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일본학 [The Ilbon-Hak(Journal of Japanology)]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    동국대학교 일본학연구소 [The Institute for Japanese Studies Dongguk University]
  • pISSN
    1598-1134
  • eISSN
    2713-7309
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1981 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제34집 (10건)
No
1

7,300원

本研究は、「あま(海女・海士)」を対象とする民俗学的研究視角の刷新を図るため、その研究枠組みを再検討し、隣接諸学との比較作業を通じて問題の所在を探る試みである。具体的には、民俗学が、「あま」の労働を身体との関わりでいかに捉え、研究してきたのかを検討し、国策や産業転換といった時代文脈とどのように連関していたかについて、労働科学や人類学の研究視角と対照し、歴史社会学的に明らかにする。本稿では、「あま」研究が盛んに行われた2つの時代画期、大正・昭和初期と、高度経済成長期に注目し、「あま(海女・海士)」の労働や身体の把握の仕方を検討した。その結果、大正・昭和初期における民俗学的視角は、女性の海女を特異視し、その労働が、裸による潜水漁であり、労苦が多いものであると同時に、海女社会を自由平等に捉える二律背反的な視線によって支えられていたこと、高度経済成長期のそれは、生産技術の系譜(原初性)を重視し、「あま」研究が分布の解釈学へ一元化されていったことが明かとなった。以上の研究枠組みを批判的に検討するためには、衛生学による産業労働婦人の帝国主義的位置づけ、民族学(人類学)による日本国家の多民族形成論、及び、国際的開発競争の激化に伴って活発化した潜水の技術革新(潜水の科学)といった、各時代の文脈とナショナリスティックな視線との関係を視野に入れることが重要であり、これらの覇権的な「あま」表象(オリエンタリズム)を相対化し得る民俗学的視座が求められていることを主張した。

2

7,200원

本稿は千葉県銚子市長崎地区における根付漁業の展開と、それを担う海女の役割を明らかにすることを目的とした。まず、日本における海女の全国的動向を把握すると、その数は第二次世界大戦後に増加し、1970年代をピークとして以後減少し、2011年現在は最も多い時期の8分の1程度となっている。海女の分布は採貝量と相関して地域的偏在が認められる。しかし、これらの結果は主に潜水海女に着目したものであるため、潜水せずに採藻などに従事する形態を含めると、より多様な海女が存在することが示唆された。本稿は潜水しない海女の事例報告として千葉県銚子市における岡磯海女及び腰っぺり海女に着目し、海女の多様性の一端を示すことを意図した。銚子市長崎地区の主たる生業である漁業は、沖合漁場における漁船漁業と地先漁場における根付漁業に区別され、それは季節的サイクルによって組み合わされて展開していた。漁業が季節的サイクルを有するために、長崎地区には男性が従事する漁業との組み合わせによって様々な女性の就業機会が存在し、海女は多就業によって成り立つ小規模漁家経営の一環に位置付けられ、漁業収入の不安定性を補完する役割を担ってきた。海女の採取活動を詳細に見ると、冬磯(灘磯)に従事する「岡磯海女」と夏磯(沖磯)に従事する「腰っぺり海女」に区別され、冬磯と夏磯の両方に従事する者、いずれか一方に従事する者という違いが見られた。この違いは、漁家経営の兼業状況や家事・育児との兼ね合いに規定されて生じていた。冬磯と夏磯の違いは海女たちが運営する冬磯、海産物問屋である磯屋が運営する夏磯という主体の違いでもあったこのような海女をめぐる状況は高度経済成長期において変化した。銚子市の漁業は1960年以降に漁業の機械化、大規模化、専業化が進行するとともに水揚量が急増する一方、経営体数は減少し、経営に占める家族労働力の割合が低下した。このような漁業の変化と共に家族経営および地域の産業構造における根付漁業の意味は縮小し、それと連動して海女数及び海藻類生産量の減少が見られた。

