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일본언어문화 [Journal of japanese Language and Culture]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    한국일본언어문화학회 [Japanese Language & Culture Association of Korea]
  • pISSN
    1598-9585
  • 간기
    계간
  • 수록기간
    2002 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 730 DDC 495
제16집 (27건)
No

招請講演

1

日本語コーパス言語学の新展開

石井正彦

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.5-21

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5,100원

2

5,700원

本研究では、韓国人日本語学習者が日本語アクセントをどのように知覚し、どのように産出しているかについてその傾向と実体を音声学的観点から検討した。その結果は以下のようにまとめられる。(1) 音響実験によるピッチパターンは単語にある語頭子音の影響によって実現されることが分かった。これは韓国語の子音の音声的特徴が反映されたものと推察される。(2) 知覚実験による各アクセント型の正答率と誤答の傾向について分析した結果、①韓国人日本語学習者の場合、頭高型アクセントの方が他のアクセント型よりもアクセント型の区別がよくできていることが明らかになった。②3拍語と4拍語のアクセント型に対する誤りの傾向は、長音と撥音のような特殊拍を含むものはその音節にピッチが実現されることが確認できた。このことは、韓国人日本語学習者が日本語アクセントを知覚する際には音節量が関与していると考えられる。以上のことから、韓国人における日本語アクセントのピッチ実現と知覚には相関性が見られ、韓国語における子音の音声的特徴および音節量といった母語の影響が深く関わっていると考えられる。

3

한국어와 일본어의 칭찬에서 보이는 대인관계조정

김경분

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.47-63

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本稿は、韓国と日本の大学生60組(120名)の日常会話データを用いて、「ほめ」の頻度、対象、表現、返答を分析し、その結果を対人関係調整の観点から考察したものである。1.ほめの頻度は韓国語により多く見られており、韓国の大学生は日本の大学生に比べ、友だちを頻繁にほめ、互いの親しさを確認するストラテジーとしてほめを用いると言える。対象においては、両言語ともに遂行と行動を好んでほめることが分かった。しかし、外見関連のほめは日本語に非常に少なく、それに対して韓国語では多く現れた。外見は非常にプライベートな話題であり、敏感な部分に触れること自体が相手への負担になる恐れがある。そのため、ほめの話題としての外見にほとんど触れない日本語とは異なり、韓国語では積極的に言及し、評価することによって相手との親しさを確かめ、強めていることが分かった。ほめの対象の結果から、韓国語のほめのあいさつ機能と日本語のほめの評価機能が読み取れた。また、何がほめやすく、何をほめては失礼になりかねないかに関しての示唆も得られた。2.ほめの表現においては、両言語ともに肯定的評価語の多用が分かった。また、対人関係調整に用いられる発話者の意図と配慮が反映された表現の特徴が明らかになった。すなわち、韓国語では豊かな評価語の使用とともに具体的で詳細な説明でほめる表現が多いのに対し、日本語では一般的で儀礼的な評価語の使用と淡白な表現が多く見られた。細かい説明でほめる表現は、より説得力のあるほめにするためのほめ手の意図が込められていると解釈できる。ただ、場合によってはほめられる側には負担になりかねない表現でもある。3.ほめに対する返答においては、韓国語と日本語ともに共通の対人関係調整のストラテジーが見られた。すなわち、両言語ともに、ほめられたとき肯定でも否定でもない回避を行うか、または、肯定․回避․否定を2つ以上行う返答が優先されることが分かった。しかし、肯定の自慢の反応は韓国語だけの特徴として見られた。一見、生意気な反応に思われがちだが、親しい友人からほめられてうれしい気持ちを素直に表し、さらにそれを二人の会話の話題にし、その場を盛り上げるといった、相手との関係を確認するストラテジーとして用いられると言える。

4

受動表現における動作主表示「で」の 用法について

金美燕

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.65-84

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この論文は日本語の受動表現における動作主の表示である「で」について考察してみたものである。先行研究で指摘しているように「で」は動作主としての職能が弱く、手段、方法、材料、原因、理由などの意味でよく使われるように思われるが、数は多くないが、場合、身分、範囲などの意味にも使われると思われる。しかし、動作主としてのその名詞が有生、無生という性質の差によって、有生の場合はその性格は弱くても動作主として解釈され得る表現と思われる。そして、無生の場合は、それぞれ原因か手段を表していると思われる。また、本稿の調査では動作主が全体の15%,原因が26%,手段が59%を占めている。更に、主語の有、無生の場合を観察してみると、有、無生が各々57%と43%を占めていることになっているが、細川由起子の説に従うと、「で」は状態受身的でもあり、動作受身的でもあると言える。本稿のはじめの部分で状態受身の性格の高さが予測されていたが、動作受身の表現にもよく使われることが分った。そして、動作主の表示「で」の表出は、動詞の類型別にはもようがえ動詞が一番高い数字を示し、その次にふれあいの動詞も高い数字を示している。位置変化の動詞と付着動詞もよく使われることがわかった。また、動作主の場合、無生が全体の69%をしめ、有生は31%を占めている。従って、動作主表示「で」の特徴は無生の動作主の表出の多さにある。上記の数字は、日本語固有の受身表現に表われる無生の動作主の比率より高い数字を示しているので、これは西洋文の翻訳ないし西洋的な表現の一表出ではないかと思われる。

