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일본학 [The Ilbon-Hak(Journal of Japanology)]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    동국대학교 일본학연구소 [The Institute for Japanese Studies Dongguk University]
  • pISSN
    1598-1134
  • eISSN
    2713-7309
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1981 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제37집 (10건)
No

특집논문

2

조선 초기 한일 회화교류 연구의 학문사적, 학설사적 과제

홍선표

동국대학교 일본학연구소 일본학 제37집 2013.11 pp.1-23

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6,000원

朝鮮初期と室町時代の韓日絵画交流の研究は、近代期の日本人学者によっ 15 て取り上げられて以来、両国の世紀画壇の関係性と共にこの時期の画家系 譜や水墨山水画の様式究明および復元と関連して議論されてきた。主に芭 蕉夜雨図と周文、秀文、文清の問題がその中心であったが、関連資料の不 足および不安性と、伝播論的観点と密着した恣意的な解析によって少なくない 2000 誤謬と虚構を産み出した。年代に至るとこのような誤謬と虚構に対する批判 が本格化し、この時期における韓日絵画交流に対する再構成と新しい主題の必 要性が提議されている。 14 これからこの時期における韓日絵画交流史研究は、画風の比較と判断から 15 世紀と世紀の東アジア絵画史の様式的な脈絡と構造に対する認識を深め、 文化帝国主義の嫌疑を持つ伝播論的影響論から脱却し、様式流通の国家観の 実態と双方向の受容性および相互テキスト性を究明し、解明する方向で努力す べきである。そして、このような有機的な関係性の脈絡から東アジア的観点を相 互補完し、東アジア広域美術史に対する理解を広め、さらに東アジア統合美術 史構築を展望できるといえよう。

3

5,800원

東アジアの三国の仏像の造像銘には、共通して死後他界に往く願いがあらわされるが、救済観には違いがある。中国と日本の例では、死後の成仏(到彼岸)が、造像後の行為を誓願することによって期されているのに対し、朝鮮半島の例では「仏に見え法を聞くこと」への期待のみが示される。仏教造像はそのような祈願に対応して表現されると考えられる。 雲岡石窟第十一窟東壁最上層の造像は、太和七年(483)に造られた。最下部にある銘文の両側に、俗人像が五十四体あらわされているが、これは五十四人の造像者に相当する。彼らが自身の姿を造像内にあらわしたのは、造像者自身の身代わりとなる像を作るという意図があったことによると考えられる。造像者は、理想世界の着衣を纏った自らの像をあらわし、霊鷲山で仏に向かって誓願するという行為を代替させている。像が人間の代わりに仏との出会いを果たしている。 三国時代韓半島の三体の作例、辛卯銘如来三尊像(571年)、丙辰銘釈迦如来光背(596年)、甲寅年銘光背(594年)の銘文を確認すると、祈願を成就する者という部分にやや相違があるが、いずれも見仏聞法への強い期待のあることが共通している。したがって仏像は見仏のイリュージョンをもたらす役割があったと考えられる。 一方、623年に造られた飛鳥時代日本の法隆寺金堂釈迦三尊像は、光背裏の銘文で、第一に、造像者である「王后、王子、諸臣」が「上宮法皇」(聖徳太子)のために、法皇と同じ大きさの釈迦如来像を造ると誓願し、その力によって法皇が浄土に登り成仏することを、第二に、先の誓願どおりに造像し、それによって造像者自身の現世の安穏と「到彼岸」(悟りに到ること)を願っている。到彼岸を目指すとき彼らは、すでに亡くなっている三人に従って、仏道に励むことを誓願している。釈迦三尊像はこのような願いを持った造像者のために機能した。それゆえ、三尊像は、仏菩薩という意味に加えてすでに亡くなった三人の像という意味をも含んでいたと考えられる。そこから、仏像は、第一に現世において釈迦と菩薩に出会うというイリュージョンを、第二には来世でしか会えない物故者に現世で出会うというイリュージョンを生み出す役割を果たしたと考えられる。 法隆寺の玉虫厨子は、宮殿と台座にそれぞれの四面に絵画が描かれている。台座の二つの本生譚と舎利供養図は釈迦への帰依、台座背面の須弥山図と宮殿背面の霊鷲山図は到彼岸へ向けた実践を主題とし、宮殿扉の二天と菩薩、宮殿内の諸仏は、礼拝者と向き合うための造形である。玉虫厨子の表現は、到彼岸を目指す礼拝者に対し範となる行為と示し、その実践を見届けるという役割を果たしている。到彼岸への実践と造形の関係を適切に示す一例である。 法隆寺金堂釈迦三尊像、玉虫厨子に造像者自身の姿はなく、現存する古代日本の仏教美術に造像者の姿をあらわした例はない。このことは、第一に、日本には仏との出会いを像に代替させるという考え方がなかったことを導く。行為する主体はあくまでも現実の人間であり、像はそれを代替しない。第二には、行為する自らの姿を社会に示し、あるいは後世に遺すという意識がなかったことが想定される。行為は、仏に対するもので社会へ向けたものでなく、また今現実におこなうべきものという意識である。これらから、造像者は、真に悟りへ到りたいと願っていたことが想定される。仏教受容期の日本の仏教信者の心性は、きわめてプリミティブなものだったと想定される。

