアスペクト体系では進行相と非進行相の対立とパーフェクトと非パーフェクトの対立がコンテクスト上で重要な位置を占めていることをあらためて確かめた。
5,800원
本稿は、主体動作·客体変化動詞がテイルと結合し〈結果相〉を実現することに注目し、"再帰構造"のもとで実現できると主張した工藤(1982、1995)に批判的な立場から考察を行ったものである。まず、再帰構造が捕らえる「(主体の)変化の結果状態」と結果相によって顕在される「(主体の)変化の結果状態」が同一であるかを調べ、工藤(1982、1995)の主張の有効性を検討した。その結果、再帰構造による「(主体の)変化の結果状態」は、必ず主語が動作主(Agent)であるという制約があるが、結果相の「(主体の)変化の結果状態」にはそのような縛りがないことを明らかにし、二つの結果状態が同一でないことを確認した。次に、工藤(1982、1995)が主張した「再帰構造」に代る意味制約をもとめ、主体変化動詞と主体動作·客体変化動詞を共に「限界動詞」として扱うことを提案した。このような本稿の提案により、主体動作·客体変化動詞が結果相を実現するための意味制約は、主体変化動詞の意味制約と同様に扱うことができ、主体変化動詞の意味制約である「主体の変化結果」のもとで主体動作·客体変化動詞も結果相を実現することができると主張した。このような本稿の主張は、現代日本語の結果相を記述するうえで、奥田(1977)による「主体のあり方」からの動詞分類より、Vendler(1967)の「限界性」による動詞分類のほうが有効的であるという一つの傍証となる。
5,400원
本稿は様々な複合動詞「-出す」を学習者がどれほど理解しているかを実際調べたものである。姫野(1999)によると「-出す」は基本義である「移動」から抽象化され、ものの「顕在化」を表し、さらに、アスペクトとして「開始」を意味する。一方、Shirai(1995)などは、多義語において基本的で具体的な意味であるプロトタイプは習得に有利で、非プロトタイプは習得しにくいと述べる。今回の調査結果、プロトタイプである「移動」は上下レベル共に高く受容される傾向があった。「移動」は具体的で基本的な意味であるので、習得されやすく、母語訳を参考にできる表現が多いからである。また、下位群は「移動」「顕在化」「開始」と抽象化されるにつれ、受容度が低くなっていった。上位になると「開始」の受容度は高くなるが、「顕在化」にはほとんど変化が見られなかった。これは、「開始」は抽象的な意味ではあるが規則を習得すればある程度理解できる用法であるのに対し、「顕在化」は「∼出す」の意味が抽象化された上、V1+V2としては解釈しにくい項目が多く存在することが原因であると考えられる。このように上位になってもあまり発達しない意味に関しては何らかの支援が求められる。
日本語の「勉強」の意味概念について -学習すること、という意味で使われるようになった時期について-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.183-198
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4,900원
日本語と韓国語の類似性についてはしばしば論じられるが、語順が似ているとか、同じ漢語を用いる点、等を指摘する場合が多い。たとえば、学校教育に関する語について例をあげると、日本語の「教育」と韓国語の「교육(教育)」、「学校」と「학교(学校)」、「学習」と「학습(学習)」等のように、同じような漢語を同様の意味で用いる場合がある。しかし、中には日本でも韓国でも頻繁に使用しているが、異なった意味で用いている語がある。日本語の「勉強」と韓国語の「공부(工夫)」がそれにあたる。日本語では学習、または学習すること、学ぶことを「勉強」といい、「工夫」とはいわない。現代日本語の「工夫」は、「いろいろ思案して、よい方法を考え出すこと。あれこれと思いめぐらすこと。また、その方法。手だて。手段。」(精選版日本国語大辞典)の意味で、「勉強好きな子を育てるための授業の工夫」のような使い方をする。しかし、NAVER한자사전によると、韓国語の「면강(勉強)」には、「学習(する)」という意味はなく、「無理やりにさせること」という意味があるという。そのかわり、「공부(工夫)」に、「学習(する)」という意味がある。また、中国語の「勉強」にも、「学習する」「値引きして安くする」といった意味はみられない。この単語の意味は、「無理をする、無理強いをする」である。「勉強する」という意味の中国語は、「学习」である。本稿では、先行研究について言及したあと、日本語の「勉強」の意味について、辞書の記述をもとに調査し、①つとめはげむ。精を出す。②気がすすまないことを、しかたなしにすること。③学問や技術を学ぶこと。④経験すること。⑤商人が値引きをすること、値段をまけること等、幅広い意味があることを明らかにした。その際、先行研究で言及していた「しいてつとめる」「すこし無理をして・・・する」のような「勉強」の原義であるとも思われる意味の記述がみられる辞書とみられない辞書があることも明らかになった。その後、明治期の学制、小説、新聞等の用例を調査することによって、「勉強」が学校教育等において「学習(すること)、学ぶこと」という意味で広く用いられるようになった時期は、明治時代の初め頃からであったであろう、という結論を導き出した。