5

5,700원

本研究は韓国語の引用を表す連体形「는/라는」と、日本語の「トイウ」表現の対応関係に関して、いかなる表現で現われているのかを実際の対訳コーパスを元に調べ、引用構造の種類と後接名詞(10種類)との関係の観点から考察した。名詞ごとに分類してみると、「는」は日本語で「トイウ」形式が省略されている場合が多く、中でも、形式名詞においてしばしばそうなる場合が多いことがわかった。また、「라는」には日本語で動詞構造(トV)に対応する傾向が強く見られた。後接する名詞との対応関係で明らかになったことを次のようにまとめることができる。【1】日本語で「∅」に対応する名詞は形式名詞(49.8%)と抽象名詞(19.3%)が多い。【2】韓国語で名詞構造であるものが、日本語では動詞構造で現われる場合がある。その中でも、思考名詞(53.8%)と発話名詞(40.5%)の場合は、日本語の表現で動詞構造に対応する傾向が強い。 このような韓日語の連体形を用いた引用構造の類似点としては、以下の二点が挙げられる。【1】丁寧体表現の場合、直接引用から間接引用に変化すると丁寧度が消える。【2】人称変化の場合、間接引用の主語は“自分.自身”といった再帰代名詞で現われる。 また、引用構造が2語存在する韓国語と1語のみ存在する日本語の相違点について、次のようなことが言える。【1】内的状態構文の経験性構文は直接引用にのみ使用可能であるため、韓国語で直接引用に使用制限のある「는」は経験性構文にそぐわず「라는」の方が好まれることになる。日本語では、引用形式が1語のみで区別がなく、直接引用に関する使用制限もない。

6

終助詞「よね」の機能

金玉任

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.107-126

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本稿では、終助詞「よね」を対象に、「ね」との比較を通して、その発話状況や意味論的特性を検討した。先行研究では、終助詞「よね」には常識に属する情報を確認する用法などがあると指摘されている(宮崎2000)。しかし、実際には、「よね」は常識に属する情報を確認する用法だけでなく、非常識に属する情報をも確認する機能があるというのが分かった。また、「よね」は「さっき」「この前」などと共に出現し、「ね」は副詞「さては」と共起しやすい、という点で対立的であり、したがって、再確認を要求する場合は、「よね」を「ね」に置き換えると不自然になるのだと考えられる。さらに、「よね」は「君だってよく知ってるだろ」という文と共に出現したり、「ね」は「知らなかったわ」という文と共に出現したりしている、という点でも対立する。以上のことから、「よね」という形式は、既知の情報を有しているということの標識であり、その点で「ね」と異なっていると言えよう。

7

대중매체에 나타난 한․일 차세대 언어

盧皇希

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.127-144

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5,200원

全ての言語は時代の流れと共に変わる。韓․日においても言語の変化は例外ではない。なかでも若者が使う言語は最も顕著な変化を見せ、現代社會の特徴を見せるものと言える。本稿では現代韓․日の若者言葉に注目し、ꡔ國立國語院(2004)ꡕと『現代用語の基礎知識-若者言葉の解説(2008)』をもとに、調査、分析した。また、この資料を背景に持ち、兩国の韓国と日本の映像媒体を中心に現代の若者言葉を考察してみた結果、共通して言葉を縮約させる傾向があることがわかった。韓国語では「첨」、「담」、「핸폰」、「젤」、「글케」、「클났어」、「맘대루」などの表現が挙げられる。 一方日本語での場合では、「気持ち悪い」は「きもい」、「やっぱり」は「やっぱ」などの縮約型、また「やばい」は「やべぇ」、「あぶない」は「あぶね」、「面倒くさい」は「めんどくせ」、「すごい」は「すげえ」など、語尾の音の変化が発生する表現が挙げられる。両国の言葉に共通して現れた短縮表現の活用は、めまぐるしく変化する現代社会に起因する現象であると考えられる。これらの現象は、言語において省略の技法を広く活用したものをさらに積極的に応用し、語彙を経済的に活用していると言うことが出来る。 韓国の若者言葉の特徴では、放言型と身体俗語 “卑俗語” 隠語の使い方に強調表現が見られ、文法的な特徴としては、発音通りに書き留めることと、音素+機宜形態が見られた。一方日本の若者言葉の特徴としては、第一に文末表現でありながら客観化させる「~じゃん」形態が最も多く用いられ、続いて不安焦燥など特に良くない感情を表す焦燥関連語「やばい」および「あぶない」、「きもい」、「めんどくせ」が多かった。これらのことについて,現代における日本の若者たちは過度なストレスを持っていることによるものと考えられる。また少ない頻度ではあるが、意味もなく発する時に使う文頭表現としての「っていうか」または、断定回避表現「~モ"-ド」と、相手方の同調を求める表現「やっぱ」が見られた。外國語学習者に一つの学習資料として与えられることを提言することを目的としている。これは現代の日本の若者たちは、過度なストレスを持っているためと思われる。また少ない頻度だったが、意味もなく発する時に使う文頭表現としての「ていうか」または、断定回避表現「~モード」と、相手方の同調を求める表現「やっぱ」が見られた。このような若者言葉は彼らの連帯意識を高め、楽しいことを優先する彼らに遊戯文化の手段として捉えられているようである。

