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在朝日本人史研究の現状と課題 - 在朝日本人実業家の伝記から読み取り得るもの -
동국대학교 일본학연구소 일본학 제35집 2012.11 pp.1-15
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4,800원
在朝日本人実業家の12点の伝記を取り上げて検討してきたところをまとめるならば、ほぼ以下の諸点になろう。すなわちまず、初期に草分け的に進出したものたちは、その経営手法において国家的な利益に重きを置いて行動していることがあげられる。それは国家の命運に自らの存亡をかけたという側面があったことに起因しているといえるが、そうした観点はその後も継続し、とくに戦時期には大きく膨らんでいく。そうした行動様式が引揚げの際にも世話役として活動することに繋がったといえよう。しかしこの点については、戦時統制経済と個別の営業内容との関連性などを具体的にみたうえで、個別利害より国家的利害といった評価も再検証する必要があろう。また敗戦による全財産喪失の際の見解についてはほとんど触れられていない。今後は、社史や手記・活動などを総合的に検討するとともに、閉鎖機関関係文書や日記などの新たな資料を発掘し、経営の実態に迫った研究が蓄積されることを望むものである。
7,800원
1910年、日本が朝鮮を統治するようになると当時の在朝日本人の生活にも変化が生じた。“一時とどまる”場所から“子々孫々定着する”場所になったのである。これに伴い、在朝日本人社会は本国で満喫できる公共サービスや娯楽、そして教養を満たすべく各施設を必要とした。植物園や劇場、図書館などが建てられ、これにより移民者として生活する事に対する慰労を受け、故郷へのなつかしさをなぐさめた。体は故郷から離れてはいるが、意識的には本国とつなげてくれる何かが必要であった。これと同時に、日本とは生活条件が異なる朝鮮に対する情報も不足していた。 「出版」 はこの二つを同時に満たすことのできる有用な手段であった。日本の巨大な出版資本と比較になる程ではなかったが、在朝日本人による出版活動は早くから始められ統治以降さらに盛んになり、1911年から1917年まで約5千冊を超える書籍が出版された。出版物の量だけでなく、朝鮮出版界に於いて日本人が占める割合も増加した。当時の朝鮮の出版を在韓日本人がリードしていた。出版規則やこれに規定されている検閲は在韓日本人の出版活動に何らの影響を及ぼすに至らなかった。1910年代の在朝日本人による出版の特徴の一つとしては、一般雑誌と呼ばれる‘繼續出版物’の比重が大きかったという点である。1912年と1916年の事例をあげると繼續出版物の割合が80%を超えた。さらに繼續出版物の中でも会社や商品を紹介する情報誌が40%前後を占め、営利を目的とする雑誌は少なかった。朝鮮の読者層が豊かでなく、日本から送られてくる雑誌と内容をめぐって争うのは容易な事ではなかった。単行本出版はそのほとんどが朝鮮総督府によって出版された法令․例規集․統計、年報、教科書などであった。民間に対しても法令集や受験書籍などの実用書を中心とした出版事業が行なわれた。文芸分野に於いては、日本の近代文学よりも俳句集などが出版された。年々成長したとはいえ、朝鮮で出版された書籍の分野と種類に変化がなかったため、朝鮮の出版市場では移入出版物が大部分を占めていた。新刊の量や広告の数から見ても朝鮮の出版業者は、日本本国の出版業者の足元にも及ばなかった。在朝日本人による出版社は、日本の移入出版物と争い生き残るために朝鮮に合わせた特化書籍を出版するという手段をとった。朝鮮で新しく作成された法令集、朝鮮総督府とその所属機関に合わせた受験書籍、朝鮮の歴史、地理、経済書などがニッチ市場であった。このような状況にあったため在韓日本人は日本人として備えるべく生活や意識分野の教養を移入出版物によって満たした。一般の読書傾向は本国の日本人と変わる所がなかった。
일제 강점기 후치자와 노에(淵澤能惠: 1850~1936)의 조선에서의 활동
동국대학교 일본학연구소 일본학 제35집 2012.11 pp.53-89
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本稿は淵澤能恵の日帝強占期における教育活動と各種団体活動並びに朝鮮観を考察したものである。能恵は江戸幕府の終焉と明治維新という激動の時代に下級武士の家柄に誕生した日本人女性である。約3年間の米国滞在で英語の習得に励み、現地でキリスト教の洗礼を受け帰国した。その後朝鮮へ行くまでは各地の女学校で英語教師等に従事した。朝鮮へは日露戦争中の1905年に渡航し、以来1936年に死去するまでの約30年を京城において韓国女性教育及び各種団体活動に従事した。淑明女学校はキリスト教を母体としてはいなかったが、能恵は学生達と共に学校に寄宿しながら、自らの行動と基督教信者として信仰的雰囲気をもって接した。