멀티미디어 코퍼스를 이용한 확인요구용법의 연구* -「ネ」「デショウ」와 시선행동의 관계를 예로-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.199-216
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5,200원
表現行動研究にマルチメディア・コーパスを用いることで、表現行動に関わる要素間の関係、とくに言語と非言語行動との関係が、現実の大量のデータにもとづいて計量的に調査・分析できるということを、「ネ」および「デショウ」と視線行動との関係についての事例調査をとおして論じた。「マルチメディア・コーパス」とは、言語のみならずその使用場面の映像・音声をも同時に参照できるコーパスであり、本稿では、テレビ放送の対談番組を用いて作成したマルチメディア・コーパスを利用した。その結果、発話時における話し手の視線行動に「ネ」の用法による相違が見られること、とくに確認要求用法では「ネ」「デショウ」のモダリティ形式の相違にかかわらずほぼ確実に話し手の視線が聞き手に向けられた状態で発話されることなどが明らかになった。これは、モダリティ形式と視線行動との関係に関する新たな発見である。そして、このことによって、確認要求用法と視線行動との関係を論じた蓮沼(1988)を実例にもとづいて検証でき、同時に、マルチメディア・コーパスを利用した表現行動研究の有用性を確認することができた。今後、本稿で用いたマルチメディア・コーパスをより十分に活用すれば、モダリティ形式による用法の相違以外にも様々な観点からの分析が可能となり、「ネ」「デショウ」と視線行動との関係はもちろん、その他の表現行動の要素間の関係もより十全に把握できるようになると予想される。
会話に見られる日韓の 「中途終了型発話」の使用様相 -日本語教育への示唆も含めて-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.217-236
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5,500원
本研究では、日韓両言語の初対面二者間の自然会話における「中途終了型発話」の使用様相について、表現形式と発話機能を中心に、言語行動の選択の主な要因と言われる対話相手の年齢と絡めて考察した。またその結果の日本語教育への応用可能性についても考えた。以下に、その結果を改めて簡単にまとめる。「中途終了型発話」は、日本人の初対面二者間会話においては約16%、韓国人の初対面二者間会話においては約12∼13%使われており、日本語の方が韓国語に比べ使用割合がやや高かった。しかし、年齢の差のある対話相手に使用割合が高く、また「接続表現」と「名詞表現」という表現形式が全体の約60%を占めている他、「情報要求」や「情報伝達」という働きかけの発話機能で多く使われているという共通点が見られた。対話相手との上下関係(本研究では年齢)による細かい使用はそれぞれ異なっていたが、全体的な「中途終了型発話」の使用様相は類似していることが分かった。これまで「中途終了型発話」は「日本語の特徴」として言われてきている。本研究の結果からも「中途終了型発話」は日本語の方が韓国語に比べ、より方略的に使われていることが窺えたが、日韓国両言語ともに待遇上の積極的な意味を持っており、円滑なコミュニケーションを図るための1つのポライトネス・ストラテジーとして働いていると考えられる。このように「中途終了型発話」は言語運用的な側面の強い言語使用であるため、日本語教育においては基本的な言語体系の学習が終わった中級段階の日本語学習者への指導がもっとも有効であると考えられる。なお、私的領域への侵入可能性の高い「情報要求」をする際、「中途終了型発話」を使うことで対話相手への配慮を表すことが充分に反映されている実際の会話例を日本語教材に取り入れるなど、「中途終了型発話」を言語運用上のコミュニケーション機能という側面から日本語教育に積極的に活用できれば、学習者のコミュニケーション能力の向上にも役立てると考えられる。今回は「中途終了型発話」の表現形式と発話機能の個別的な分析に留まったが、今後、表現形式と発話機能との相互関係をも顧慮に入れた、より総合的な分析をしていきたい。
5,100원