4

韓国仏画研究と東アジア的観点

井手誠之輔

동국대학교 일본학연구소 일본학 제37집 2013.11 pp.47-74

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6,700원

近年、東アジアの観点から、中国․韓国․日本の美術の動向を再検討しようとする研究動向が盛んである。しかし、自国美術史の枠組みが相対化されることなく、各々を自明なものとして固定化した土俵の中で三国間の美術交流が議論の俎上にあげられてしまう時、東アジア的視点は、むしろ当初の目論見とは逆に自国美術史の枠組みを補強してしまう危険を内容する。こうした東アジア絵画史のもつ両義性を念頭に置きながら、本稿では、長らく日本を中心に伝来してきた高麗仏画と朝鮮前期仏画のもつ研究史上の諸問題を検討する。 日本をはじめ世界各地に流出した韓国仏画の所在がほぼ確認された今日、韓国仏画の研究は、従来の形態分析から、さらに制作に関与した願主や檀越たちの役割や信仰背景を史実に即して探っていく方向へと展開すべき時期を迎えている。韓国仏画は、その研究上の方向性において、韓国絵画史における新たな古典としての意義を担うことが可能となる。また東アジア的観点のもとで、高麗仏画の研究と宋元仏画の研究、朝鮮王朝前期仏画の研究と明仏画の研究とを同時並行して行うことは、韓国仏画を自国美術史の閉じられた視点から解放し、国境を超えた広がりの世界のなかで、東アジア地域の古典として新たに意義づけることを可能とする。かつて忘却され、ときとして日本の美術史学において日中間の概念上の境界に位置づけられてきた歴史をもつ韓国仏画について考察を加え、再検討していくことは、東アジア美術史再構築のための格好の試金石となるだろう。

