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일본학 [The Ilbon-Hak(Journal of Japanology)]

간행물 정보
  • 자료유형
    학술지
  • 발행기관
    동국대학교 일본학연구소 [The Institute for Japanese Studies Dongguk University]
  • pISSN
    1598-1134
  • eISSN
    2713-7309
  • 간기
    연3회
  • 수록기간
    1981 ~ 2025
  • 등재여부
    KCI 등재
  • 주제분류
    인문학 > 일본어와문학
  • 십진분류
    KDC 913 DDC 952
제31집 (10건)
No
1

일본의 ‘조선 신민화’ 정책과 유림 동원의 실태

柳美那

동국대학교 일본학연구소 일본학 제31집 2010.11 pp.7-42

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7,900원

本稿は、日本帝国主義が近代国民国家形成において儒教をいかに活用したかを考究し、そうした儒教の活用が植民地支配のなかでいかに実現していったのかを考察するものである。そのために朝鮮総督府が設置した経学院を分析し、総督府の支配政策のなかで儒教政策の意味を把握する。また、総督府の政策に対する朝鮮社会の儒林らの対応を検討し、彼らが植民地支配をいかに経験していったかを研究する。朝鮮総督府は、1911年6月、朝鮮王朝時代における成均館のなかで経学院という社会教化機関を設置した。その後、同年9月には成均館を廃止する。経学院は、地方の郷校とともに朝鮮の儒林を懐柔していったが、後には朝鮮人一般に対する教化活動をも広げた。総督府の儒教政策に対する儒林の反応が把握できる資料は非常に少ないが、彼らが依然として郷校をより所としていたことは確かである。それは、植民地支配による社会秩序の変化に応じる手段として経学院や郷校が重要な媒体であり、それ以外の組織経世をも総督府の監視から自由ではなかったためである。経学院を中心とした儒教政策は解放を迎えるまで継続された。日本は、朝鮮のみならず、東アジアの地域に儒教を基盤とした新たな秩序の構築に全力をつくした。それは、ほかならぬ日本中心の秩序である。

2

일제의 불교정책과 본사 주지의 권한 연구

김순석

동국대학교 일본학연구소 일본학 제31집 2010.11 pp.43-70

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6,700원

The Buddhist policies of Japan during the Japanese occupation were reflected in the contemporary main temple ordinance, the enforcement regulations of the main temple ordinance and temple ordinance, the enforcement regulations of the main temple ordinance and the regulation of temple. All the laws and ordinances were primarily meant to allow the Chosun Government General to get the command of the personnel administration and finance of the Buddhist community and get a tight grip on it. The Chosun Government General selected 30 main temples from among every Buddhist temple in the nation, and had a right to appoint chief priests and permit the disposal of temple properties. The chief priests of the main temples were given the same treatment as high-ranking officials appointed by the Japanese emperor, and they had a great power to the extent that they were called the emperor of Buddhist districts. In Japan, the autonomy of the religious circles was guaranteed, and the Buddhist bodies were allowed to appoint superintendents and chief priests according to their own law. But the government agency was empowered to do that in our country. Priests who wanted to be chief priests of the main temples just tried to flatter government officials and were indiscreet in employing means to be chief priests, and that phenomenon resulted in detracting from their own autonomy and increasing the debts of Buddhist temples. Another reason to increase the debts of temples was the introduction of the married Buddhist priest system, which was done by priests who studied in Japan. The Buddhist community selected excellent people from among young priests and Buddhists and sent them to Japan to let them study. When they returned, most of them were married under the influence of the Japanese Buddhism. They found the Buddhist community to be in harsh circumstances,and there was a standoff between them who tried to reform Buddhism and conservatives. The marriage of Buddhist priests became prevailing, and the number of married priests was on the rise over time. That phenomenon became the cause of disputes in Buddhism after the liberation of the nation. The laws legislated by Japan were a means to ensure the efficiency of colonial rule, and Buddhist reformers including young priests who noticed the intention of Japan made sustained efforts to make the main temple ordinance abolished. In a word, Japan's colonial Buddhist policies ended up ruining the Buddhist community more violently than the Chosun Dynasty's Buddhism-oppression policy that lasted five hundred years.

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7,200원

This paper aims to explore the nature of the conflicts surrounding the shinto shrine between Japanese government and Christianity in Korea during the Japanese occupation period. Japanese government demanded all koreans to participate in shinto shrine worship, arguing that shinto shrine worship is not a religious act but a national ceremony. According to Japanese government, such a worship is a civil duty. Korean christians took different attitudes to such a demand. Roman Catholic church, Anglican church, Methodist church accepted Japanese government's interpretation and participated in shinto shrine worship. Presbyterians, a major denomination of protestantism in korea, however, showed different opinions about shinto shrine worship among themselves. Some missionaries assured that shinto is a religion, shinto shrine is a religious site, and shinto shrine worship is a religious act. They also thought that they have a right of religious freedom. They, therefore, demanded Japanese government that protestant mission school students and teachers should be exempted from a duty of shinto shrine worship. Contrary to them, some presbyterian missionaries, including some korean protestant church leaders, agreed to Japanese government's opinion. They,therefore, took part in shinto shrine worship, saying that shinto shrine worship is just a civil and national ceremony, not a religious one. This paper emphasized that debates surrounding the shinto shrine worship is closely related to the problem of definition of religion and a right of religious freedom. Also, it is stressed, this problem has a continuity with ancestor worship controversies in traditional china, and Dankun statues controversies in contemporary korea.