8

「わけだ」文と「からだ」文の意味の違いについて

牟世鍾, 宋洙珍

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.145-160

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4,900원

「わけだ」文の意味はまだ明らかにされていないところがあり、外国人学習者の中にはその使い方が難しく、使用頻度が落ちるどころか誤用例を探すのも難しくない。その意味さえ正しく捉えられていない「わけだ」文が「からだ」文と同じような意味を表し、両形式間における混同が生じる場合もあり、本稿ではその意味の違いを明らかにすることを試みている。類似した文法形式の意味の違いを究明するのはそれほど簡単なことではない。理由を表す形式の場合も同様であり、これらの形式間に存在する意味の違いを明らかにするのは極めて難しいことである。本稿では、理由を表す文に「からだ」ではなく「わけだ」を使い、間違った使い方をする外国人学習者の誤用例から、「からだ」文と「わけだ」文が表す理由の意味の違いについて考察した。「わけだ」文が表す理由は、対象から納得し、それを理由として位置づけたもの、つまり、話し手が何か認識の過程を経て位置づけたまさにモダリティの形式であり、そのような認識․納得の過程のない直接的な理由を表す「からだ」文とは異なっている。納得の形として提示した理由の文でないと「わけだ」が用いられることはない。納得の形で提示した理由の文、つまり「わけだ」文は「からだ」文に置き換えられるが、その「からだ」文は「わけだ」文が持っているモダリティ的な意味はなく、単なる理由を表す文になってしまう。

9

4,900원

This paper investigates licensing conditions of negative polarity item in adversative predicate in Japanese. There have been no previous studies on licensing conditions of negative polarity item in adversative predicate in Japanese. The main study objects are shika-nai, igai-nai, hoka-nai 'only'. Arguments of this paper are as follows; (i) licensee of adversative predicate is not igai or hoka but covert Indeterminate-mos such as dare-mo 'anyone', nani-mo 'anything' and dokoni-mo 'anywhere' in LF representation. In other words, Indeterminate-mo becomes licensee in adversative predicate for a certain reason, (ii) the reason why shika-nai cannot appear in adversative predicate is because shika dose not have the licensee, namely covert Indeterminate-mo. In other words, shika itself is licensee, (iii) the above mentioned licensing conditions of negative polarity item in adversative predicate in Japanese can be applied to Korean. Consider bakk-e-anh-da 'only' which is a correspondence of igai-nai or hoka-nai. Licensee of adversative predicate is not bakk-e but covert Indeterminate-dos such as amu-do 'anyone', amugeos-do 'anything' and amude-do 'anywhere' in LF representation. Namely, the Korean licensing condition is the same as the Japanese one.

10

格助詞的「からして」の現代語的用法の分析

白松宗

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.177-202

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6,400원

本稿は、格助詞的「からして」の現代的用法の分析を行い、その機能と意味を明らかにする試みである。「からして」は機能的に、強意の「して」が省略可能なものと、強意の省略不能なものがあるが、前者を「古典的」とし、後者を「現代的」としている。この2種類の「からして」のうち、明治以降に存在していた「古典的」なほうは淘汰されていったと考えられる。本稿では、格助詞的「からして」に焦点を当て、そのうち<例示>に当たるものが「とりたて性」をもつのではないかという論証を進める。一方、「からして」の現代的な使い方としては、<例示>と<根拠>のほかに、両者の<境界>となるものが存在することを示して、格助詞的「からして」の曖昧性を分析した。

11

6,000원

本稿は、韓国の大学生のうち、日本語学習経験者115名と未経験者131名、計246名を対象にして、人と物が複数であることを表すイラストを示し、韓国語と日本語(日本語学習経験者のみ)で作文するよう指示し、その結果を分析したものである。日本語と韓国語とは語順の類似や同じような単語があるために、日本語学習者の中には、まず韓国語で作文をしたあとに日本語の単語に置き換えるといった作業をする学生もいるとも考えられが、もしそうであれば、日本語学習の経験が、母語ではある韓国語にも日本語文法からの影響がみられる可能性があるのではないかと考えたのである。アンケート調査の質問事項は、「人」が複数であることを表す表現と「物」が複数であることを表す表現について尋ねたものであった。ここではまず、学生が書いた韓国語作文において日本語学習経験者と未経験者の間にみられる異同について述べ、次に日本語学習経験者の日本語の表現を分析し、彼らの書いた韓国語作文の書き方とどのような関係があるのかについて言及した。続いて日本語学習の経験が韓国語に及ぼす影響の有無について言及した。   調査の結果、日本語学習経験者と日本語学習未経験者の韓国語作文には有意味な違いがみられ、日本語学習経験者の韓国語作文の多くは日本語作文と同じ語順で書かれていた。また、日本語学習経験者の韓国語作文には、日本語作文でいちばん多く書かれた語順と同様の語順で書かれたものが比較的多くみられ、これは日本語学習未経験者の韓国語作文とは大きく異なっている点であった。以上により、日本語学習経験者の韓国語作文は日本語文法から何らかの影響を受けており、日本語学習が韓国語作文に影響を与えていることが明らかにされたと思われる。