筆者は、学習者が日本語を学ぶ最終目的の一つとは、「居心地の良い人間関係を築くこと」であり、それを実現するために、「待遇コミュニケーション教育」が必要であると考える。そこで、本稿では、「待遇コミュニケーション教育」の試みとして、「待遇コミュニケーション」能力の育成を目指した教室活動をデザインし、日本語教育現場で実践調査を行った。今回は、「映像メディア」を材料として用いたが、その一連の教室活動が、学習者の「待遇コミュニケーション」能力の育成において、どのような働きかけをしていたのかを学習者一人ひとりの語りから明らかにすることが本稿の目的である。教室活動の流れは、①登場人物の台詞が部分的に消去された「映像メディア」を見て、気づいた点(人間関係、場、登場人物の気持ちなど)を書く→②登場人物の立場になって、消去された台詞を推測し、ワークシートに書く→③自分が生成した台詞とその理由について、他学習者と話し合う→④話し合い後、「適切さ」を考え、再度台詞を生成するの4段階にまとめられる。学習者は、この一連の教室活動を通して、「待遇コミュニケーション」の様々な要素に目を向けながら、消去されている台詞を自分の言葉で生成し、他学習者との話し合いを通して、台詞の「適切さ」をそれぞれの要素と関連して、判断・修正することになると仮定した。授業後、学習者に半構造化インタビューを実施したが、その文字化資料を用いて、「待遇コミュニケーション」能力の育成につながったと思われる部分を抜粋し、学習者の語りのエッセンスが共通するものをグループ編成し、カテゴリー分類を行った。その結果、学習者の「待遇コミュニケーション」能力において、①「待遇コミュニケーション」に関わる要素の認識及び判断②「待遇コミュニケーション」における「適切さ」の追求③「待遇コミュニケーション」におけるストラテジー獲得の点に影響を与えていたことが明らかになった。
5,500원
本稿では「先生の励ましの言葉が落ち込んでいた太郎を勇気づけた」「ワイパーが雨を散らした」のような、非情物主語の他動詞文を対象にして、他動詞文が表す意味類型について考察した。具体的に述べると、主語から補語への働きかけがあるかほとんどないかによって働きかけタイプとかかわりタイプに大別し、それぞれの分布および中身を明らかにした。分布面においては、非情物主語の824例のうち、働きかけタイプ(基本的な働きかけタイプおよび発生タイプ)は718例、かかわりタイプは106例見られた。基本的な働きかけタイプで働きかけを受ける補語名詞には、人補語、人の部分・側面・属性補語、非情物補語のようなタイプが見い出された。人補語の場合は「心理的な働きかけ」が、非情物補語の場合は、「物理的な働きかけ」が頻出したが、このような現象は、人補語の場合は、人の固有の性質と関わる「心理(感情や思考)」が、非情物補語の場合は、非情物の基本的かつ典型的な性質と関わる「物理」が特に発現していることと考えられた。一方、かかわりタイプでは、知覚、言語・思考、意味、関係、受動などを表す例が見られた。他動詞文は、対象への積極的な働きかけから消極的なかかわりまで、表現する領域が非常に広いといえる。
일본어 「-てくる ․ -ていく」와 한국어 「-어 오다 ․ -어 가다」의 대응관계에 대해서 - 「선행동사+후행동사」의 의미관계를 중심으로 -
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.275-290
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日本語の「-てくる․-ていく」には、時間的・空間的移動の意味だけではなく、アスペクトの意味を持つものがある。本研究では「-てくる․-ていく」と「-a/e oda․-a/e gada」に出現する先行動詞・後行動詞の意味とその関係のみに焦点を当てて、その意味関係による類似點と相違点を明確に分析、提示することで韓国人日本語学習者への説明をより簡潔なものにしたいと考える。まず、韓国語で翻訳された日本文学作品と日本語で翻訳された韓国文学作品を対象として、「-てくる・-ていく」と「-a/e oda・-a/e gada」が含まれる例文を抜粋した。抜粋した用例をA.対等的關係、B.重複的關係、C.補助的關係に分けて分析する。また、C.補助的關係を時間的、心理的、知覺的観点に分類する。対等的関係の「-てくる・-ていく」はあまり韓國語との差はなかった。差がないということは、つまり、「-てくる・-ていく」が対応する割合が高いということであり、「-てくる」93%、「-ていく」91%であった。重複的関係は抜粋した全体用例數の61%を占めている。これは日本語の移動動詞と「-てくる・-ていく」は結合度が高いということを意味する。しかし、「-てくる・-ていく」それぞれ82%、91%の割合で対応しなかった。つまり、移動動詞に接する「-てくる・-ていく」の意味、機能の一部が韓國語にはないと解釋できる。今回は「先行動詞+後行動詞」の意味関係だけで「-てくる・-ていく」と「-a/e oda・-a/e gada」の対応関係を説明するのは限界があるものの、本研究によって、実際の使用状況を掴み、重複的関係における韓·日両移動動詞の使い分けの違いが明らかになった。
天草本 『平家物語』의 丁寧語 考察 - 覚一本과의 対照를 중심으로 -
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.291-312