しかし学生運動に際しては問題を直視し、積極的な解決に乗り出すといった行動や、朝鮮女性たちが置かれていた現状への直視という姿勢は弱かった。団体活動においては主に日本キリスト教婦人矯風会朝鮮部会会長及び同会京城支部長としての活動が中心であったが、同団体の朝鮮部会での活動は日本本部のような廃娼運動への積極的な運動展開を見せるには至らず、主として極貧者への米配給等の慈善運動に留まった。能恵は朝鮮において常に女学生らと共に生活することに努力したが、それは自身の内面奥深くにあったキリスト教信者としての信仰心がその基礎となっていた。内鮮融和について能恵は渡瀬常吉が日本の朝鮮植民地化を言論において支持表明し、宗教家は内鮮人の一体化を図るセメントの役割をし、内鮮融和を推進すべきとの見解とは異なるものであった。能恵のそれは朝鮮人と日本人との結婚を政策的に行うというよりも、キリスト教信者としての深い信仰心と人類愛に由来するものであった。能恵はいち早くキリスト教信者となるなど開明的な女性であったが、良妻賢母主義に基づく女性教育を行った。これは学監就任当時の博学多才で世に大きく飛躍する女性よりも、家庭に留まる女性像を求めた発言にも現れている。こうした思想は学校での学生指導のみならず、矯風会日本本部の活動のように廃娼運動への積極的姿勢を見せなかったことにも現れている。
6,700원
本稿では、「文化政治」初期(1919~1924年)における植民地朝鮮の政治空間の動学を考察した。三・一運動をきっかけに行われた朝鮮支配政策上の変化は、在朝日本人社会に新しい体制構築への期待と共に不安要因として認識された。韓国併合後10年間、自治権をはじめ、言論・出版および政治活動の自由を奪われ、更には強硬なる財政独立政策と会社令体制によって経済面における成長が阻害されてきたが故に、「武断統治」の終息は歓迎すべきことであった。在朝日本人社会は、新しい統治体制の構築に便乗して、これまで抑圧されてきた権益の拡張を図り、体制再編に影響力を行使しようとした。しかし、統治権力側は三・一運動直後の情勢における治安回復を統治の第一目標としており、朝鮮人社会に対する宥和政策を施さざるを得なかった。その背景には在朝日本人および下級官僚の失態が朝鮮人社会の人心悪化の重要な要因の一つであり、彼等に対する牽制・取締が必要であるという総督府中枢部の認識があったのである。開かれた「政治空間」で自らの権益拡大を狙って影響力を及ぼそうとする在朝日本人および朝鮮人上層部間の対立は避けないことであった。一方では、朝鮮人優遇策、治安不安や日本人圧迫問題などをめぐって、統治権力と在朝日本人社会の対立構図が形成された。当初は「文化政治」を歓迎した在朝日本人社会の輿論は次第に悪化して、ついには「文化政治の失敗」を宣言するまでに至る。1920年10月に開かれた「全鮮内地人実業家有志懇話会」では、「文化政治」に対する全面批判が行われ、憲兵警察制度の復活や移民拡大等の強硬策が提示された。しかし、統治権力側はかかる要求を正面から批判・拒否し、それ以後在朝日本人社会はしばらく政治空間から退場することになった。その後、在朝日本人社会は1924年の「全鮮公職者大会」の開催を通じて政治空間に再登場するが、そのその背景には在朝日本人の経済的利害関係、すなわち利益拡張のための政策決定過程への介入という問題が主な動因として作用していたと見られる。また、制限的な「地方自治」制度の下で抑圧されてきた政治欲求が、内地における普通選挙の議論に刺激されて噴出した結果であると思われる。これは同時に、朝鮮人に対する在朝日本人の姿勢が、以前の「排除と分離」から「協力と融和」へと転換したことを意味する。
일본제국과 제국적 주체의 정체성 - 『綠旗』(『錄人』) 속 모리타 요시오(森田芳夫)의 국체론과 정체성 분석을 중심으로 -
동국대학교 일본학연구소 일본학 제35집 2012.11 pp.119-154
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This study is the analysis of the identity of Morita Yosio who was the second-generation Japanese colonial setter in colonial Korea, through his argument over ‘Japanese national polity of a country’. Through this study, I inteded to criticize a ‘nation stat-centric’ tendency about a state power in colonial korea and demonstrate the being of a empire state’s logic of a ‘subject-formation’ in colonial korea.