12

北京オリンピック韓日選手のインタビュー談話比較分析

徐潤純, 奥山洋子

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.227-245

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5,400원

本稿では2008年8月8日から24日までの北京オリンピック期間中、韓国語KBSの「9시뉴스(夜9時のニュース)」と日本のNHKの「NHKニュースおはようにっぽん」を資料とし、選手自身が語る「自己」に関連する表現、及び「自己」の対極にある「自国民」に対して感謝の意を表すときに用いられる表現について量的․質的に考察することによって、共通点及び差異点を明らかにしようとした。明らかになった主な点は以下の通りである。(1)日本人選手たちは、女性では「自分」と「私」を、男性では「自分」を主に用いる傾向が見受けられた。「私」は「言語による伝達の主体」としての「公的自己」を表す言葉であり、「自分」は「思いの主体」としての「私的自己」を表す言葉である。しかし、「自分」は元々「私的自己」、つまり「内的自己」を表す表現で、偽りのないありのままの正直な「私」を表すときに「自分」が公的自己として働くようになるため、インタビューという公的場面である今回の調査では高い出現率を見せていた。(2)韓国選手の「自己」を表す表現では、単数としては「저、제系」を、そして複数としては「저희系」を用いており、再帰代名詞として日本語の「自分」に対応する「자기」は全く見られなかった。また、再帰代名詞の「제」は、日本語の「自分の」に比較するとごくわずかだった。したがって、韓国語では性別に関係なくほぼ100%「私(たち)」という意味が含まれた「저、제、저희」を用いて「自己」を表しており、これらは公的自己としての「저、제、저희」ではないかと推測考察した。 (3)「自国民」を表す表現では、日本人選手の中からは「自国民」に向けての直接的な呼び掛けの表現は現われなかった。(4)韓国選手は、「여러분(みなさん)」や「국민(国民)」が含まれた表現が出現しており、「국민(国民)」を明示した形でのより積極的な呼び掛けをおこなっていた。

13

5,700원

本研究は、日本の三陸南部地域の訪問面接調査をもとに、外来語方言の分布を調べたものである。専門性の高い外来語方言(特に船舶用語)の地理的な使用範囲と語彙の意味変化について詳しく調べ、記述することが目的である。調査の結果、専門性(船舶用語)の高い外来語の方言の地理的な使用範囲は、内陸地域ではあまり浸透されず、海岸沿いの地域に広く使われていることが分かった。また、外来語方言の中で汎用性がある語(「フライキ」․「アカ」など)は、意味拡大をとおして、一般人に受容されていたことも読み取れた。以上、外来語方言において地域的使用分布が異なっていることやその語の使用が多くなることによって意味領域も広がることが分かった。

14

헤본․브라운역『新約聖書馬可傳』의 번역어 연구

오미영

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.269-287

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5,400원

本稿では、明治訳馬可伝において漢字2字で表記されている名詞翻訳語754例を対象として、ヘボン訳馬可伝の語彙と比較し、明治訳馬可伝におけるヘボン訳の影響について考察した。また、ヘボン訳馬可伝の漢字表記を漢文聖書と比較することによって、ヘボン訳馬可伝における漢文聖書の影響についても考察した。ヘボン訳馬可伝と明治訳馬可伝は、漢字表記の面では約48%の一致率を示している。ヘボン訳馬可伝は漢字表記率が低いので、ヘボン訳馬可伝で一部だけ漢字表記をしたものや漢字表記されていないものを除外し、漢字で表記されたものだけを対象にして考えると62%以上で漢字表記が一致していた。また漢字表記と関係なく、読み方が一致するのは約75%であった。これは翻訳の面で明治訳馬可伝がヘボン訳馬可伝の影響を大いに受けていることを示すものであろう。両聖書において読み方の異なる用例について考察した結果、明治訳馬可伝はヘボン訳馬可伝の翻訳語を具体化したか、日本語により適した語彙に代えるなど、ヘボン訳馬可伝の翻訳語をより発展させたものである。このように明治訳馬可伝の翻訳にはヘボン訳馬可伝の影響が大きかったことが分かる。ヘボン訳馬可伝の漢字表記と漢文聖書の関連は、ヘボン訳約翰伝の場合と違って、一致率が50%にもいたっていない。ヘボン訳馬可伝において漢文聖書と異なる表記をしている例を具体的に見てみると、漢文聖書の語彙が日本語に適しないと判断され他の漢語や和語に代えたものと考えられる例と、より正確な意味伝達のために具体的な語彙を選択したと見られる例とがあった。

15

韓日 양국어의「生成語」고찰 - 生成動詞를 중심으로 -

尹相實

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.289-306

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5,200원

本稿は、縁語の中で「生みの縁」で結ばれる「生成語」を「モノやコトを(/が)あるようにする(/なる)という意を示す語」と規定し、特に「生成動詞」の韓日対照を行ったものである。文法的類似性の多い言語であると指摘される両国語であっても、語彙的縁語においては微妙な相違点がいろいろと指摘できることが明らかになった。以下、簡単にまとめると、先ず、韓日両国語の汎用的生成動詞と個性的生成動詞をめぐる対応実態について次の4点がいえよう。 1)韓日両国語共に、汎用的生成動詞「つくる/만들다」「できる/생기다」の他に、各出だし語(生成物)ごとに定まった個性的生成動詞を多数揃えている。(「ご飯を炊く」;「餅を搗く」; …,「밥을 짓다」;「떡을 치다」; …)2)韓日両国語において、同一の出だし語(生成物)に結びつく個性的生成動詞同士が相互対応しない場合がある。(「刺身を切る」:「회를 *자르다 →뜨다」)3)韓日両国語共に、汎用的生成動詞と個性的生成動詞はそれぞれ使用範囲が異なったり、ニュアンスの相違があったりする。(「うどんを打つ」:「うどんをつくる」,「(우동)면발을 뽑다」:「우동을 만들다」)4)日本語の個性的生成動詞に対応する韓国語の個性的生成動詞がなく、汎用的生成動詞でカバーしたりする場合がある。(「寿司を握る」:「초밥을 *쥐다 →만들다」) また、韓日両国語共に、同一の形態の個性的生成動詞が他の出だし語(生成物)に結びついたり、対応形態の数も一定せず、「J(1) < K(多)」「K(1) < J(多)」のようなアンバランスな様相を呈する場合もある。これが韓日学習者の縁語の語彙学習の負担を増やす決定的な要因につながると考えられる。  1) J [ご飯を; かゆを 炊く] : K [밥을 짓다] [죽을 쑤다/끓이다] 2) K [밥; 옷; 양복; 집; 시를 짓다] :     J [ご飯を 炊く] [着物を 縫う] [洋服を 仕立てる] [家を 建てる] [歌を 詠む]