5

谷文晁、東アジア絵画への眼差し

板倉聖哲

동국대학교 일본학연구소 일본학 제37집 2013.11 pp.75-106

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7,300원

谷文晁(1763~1840)は「寛政の改革」の推進者である幕府老中、松平定信(1758~1829)の下で推進した、古文化財保護を目的とした文化政策を担った画家の1人である。谷文晁らが参加して刊行された『集古十種』(寛政12(1800)年以降刊)は日本国内にある古文化財を初めて総合的に全国規模で調査した記録報告書で、その中の「名物古画」は中国絵画及び日本の漢画に限られており、室町時代以来の価値観において高く評価された所謂「古渡」、しかも京都の名刹に所蔵される宋元画が中心となっている。 但し、谷文晁の古画学習の対象は実に幅広い。師の渡辺玄対(1749~1822)の考えを引き継いで、古画とみれば質を問わず写そうと意識していたと考えられる。文晁自身も多くの明清画を所蔵していたらしく、複数の作品が現存している。又、谷文晁の一門には「画学斎過眼図藁」をはじめとして膨大な縮図や粉本が現存している。個人所蔵の写山楼画本1422点を検討すると、まず『集古十種』と合致するものをはじめとして宋元画が挙げられる。又、明時代では、前․中期の画院画家、後期の浙派である狂態邪学派、蘇州を中心に活躍した文人画家たち、さらに明末清初の文人画家等、実に様々な画家の作品を見出すことができる。さらに、清時代で量的に目立ったのは、当然ながら、江大来ら来舶画人で、中でも花鳥画家、沈南蘋は10点を超えている。これによって、関東南画壇の領袖とされてきた谷文晁は、実態は単に南宗画の流れに属すというよりも浙派末流等の北宗画を尊んでおり、「八宗兼学」を実践したことが確認される。 さらに、膨大な粉本群の中には、模写対象として韓国․琉球絵画が含まれている。文晁自身、東アジアの広がりの中で朝鮮絵画を多元的に捉えていたことが彼の朝鮮絵画に対する言及から窺われるが、写山楼画本には、高麗仏画と一見してわかる「阿弥陀三尊図」、朝鮮王朝宗室画家として著名な李巌(1499~1546以降)の「枯木鷹図」、さらに朝鮮王朝中期の「契会図」․「葡萄図」といった朝鮮王朝の絵画が見出せる。この他にも「縮画帖」(個人)には李巌と思しき「狗子図」を縮模しているが、狩野探幽も同図様を縮写しており(探幽縮図「牛馬図巻」(東京芸術大学大学美術館))、描かれた狗の仕草は李巌「花下猫狗図」対幅(平壌․朝鮮美術博物館)中の一匹の狗のそれと一致している。 又、琉球絵画としては呉師虔(山口宗季 1672~1743)「花鳥図」を見出すことができる。琉球絵画の高評価の背景には、幕府の外交政策や清朝絵画を基準とする画風に対する理解があったと考えられる。つまり、沈南蘋ら来舶画人の画風を重視した日本人にとって、孫億ら福建画壇を直接学んだ琉球絵画が、同時代の中国画壇から乖離した、やや古い様式の朝鮮絵画より高く評価されたと考えることもできる。 こうした韓国․琉球絵画を含む東アジア絵画史観は、近代に入って出版された朝岡興禎(1800~1856)編(太田菫補)『増訂 古画備考』(明治37(1904)年刊)の取材範囲と重なっている。狩野派の絵師の息子である朝岡は江戸時代の文献に基礎を置きつつ再編․考証しており、この書物自体、いまだ日本絵画史における基礎文献という評価を保ち続けている。自筆原本には見られなかったが、増訂版では巻50上․下に「高麗朝鮮書画伝並琉球書画伝附印譜」が加えられており、谷文晁の見た東アジア絵画として確認された範囲は、江戸時代中期の段階でその意識が既に現れており、後の『増訂 古画備考』に引き継がれていったのである。 このように見てくると、受容の際に、江戸時代後期、1800年前後の時点で、中国を中心にして朝鮮․琉球を含む東アジア絵画圏ともいうべきもの(「漢字文化圏」に倣って喩えれば「漢画文化圏」と呼ぶべきもの)が自覚され、さらに、伝統的な「古典」である宋元画と新たな感性を示す明清画という構造の中で捉える東アジア絵画史観が既に存在し、絵画制作の前提となっていたと見なすべきであろう。そして、その実態を最も具に窺い知ることができるのが谷文晁という存在であると言えよう。

6

5,400원

現在のわたしたち、つまり韓国でも、日本でも、画家ヴァン․ゴッホ(van Gogh)の作品は、たいへん好まれている。一方、韓国、中国、日本など、東アジアの漢字文化圏において、「文人」に対して共通のイメージをもつことができるだろう。わたしたちがゴッホの作品を知り、その作品を愛するようになるのは、歴史的にたどれば、20世紀の初めのことであり、モダニズム受容の過程で生まれ、醸成された感覚と精神を背景としている。こうしたモダニズム受容の過程で、伝統的な「文人」像は、どのように変化していったのだろうか。日本では、文人が描いた絵画、すなわち文人画は、近代の絵画史のなかでは主流からはずれていった。しかしながら、1920年代から、モダニズムを受容した西洋画を描く画家たちによって、いま一度「文人」と文人画はみなおされ、評価されるようになる。その例として、中川一政(1893-1991)をとりあげる。中川の場合は、ゴッホの作品を知ることにより、絵画制作をはじめた。しかし1920年代以降、東洋の古典を学びながら、みずからの文人像をつくりあげ、また創作においても主観性のつよい表現に変化していった。1970年代以降になると、日本の美術界でも中川の作品は人気となり、また中川に対する評価も文人画家としてみられるようになった。本発表では、こうした中川一政の芸術と彼のコレクションから、日本の近代美術における文人イメージの変遷を考えることを目的とする。