일본 역사교과서의 古代史 서술과 對韓 認識 - 2012년도 고등학교 일본사ㆍ세계사 검정본을 중심으로 -
동국대학교 일본학연구소 일본학 제35집 2012.11 pp.155-191
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日本敎科書の韓國古代史敍述は政治史的な面では、韓半島に対する優位性を強調して, 文化史的敍述では日本古代文化の形成に渡來文化の影響を語っている。日本の韓半島諸国に対する政治的優位性の主張は 『日本書紀』 など日本側史料に基づいて日本古代國家像を創出したからである。これらの史料による任那日本府說の直接的な言及はなくなったが、倭王權の加耶地域など韓半島南部にたいする政治的な影響力,勢力圈の形成を主張する敍述はまだ敎科書の所々に残っている。8世紀代の日本の対新羅關係を、從屬關係から對等關係に轉換しようとする新羅とのあいだに葛藤に起ったという視角は、歪曲された史料に対する誤った解釋である。日本側文献に対する嚴正な史料批判と當時の國際關係の實態を客觀的に分析すべきである。4-6世紀の文化史の敍述では、日本古代文化の形成に韓半島系渡來文化の影響を客観的によく記述している。しかし統一新羅の以後の白鳳文化, 天平文化の敍述では、日本の遣唐使が强調され、唐中心の日本文化の形成を語っている。日本古代文化の形成に唐文化の影響は評價されるべきであるが、7世紀後半の30年間の白鳳時代には日本の対唐交流はなかった。この時期の新羅との関係も重視すべきであろう。ただ山川出版社では、8世紀以後の統一新羅, 渤海関連交流の内容が増えたのは大きな変化だといえよう。このような現状は学術的交流による成果と思われる。
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日本の文部科学省は3月27日に高等学校教科書検定結果を発表した。世界史と日本史教科書19点が検定申請してすべて合格した。今回の教科書検定は、学力低下を憂慮して 「脱ゆとり」 教育方針を提示して行われた最初の高校教科書検定であったこと、また、改訂された教育基本法や学習指導要領などに基づいて教科書が製作されたことが焦点になっていた。本稿は今回検定合格した日本史と世界史教科書の韓国関連の記述内容のなかで関東大震災と「虐殺事件」に対する記述内容を検討したものである。とくに、関東大震災と虐殺事件に焦点を当てたのは、最近日本の新聞で関東大震災の教科書記述に関する報道が続いているからである。報道の内容は関東大震災当時の虐殺事件とかかわるもので、犠牲者数やその主体に対して異議をとなえているものである。教科書の記述内容を検討してみると、現行本とくらべて変更がみられ、また教科書ごとに差があることを確認した。まず、関東大震災の経済的な側面を強調し、虐殺事件に対する内容がないものもあった。当時の犠牲者の数を 「多数」、 「多くの」、 「数千」、 「約6千」 などと記述しており、提示する方法も多様であったが、今回、具体的な数字を提示した教科書は1つだけで、ほとんどが曖昧に記述されていた。虐殺の主体に対する教科書記述も曖昧にされており、図版も虐殺事件を連想させるものは少なくなっていた。最近の報道と教科書の関東大震災に対する記述内容をみると、当時の虐殺事件に対する記述を縮小したり、事件そのものを省いてしまう教科書が増えるのではないかと思われる。東日本大震災以後、日本社会の保守化とともに 「つくる会」 系の勢力などによる 「教科書攻撃」 が続いているなか、今後の教科書検定における関東大震災と虐殺事件に関する記述にはとくに注目する必要がある。
사이고 다카모리와 ‘정한론’ - 2012년도 검정통과 일본 고등학교 역사교과서와 관련해서 -
동국대학교 일본학연구소 일본학 제35집 2012.11 pp.221-248
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この論文は、2012年3月日本の文部省の検定を通過した高等学校用歴史教科書のなかの征韓論項目を分析したものである。具体的には西郷隆盛が征韓論主唱者から‘平和使節論者’に置き換えられたことになったその背景を考察して、西郷隆盛の遣韓使節論の顚末を分析することにその目的がある。本文で分析した内容を整理すれば次のとおりである。第一に、朝鮮総督府発行の歴史教科書のなかの征韓論は、好意を持って交際しようとする日本にかえって無礼を犯す朝鮮を叱る善意の隣国として日本を描写しているだけであって、二百数十年間善隣を修めてきた朝日間の外交慣例を一方的に無視し、かつ自国内の不平士族の不満排出のため朝鮮征伐論を主張した背景は全く言及していない。すなわち、日本側の立場に立って独善的・一方的に歴史が叙述されている。第二に、2012年3月検定を通過した高等学校用歴史教科書のなかの征韓論叙述は、戦前の総督府出版の歴史教科書とは違い、日本側の立場だけの独善的・一方的な叙述は止揚されているが、まだ多くの教科書では征韓論の原因を朝鮮の国交樹立拒否にあるように記述している点は戦前の認識をそのまま踏襲している。第三に、明成社の征韓論叙述で板垣退助を征韓論の主唱者に、西郷隆盛を朝鮮開国のための使節派遣者であると叙述したのは、明らかに歴史的史実に反している。第四に、上記明成社の征韓論叙述に影響を及ぼしたと考えられる毛利敏彦の西郷‘遣韓使節論’は、西郷の使節派遣→出兵(征韓)といった2段戦略の前段階だけを強調した結果であって、これは史実と相反する。関連史料を総合的に見る時、西郷の真心は非武装使節に最善を尽くしてから、出兵の効果を最大化しようとしたことにあった。したがって、1873年10月の征韓論の真相は、西郷、板垣などが維新後の緩んだ民心を引き締めて士族の不平を外国に向かわせて士気を振作させるためにわざと国難を醸成するのに対朝鮮外交問題が手段として使われた事件に他なら無かった。
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