16

5,500원

終助詞は、話し手の伝達態度を伝えるものであり、日本語の会話において極めて頻繁に使われる不可欠な要素である。終助詞「ね」「よ」を付加するか否かが会話だけではなく、さらに人間関係を円滑に進めていくために大きく関係しているようである。本稿では聞き手に対する話し手の配慮を反映した表現形式のうち文末に現れ聞き手や出来事に対する話し手の態度を表す終助詞に注目し、「ね」「よ」に焦点を当て、なぜ使いこなすのが難しいのか配慮表現の側面から明確にすることを目的とした。なお、第7次教育課程が適用された日本語教科書とその教師用指導書、および実際の対話文を研究の対象にした。教科書では「ね」「よ」が早い段階から導入され最も高い使用頻度を示し、極めて頻繁に使われていることが確認された。ということは第7次教育課程でも円滑なコミュニケーションのため必須不可欠な主要学習項目と認めていることであろう。しかし、教師用指導書の指導記述ではいくつかの問題点が把握された。また、上級学習者を対象とした実際の対話文の分析では、誤用、過用、非使用というかたちでの誤用が見られた。一つの終助詞のみをかたよって使っている傾向が顕著に見られ、それは結局、使うべきところに使えないということで配慮の欠けた表現に繋がるのである。このような結果から指導書での指導記述や解説はより適切なストラテジーが要求されるということがいえよう。また、必須的に「ね」を使う場合、「ね」「よ」が使えない場合や「ね」「よ」が両方使える場合などを考慮し、さらに「ね」「よ」の配慮側面での注意点などを提示すると一層效果的な学習になることを期待できよう。

17

4,600원

本稿は現代日本語の補助動詞表現の形式と意味との相関関係を、韓国語と対照しながら共時的に類型化し、その文法化を試みようとする。こうした日․韓対照研究の領域での文法研究は、言語文化学的に接近する方が有益だと思われ、‘ていく․てくる’を中心に例文を通じて各々の両言語で文法化が起る場合と起らない場合を対照しながら考察してみた。例文を通じて日本語の‘ていく․てくる’文の意味․用法を文法化․類型化するのに韓国語との対照研究が、どれほど役立つかが表れてきて興味深いと思われる。それらを6種類に分けて提示し、なお、‘ていく’‘∼해가다’と‘てくる’ ‘∼해오다’が相互交差がおこる場合の例文を出してまとめてみたのである。

18

「を」の表現機能についての考察

黄美玉

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.341-358

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5,200원

Teaching grammar is accompanied by clarifying organizational principle, which constitutes the basic communication. In learning Japanese as a Second Language (JSL), the inculcation of grammar rules cannot control the errors that Korean native speakers often make. First of all, previous studies concerning unique expression of ‘wo(を)’are rarely found. Second, ‘wo(を)’ varies in its humanistic expression; ‘ni(に)’ deals with personal and psychological side. While previous studies on particle ‘wo(を)’ deliver profound accomplishment in motion verbs, studies on meaning, subjectivity and humanity, however, are rarely conducted. This paper first identifies the origin of case marking function of ‘wo(を)’, and evaluates the function on the respect of meaning, subjectivity and humanity from the standpoint of Japanese Grammar Teaching. Specifically, the case marking function of ‘wo(を)’ are as follows; attachment and obsession, warmth, irresistbility, and communication.

19

樋口一葉の『大つごもり』試論 -二円を中心に-

姜照美

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.361-379

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5,400원

以上『大つごもり』において二円を中心に考察してみた。二円の盗みは大きくは孝の為であるといえる。お峰が盗んだ二円は伯父一家を窮地から救うことにはなったが、お峰自身にとってはただ一つ「正直は我が身の守り」を生きる信条として初めて奉公に上がった山村家での1年あまりの苛酷な奉公生活を挫折させてしまう危険性をもたらしたといえよう。正直を信条として主家での御新造のどのような要求にも黙々と誠実に応えてきたお峰にとって、「正直は我が身の守り」をかなぐり捨てるということはこれから先生きる意味を失うことでもあった。自分の信条を捨てても二円のお金を手に入れなければならない窮地に追い込まれて行った。主家に忠勤することが伯父一家の為になると信じてきたが立場が変り主家を裏切り、盗みを働くことが伯父一家を窮地から救うことになった。「正直」であることなしには生きる希望もなかったと言えよう。悪人になって盗みの責任を御新造の無情の所為にし、自分自身を正当化するのである。お峰がいくら盗みの正当化を叫んでも盗んだという事実は変らないので罪の発覚に関わらず主家に2円の盗みを正直に告白するべきだと言えよう。その結果は主家に任せるより仕方ないと言える。もし発覚されずそのまま埋もれてしまっても今まで「正直は我が身の守り」を胸に歩んできたお峰にとっては計り知れない悩みとなって自身を苦しめ続けることになると言えよう。一葉は『大つごもり』において時代転換の中で取り残された下層階級の人々の真実の姿を貧しさの為に他家に下女として苛酷な労働に苛まれながらも孝の為誠実に奉公する娘として造形し、そのような娘が盗人になるしかない矛盾を設定して、そこに貧富の差に対する抵抗と憤りを主人公お峰を通じて世間に向かって問い掛けたと言えよう。