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本稿では、天草本平家物語においての丁寧語の意味用法を依拠本である覚一本平家物語と対照し、語形と意味用法の変化について考察した。その結果は、以下のとおりであった。覚一本に比べて、天草本では様々な丁寧語が多く使われていた。特に「会話文」よりは「地の文」での増加が目立つことがわかった。これは天草本が対話体で改編されたことと深く関係があると考えられる。まず、「ござる」は天草本の「地の文」で聞き手に対して敬意を加えることと、覚一本の「候ふ」に対応して聞き手に敬意を表わすことが主な用法であった。また、様々な活用語につき、四つの丁寧語のなかで使用頻度がいちばん高いものであった。次に、「まらする」は多くは覚一本の「まゐらす」に対応していて、両方ともに謙譲の意味を表わしていたことが明らかになった。しかし、「まらする」が「候ふ」に対応する場合は丁寧の意味であった。また、「おぢゃる」は「地の文」だけに用例が見られ、覚一本の尊敬の補助動詞「おはす」と「給ふ」に対応していた。補助動詞「おぢゃる」は丁寧の意味だと言われているが、天草本の補助動詞「おぢゃる」は尊敬の意味を表わしていたと考えられる。しかし用例数が少ないので問題があることも認められる。これについては今後、他の資料で幅広い考察をしていきたいと思っている。最後に、「おりゃる」は「会話文」で聞き手に敬意を表わす丁寧の意味であった。
5,200원
韓国・日本両言語の符号「?」「!」の使用をみると、疑問を表す文には「?」を、感情を表す文には「!」を使用するという点は基本的に共通する。しかし、韓国語の場合、疑問であっても感情に重さがあると「!」を使用し、感情を表しても疑問に重さがあると「?」を使用する。が、日本語の場合、疑問か感情を表すかの機能に重さをおき、「?」は疑問の機能に、「!」は感情を表す機能に用いるという違いがある。両言語の規定をみても、韓国語の規定には曖昧さがあり、日本語には規定がない。使用者が符号「?」「!」を用いるとき、自ら判断して使うという恣意的な使用となり、混用が起きやすくなる。実際、使い分けをみても韓国語の場合、規定だけでは説明の足りないところがあり、日本語の場合には規定がない恣意的の使用だけである。韓国語も日本語も恣意的な使用があるということは、使用は定着してはいるが、各々の使用の区別にはこれからもっと研究が必要であるといえよう。
5,400원
この論文は、最近韓国の大学における日本語教育においてますます教育の必要性が高まりつつある専門語に焦点をあて、語構成の面から韓日両言語を対照分析したものである。研究の目的は、1)両言語の語構成の仕方の相違点を確認し、2)両言語において固有語・漢字語が持っている造語力の相違・共通点を明らかにし、3)新概念の導入にあたって新しい用語制定に役立つ基礎資料としての役割を果たすためである。専門語とは、特定分野の専門家の間で、その分野における円滑な意思疏通を図るために作られたもので、本稿では、特に鉄鋼産業に使われる専門語を研究対象にしている。鉄鋼産業は歴史的背景からみて、日本からの影響を容易に確かめることができ、両言語間の語構成の仕方の共通点および相違点を確かめられる資料としての意義を持っている。また、国の基礎産業として位置づけられており、実用的な日本語教育という側面からも発展性がある。本稿では、次のような調査を行なった。1)韓国用語と日本用語を語種の面から分析し、各語種別の分布を調べ、その結果を結論において図で示している。2)各語種別に、日本用語を基準にそれぞれを対応させ、その結果を「対応タイプ」と「非対応タイプ」として分類した。この中には「漢字語・固有語・外来語・混種語」のそれぞれの語種の対応が見られるパターンと、異なる語種に対応するパターンとに分けられる。この対応関係を調べた結果は結論で表にまとめて示した。
신코킨 가풍에 관한 귀납적 고찰 -영가(詠歌)의 장(場)의 관점에서-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.353-371
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本稿は新古今集において中心的な歌人は三句切や体言止、それから本歌取技法を積極的に取り入れて以前の和歌世界とは異なる独特的な新古今歌風を築き上げたことを帰納的な方法によって検討してみたものである。西行、俊成から始まる新古今歌壇の中枢的な役割を果たした歌人たちが前述の技法を通して新古今歌風を形成したことは事実ではあるが、そのような技法は詠歌の場における詠歌伝達の手段である音声に頼る限り、技法的要素のほか、必ず韻律的要素も思案に入れるべきであることを述べた。本稿では、例歌として定家の歌一首をあげたのであるが、本稿で得られた結果は新古今集入首のほとんどの歌に適用させてもほぼ同じ結果を得られる。また、本稿で試みた方法論的な成果はある歌集の歌風を検討する際、非常に有効な方法になると考えられる。
나쓰메 소세키(夏目漱石) 작품에 나타난 신경쇠약 -후기작품과 신경의 안정을 중심으로-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.373-390