3

帝国日本と済州島チャムスの出稼ぎ

伊地知紀子

동국대학교 일본학연구소 일본학 제34집 2012.05 pp.71-117

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

9,600원

裸潜水漁は日本と韓国を除けば、世界の他の地域では稀な職業である。済州経済を支えてきた裸潜水漁者=チャムスは、独特な漁法に女性だけが従事しているという特異性からのみ着目されているのではない。彼女たちは済州島の歴史と文化を映し出す対象であり、対外的に済州島の独自性をアピールする存在としても意義づけられている。しかし、こうしたチャムスへのまなざしからは、彼女たちが生きてきた生活世界のありようが見えにくい。韓国におけるチャムス研究は、民俗学や生態学、地理学といった分野で蓄積されてきた。チャムスの総数や採集物、道具などについて詳細な記述が始まったのは、日本の植民地期以降である。解放後もその体系は引き継がれ、身体能力的側面と社会構造的側面への分析が主であった。さらに本土中心の視線によって、チャムスが経済の主体であり家事・育児もすることから、「強靱な女性」という神話が構築されてきた。こういった着眼点からは、裸潜水漁に従事する人びとを、海域を生業の場とする生活者として捉えるという視点がこぼれ落ちてしまう。本稿では、歴史的なダイナミズムのなかでチャムスたちがいかなる生活世界を生きてきたのかを、人びとの生活経験に寄り添いながら捉えてみよう。済州島チャムスは強靱にならざるを得ない社会的歴史的環境を生きてきた。本稿ではまず、日本の植民地支配下での資本主義市場経済導入、そして解放後における朝鮮半島情勢、日本と朝鮮半島との関係変化という外部環境に対応しながら、チャムスたちが活動領域を拡大せざるを得なかった背景を概観する。そのうえで、日帝期、済州島チャムスたちの国外への出稼ぎ経験とはどのようなものだったのかを考察する。

4

7,300원

This paper focuses on the conflict between women divers, “Jamsu” and local communities for fishing rights since moving from their hometown throughout the colonial and postcolonial period. It has been claimed to be the women's strength, sacrifice and progressiveness that they used to leave home for fishing and come back. On the other hand, there has not been any discussion on social environment such as colonial rule which caused conflicts. The writer gave attention to the social back ground of this moving that took place under the colonial rule and examined what happened in colonial period and after the period. The fishing ground that these women worked on was local-commons and the aspect of the conflicts shows who and how to access the resources. It has been shown that the women's moving was forced in order to collect the natural resources rather than their fishing rights since the right of ‘free collecting’ and ‘free fishing’ was raised based on colonial custom and the fishing right at that time was not acceptable to local communities. It has been found the fishing of women divers that changed from movement to settlement without the fishing right in the seaport city(Busan). The women fishers ‘kicked’ by city development are working at neighborhood fishing ground however this fishing is taken place without any fishing right and has problematic tendency. I criticise ‘Freedom of the Sea’ that sea is free space for anyone through the women's moving was caused by social factors and their settlement process.

5

日韓海女写真史略 - 続ㆍ誰がために海女は濡れる -

菊地暁

동국대학교 일본학연구소 일본학 제34집 2012.05 pp.151-182

※ 기관로그인 시 무료 이용이 가능합니다.

7,300원

海女写真とは、海女と写真家との遭遇の記録であり、そこから海女をとりまく社会の姿を捉え返すことも可能である。日本の写真家によって海女写真が撮影されるのは、大正末~昭和初期のこと、写真機材の軽量化、廉価化、高性能化、ツーリズムの発達、民俗学的知識の普及などがその追い風となっている。主要写真雑誌における海女写真の掲載状況を眺めると、昭和10年前後、昭和30年前後という二つのピークが認められ、外房、志摩などの撮影スポットが名所化し、金銭によりモデルとなる海女が登場したことを確認できる。一方、植民地朝鮮においては、学術調査を除くと海女写真がほとんど制作されなかった。写真大衆の住む都市と海女の住む済州島との間を結ぶツーリズムが未発達だったためと推測される。いずれにせよ、日韓両国において、民俗学的関心に基づくプロ写真家や、郷土に根ざした地元アマチュア写真家によって、傑出した海女写真が制作されることとなる。こうした海女の制作背景として看過できないのは、海女の露出した身体がエロティックな特性をはらみつつも、海女それ自体はいたって健全な職業であり、その存在を否定し得ないということ、すなわち、海女の写真はいわば「合法的周辺ポルノlegitimated peripheral pornography」として生産・流通・消費されるという点である。