20

古代習俗「下紐」の和歌への受容

権赫仁

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.381-401

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5,700원

この論文は「下紐」習俗が発生してから平安時代にどのように享受され固着していったかについて考察したものである。所謂「紐」や「下紐」の民俗や信仰が、時代が経つにつれて、ことばの内部にどのように構造化していったかを明らかにした。万葉時代には、「紐の結び」の伝統があって、恋人同士が別れる前に互いの魂を分け与えるという意味で、「下紐」を結び交わした。その結び目は再会するまで解けることなく維持されるのが原則であった。その「結び目」が解けたり切れたりするのは互いの魂の遊離を意味し、不吉なものであった。ところが片方では、「下紐解く」ということを、離れている二人が相手を思い、その強い思いが魂の片鱗である下紐の結び目に作用して自然に解けるという考え方をも有していた。平安時代には後者の「思ふ心のしるし」としての「下紐」信仰のみが影響力を持った。つまり、魂の遊離という不吉な意味は排除されたのである。表現的には男女の共寝を形容するものとしても用いられたが、「紐」でなく特に「下紐」の場合は呪術的な信仰表現に絞られていった。さらに、「下紐」の表現は多様化して、「夜半の下紐」「花の下紐」「下紐の関」といった慣用句を産み出していく。万葉時代には全くなかった表現である。「夜半の下紐」は男女の間柄が親密なってうちとける様子を、「花の下紐」は女性が男性に身をまかせる表現から花のつぼみが開く様子、を表す表現として定着していった。なお、「下紐の関」は片想いの障害物か、男女が逢ってはいるがそれにも関わらず存在する障害物の象徴として用いられた。このような三つの慣用句は所謂「下紐」の俗信的要素は有していない。万葉時代の表現に直接に繋がらない平安時代独自の表現として発達していく。これにより色好みの時代の「下紐」に関する取捨選択の基準が解明できたと判断される。

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鳩山政権は東アジア共同体の構築を重要な政策スローガンの一つとして掲げている。しかし東アジア経済共同体あるいは東アジアにおける経済協力という概念は日本では最近のものではない。1960年半ばから小島清の太平洋自由貿易案が登場しており、とくに2000年代からはバイラテラリズムに基づいた東アジア通商政策を展開している。この東アジア経済共同体に対する日本の構想を検討で、3つの疑問点が生じた。第一は、なぜ北米のNAFTAとEUでは経済統合に向けた制度的な動きから、日本が日本ーシンガポールEPAの締結まで10年のタイム-ラグが存在したのかという疑問である。それは、日本の動きの動因が自律的なものなのかそれとも他律的なのかという問題に絡まれる。第二は、なぜFTAではなく包括的経済連携協定たるEPAが多いのか。第三は、なぜASEANあるいはASEAN諸国を重視するのか、に絞ることができる。先行研究のレビューではこれらの問いに対して整合的な答えを得ることができなかったため、本稿は日本の構想の展開過程で現れた経済的制約条件からその疑問への検討を試み、その結果を以下のようにまとめることができた。第一、なぜ北米のNAFTAやEUの動きから10年のタイム-ラグがあったのかに関しては、1960年代から続けられてきた日米通商摩擦での日本の対応論理がマルチ-ラテラリズムがあったためであることがわかった。通商政策におけるイデオロギーのもとではバイラテラリズムに基づいた地域経済協定を結ぶことは通産省の官僚らに矛盾と認識されたのである。第二は、貿易だけでなく投資、規制の緩和までを包括的経済連携協定のEPAにこだわる理由は、1980年代から日本企業のアジア進出ラッシュによる東アジア生産分業の進展という経済的制約条件が働いた。とくに直接投資の増加によって日本は東アジア諸国での生産活動を円滑に推進するためには投資に関する規制や障壁を制度化させる必要があった。第三は、東アジアの生産分業の構図は製品間分業から工程間分業へ転換しつつある。さらに中国はASEAN諸国を自国の分業構図への包囲を強化する現状が著しくなった。その2つは日本のASEAN重視の動因において重要な制約条件となった。

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桐壺巻から始まる源氏と頭中將一家の關係は、物語の全体の中で源氏の引き立て役として活躍してきた。にもかかわらず、頭中將は始めから負けたがらない性格によって、源氏を相手に対抗する唯一の人物で描かれている。したがって本稿では、笑いの表現を中心にして源氏と頭中將一家の關係を考察した。靑春時代を描いている物語の前半部には、源氏の「ほほ笑む」の笑いと頭中將の「笑ふ」の笑いが見られる。彼らの恋愛問題において注目すべきは、二人が一人の女性をめぐって競い合う場面で笑いが見られる点である。次に須磨流離以降、二人は自分の娘たちの冷泉帝の立后をめぐって、 彼らの關係は負けたがらない頭中將の性格のせい繪合卷で直接衝突する。それで、源氏は頭中將に「笑ふ」の笑いを見せるようになる。源氏は彼のこのような行動を自分の権威に対する挑戦と対決として受け取ってから、彼らの關係は政敵関係で対立するようになる。そして結婚の反対で対立関係に置いていた頭中將と夕霧は、雲居雁との結婚によって「笑む」類の笑いを見せるなど、関係を改善する仲直りの様子を見せている。一方、柏木が源氏に「ほほ笑む」の笑いを見せるのは、女三宮との密通によって源氏の優越感が喪失されたという証拠で、このために二人の関係はたいへん緊張した状況を迎えるようになる。