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漱石の人生には、20代、30代、40代の後半にそれぞれ数年にわたって精神的な変調をきたした時期があった。漱石は自ら文學論の序で、「神經衰弱にして狂人なるが為め、猫を草し漾虛集を出し、又鶉籠を公けにするを得たり」と言っているので、彼の作品と神経衰弱の関係は注目をあびている。つまり、大学在学中から始まった神経衰弱は三回ぐらい表面化するが、その病気は多くの作品に刻み込まれることになって、漱石文学の支柱となる。漱石は第二の病期の最中に創作活動をはじめているが、漱石の作品には精神に障害を抱えた人が病いをどのように受けとめ、対処しているのかというのを見ることができる。いわば患者からみた病というものが描かれてある。つまり、人間の苦惱や不思議な精神現状に理解と共感が現れているし、神經衰弱者の不安や苦悩に対する様々な治療法が提示されている。また、癒しへの試みという観点から、神經衰弱者の病的側面だけでなく正常な側面、健康な部分も含めて評価している。そして、苦悩を癒そういう試みが示されている。行人のHさんは、主人公の一郎の病いが彼の理知という長所と結び付いたものであるとして、一郎に前と変わらぬ敬意を表す。つまり、明晳な頭が神経衰弱の原因になっていると認識するとともに、神経衰弱を同情の対象としてでなく積極的に評価すべき対象として描かれている。又、こゝろには神経衰弱者の異常な行動を批判したり訂正するのではなく、むしろ長所を評価してそれを引き出そうとする態度を見ることがえできる。こうした認識と態度は漱石文学に一貫する特徴で、神経衰弱に対する認識の転換が行われていると言えよう。漱石がこのような態度をもって作品を書いたことには自分が病者であったということだけでなく、作品の中で神経衰弱者を癒すことで自らを癒したかったのではないかと思う。
『요로노엔기 에마키(養老の縁起絵巻)』의 성립과 성격 -요로지엔기(養老寺縁起)와의 관련성을 중심으로-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.391-407
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5,100원
養老の縁起絵巻は孝子が主君に従って上京し、その間妻が、酒が落ちる滝を発見し、老母を養うという内容の絵巻である。これまでは十訓抄からの影響、または穂久邇文庫本養老の縁起絵巻の前半に当たる作品であろうと考えられた来た。しかし、十訓抄では老父を養う点、滝を発見するのが孝子である点など、青山短期大学本養老の縁起絵巻とは話の構成や表現が非常に異り、穂久邇文庫本養老の縁起絵巻とも全く別の作品であることを指摘した。また、伊井春樹(1995)氏の論考の場合、彼が提示した養老縁起養老寺来由縁起略の成立年代について検討した結果、養老の縁起絵巻が影響を受けた可能性はほとんどないことを指摘した。ここで本稿では、より巨視的な観点から考察を行うため、筆者がこれまで収集した養老の滝説話を列挙し、それが十訓抄系統と養老寺縁起系統の二つの系統から成り、養老の縁起絵巻は養老寺縁起の後半部を削除して成立したことを明らかにした。寺社縁起としての養老寺縁起の場合、前半の孝子譚を前提にし、後半部に描かれている養老の滝及び養老寺の由来、そしてその霊験と利益を強調することが目的である。しかし、養老の縁起絵巻の場合、一見単純に養老寺縁起の前半部に当たる文章をそのまま用いて出来たかのように見えるが、実は典拠の後半部を削除することを通して作品の主題が変わり、教訓的な性格を帯びる絵巻として再誕生したものであるといえよう。
逸脱抑止機能が期待される 学校の規則のあり方についての考察 -日本の学校文化といじめ問題を中心に-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.409-432
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「いじめ」は主に子どもたちが多くの時間を過ごし、ルールが機能しているはずの「学校」という場で起きる。その学校を取り巻く社会や、内にいる教員や子ども自身が変化してきている一方、学校制度のほうは基本的なところで延々と変化がない。その中でもほとんど変化しないものが学校の規則である。学校ではこの規則が逸脱行動の抑止力になるべきものと期待されているはずであった。しかし、いじめ問題がなくならないという現実から、学校の規則がいじめ行為の抑止力になっていなかったと見ることができる。いじめ行為は学校における逸脱行為、つまり、いじめ加害者が学校の規則や規範観念を乗り越えて起こす加害行為であるから、加害者によって乗り越えられる「規則の機能」(制度的側面)を検討することはいじめ問題の解決のために必要なことである。つまり、学校のようにサンクションのない場所でのいじめ問題においては、加害者がどのように社会規範に同調するかということの究明が重要である。 規範観念へ同調し自己規制できる子どもを育てるためには人や状況との出会い、接触の中で行為を「対比」ではなしに「自己判断」できる「メジャー」となる規範が必要であり、それは判断の基準となる「原則」を示すことによって可能となる。そこで本稿ではT・ハーシが提唱した「ボンド理論」と竹川郁夫の「状況適合性ルール」を「いじめ」という逸脱行動に当てはめて検討し、逸脱行動を抑止する機能が期待される学校の規則のあり方を探る。ボンド理論における「コントロール」は「個人を基軸とした概念であり個人が社会と結びついている状態を指しているのであり、個人が自らに対して行う抑制行動ないしは内面化された抑止機制を意味している」ものであり、学校の規則を機能させるときに重要な鍵となる。また、学校で規則が機能するためには、その規則に自分たちが同意できるものだというアタッチメントとビリーフを形成させるように作られることが必要であり、そのためには教員が規則を一方的に布告せず、規則の成立に関してはは状況適合性ルールの成立過程が応用できる。ここでいう規則は必ずしも明文化されるものでなくてもよいが、この規則の成立には必ず「原則」との矛盾がないかの検討が必要である。