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6,700원

植民地では支配を目的とした各種の調査が広範囲で行われた。植民地朝鮮でも、宗主国たる日本による学的調査が様々に営まれ、政策にも反映された。本稿では、主に「宗教」と「歴史」が植民地朝鮮においてどのように「構築」されたのか、という問題を考察する。具体的には、日本人学者による朝鮮史研究、朝鮮総督府による『朝鮮史』編纂事業、1930年代におけるイデオロギー政策である「心田開発運動」政策を取り上げ、その中で朝鮮民族の始祖とされる「檀君」がどのように扱われたかを見ていく。これは当時の日本人の朝鮮に対する「眼差し」のありかたおよび、それに貫かれざるを得なかった朝鮮人の主体性を問い直す試みでもある。

5

6,900원

筆者は近代の海外神社の歴史を、1930年代中期を移行期に「戦時体制期」と「それ以前」の二つに区分している。「戦時体制期」の特徴として、植民地人民に対する神社参拝や皇祖神․天照大神崇敬の「強要」がしばしば語られる。筆者の問題関心は「それ以前」から「戦時体制期」への変化の要因と、「それ以前」の海外神社のどのような要素がこうした「戦時体制期」の特徴を生み出したのか、にある。本稿では併合以前を含め、朝鮮半島における「それ以前」の天照大神崇敬の歴史から、日本人居留民の「神宮遥拝所」、日露戦争後の全国神職会による「韓国の神社」創建論、朝鮮神宮鎮座当初の京城神社との競合、の三つの局面に焦点を当てる。また「天照大神を祀る」という行為に、(a)国家祭祀権者である天皇が伊勢神宮において公的に祭祀する (b)人民が伊勢神宮の象徴を身近に置き私的に崇敬するの二つの次元があることに注目する。そして、明治日本の国家統合基盤における「宗教」「非宗教」の制度的区分け=政教分離をめぐる「ある知識」と、この両次元との関わりについても論じる。その上で、天照大神崇敬の持つ意味が、近代的国民国家にとっての「国祖」から、日韓の同祖論の流布と韓国併合を経て、伊勢神宮の唯一性の例外である朝鮮神宮では「多民族帝国統合の始原」へ拡大したことを指摘する。戦時体制期には、帝国全体が天照大神信仰の宗教的熱狂と、神社参拝が世俗的動員の一部にすぎない無宗教状態の、相矛盾する状態を同時に示すこととなったが、この状態にも、こうした拡大の延長と見なしうる要素を見ることが出来る。

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朝鮮総督府の「心田開発運動」と 「類似宗教」弾圧政策

膏野正明

동국대학교 일본학연구소 일본학 제31집 2010.11 pp.161-184

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6,100원

本稿では、「心田開発運動」という宗教政策における二重性(「神社制度の確立」と「宗教復興」)に着目しながら、この政策のイデオロギーとなっている「敬神崇祖」を解説した。加えて、この政策の背面で排除される部分として、「心田開発運動」が「類似宗教」弾圧政策へと展開していったことにも言及し、総督府が弾圧を開始した理由も述べている。前記の二重性は政策のイデオロギーにも反映していて、「敬神崇祖」の論理、つまり「敬神」と「崇祖」との一体化を求める論理にも二重性を見出すことができる。また、「東亜民族」論における二重性、つまり神社神道およびその地の「神」「宗教」という構造にも共通する。さらに神社政策では、国幣小社の祭神の合祀において、「天照大神」(皇祖神)と「国魂大神」(「国土開発ノ始祖」という解釈)という二重性でも、その共通性を指摘することができる。また、「心田開発運動」が二重性をもって展開する中で、その背面では「開発」されるべき「心田」から「類似宗教」団体が排除され、過酷な弾圧を受けている(他には「迷信打破」も)。多くの「類似宗教」団体は解散․「改宗」させられ、その「改宗」には日本の仏教教団が協力する事例も見られた。これらの問題も、「心田開発運動」が出発点になっていることを確認することができる。