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大江健三郎『洪水はわが魂に及び』における主人公大木勇魚はかつての自分のすべてを棄て障害を持つ息子ジンと核シェルターに住んでいる。彼はそこで「鯨の魂」「樹木の魂」と魂の交感を持つ。しかし、これはあくまで勇魚自身の自己増殖の結果にすぎない。勇魚は「自由航海団」と名乗る不良少年らと交渉を持ち、彼らに「言葉の専門家」として受け入れられる。彼らは自分達の集団が何を目的として行動を共にしているかを分からずにいる<意味不在>の集団であったが、勇魚の<教育>によって彼らに言葉が教えられ、それによって彼らは自分達の行動の意味を誕生させることになる。言葉は意味であり、思考であり、イデオロギーである。作品の中で父親の勇魚にしかなつかなかった息子ジンが不良少年らとすぐ融和できたのは、彼らが共に言語的絶縁体であったためである。少年らは学校教育をろくに受けたことがなく、ジンは知的障害を持っているわけである。また勇魚はイナゴとタカキに漢字を当てる役割をし、自分の以前の名前を棄て鯨と樹木の代理人を示すような大木勇魚という名前を自ら命名するものでもある。命名者、これはまさに宗教的世界において神のような存在である。一方、この作品のタイトルはキリスト教の旧約聖書「詩篇」から由来するが、大江は「詩篇」から次第に「ヨナ書」の声に推移していったと述べる。それはヨナの神への対抗姿のためであり、大江はヨナを不屈のデモクラットと言う。大江はヨナから不順、対決という「革命」的傾向を受け取ったわけである。勇魚は「革命」を通し<死>を遂げ、<浄化><自己救済>へ至ろうとする。勇魚は過去、政治家「怪」の性的欲求を満すための少年たちを誘ったり、「怪」の部屋で死んだ少年の死体を遺棄した経歴があるわけである。勇魚はジンが障害持ちであることも自分の「あれ」のためではないかと罪悪感に苦しむ人間なのである。このため、勇魚は「革命」と<死>を選び、自分を浄化し救済に至ろうとする。勇魚の「すべてよし!」は自分の死が成し遂げられる事への言葉ではないだろうか。

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説話は民衆の生が率直に表れている叙事文学である。なお、本格的な文学が活発に著作されなかった時代の説話文学は、その文学史的状況のため、もっと大事な遺産として評価される。説話は一人の作者によって創作されたものではないため、その説話が伝承․伝播された時代相とその時代に生きた多数の民衆の生活意識とが含まれていると言えよう。説話は口承されるので、民衆の言語を通じて育てられた原初的な文学形態である。ただし、説話は口碑伝承だけでは伝えられないので、あるものは文字でまとめられて文献説話として伝承された。しかし、それが口碑説話であろうが文献説話であろうが、その説話が民間に伝承されていた時代の人間相と生存意識とを盛り込んでいることは、まちがいないのである。私たち人間の表現手段には、四つの形態がある。簡略に述べれば、音声、文字、絵画(映像、レリーフ․彫像等の視覚的造形物も)、演技(動作․身振り)である。これらを文学の分野にあてはめてみれば、口承文芸、記載文芸、絵巻(絵本․掛幅絵も)、芸能となる。これらは個別に存立してもいれば、また互いに交渉し、混融してもいる。今音声と文字を一括して「ことば」といっておく。この「ことば」と絵画が結合して作りあげられた文学が、「絵巻」だった。古典文学の歴史において、文芸ははやくから絵画と結びついて成立し、発展し、かつ享受されてきた。これは煎じつめれば、「ことば」の論理性と図像の視覚性という相乗的効果の上に展開してきたものである。絵巻は単に文学を絵画化したものではない。文学と不可分の関係にありながら、単なる挿絵入りの読物に堕さず、描写の技巧を凝らして高い芸術性を備えたものが絵巻である。文学である詞書を読みつつ絵を鑑賞するという、詞と絵という形式からなるが、時には詞書を略した絵巻すら作られた。もちろん文学と絵画とが一体となった独自の形式であり、両者はきわめて密接な関係にあることはいうまでもない。そこで、ここでは説話と絵巻の調和を成し遂げている『信貴山縁起絵巻』を通して、特に上巻の「飛び倉の巻」を詳しく調べてみたのである。この巻では上に述べた説話文学の特徴的な要素がどのように表現されているのか。また、絵をもってこのような説話的要素をどういうふうに作品の中で生かしているのかについて調べてみた。