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古代における八坂の祭神は歷史の流れに会わせて絶え間なく變化している。最初は高句麗の龍神として出發して水を管掌する農業の神として役割していたが、その後、武塔天神と結合して疫神的性格を持つようになった。そして平安時代に疫病が蔓延した時は、暫くの間日本の龍神を迎えたが上手く行かず、広峰から佛敎の神である牛頭天王を新しく迎えて祭った。その結果、八坂の神は佛敎僧侶によって管理されることになるが、神格は武塔天神の以來の疫神的な技能を保ってきたのである。こうした變化を通じて次のような事實が確認できた。一つは八坂神社側が取った行動に見られるように、彼らが祭神が威力を失い使う所がなくなると捨てられか、それとも新しく迎えられた神に統合される信仰的な基盤が備えられている点であり、もう一つは八坂神社の起源が高句麗人たちが新羅の神の素盞鳴尊あるいは牛頭山神を祭ったことから由來したのではないということである。こうした結論は移り変わる過程を見逃し現在の様子だけ見て性急に下したものだと言わざるを得ない。
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1933年に生を終えた賢治にとって1932年に書かれたこの作品は特別な意味を持っている。賢治の人生の後期における岩手県松川村東北砕石工場での生活は自分の病状との闘いでもあった。賢治にはもう一つ、飢饉、冷害、凶作などや農民指導との闘いがあった。これらは全て農民を考えてのことだった。「グスコーブドリの伝記」の主人公のブドリの人生は明治·大正·昭和の歴史そのものとも言える。この作品の内容を自然の環境、社会的な影響、歴史的な背景の側面と、この作品を支えている二つの大きな要素である自然の脅威と理想郷から主人公が選んだ最善の道に辿り着いて行く過程を研究した。本稿では、作品の中でも大きなテーマとなっている自然の脅威に関し、火山の噴火、冷害、それに伴う飢饉の問題に絞って考察した。この論文の題である自然の脅威と理想郷の自然の脅威は現実、理想郷は希望である。その中の理想郷は自分のためではなくて農民のためにつくろうとした理想郷である。ネリとの再会も自分の希望の一つである。ネリがいなくなったのが現実として事実であるなら、再会したのは希望の実現の表れでもある。現実の妹のトシ子には再会できない。賢治の強い情念がネリとの再会を作品の中で実現させたと思われる。テーマである理想郷の中に自分の理想としての妹の再会を描いた。賢治の最後の作品であるといわれる「グスコーブドリの伝記」が作品として安定感をもつように見えるのも自己犠牲に対する様式である。自己の身体を火山の中に投ずるというブドリの情念は賢治世界の最後の観念を形象化されていたはずである。この作品の中での自然の脅威、火山の噴火、冷害、それに伴う飢饉を克服して賢治の理想郷であったイーハトーブを設立していく過程が表れ、その過程の中でいろんな工夫と作者の意志が見られた。
일제강점기 일본어 교과서 연구 -조선총독부편 『普通学校国語読本』에 수록된 한국설화를 중심으로-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.477-495
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本論文は朝鮮総督府による日本語教科書の普通学校国語読本に朝鮮の説話が多く含まれていることに着眼し、これらの説話が学校教育を通していかなる政治的・社会的役割を担わされており、どのような効果を生んでいるかを明らかにしようとしたものである。まず、教科書発行とその改変過程に総督府の意図があり、変化した支配政策が教科書に反映されているとの前提の下、教科書改編の意味に注目した。また第二次教育令によって改訂された普通学校国語読本に第一期とは違って、多くの韓国説話が導入されていることに着眼し、それぞれの教科書の中のテキストと典拠とを比較・検討を行った。叙述方式と内容面においてどの部分が変容され、その変容の背景には何があるのかを考察した。その結果、3.1独立運動という巨族的抗拒をきっかけに既存の植民政策への修正を余儀なくされた日帝が1910年代とは違う文化政策を標榜した融和、懐柔策の一環として説話を活用していることを確認した。要するに朝鮮総督府は激化した反日感情をなだめるため、韓国人の反感を買うような内容は減らし、一方では韓国説話を通して内鮮の親近を強調すると共に、古代からの交流内容などを追加することで韓国併合を正当化し、内鮮融和を試みたのである。さらに日帝は、帝国政策に対する被支配者として素直に植民地支配体制に順応するような人間に育成するための教育政策を進めていたが、これにも説話が動員されていることがわかった。結局、説話は韓国に対する日帝の統治政策を達成させるための道具として動員され、内鮮融和、内鮮一体、日鮮同祖を主張するための教育題材として積極的に活用された。日帝はこのような説話を道具とした国語教育を通して韓国人に対する精神的支配を強化しようとしたものと考えられる。