7

7,500원

本稿では主に小林勝と後藤明生の作品を論じながら、彼ら朝鮮植民者二世が産み出した文学が、植民地と戦争を経験していない日本の戦後世代に、歴史的経験に対する記憶の分有(sharing)と継承を可能足らしめる蓋然性を探ってみた。小林の作品では小説「目なし頭」(1967)、「日本人中学校」(1957)といくつかのエッセイを合わせて見てみながら、作者が作中の人物や事件の造形、形象化を通じて、歴史的経験に対する一個人の記憶を戦後日本社会の「忘却」に対するアンチテーゼとして喚起させていることを論じた。後藤明生の作品では「無名中尉の息子」(1967)、「父への手紙」(1972)、󰡔挟み撃ち󰡕(1973)など、作者自身が北朝鮮で迎えた敗戦体験と引揚げの過程、そして戦後の生活をモチーフとした初期の作品群を見てみながら、作中の話者が行う「記憶」探しの旅行が、常に「今󰠏ここ」の日本社会で植民地生まれの二世が生きていくことの意味を見い出そうとする営みへと繋がっていることを指摘した。こういう意味で後藤明生の作品の中の話者は、単に「朝鮮」にまつわる記憶にのみ詮索したというよりは、あくまでも戦後日本社会で暮す話者自身の「現在」を模索する方式を重視しているのである。それから本稿では「朝鮮」体験と記憶を巡った日本人作家の世代間の違いと、その集団的アイデンティティの特徴をいくつかのテクストの文面を通して見てみ、それを対比的に浮き彫りにした。このことは帝国󰠏植民地期にすでに登壇して既成作家として活動していた既存の在朝日本人作家たちと、敗戦当時は未成年であって戦後の日本でデビューした植民者二世たちの作品傾向と思想には明らかに弁別される相違点があると判断したからである。また、植民者二世の出身者の中でもその年齢層に添ってより細分化して議論すべき必要性を指摘しながら、故郷=「朝鮮」に対する認識の違いなどを含めて世代間における集団的アイデンティティの特徴を見てみた。

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이시모다 쇼(石母田正)의 민족 담론

최종길

동국대학교 일본학연구소 일본학 제37집 2013.11 pp.161-201

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8,700원

この論文は日本の左派集団がこれまで天皇を頂点にした保守支配集団の専有物だった民族言説をなぜ敗戦直後に強調するようになったのかを検討したものである。1948年1月から日本でレッドパージが強化されており、朝鮮戦争をきっかけに日本が米国に隷属された軍事基地化すると日本共産党は日本の完全な独立のための民族解放民主革命論を提唱するようになった。この命題は民族解放の主体を上層支配階級と買弁勢力を除いた多数の日本‘国民’に設定している。ここで日本共産党は日本の完全な独立を向け、民族的共同体意識を共有する‘国民’を創出しなければならない課題に直面することになる。 上記のような状況下で民族問題に執着するようになった石母田は民族は近代資本主義の所産と認めながらも、民族形成の諸条件は前近代社会で徐々に形成されると見た。つまり、石母田は近代国民国家の形成過程で形成された国民を基本的な単位としながら上層支配階級を除いた国民一般を民族に置き換えている。さらに、それらの国民一般は前近代社会にまで遡って同じ歴史的記憶を持つ血縁的、文化的共同体集団としての民族と定義された。このような定義によって、否定しようとした観念的で越歴史的な民族概念が復活させられてしまう。 このような内容を含む石母田の民族言説は天皇と上層支配階級を民族から除外した点以外は保守主義者たちの民族言説とあまり変わらないものであった。

