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4,500원
本稿では、好色一代女に登場する<死>の描写を取り上げた。好色一代女は、女の愛欲を描いた長編小説であるという側面により、好色一代男と対比される作品である。ところが、好色一代男とは異なり、好色一代女には、<死>の描写が、各巻に現れていることに疑問を感じた。そこで、<死>の描写の分析を通じ、その理由の解明を試みた。考察の結果、<死>の描写には、<生=性>の描写が関連していることが分かった。西鶴が<死>を描写したのは、結局のところ<性>を語るためであったのである。<死>と<性>の描写の間に関連性が持たされたのは、<生>と<死>が隣り合っているように、<生>の本質は<性>という作者の発想があったように考えられた。
4,600원
本稿では、岩野泡鳴の耽溺を中心として、彼の成長背景と性格、自分を徹底的に対象化して表現する滑稽的な表現を考察することを試みた。彼は兵庫県で生まれたが, 穢多の部落民と似ている言葉を使ったため穢多の小僧と苛められ, 外に出ることさえ恐れる少年期を送った.それによって, 孤立的な陰鬱性と高慢な独立性が養われ, 人生と小説で闘争心が生まれたのであろう。泡鳴は日本でも不人気で評価が遅れていた。しかし、彼が一元描写という自然主義の一理論を正面に掲げ, それを作品の中で実践する主人公として描いていた迫力あふれる作家であったことは耽溺を考察しても疑う余地がない。彼は自我中心の思想が強くて, 無縁の物は全て離れていくのが当然あると考えられておりそれを敵対関係として表現した。耽溺は泡鳴の立場を急檄に私小説家の代表作家として確固たるものにした作品であり、哲理家である田村義雄がおからす芸者と遊んだ一夏を「僕」という一人称で書かれた小説である。五部作と比べると過渡期の小説であるが、当時の時流に合致し、成功したという点と、泡鳴が自身に似合う小説の原型を悟ったという点が意味があると言える。泡鳴は小説を書くとき, 自分の哲学を実行する主人公を描くため徹底的に対象を敵対視し、読者から批難されることが多かった。しかし, 実在とは違う点を彼の文章でも見られるので作者は自己暴露の犠牲者と言えるのであろう。島崎藤村と田山花袋を基本とする日本自然主義の観点から見ると, 自我の燃焼があまりにも強烈であり, 実生活即芸術家であったことから, 彼の文学は画期的であり、独自的なものであった。
5,500원
この研究は、平安時代の代表作である源氏物語の「若紫」巻の空間的背景になっている北山について考察したものである。北山という空間は病気にわずらっていた光源氏が霊験ある聖者を求めて訪ねる場所であり、藤壺の宮の形代である幼い紫の上と始めて出逢った場所でもある。そして将来、光源氏の栄華の本となる明石一族の話もとりあげられる場所にもなる。このように、北山という空間は物語の展開において最も重要な場所であって、この空間の性格を探ることは源氏物語の研究に有意義なことと思われる。まず、北山は仏家の空間である。聖は加持祈祷を行って光源氏の体の病を治療する役として、また僧都は説法を通して光源氏の精神的な病を治療する役として登場している。特に、僧都においては、光源氏を仏道の世界へ導く重要な役割を果たしている人物と言えよう。またもう一人、僧都の妹であり、紫上の祖母である尼君もこの北山で勤行している。このように北山は一心に仏道を修めている人物達の空間として、物語に設定されていると思われる。また、北山は主人公である光源氏が今まで接したことのない真剣な仏道に出逢える場所でもある。光源氏は適わぬ藤壺への恋心が原因で、体はもちろん精神まで病んでしまう。だが、僧都の説法によって自分の罪に気付き、一瞬ではあるが世を捨てることまで考えるようになる。これが光源氏にとって始めての罪意識と道心であると考えられる。最後に、北山で物語に初出している紫上は物語の中で仏教的な人物、つまり僧都によって男と結ばれる唯一な女性であり、また「法華經」との関係も深い人物である。最初は光源氏に藤壺の形代としてとられるが、すでにこの世に対するはかなさと無常感を体得している人物で、物語の中で一番仏教的な人物だと思われる。結局北山という空間は光源氏の人生にとって真剣な仏道との出会いの場所である同時に、紫上のひそめられた仏性の原点になる、至極仏教的な空間であると言えよう。
5,700원
三島由紀夫の代表作金閣寺は現実の放火事件から取材したモデル小説もしくは時事小説の一種であるが、作者自ら「個人の小説」だと言明しただけに、三島自身の内的告白が語られている作品でもある。ところがこの作品には幾多の女性たちに関するエピソードが並べられ、女性の話で一貫している感じさえ受ける。しかもその女性たちにまつわる話が現実の放火事件とは無関係なフィクションであることを考えると、三島はこの女性たちを通して何か自分と関連した告白をしているのではないかという推測も可能である。本稿ではその点に着目して、登場人物の中から女性たちだけを選んで、彼女たちが持つ象徴的な意味を考えてみた。まず有為子は金閣と同一レベルの存在であり主人公「私」の性観念を支配している美の象徴であること、有為子の甦りと思われた妊娠した女は認識者柏木によって無残に蹂躙されたこと、米軍相手の売春婦に暴力を振るうことで「私」はいっそう悪を身に着けるようになること、放火の前段階として五番町で童貞を破ることなど、女性にまつわる一連の挿話を検討した結果、金閣寺は放火事件をモデルにした犯罪小説というよりは、「女性コンプレックスの克服」が真のテーマであり作者の隠された告白であることがわかった。これと関連して、放火動機の正当性および手記としての問題点については次の機会に詳しく論ずることにする。
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