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女帝中万葉集編纂に最も深く関わっている元正天皇の歌は儀礼的、形式的な歌であると評されている。これらの歌をやや巨視的ではあるが題詞や左注に着目し、応詔歌をも範疇に含めての全体像を究明した。「太上天皇」とは、天皇が譲位後にも国勢に関与していることを意味する。巻六「或云太上天皇御製歌」である「賜酒節度使卿等御歌」は、伝統的な予祝歌としての力強い天皇の権威を示すのみならず、天皇とますらをの一対一の双方向的な絆帯を意味している。これは類歌である女帝孝謙天皇の遣唐使派遣での「賜酒歌」が無事を祈る女性の歌的な表現を取っているのとは相反している。「賜姓橘氏之時御製歌」は「賜姓」という政治理念を寿ぎ、用語の三度の繰り返しは神仙的な意味を有している。巻八「左大臣長屋王佐保宅肆宴御製」が冬雑歌として配列されているのは、「万代」が天皇の御寿を祝うのみではなく、家臣の立場からの忠誠心をも意味し、風流の人である長屋王と元正天皇、大伴旅人との関わりがこの歌の配列に関わっている。「伝誦歌」とは、宴で記憶にもとづいて詠みあげられた古歌で、万葉においては元正天皇の歌にのみこのような左注が付され、大伴家持日記と言われている巻十八、二十に配されている。「於難波宮時歌」は、橘、珠、水遊びにおける「月」が詠み込まれ、不老長寿という神仙的な世界が描き出され、元正天皇を仙姫と見做している。巻二十冒頭歌「幸行於山村之時歌」の「山人」は中国文学の影響を受けた表現で、集中他に例がない。応詔した舎人皇子も含め、この時代の神仙思想の隆盛が反映され、元正天皇は仙姫と見做されている。巻二十「霍公鳥歌」は「ほととぎす」を通じての亡き母を懐古する心情表現となっている。以上、繰り返しという寿歌の伝統性を引き継いではいるものの、時には君臣間の双方的な絆帯を促し、神仙思想の影響など、時代性の反映されているもので、これは元正天皇歌の特異性であると言える。しかし、心情表現でもこのような手法からは脱しきれていないという点も否めない。
戦後をめぐる心象風景 -石原慎太郎『太陽の季節』・開高健『パニック』・大江健三郎『われらの時代』を中心に-
한국일본언어문화학회 일본언어문화 제18집 2011.04 pp.517-538
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1956年、日本の経済企画庁が発表した経済白書の結びには「もはや戦後ではない」という戦後の終焉の宣言があった。1953年1月に行われた近代文学の座談会では「戦後文学はだいたい終わった」という認識に意見が一致した。このように、経済側においても、文学側においても‘戦後’の終焉が宣言されている社会のムードのなかで石原慎太郎の太陽の季節が出ており、開高健、大江健三郎らの新しい作家たちが登場する。本稿では、1956年を前後にして出た作品には‘戦後’というのが如何に描かれており、登場人物たちは戦後を如何に受け止めているかを比較考察し論じた。主に石原真太郎の太陽の季節、開高健パニック、大江健三郎のわれらの時代を中心に‘戦後’という時代が彼らにどのように認識されていたかを考察した。3人の作家がそれぞれその個性を異にしているため、戦後という時代をより多面的に見ることができる。本研究を通じ「もはや戦後ではない」という言葉に敗戦の悲惨な状況から抜け出ることの期待を寄せていた一般の人々とは異なって、これらの作品には「倦怠」と「停滞」という共通の時代認識が存在することを明らかにした。この意味では経済的浮揚力は尽きたという意味の「もはや戦後ではない」という戦後の終焉宣言を裏付けているようにも見える。というのは、三作品の人物たちはみんな戦後10年くらい経った相対的安定期を生きているためである。しかし、三作品における時代認識は、いわば、‘まだ戦後’である。太陽の季節における竜哉のマッチョ的身体は、自由奔放な生き方をする新しい世代を提示はしたものの、戦後の終焉宣言後、新しい父の復権の可能性を提示しているようかに見えたが、結局父の衰弱を隠蔽するに過ぎなかったことが分かった。つまり、父権を喪失した戦後日本という認識の延長で捉えられる。パニックにおいては、これ以上の浮揚力のなさが感じられる倦怠感が見られるが、それが必ずしも戦後の終焉を意味するところまで及ぶとは言えない。われらの時代における停滞と無気力は、敗戦後アメリカに支配され日本の主体性を喪失したという認識によるもので、敗戦直後の認識が戦後十年以上経った当時もなお深く存在し、尾を引いていることを表している。つまり、これらの作品においてまだ戦後は終わっていないことが分かった。