6

일본 아마와 관광 : ‘전통적’ 잠수복인 이소기의 상징성

유철인

동국대학교 일본학연구소 일본학 제34집 2012.05 pp.183-211

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6,900원

Like Jeju haenyeo, ama in Japan are professional female divers who dive without breathing apparatus and gather marine products underwater. The ama dove wearing only loincloths before they wore the white cotton suits called isogi. The time frame in which they began to wear the isogi varied according to the period when tourists began to visit their villages. The ama in Shima Peninsula wore the isogi in the 1920s as they became the main tourist attraction. As the ama began to wear wetsuits in the 1960s throughout Japan, the isogi became 'traditional' diving suits that nowadays they do not wear when gathering marine products underwater. When they dive to catch the abalone for the gods as part of the traditional sacred festivals, however, Shima ama wear the white isogi over the black wetsuits. Wearing the white isogi, the diving women in Mikimoto Pearl Island of Shima Peninsula demonstrate free-diving without breathing apparatus to visitors. These demonstration divers in the tourism industry exhibit the image of a sexy, while-clad ama that appeared on the tour posters during the 1960s and after, as well as the imagery of the ama as pearl divers. The ama at Gosode in the northern part of the main island of the Japanese Archipelago have been showing their free-diving skills without breathing apparatus, which are called sumoguri, to tourists during the season of sea-urchin (July to September) since 2010. Even though they usually dive wearing the wetsuits, they wear the isogi, which were last officially worn around 1960, when they show their sumoguri to tourists. The isogi associated with the past or the tradition have attracted tourists in Shima and Gosode. Since the isogi show the sexual image of the ama as well as the tradition of free-diving, tourists eagerly consume both.

7

6,900원

1945年8月の日本の敗戦後、「引揚げ」という体験を経て朝鮮から日本へ帰還した在朝日本人の中には、1950年代から日本文壇に登壇して作品を発表する作家たちが存在する。梶山季之、小林勝、後藤明生、五木寛之など、「引揚げ」当時、主に10代半ばの学生であった彼らは、日本の敗戦時まで登壇しなかった植民者二世であり、1950年代から60、70年代に渡って日本文壇で頭角を現わした。彼らには帝国-植民地期にすでに登壇して既成作家として活動していた既存の在朝日本人作家たちとは異なる創作のモチーフと文学的原点が存在したことと思われる。1930年を前後して植民地朝鮮で生れた彼ら作家にとって「朝鮮」は幼少年時代の「原郷」であると同時に、強烈な「傷痕(trauma)」でもあった。自分の国家が過去に朝鮮に対して何を行なってきたかを、成人となった戦後の日本で事後的に悟って感じる罪障意識と、朝鮮での多様な個人的体験とが絡み合いながら、彼らは自分の統合できぬ矛盾と葛藤を文学的表現と創作活動を通じて戦後の日本社会に知らせ、吐露しようとしたことと思われる。本稿では彼ら植民者二世出身の文学が1950年代から登場することとなる脈絡とその時点の意味を、同時代の日本社会と文学界における情況を参照しながら捉えてみた。それからこれに基づいてケーススタディーとして作家の梶山季之の場合を、彼の「朝鮮」素材の作品と広島で被爆された人々の戦後生活を描いた作品を中心に議論した。