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5,700원

戦時中の新刊情報誌․『新刊弘報』は、昭和15年7月から始まった「出版新体制」により発足した国策会社「日本出版配給株式会社」(通称:日配、16年設立)によって、18年6月から19年5月まで発行された。「出版新体制」により、印刷用紙の統制等が行われ、出版事業の流通面にも国家統制が及んだ。戦時下において、書物の適正配給を行うために「売切買切制」が実施され、見本は店頭に並ぶことなく、小売店へ注文して入手する方法に限られることになり、そのためのカタログとして『新刊弘報』が発行された。この書物流通の変化は、印刷業者や製本業者等、出版に関わる業者に限らず、書物を書く執筆者と、購入する読者をも巻き込んだ大きな変革であった。新聞記事等でも、新しい流通․注文の仕組みが解説され、それまでの取次業者を一手にまとめた「日配」を中心とした仕組みの構築が試みられたが、戦況の激化により書籍の生産自体が困難になり、読者の嗜好も反映されない「計画割当配当」へと移り変わる。『新刊弘報』は、この「売切買切制」から「計画割当配当」が実施されるまでの約1年間のみ発行されたものであるが、そこに掲載された数的な情報として、発行予定数と実際に発行された部数との齟齬を見ることで、読者の嗜好と統制側の意識の乖離を推し量ることが出来る。一方で、現在でも発行されている新刊情報誌の体裁(著者紹介等)を整えたという面も見逃すことは出来ないだろう。

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半井桃水『鶏林情話 春香伝』について

棲井信栄

동국대학교 일본학연구소 일본학 제31집 2010.11 pp.209-228

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5,500원

나카라이 도스이 『계림정화 춘향전』은 『춘향전』 일본어로 번역한 시조이다. 도스이는 일본인들의 조선에 대한 몰이해를 아쉬워 해 집필을 시작하였으나,그 모습이 완전히 잊혀져 버리게 된 것은 일본의 「근대」에 대한 편파적인 성격을 잘 드러내고 있다. 도스이는 대마도에서 태어나 부산 왜관의 외로운 환경에서 조선 소년에게서 조선어를 배우는 것을 최상의 즐거움으로 한 인물이다. 그런데 일본을 비난하는 동내부의 계시문을 필사하여 왜관 관장에게 전달했던일을 보면, 역시 도스이의 삶의 입각지는 일본 쪽에 있었다고 볼 수 있다. 명치시대의 「근대」 일본은 도스이에게 있어서 지내기 편하지 않은 곳이었고, 도스이는 다시 조선에 건너와 재야의 입장에서 『계림정화 춘향전』을 발표하였다. 『계림정화 춘향전』은 급속히 근대화되는 명치일본에서 정치적인 외면을 당한도스이가 일본의 독자들에게 조선의 「토풍인정」을 알려 주는 작품이었다. 도스이와 『춘향전』의 만남은 숙명적인 일이었다고 말할 수 있으나, 그 「번역」의실태를 검토하면 일본의 독자들에 대한 과잉된 배려가 보이고, 그것 때문에 원래 『춘향전』에 있었던 재미가 상실하게 되었다. 『계림정화 춘향전』에서 보이는 번안(=개작)의 흔적은 근대국가형성의 과정 속에 번롱되어 겨우 걸어간도스이의 발자국처럼 보인다. 물론 우리는 발로 밟힌 쪽의 아픔, 즉 개작됨을당한 쪽의 슬픔도 잊어버리면 안 된다. 약자에 대한 상상력이 무자각적으로 망각되었을 때, 강자에 의한 권력행사로서의 「번역」 「번안」은 언제든지, 어디서든지 반복되기 때문이다.

9

10,300원

本稿は1905年6月から1910年9月まで『朝鮮(滿韓)之實業』の雑録欄に25回断続的に連載された「朝鮮(韓國)下等の民情」の記事を取り上げ、当時韓国に移住した日本人の中に実業家の見た韓国人認識について考察した。1909年度の統計によると『朝鮮(滿韓)之實業』は韓国で40,200部、日本で20,200部を始めとして総計73,369部を発行していた日本人移住者の創った最大の雑誌である。日本の韓国保護期に移住した日本人に実業家の割合は最も高かった。「朝鮮(韓國)下等の民情」では「韓人․韓民(朝鮮人)」が劣等の民に見られ滅亡の民として取り扱われている。しかしながら、移住地で生活を営む視線は韓国の旅行者、植民政策に関わっている官僚や知識人たちの距離を置いた描写と論説․分析とは異なるところもある。「朝鮮(韓國)下等の民情」は主に韓国の庶民たちの生活に眼が注がれ、日本人に押しつぶされたり欺かれる人々や日本人を欺く韓国人の逸話も紹介している。一方、韓国の人たちを対象に事業を行う実業家は韓国の人たちの生計にも興味を示し、京城の不景気のなかの厳しい庶民の生活も捉える。また、交際する韓国人との文化の差異にも注意が引かれる。そこで、韓国の人たちの「情」の深さや日本人の服装を非文明的に眺める韓国人の視線も意識する。移住日本人が韓国の生活に馴れつつ「韓国化(朝鮮化)」になる現象も語られる。眼に映る韓国人は日本人を映す鏡のようなものでもあった。1910年に入ると日韓併合に向かって一層「同化」の声が高まっていたが、「朝鮮(韓國)下等の民情」では差異に眼を向け、韓国人への蔑視意識は薄まれる。文明と野蛮という垂直的な視線から水平の方向に揺れる波動が移住した日本人の視線から生まれる。それには韓国の人たちの中で生きている生活者の意識があったからだ。植民地への欲望の複雑な場所が伺える。しかし、それが1910年以降の植民支配の強化にどのように関わりがあるのかは改めて考えて見たい。

10

4,000원

 
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