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明治維新は日本の近代化を意味する。当時日本の独立と富國强兵のため始まった近代化は政治だけでなく、経済、社会、文化、思想などあらゆる分野にわたって西欧化を追求してきた。その中、思想面では西欧思想とともにキリスト思想 - ‘Love’と罪 - も伝わってきたが、これは日本の倫理觀との對立と矛盾の中で日本人の價値觀を混亂させた。いわばキリスト思想は近代日本人の意識構造は勿論、‘Love(平等、自由恋愛)’と日本の‘愛(もしくは恋)’の衝突を始め、昔から伝えてきた伝統的な道德や倫理觀、恋愛、結婚觀に大きな変化を与えてくれた。このような‘新しい物’に対する葛藤や混乱は芥川龍之介の文学作品の中、所謂<開化物語>でもうかがうことができる。特に「開化の殺人」に現われた北畠の自殺はキリストから言われる罪の自覚 - 道德的な憤怒と精神的な破産 - によって、むしろ死(殺された)にいたってしまったのがわかるし、「開化の良人」では日本の近代化の過程の中でキリストの垂直的な‘Love’と、日本の伝統的、水平的な‘愛’との対立による矛盾や葛藤はよく現われている。一方、秀しげ子と芥川との不倫関係を通して当時日本社会に現われていた女性達の西欧的な自由恋愛や行動を探ってみることによって近代女性における新しい‘Love’とともに、伝統的な倫理や慣習との断絶していく様子がうかがる。このように、日本の近代化の過程における西歐のキリストから言われる‘Love’は日本女性に男女平等や女性における地位向上などのような肯定的な役割を果たしたものの、性の自由もしくは肉體的な性の平等を呼び起こしており、今まで彼等の思想を支配してきた傳統的、東洋的な價値觀や道德、倫理を否定する結果をもたらしてしまった。したがって、芥川はこのような西歐文明の中に現われた葛藤と對立 - 特に愛を中心に - を文学作品化することによって、当時時代相または社会相を告発しようとするのではなかろうかと考えられる。

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本稿では近代の韓国文壇において、石川啄木がどのように受容されていたかを、金相回の翻訳詩を通じて考察した。既存の説では、金相回について、彼がどんな人物であるかがよく説明されることがなかったが、この論文では、比較的詳しく彼について調べてみた。また、彼がどのように啄木の詩を翻訳するようになったのかに関する経過についても考えてみた。金相回は、黃錫禹が主催していた『朝鮮詩壇』の同人であった。1929年の第5号に、彼の創作詩が掲載されており、その書籍の巻頭の文章の中に啄木を紹介する内容の文章があった。したがって、彼が啄木の詩を翻訳する少なくとも3年前には啄木の存在を知っていたことになる。彼の属していた文壇のプロレタリア文学とも通じる文壇の雰囲気や、当時の韓国の社会的背景の中で、金相回は必然的に啄木の「はてしなき議論の後」を翻訳するようになったと思われる。このような、近代韓国文壇における啄木の受容を調査することによって、当時の韓国の文壇の様子、特に黃錫禹の業績などを今までとは違った方面から見直すことができ、多角的に見つめることのできる契機となった。また、比較文学的観点から翻訳を観察することによって、原作と翻訳家との出会い、そして二者の文化的背景について、より深く考察し、原作の隠されたモチーフを受信国の読者に紹介するなどの貴重な機会を持てた。

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유복(儒服)과 유자 의식 -하야시 라잔[林羅山]의 경우

허은주

한국일본언어문화학회 일본언어문화 제16집 2010.04 pp.517-536

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儒服とは儒者が衣服のなかに儒教の哲学的な意味を盛り込んで日常的に着用した衣服のことである。深衣と幅巾に代表される儒服は、朝鮮においては既に高麗時代に導入されたと指摘されているが、近世にはいるとより広い範囲に普及されるなかで儒者の儒服にたいする思いは並大抵のものではなかった。日本の場合は、17世紀を前後して藤原惺窩を中心にした初期朱子学派の間で深衣や幅巾などの儒服が彼らの学問的なアイデンティティーをあらわすひとつの象徴として着用されたこともあったが、近世を概観した際、儒服はあまり定着しなかった。一方、林羅山が幕府に登用されると同時に僧の身分として活動することになり、僧名をもらい僧服と剃髮など僧の服装することになったことはよく知られたとおりである。羅山はこのような服装をめぐり内的・外的な葛藤を経験したが、このことは儒教文化圏における儒者の服装である儒服の観点から興味深い様相であると考えられる。本稿では、こうした観点から日本の儒者意識と儒服がいかに関わっているのかを考察することに当たって、儒服の意味を儒者の装いに拡大して羅山の場合を検討したものである。若いころの羅山は深衣を着用した惺窩に出会い、深衣を、仏教に代わる新興知識としての儒教の象徴そのものとみなした。深衣は近世儒学を語る際に欠かせない二人の人物の架け橋となり、やがて羅山も深衣を着用することになったのだが、この時期の様子は後に羅山が幕府と関わってからの羅山の装いをめぐった諸問題をより浮彫りにしている。いよいよ幕府の仕官となり僧の装いをした羅山は「時中之道」という儒家の論理に立って自分を弁護した。つまり、現実的な状況を受け止めてこれに合った行動をとり、現実的な有効性を獲得した後に、世の中をよくするという筋合いである。しかし、世の中では羅山の思うとおりに受け止めてくれなかった。このことは、羅山の立場が公的な地位、すなわち権力と結び付いていたからであった。ここで羅山が使ったのが「太伯後裔説」である。羅山は自分の剃髮を合理化する過程で繰り返し太伯の断髪・文身を採りあげる一方で、日本の始祖が太伯であり、剃髮は太伯が日本に来たその昔からの日本の風俗であると読めるように「太伯後裔説」を施したと推測される。実際に近世末期に日本を訪れた金綺秀の『日東記游』のなかには「太伯後裔説」と剃髮を結び付ける当時の日本人の話が載せてあり、ただの推測の枠を超えるいると判断される。羅山の剃髮にあらわれる儒服と儒者意識の問題は社会参与をしたいが現在権力を持たない初期の儒学が社会の制度圏内へ編入されて定着していく過程を浮彫りにする一端であるといえる。

 
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