8

6,700원

『さよひめ』は『さよひめのさうし』に比べて説経節的特性[「漂泊民の登場」、「漂泊民だった者の復讐」、「心の痛みの表現」、「悲嘆の場面」]が非常に濃厚な作品であった。また思想的観点で『さよひめ』は『さよひめのさうし』より相対的に予定的人生感が強く、さらにさよひめの亡き親に対する孝の矛盾性が強くあらわれていた。『さよひめ』の文学的意味としては『さよひめ』は説経節を下敷きにし書かれた作品であり、生成過程において󰡔さよひめのさうし』からの直接的な影響がなく作成された作品であった。

9

8,100원

当時の日本支配層は周囲の「穢」に満ちた異域から淸淨な国家領域を守るという防御的な対外姿勢を有していた。つまり, このような古代日本の内向的な姿勢が9世紀半ばの律令国家の辺境意識の変質に影響をおよぼしていたと理解できる。このような律令国家の転換には律令国家の外部、すなわち、唐と新羅の変動が一要因であり、このことは10世紀転換説と9世紀転換説のいずれにも共通していたといえる。9世紀の律令国家の転換には辺境意識の変化を確認しうる、目に見える構造物が現われはじめることになる。これがほかならぬ四天王信仰の活性化であるとともに、当時、辺境とされた地域のあちこちに建立された四天王寺であった。しかし、昨年3月11日に起きた、未曾有の‘東日本大震災’の発生とその後の事態を見守るにつけ、従来の研究がほとんど注目してこなかった点に思い至った。別言すれば、これまでの研究では、災害と災難の影響が国家体制のシステムと方向性の決定にいかに大きな影響を及ぼしうるのかという点について、ほとんど顧られることはなかったのではないかという疑問である。本稿はこうした点についての古代史からの一つの答えでもある。四天王信仰とは、本来は祈祷によって新羅の降伏を願うことであったが、大同2年(807)以降は疫病、そして貞觀11年(869)の小野山城の四王院の事例は阿蘇山の患いによる疫病を防ぐ信仰へと変容していったと考えられる。このような変化は実際の軍事的な外敵に対してではなく、国家の外部から侵入し、中央に疫病を撒き散らすと考えられた観念的な外敵を防ぐ地域に四天王信仰が必要であるという意識の変質が内在していたと考えられる。言い換えれば、観念的な外敵に対する神仏の加護が、辺境での四天王法の特徴として変質していったことを余すところなく説明してくれる。最後に、‘貞観大地震’に代表される9世紀半ば以降の引き続く大規模の地震と津波、またこれらによる二次被害という深刻な自然災害に対して、古代日本の中央政府は余力はなかったものの、以上の対外観の変質に象徴される9世紀の転換に一定の役割を果たしたことを否定することは難しいだろう。

10

7,000원

日韓両国の一般市民を対象に、ゴミ問題に対するアンケート調査を実施し、環境の実態についての認識、環境改善活動の主体意識、環境問題の解決への実践意識を探り、日韓両国の一般市民の環境意識の間の類似点と相違点を見つけ出し、その相対的な特徴を調べ、そのような意識が形成されるまでの両国の社会文化的な背景や特徴を明らかにする。その結果、一人ひとりの環境意識は、日本が韓国よりもゴミ問題をはじめとする環境問題の片面だけを考えるのではなく、その根本的な原因について、もう少し高く認識している。しかし、環境運動などで表示される集合的な環境行動は、韓国のほうがより高い割合で触れてもよい。一方、日本より韓国が健康や経済的な理由による環境行動の割合が高いと表示され、政府の政策や社会のシステム的な部分では日本よりも多少の整備が必要なものと見られる。また、両国とも、政府の役割として環境教育への要求が高いこととなり、両国とも、環境意識の形成の重要性を実感しているとみられる。また、一般市民は、環境政策の影響を大きく受けると見られ、特に韓国では、優秀な政策の開発と専門家養成のための努力が求められる。

 
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