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本稿は、北村透谷の作品と人生を悲劇という觀点から見なおし、再度分析したものである。今まで透谷の作品や人生を悲劇という觀点から總合的に分析した硏究はなかった。作品分析の硏究対象は、蓬萊曲と我牢獄と宿魂鏡を主とした。これらはみな處女なる女性との精神的愛を主題としているのみならず、主人公の死で終わるという点で一致している。ここに現われる女性は、みな現實の女性というよりも靈的存在であり、肉体を有していない靈魂として現われる。主人公はこの靈魂を慕ってやまないのであり、靈なる女性は彼の前に姿を現わすが、その結末は主人公を死へと導くこととなる。愛することによって死ぬという運命は悲劇である。ことに蓬萊曲は神(God)を求めた修道者が、悪魔の支配するこの世を去るために蓬萊山に來たのに悪魔の化身かもしれぬ女性の靈魂に迷わされ、結局愛のためにすべてを放棄して死ぬという点が悲劇であり、また主人公がこの世からあの世に移り、彼を迎えた靈魂が妻と名のりながらもそこが地獄であったということが悲劇である。我牢獄は主人公が女性を精神的に愛したにもかかわらず、牢獄に閉じ込められたような精神的狀況に陥り、ついには死へと追い込まれたことが悲劇である。そして宿魂鏡は愛する男女が引き裂かれて遠くにいたがとうとう耐えきれず、女性の靈魂が肉体を脫し、主人公の鏡に現れ、二人が愛を確認するやいなや現實に二人とも死んでしまうことが悲劇であり、女性の靈魂の陰に影のようにつきまとって動く怪物(悪魔)がいたことが悲劇である。これは女性の靈魂と悪魔との關連を示しており蓬萊曲のそれと同じである。透谷の精神的愛の対象となったと思われる教え子である松子は、卒業後、病で死ぬが、その後透谷も自ら死ぬ。二人のあまりにも短い人生は、それ自體が悲劇的だが、この最後が透谷の作品內容と一致していることが何より悲劇的である。このように透谷の作品と人生は、悲劇的であったが、透谷の人生が透谷の悲劇的作品を現實のものとしたところに最大の悲劇性があると言える。そして、このような悲劇性は、ヤスパースが悲劇論で述べた悲劇の內容と共通するものである。
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本稿は、日本の代表的な抒情詩人であり主知的な詩人である三好達治(1900-1964)の詩集のうち、彼の最後の詩集百たびののち(1962)の意味構造を分析したものである。百たびののちには、詩人の生き方への濃厚な思索と孤独感が全編に流れている。その思索と孤独感のほとんどは日常生活でよく見られる平凡な風景や自然、そして幼年への記憶などに認められる。このような彼の詩の世界の重要な特徴は、何よりも世俗的なものからの脱皮を夢見る超俗の意志が強いところにある。そして孤独感についての敍述が少なくないが、それは詩人と自然との距離がとても近いと言う意味でもある。或いは自然との一体化に近いという解釈を可能にする。そういう例にあたる作品が「殘果」「庭すずめ七」「落葉つきて」「七月は鐵砲百合」「故郷の柳」「古き記憶」「虫くひ寺」などである。また、韓国の庆州の佛国寺をモチーフにした長詩「百たびののち」は、この詩集の深さに重要な要素を加える同詩集の代表作である。この詩は慶州紀行後に書かれて1941年に発表された「冬の日」とともに、達治の生涯の代表的秀品の一つだと言える。「百たびののち」という標題は百たびの悔恨の後に、清明な詩境を得たという意を表しており、それは即ち、独自的詩境の確立を意味する自信の表現でもある。より深くなった詩的思考をもって慶州の佛國寺を描き出す卓越した詩的能力は、達治がなぜ日本近現代詩を代表する詩人であるかを見せてくれている。このように百たびののちは、永年にわたって歌い続けられた作者の執念を感じとれる近代的叙情詩の最後の結実となった詩集である。
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有島武郎の小説「動かぬ時計」は、「若いころから名を馳せた老学者の晩年の虚無」「現実を前にあきらめとともにRの内的時間の停止」を表現した作品と理解されてきた。確かに作品はそうなっている。しかし、主人公や事物の設定、表現一つ一つを見ていくと、何かを象徴的に示していることがわかる。その象徴的な意味を探っていくことで内容とは別のシンボリックな世界が存在していることが理解されてくる。作中、主人公・R教授はスタイン博士の学説を日本に導入した人物として設定され、また、R教授が持ち帰った時計はマリー・アントワネットの寝室にあった時計となっている。スタイン博士はローレンツ・フォン・シュタイン博士のことで、この教授の学説が明治憲法の基礎となっている。また、この<動かぬ時計>はフランス革命を象徴している、と考えられる。こうした設定は有島の反国家主義・革命願望を暗示的に示しているのであり、有島は作品を通して、天皇制国家体制の批判と来るべき新体制の渇望を暗示しようとした、と思われる。有島は身の危険を犯し面と向かって体制批判する勇気を持ち合わせてはいなかったため、隠された意味を作品の中に暗喩を通して表現し、自己の主張を試みた、と考えられる。作品は実質的な内容とは別にこうした意味世界を有している。
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