9

『さんせう太夫』硏究 ―『まつら長者』との比較を中心に ―

吉岡浩人

동국대학교 일본학연구소 일본학 제37집 2013.11 pp.203-243

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『まつら長者』では慈悲奨励の方法は直接的․前面的に享受層に慈悲奨励を強く訴えてはいないことに反して、『さんせう太夫』では直接的․前面的に慈悲心の重要性を強調していた。『さんせう太夫』では 「まつら長者」にはない下(1)、(2)、(3)、(4)のような独特な文学的特性が発見できた。 (1) 奴隷に対する差別․残虐性を伝えようとする意図(2) つし王の残酷な復讐を正当化しようという意図(3) 『さんせう太夫󰡕は作品全体では慈悲心奨励を試みようとしているが、次の2点で慈悲心奨励の弱化が生じている。① 主人公つし王は恩讐に対する慈悲ができなかった。② 作品には、つし王の残酷な復讐を正当化しようという意識が存在するが、主人公つし王が、恩讐を慈悲の心で許さないで、度を越えた復讐(父の首を子に鋸引きをさせて父を殺させる)を行なった。(4) 奴隷的階層の代表者․代弁者であるつし王  『まつら長者』において、主人公さよひめは仏教的教え(慈悲の中でも実践が難しいと考えられる、自分の怨讐に慈悲を施すこと)を素直に信じ、忠実に実践し、家を復興させた慈悲心あふれる人物であった。反面、『さんせう太夫』において、主人公つし王は倫理的教え(慈悲の中でも実践が難しいと思われる、自分の怨讐に慈悲を施すこと)を素直に信じず、さらに忠実に実践せず、寧ろその反対に、自分の怨讐に徹底的な復讐を行い、家を復興させた人物であった。そのようなつし王の特性から察して『さんせう太夫』の語り手層(作者層)は奴隷的階層の読者に合わせて作品を創作したと判断できる。奴隷的階層の読者は、悲哀、苦しみ、差別、暴力への怨念が想像を絶するほど激しく、怨讐に慈悲を施す心の余裕のない状態、あるいは不足な慈悲心の為に、彼等は恨みが爆発した手段[度を越えた残虐な復讐(父の首を子に鋸引きさせて父を殺させる)]でしか、彼等の怨念心がより早く解消できなかった。そのような理由で奴隷的階層の代表者․代弁者であるつし王は恩讐を慈悲の心で許さないで、度を越えた復讐(父の首を子に鋸引きさせて父を殺させる)を行なった。さらに、つし王にはその行動に対する葛藤、罪意識も全然みられなかった。それら点で奴隷的階層の代表者․代弁者であるつし王には、倫理的教えを実践できない人間の弱さが強くあらわれていた。

10

재조일본인 연구의 현황과 과제

이형식

동국대학교 일본학연구소 일본학 제37집 2013.11 pp.245-283

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8,400원

在朝日本人については、2000年以後政治史、経済史、社会史、教育史、女性史、言論史など各方面で多くの研究が進められた。今までの植民地研究が経済史と民族運動史に集中して相対的に関心の少なかったこの分野で若い研究者たちの関心を集めている。新しい素材があたえる新鮮さによって過度に注目された側面も否定できないが、暫くの間はその熱は冷めそうでない。したがって今後の在朝日本人研究の展望と方向に対して本文で言及した内容と共に筆者なりの感想を提示したい。海外研究の動向と多様な学問分野との研究動向に注意をする必要がある。在朝日本人研究は韓国学、日本学研究の世界化、学問の脱界的な傾向により、地域的には韓国だけでなく日本、米国などで、学問的には歴史学だけでなく政治学、社会学、文学、文化人類学、経済学などで同時に進行され、実証的に緻密になり理論的に精巧化されている。在朝日本人を見る視覚も研究する地域および学問領域により変わるしかない。在朝日本人研究を日本史の領域から見るのか、韓国史の領域から見るのか、でなければ植民地帝国日本の歴史から見るのかによって、また分析する方法論にしたがって在朝日本人を見る視覚には差がでるしかない。海外研究の動向でも多様な学問分野との研究動向を疎かにするのも問題だが、反対に研究動向の脈絡が無視されたまま無分別に傾倒するのも問題だ。また植民地で営んだ生活と引き揚げ過程の体験が今後旧植民地に対する歴史観․地域観の形成はもちろんのこと、敗戦後両国․両地域関係に重大な影響を及ぼすという点で在朝日本史を戦前と戦後との関連の中で把握する作業が重要だ。さらに在朝日本人と言っても職業、世代、ジェンダー、地域などによりそれぞれ違った植民地体験を有している。在朝日本人が多様な植民地体験をしたにもかかわらず、植民地に対する記憶は朝鮮総督府官僚や京城帝大教授が執筆に加担した『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(朝鮮編)で代表される「公的記憶」で収斂されてしまう。このような「公的記憶」に収斂されない多様な体験を復元し出すと同時に、戦後にも腐食されない在朝日本人の「帝国意識」を洗い出す作業が必要だ。

 
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